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小さな疑問 1995? 未発表

 どういうわけか知らないが、いつのまにか「哲学」という科目を教えることを自分の職業としていることになってしまった。哲学という科目自体にそれほど興味があるわけではなく、したがって興味のない科目を教えることにそれほど熱心にもなれないし、学生のみなさんにも一生懸命勉強してくださいとも言えないような状態が続いている。
伝統的に哲学と称されてきた学問的蓄積は、思想史や哲学的諸問題に関心のある人には、それ自体として面白いものかもしれないが、それ以外の人にはせいぜい話の種になるぐらいが関の山かもしれない。
それではなぜ私が大学で進路変更をして哲学科に進学し、よせばいいのに大学院まで進み、現在のように哲学を飯の種にしているのかと自問してみると、入学早々に大学がストライキになり、ほぼ1年間授業がなかったという外的状況が大きかった。時間的な余裕が有り余るほどあったので、好きなだけ興味のある本を読むことができた。そして興味のあることの一つに創価学会があった。
 小学生の頃病弱な母が近所の人に勧められて創価学会に入信し、母も元気になり、内気な母が積極的に活動に参加するようになったので、子供心に宗教には何か不思議な力がありそうだと思っていた。聖教新聞の「日蓮大聖人の色心不二の生命哲学は世界をリードする哲学だ」という内容の見出しを時々見かけては、ずいぶん大きいことを言うなあと思っていた。形だけは家族とともに入信していたが、私が勉強に忙しかったので、親も勤行を強制することもなく、会合にもたまにしか参加しなかったけれども、高校生の時、教学試験を受けることになった。
 その時初めて『折伏教典』を読み、「宗教批判の原理」という箇所に、「文証(文献的証拠)、理証(理論的整合性)、現証(現実の証拠、生活体験)という三証を判断基準にして、宗教の高低を判定し、最高の宗教を選択すべきである」という内容があり、その考えには説得性があると思った。しかし釈尊の滅後2000年で末法になり、鎌倉時代は末法時代であるという記述には、世界史で習ったことと違うなという疑問を感じた。
 この疑問はそのうち誰かが説明してくれるだろうと思い、大学に入学してから先輩に聞いたところ、「信心にそんなことは関係ない。ご本尊への祈りによって、どう信仰体験を得るかが大事なんだ。君には信心がわかっていない。御書を読めば大聖人の仏法のすごさがわかるよ。」という返事であり、この先輩にこういう問題を尋ねても仕方がないという感想と同時に、教義と信仰の功徳とは無関係だという考え方があることに気づいた。
 仕方がないので有り余る時間を使い、御書や学会出版物を読んだが、創価学会が日蓮仏法をどのように理解しているのかということについては、それなりにわかったが、なぜ日蓮仏法が唯一の正しい宗教であるのかということには、納得がいかなかった。日蓮仏法が唯一の正しい宗教であるということについて、日蓮大聖人自身の議論は、まず釈尊の教えの中で法華経が最高であるという法華選択を論証し、次いで末法においては釈尊の法華経は無効になり、末法の法華経、すなわち末法の本仏日蓮が教える三大秘法のみが有効であるという法華専修を論証するという論旨であった。
 しかしこの議論は現代の仏教学の見解から見れば、法華経を釈尊の教えとする点で誤りであり、日蓮が末法の時代に生まれたことを含意する末法の本仏という点でも誤りである。つまり法華選択も法華専修も誤った仏教史理解から生じた理論であるという結論になる。創価学会の思想や運動にはそれなりの説得性があるのにもかかわらず、その宗教的基盤となる日蓮仏法には現代の仏教学から見れば大きな誤りがあるということの自覚は、私にとっては受け入れたくないことであった。
 あるいは現代の仏教学が誤っているのかもしれないと考えて、それなりに調べてみたが、少なくとも現存の法華経がすべてそのまま釈尊によって説かれたと解釈すると説明困難な箇所があり、むしろ釈尊滅後大乗仏教運動の中で形成されたと考えるほうが合理的であることがわかった。仏滅年代に関しても現代の仏教学の見解は合理的な証拠に基づいていることもわかった。(未完)

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