私の本業は西洋哲学であり、これまで特にフッサールの現象学的言語論を研究してきた。しかし実は本業より熱意を込めて趣味的に研究していることがある。それが創価学会論である。その機縁は大学2年生の時に、ある筋から東大法華経研究会編『創価学会の理念と実践』(これは私の記憶違いで『日蓮正宗創価学会』が正しい(2012/2/24))の改訂を在学生中心に行ってはどうかという話があったことにある。議論が好きな私は、中野毅、西口浩、斉藤克司などの諸氏と駒場寮の部室であれこれ議論をして、原稿を書いたが、当然不満足なことしか書くことができなかった。それ以来自分の勉強不足を痛感し、進路変更をして、文学部哲学科に進み、西洋哲学をふまえて、満足のいく創価学会論を完成させたいと考えてきた。
しかし東大には宗教哲学の講座はなく(ちなみにオクスフォードにはキリスト教哲学の講座があり、バジル・ミッチェルやリチャード・スウィンバーンなどの宗教哲学者が担当している)、宗教哲学については独学でやるしかなかった。おまけに宗教哲学は大学教員の就職には役に立ちそうもなかったので、飯の種としてはフッサールを選んだ。
縁あって本学人文学科に来てからも、哲学プロパーの業績としてはフッサールの言語論関係の論文を発表してきた。しかしさまざまな事情から『牧口常三郎の宗教運動』を上梓することとなり、創価学会論の理論的フレームを示すために、最近はヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論を応用した宗教哲学を発表している。
私の研究課題の一端について今回の宗門問題が生じる前の平成元年6月に次のような文章を書いた。
フッサ−ル現象学の課題はある命題が真理であるということを言うためには、いかなる言語的、論理的そして認識論的条件があるのかということを解明することであったと見ることができる。その場合彼は、神や他人の心という言葉を含んだ命題はその条件を超越していると考えた。つまり宗教的命題は真理条件を持たないと考えたのである
だが問題はここから始まるのである。宗教が人間や世界について検証不可能な命題によって究極的な意味世界を提示する場面においては、確かに真理条件を持たないであろう。だがどの宗教もそのような場面しか持たないということはない。その宗教が置かれた歴史的文化的状況の中で、自己の宗教の真理性を主張し、証明しようと努力してきたのである。つまり日常的な生活世界の中に、説得性ある真理条件を設定しようとする知的努力をしてきたのである。日常的な生活世界と究極的な意味世界を結ぶ回路の創造=説得性ある真理条件の提示にこそ宗教の存続の可能性がある。
私は日蓮の文証、理証、現証という考えはこの宗教的真理条件の提示という努力の現われであると思っている。シンクレティズムの風潮が強い宗教土壌の中で宗教的真理を主張しつづけた日蓮はその一方で自己の主張の真理条件を提示しているのである。
現代において日蓮の宗教が発展しうるかどうかは、日蓮の提示した真理条件がどれほど説得性があるのか、またその条件に照らして、はたして日蓮の宗教は真理であると言うことができるか、という問題の解決にかかっている。少なくとも仏教学からは大乗非仏説、末法年代に関して日蓮は真理を誤認しているという批判がある。つまり第2の問題をクリア−していないと批判されているのである。日蓮の宗教を知的頽廃から救うためにはこの批判への説得性ある回答が必要である。そのためには日蓮の宗教についての伝統的解釈の変更も必要であろう。
当時の日蓮正宗の状態を考えれば、このような研究は破門覚悟でするしかなかったが、幸いにも日蓮正宗と創価学会の分離が生じたために、今ではそれほど危険な研究とは見なされないだろう。また上記の問題に関する私なりの回答は、南山宗教文化研究所と東洋哲学研究所との間の学術交流「カトリックと創価学会の宗教対話」(近く人文書院より発刊の予定)のシンポジウムにおいて、「創価学会の宗教的理念と諸問題」という発表論文で示した。その他にも研究課題はあるが、研究時間が少ないのが悩みの種である。