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研究雑感 東洋哲学研究所所報第3号 1989

 東洋哲学研究所との関わりもそろそろ10年になろうとしているが、この間の研究所に関連した研究を振返ってみると、初めは主に牧口価値論について個人的に研究していたが、やがて後藤現顧問(当時研究所長)を中心に牧口価値論研究会として毎月1回のセミナ−を開催する中で、ある意味での共同研究の形態をとるようになった。今その記録を見ると1982年4月から1987年3月まで51回の研究会を重ねている。
 発表者の氏名を見ると研究会メンバ−の小平芳平理事、関順也現創価短期大学学長、熊谷一乗現創価大学教育学部長、蛯名友秋創価小学校教諭(牧口先生より直接創価教育学について指導を受けた経験者)、創価大学助教授の木全力夫、尾熊治郎の両氏、聖教新聞社の末松義則、大村浩二の両氏、筑波大学大学院生の木村健一郎氏、それに東洋哲学研究所側から後藤顧問、浦部正信研究員、私が記録されている。研究会メンバ−以外では教育学関係から波多野完治御茶の水女子大学名誉教授、竹内良知名古屋大学教授、斉藤正二現創価大学教授(当時東京電機大学教授)、佐藤秀夫国立教育研究所教育資料調査室長、さらに牧口先生の関係者として御子息洋三氏夫人の金子貞子さん、小泉隆創価学会最高顧問(故人)、辻武寿同副会長、柏原ヤス創価女子短期大学理事が記録されており、私の記憶では戦前の青年部長であった片山尊氏、新橋支部長であった木下鹿次氏にもお話をしていただいたと思われる。
 この研究会の成果は第三文明社で刊行中の牧口常三郎全集に反映されており、末松、大村、私の3人が担当した第9巻『後期教育学論集2』、尾熊、大村、私の3人が担当した第10巻『宗教論集・書簡集』は、この研究会の共同研究なしでは注釈、解題は書くことができなかったろうと思われる。またこの研究会の成果は『東洋学術研究』第25巻・第2号の「特集・牧口常三郎の〈価値論〉研究」にも反映している。
 このような牧口研究と平行して、ある時期から共同研究として創価学会研究を行うことになったが、それは基本的には『創価学会の理念と実践』の改訂版のための資料研究という目的をもったものであった。創価学会もまもなく創立60周年を迎え、社会的影響力も大きく、また運動の多様化も進んでいる現状を踏まえ、創価学会の宗教教義、運動理念、具体的活動、歴史について多角的に研究する必要があると思われるが、これも本格的な研究ということになれば、かなりの研究蓄積を必要とすることでもあり、現在は第10グル−プというプロジェクトで研究を継続している。
 さて以上のような研究所と関連した研究活動をしながら本業の西洋哲学、特にフッサ−ル現象学研究をしてきたわけだが、その中でもフッサ−ルの真理論に関心を持ち続けてきた。フッサ−ルは1900年の『論理学研究』において、真理論について一応の結論に到達しているが、それは基本的には対応説をモデルにした理論と考えられる。ところがその後、新カント派の影響を受けて、カント的な問題設定である超越論的思想に移行していった。フッサ−ルが超越論的思想に移行していった一つの理由は次のように説明できるかもしれない。つまり真理を支える諸条件を事実に求めていけば、なぜそれが真理の条件であるのか説明のできない究極の事実に到達せざるをえないが(フッサ−ルにとってそれは直観の明証であった)、そこで立止まり、私はそう信じていると発言するか、それともさらに説明不可能な認識理論を設定するかの二つの選択の道があるが、フッサ−ルは後者の道を選んだのであると。しかし1930年代の生活世界の現象学の理論は、その超越論的思想の枠内におさまることができるかどうか、私は検討する必要があると思っている。
 私がフッサ−ル現象学を研究した理由は、今になって振返って見ると、フッサ−ルの永遠の真理への信奉の根拠は何かということに関心があったからであろう。フッサ−ルの超越論的思想には得るところが少なかったが、『論理学研究』に至る初期フッサ−ル文献には真理論研究のためのフッサ−ルの苦闘の後がうかがえて、参考になることが多かった。それらを通じて私の真理についての考えを述べれば、ある言明を真であると証明するには数上げることが不可能なほどの手続きが必要であり、特権的な証明根拠があらかじめ存在するわけではないが、真であるとある集団に認知されるには、ある範囲の証明手続きで十分であるということであり、これまでの人類の歴史において、偽であることがまだ証明されていない言明が存在し、また真偽いずれにしても証明方法が確定していない言明もあるということである。非常に拙いことしか言えないのは哲学研究の学徒として恥ずかしいかぎりであるが、今のところはこれで勘弁していただき、今後の研究を待ちたい。
 さて哲学においては真理の探求という大義名分のもとで、いかなる哲学者の学説に対しても、その学説が真理である根拠とは何かと問うことが許されている。プラトンは師ソクラテスの説の不十分性を自覚していたから、イデア論を構想したし、アリストテレスはまた師プラトンのイデア論の不十分性を、様々な分析において示している。理論はそれを主張した哲学者の人格的評価とは別の運命をたどることになる。ところが哲学と同じような人間の営みの一種である宗教の場合は事情が多少異なっているように理解されているようだ。つまり理論は人格と必ずしも分離していないのである。それは宗教が人格的救済を存在理由の一つにしており、特に創唱宗教の場合は、創唱者の思想は創唱者自身の人格において実現され、その人格がモデルになるからであろう。したがって創唱宗教の場合は創唱者の思想は絶対視され、その思想にいかなる根拠があるのかと問うことは、その創唱者に由来する教団においては、創唱者への人格的冒涜であると見なされやすい。
 しかしそうであっても教団が信徒を獲得するためには、自分達の宗教が人格的救済を可能にする何らかの真理を述べているということをある程度まで証明する必要があろう。例えば初期キリスト教にあっては、それはイエスの復活であり、聖霊降臨であり、使徒の証言であった。イエスが神の子であるがゆえにイエスの言葉は真理である。イエスが神の子であることは復活によって特権的に証明される。もし証明されなければイエスは多くのユダヤ教改革者の一人にすぎないことになる。そうなればイエスの言葉が真理であることを証明することは著しく困難になる。イエスの復活ということが真理の証明にとって特権的事例であるがゆえに今日のキリスト教会においてもそれは主張され続けている。
 これに対して仏教の場合はどうであろうか。キリスト教の場合は神との関係が決定的な意味を持っているが、ゴ−タマはある修行の結果、何らかの法を悟ったがゆえに、ブッダになったとされるが、その法とは何かについて定説があるわけでもない。しかもゴ−タマの人格的救済理論と称される相互に矛盾した仏教経典が数多くあり、かれの理論を正確に知るには文献学的限界がある。したがってゴ−タマの宗教的真理性について語ることは現状では困難であると言えよう。せいぜいできることはある経典を真理だとした場合の救済理論の理論的特徴を明らかにし、その証明方法について研究するということでしかない。同じ仏教経典でありながら、覚の宗教と信の宗教とでは理論的特徴が大きく異なることは明らかであろう。
 このような状態にある仏教の救済理論に対して、日蓮はある一つの方向性を与えたと思われる。すなわち天台の解釈を媒介にして法華経を唯一の救済理論と決定し、しかも末法理論を根拠にして三大秘法という独自の救済理論を法華経から飛躍的に創唱したのである。日蓮は『開目抄』において「智者に我義やぶられずば用いじとなり」と述べ、自己の仏教解釈の理論的真理性を主張しているが、この場合の「我義」とはいかなる内容であるのか、正確に知る必要があろう。それは『開目抄』だけで決定できるとはかぎらないからである。日蓮の救済理論を知るためには法華経、天台の一念三千、三大秘法を統一的に説明できなければならないが、それには日蓮遺文全体を文献的根拠にする必要があろう。しかしながら今日の日蓮遺文とされるものの中にも、はたして日蓮自身の遺文かどうか論争になっているものも多く、それが解決されなければ、日蓮の救済理論について正確に知ることができないというのも一つの学問的状況であると思われる。日蓮遺文についての文献学的問題が解決でき、日蓮の救済理論が確定されたとしても、今度はその救済理論が仏教のその他の救済理論に対していかなる正当性を主張できるかの検討も必要であろう。これらの研究はある意味では、文献学者や理論家の研究分野でもあるが、さらに重要な問題はそのような救済理論はいかなる真理性の証明方法を予測しうるのか研究することであろうが、それはまた日蓮の三証思想を研究することでもあるし、また牧口の宗教研究法の革新という思想を研究することでもあると思われる。
 あれこれと気にかかることは多いが、体力的な衰えを感じつつ、机に向かっている昨今である。

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