宗制第3条 この法人は宗祖日蓮立教開宗の本義たる弘安二年の戒壇の本尊を信仰の主体とし、法華経及び宗祖遺文を所依の教典として、宗祖より付法所伝の教義をひろめ、…を目的とする。
第6条 代表役員は、この宗派の規定たる日蓮正宗宗規による管長の職にある者を充てる。
宗規第2条 本宗の伝統は、外用は法華経予証の上行菩薩、内証は久遠元初自受用報身で ある日蓮大聖人が、建長五年に立宗を宣したのを、起源とし、弘安二年本門戒壇の本尊を建立して宗体を確立し、二祖日興上人が弘安五年九月及び十月に総別の付嘱状により宗祖の血脈を相承して三祖日目上人、日道上人、日行上人と順次に伝えて現法主に至る。
第3条 …本門戒壇の大曼荼羅を…本尊とする。
第4条 …宗旨の三箇…を教法の要義とする。
2 (三宝について)
第5条 …信行は大曼荼羅を礼拝し…口唱するを正行とし、…両品を読誦するを助行…
2 本宗は左に掲げる経釈章疏を所依とする。
正依 妙法蓮華経 無量義経 観普賢経 宗祖遺文 日興上人、日有上人、日寛上人遺文
第13条 本宗に管長一人を置き、…一宗を総理する。
2 管長は、法主の職にある者をもって充てる。
第14条 法主は、宗祖以来の唯授一人の血脈を相承し、本尊を書写し、日号…を授与する。
2 法主は、必要を認めたときは、能化のうちから次期の法主を選定することができる。但し、緊急やむを得ない場合は、大僧都のうちから選定することもできる。
3 法主がやむを得ない事由により次期法主を選定することができないときは、総監、重役及び能化が協議して、第2項に準じて次期法主を選定する。
4 次期法主の候補者を学頭と称する。
5 退職した法主は、前法主と称し、血脈の不断に備える。
第15条 管長は、左の宗務を行なう。
5 教義に関して正否を裁定する。
6 住職…の任免
7 僧侶、檀徒、信徒に対する…懲戒…。
第174条 総本山大石寺の住職は法主をこれに充てる。
第229条 (信徒の処分)
1 宗綱に違反して、異説を主張して、他の信仰を妨害したとき。
2 宗制宗規または宗門の公式決定に違背し、宗内を乱したとき。
5 言論、文書等をもって、管長を批判し、または誹謗、讒謗したとき。
日蓮正宗においては宗制第3条に「弘安二年の戒壇の本尊を信仰の主体」とするとあるように、戒壇の本尊が信仰の根本であり、歴代法主がその本尊の管理権を持ち、本尊書写権もその法主の権限に属するとされている。なぜ戒壇の本尊が信仰の根本とされるかと言えば、戒壇の本尊即日蓮大聖人の御当体とされるからである。日達は「血脈、法水は、日蓮大聖人、大聖人の御当体である本門戒壇の大御本尊から出てくる」(『大日蓮』53年9月号 p31)と述べているが、法主の血脈、法水もこの戒壇の本尊から出てくるのである。
@ 「血脈、法水は、日蓮大聖人、大聖人の御当体である本門戒壇の大御本尊から出てくる」(日達『大日蓮』53年9月号)
@ 「大聖人の本尊でも、現在そこに本門戒壇の本尊の血脈がかよってない、具体的に言 えば、ご当代の法主の血脈のない本尊は功徳がない。正宗を退転した人の本尊がそれにあたる。本尊を幸福製造機に解釈して、偶像崇拝するのは誤り。大聖人の本尊を買ってきて拝んでも功徳はない。現在妙信講の本尊には功徳はない。模刻は偶像崇拝だから、大謗法。『法華を悟れる智者、死骨を供養せば、生身即法身なり』(『木絵二像開眼之事』御書全集p470 身延曽存?) 智者とは大聖人、血脈を受けた法主。大聖人の時代も開眼供養したのは僧侶。御書直結、本尊直結は誤り。その間に法主の指南、血脈が入る。」(花野『慧燈』創刊号 53年10月)
@ 「大聖人のご本懐の法体=戒壇の本尊と、分身散体=家の本尊、根源と枝葉を混同してはいけない」「根本からの法脈、血脈を離れて功徳はない」(尾林『大日蓮』54年12月号)
@ 「唯授一人の血脈を紹継するうえから申しますけれども、法主の心に背いて唱える題目は、功徳がありません」(日顕『大日蓮』55年8月号)
この戒壇の本尊からの法水、血脈がかよっていない本尊は、たとえ大聖人の筆写された本尊であっても、「時の血脈の法主の認可した」(『正宗要義』p201)本尊でなければ、功徳もないとされる。したがって本尊を幸福製造機に解釈して、偶像崇拝するのは誤りである(花野充道『慧燈』53年10月 p62)。たとえば妙信講にある本尊も妙信講が日蓮正宗に帰服しなければ、功徳はないとされる(同 p63)。また模刻本尊についても同様に功徳はなく、「法華を悟れる智者、死骨を供養せば、生身即法身なり」(『木絵二像開眼之事』 御書全集 p470)を引用して、智者とは大聖人、または血脈を受けた法主であり、その開眼供養をして初めて草木成仏がかない、本尊としての力用が顕現されるというようにその理由を説明する(同 p64)。またこの考えは法体と分身散体との関係で説明され、戒壇の本尊の血脈を離れた本尊には功徳はない(尾林広徳『大日蓮』54年12月号 p99)と結論されている。そのような意味において日顕も「「唯授一人の血脈を紹継するうえから申しますけれども、法主の心に背いて唱える題目は、功徳がありません。法主にも誤りがあるなどと…法主を誹謗する信徒の唱える題目には功徳はない」(『大日蓮』55年8月号 p16)と主張している。
また御書直結、本尊直結という主張は誤りであり、その間に法主の指南、血脈が入って初めて成仏できるというのが日蓮正宗の信仰であるとされる(花野 前掲書 p70)。
以上のような日蓮正宗の主張に対して、どのように考えるべきかということについて、次のように検討する。
2−1 法主に背いて唱える題目には功徳がないという主張についての検討
2−2 本尊書写権に関連する諸問題についての検討
2−3 戒壇の本尊に関連する諸問題についての検討
日蓮正宗においては『日興遺誡置文』は重要な山法山規の根幹をなすとされているが、「時の貫主為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」とあり、かならずしも、法主の指南が絶対であるとはしていない。まず法主であっても己義を構えることがあるということについてその実例があるかどうか調べてみよう。
日精は要法寺出身で敬台院の庇護により御影堂の建立などをし、また下谷常在寺を再建し、牛島常泉寺を教化改宗させ、また日寛を折伏した。さらに『日蓮聖人年譜』『家中抄』上中下などを著作した正宗中興の祖である。ところが日精は『日蓮聖人年譜』で「一部読誦」を助行としている(『富要』5 p128、130、131)。堀日亨は頭注においてその日精の誤謬を指摘して「助行を広くして遂に一部読誦に及ぶ、正く開山上人の特戒に背く、用いるべからず」と述べている(同 p131)。この『年譜』の著作年代は不明であるが、宗務院発行の『久保川論文の妄説を破す』によれば、相承の付嘱を受けた後であるとされる(同書 p30、31)。また日精は仏像の造立を始め、それを正当化するために『随宜論』を著した(『富要』9 p69、70)。日精は1632年1月に付嘱を受け、大坊に入るとされ(『富士年表』による)、まもなく1633年6月までには18世日盈が大坊に入る(『富士年表』による)。『随宜論』は1633年11月に著作されたから、当時日精は前法主の立場であったが、1637年には再び法主となる。『久保川論文の妄説を破す』によれば、この1637年に正式に法主になったのであり、仏像造立はそれ以前のことであるとしているが(同書 p31)、それは『年表』の見解とは矛盾している。ともあれ、堀日亨は「日精に至りては江戸に地盤を居へて末寺を増設し、教勢を拡張するに乗じて遂に造仏読誦を始め全く当時の要山たらしめたり」と述べて、日精を非難している(『富要』9 p69)。
日寛は1720年に27世日養に付嘱して、学寮に入るが、1721年に『観心本尊抄文段』を著し、そこにおいて大聖人の御影を法即人の本尊として認めている。(『文段集』 p529、530、532)。そこでは「下種の法華経、我が内証の寿量品の釈迦仏の形を文字にこれを書けば、即ち大曼荼羅なり。木図にこれを作れば蓮祖聖人の御形なり。…問う、本尊問答抄の意は、但「法華経の題目を以て本尊とすべし」と云々。何ぞ蓮祖の形像を以てまた本尊と為すや。答う、「法華経の題目」とは蓮祖聖人の御事なり」(同 p532)と明確に大聖人の御影が本尊であり、それは人法体一の上での法即人の本尊であると解釈している。
この御影の教学的位置付けについてはその後どのような議論があったのか不明であるが、日達は御影堂修復の法要において「御影だけではいけないから、裏には本尊を安置し、内部には本尊を入れておく。木像そのものを中心とするのではなく、凡夫の目から見て大聖人を慕い申す、人情の上から安置している。」と述べている(『日達上人全集』2−6 p91)つまり御影が本尊であるという見解は採っていない。
次に日寛は法主になる以前に「相伝の富士天生原に於いて戒壇を建つ」と書き、また法主になってからも『報恩抄文段』に同様の事を書いている。つまり天生原に戒壇を建立することが相伝として伝承されていたのだが、それは誤った相伝であるとして、日達は次のように述べている。「なぜその時分、寛師(日寛)の前後にこういう言葉(=天生原)が、相伝だと間違えるほど、要法寺の法門がはいってきたかというと、ほとんど御書も何もみな日辰そのものの御書を使っておった。…非常に法門が、純粋の富士の法門からぬけていってきた…だから、どなたがおっしゃったからといって、あながちそのままとっていいというんじゃない。やはり、日興上人、日有上人。日有上人までは立派な本宗の御法門である。」(日達「天生原・天生山・六万坊の名称と本宗の関係についての一考察」 阿部日顕編『戒壇論』所収 p46)
日霑は1854年に52世となるが、法主をやめてから全国に布教に回り、1875年に讃岐高瀬法華寺に滞在した。その年の夏から秋にかけて雨が降らず、住民は各地の寺院、神社に祈雨を依頼したがその効果がなかったため、法華寺に滞在していた日霑に祈雨を依頼してきた。日霑は「予その謗法に与同することを恐れ初めにこれを謝絶す。しかれども村民一同懇願止まず、世間の人情やむをえず」祈雨を実行したと『霑上御自伝』にある(『教学研究書』24 p725)。これは日有『化儀抄』54条「他宗なんど祈祷を頼みて後はこの病、御祈祷の依て取り直し候はば御経を持ち申すべき由約束の時は祈祷を他宗に頼まれんこと子細なきか、左様の約束も無くして他宗の祈りを成さんことは謗法に同する条、さらにもってのがれなし云々」(『富要』1 p68)に違反する行為である。
法主は血脈相承の上で法義に関して裁定権をもち、時代に適応した指南をすることができるが、勝手な指南ができるわけではない。『日興遺誡置文』の17条に「時の貫主為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」とあり、仏法に相違した指南はできない。
日顕は「法主の指南に背いて唱える題目は功徳がない」という自分の発言について「本宗伝統の血脈相伝の立場において、即ち仏法を継承する責任者、僧団・僧衆の上首として法主が、仏法の道理に基づいて行う指示に対し、背く者はとりも直さず異端者であり、背信者であります。それは現在の法主に背くのみでなく、御本仏大聖人、日興上人以下、代々の上人に背き奉ることであるから、その背謗の言動・行為を改めずに題目を唱えても功徳がないのは当然であります。否、功徳がないどころか、大聖人様への背謗に当たる故に三途堕在の道であります」(『大日蓮』56年9月号 p51)と述べて、仏法の道理に基づいて指南するからであると述べている。
しかしある指南が仏法に基づいてされるかどうかの判定は難しいものがある。だから日達は先程の『日興遺誡置文』の文についても、「時の法主は何でもできるが、仏法に違反して己義を構えた者を、用いてはいけない」という意味であるという解釈をした(『日達全集』2−7 p342)。そして「血脈を受けてその法門に従って、そして法門の正邪を決めるのは貫主ではないですか。だから貫主が己義を構えると考える人はとんでもない考えの人です」(同)と述べて法主の法義の裁定の無謬を主張している。
しかしこの解釈に対して日顕は必ずしも賛成ではなく「そのときの貫主が、つまり私なら私に仏法の相違があり、己義を構えた場合、大衆はこれを用いてはならない、…例えば私が今から、大聖人の仏法の化儀・化法の一切に背いて、なおかつ、なんぴとにもそれと分るようなことを言出したならば、これはたしかに用いるべきではありません。しかし、大聖人の御指南を根本としたうえで言っておることに関してならば、やはりその法主の指南を中心に聞かなければならないはずであります(『大日蓮』55年8月号 p10)と述べている。
さらにそのことについて「日興上人様が…法主が間違っているところは、その法主の間違ったことに対して大衆は従ってならないという御指南があるとおりです。従ってはならないということは、消極的ではあるけれども一つの反抗をするわけですから、その反抗の姿を見て、私なら私の立場において、自分が間違っていたように思うこともあると思います」(『大日蓮』平成3年1月号)と述べ、日達の解釈をとらず、僧侶の反抗を認めている。
あるいはまた「大聖人様の御指南の上から照らしてみても、もし自分が間違っておることを何人かが指摘して注意してくれたならば、はっきりと改めるべきである。…私自身も、もし私の行為・行動に対して誤りを指摘してくださる方があるならば、それを大聖人様の教えに照らして考えた上で、誤りと自分が解れば直ちに改めるつもりであります。また、その方に深くお礼を申し上げたいと思います。」(『大日蓮』63年9月号)と述べ、法主にも誤りの可能性があることを認めている。
以上のことから「法主の心に背いても、大聖人の指南に正しく従っていると思われる場合には、その唱える題目に功徳もあり、成仏もできる」と言えよう。
曼荼羅本尊の書写権については法主一人の権限に属するとされているが、はたしてそれは何時頃から生じた思想であろうか。日蓮大聖人の滅後、主要な弟子達はそれぞれ曼荼羅を書写している。ただその書写された曼荼羅の形式に関して日興門流と他の弟子達では決定的に異なっているところがある。すなわち日興門流においては「日蓮御判」という文字を中尊(=中央の題目)の下に書入れ、書写した人の名前をその脇に書くが、他の弟子達は中尊の下に直接自分の名前を書入れ、「南無日蓮聖人」を脇に書入れる。唯一の例外は身延2世を継いだ日向が日興門流と同様に「日蓮御判」と書いた曼荼羅を残していることだけである(『日蓮聖人門下歴代大曼荼羅本尊集成』)。このことから日向は曼荼羅書写の形式について大聖人から特別の教示を受けていず、日興書写の曼荼羅の模倣をしたと考えられる。相伝書とされる『御本尊七箇相承』には「日蓮在御判と嫡々代々と書くべし」(『富要』1 p31)とあるが、この『御本尊七箇相承』については堀日亨が日蓮相伝であるということを否定している(同 p33)。
ところで直弟子の中で誰が最初に曼荼羅を書写したかは、明確には分らないが、現在の資料から判断すると日朗が1287年(AN=大聖人滅後6年)4月8日に書写している(前掲『門下曼荼羅集成』)。日興は同年10月13日に本尊を書写している(『富要』8 p179)。その次は富木日常が1295年(AN14)に書写し、日向はその翌年1296年に書写している(『門下曼荼羅集成』)。日常は日朗と同じ形式であり、日向は日興と同じ形式である。日昭、日頂、日持については本尊書写の記録は残っていない。その他の直弟子では日常の後を継いだ日高が1301年に書写し、戒壇本尊を彫刻したと伝えられる日法が1331年に書写しているが、いずれも日朗と同じ形式である(同)。
この曼荼羅書写に関しては要法寺日大が『尊師実録』(1340年(AN59))において日興の弟子日尊の言葉として「大聖人滅後六人の老僧がそれぞれ曼荼羅を書写しだしたが、それについて異議がなかった。ところがその末流になると弟子達が勝手に書写しだした」と記している(『日蓮宗宗学全書』2 p419)。
また1350年(AN69)『摧邪立正抄』において日興の弟子日順が日朗の弟子日像の書写した曼荼羅に関して中尊の下の判形の問題を言及しているから、この頃には本尊書写の形式に関しての論争が明確にあったものと推測される(『富要』2 p50)。
日朗門流においては日朗の死後、京都開教に成功した日像、鎌倉、池上を継いだ日輪、越後本成寺を開いた日印がそれぞれ一派を構え、曼荼羅を書写している。日興門流においいては、先に引用した要法寺日大が日尊の言葉として「日興門跡においては付弟一人が曼荼羅を書写すべきということが、日興上人の遺誡である。その理由は法燈を賞賛して、根源を明らかにするためである」と記してある(『宗全』2 p418)。したがって日興門流においては、曼荼羅書写権は付弟日目にのみ与えられたことを証明している。日興逝去前において曼荼羅を書写したのは日目だけであると言えるし(日仙、日華の事例については後で検討する)、その日目も曼荼羅を書写しだしたのは『富士年表』によれば1326年であり(保田妙本寺に秘蔵している曼荼羅には1324年11月19日付がある)、日興の晩年である。
ところが、1333年(AN52)に日興、日目が相次いで逝去し、大石寺は日目の甥日道が継いだ。その日道も1341年(AN60)に逝去し、後を日目の従姉妹の子日行が継ぐと、日興の直弟子達は日行の権威を認めず、勝手に門流をつくっていった。日大『尊師実録』には「日興上人御入滅後、一門跡において面々争論出来し、互いに偏執をなし、人々面々に書写す」とあるように曼荼羅書写もするようになった。
日興門流で曼荼羅書写が最も早かったのは、大聖人の直弟子でもあった日仙である。日仙書写の曼荼羅の脇書には「元徳4年(1332年)2月」(讃岐本門寺、中之坊)(『富要』8 p214)とある。これは日興逝去前であって、はたして日仙筆なのかどうか疑わしいが、たとえ日仙筆だとしても、讃岐は富士から遠いために曼荼羅書写権を分与したと説明されている。しかし同様に遠い奥州の寺院の住職にはそのような権限は与えられなかったのであるから、遠近だけが問題ではなく、日仙のキャリアが重視されたと推測できる。また日仙は日道が逝去する前の1337年、1338年に合計3体の本尊を書写しており、日道のみが本尊を書写していたわけではない(『富要』8 p214、5)。
また真偽は未定であるが大聖人の弟子でもあった日華は1307年(AN26)に曼荼羅を書写していると妙蓮寺の寺宝目録にある(堀日亨『日興上人詳伝』 p575)。合計8体の本尊を書写しているという記録があるが、堀日亨はその内容に疑いを持ち、よく鑑定する必要を説いている。1307年は日目の曼荼羅書写よりもかなり早く、その点でも疑問が残る。
日道が逝去する前の曼荼羅書写の確実な事例は日仙だけであるが、日道が逝去した後では多くの日興の直弟子達が書写しだす。最も早いのは重須を継いだ日代を地頭石川氏と協力して追放し、その後を継いだ日妙であり、日道逝去3年後の1344年(AN63)3月に曼荼羅を書写している(『門下曼荼羅集成』)。また日妙はそれに先立ち、日道逝去前の1339年天奏したとされているから、既に日道の権威を無視していたのかもしれない(『宗全』2 p267)。なお日道は申状の草案を書いたけれども、日郷との東坊地の所有権争いのため、天奏する機会がなかっただろうと堀日亨は推測している(『富要』8 p338)。
日妙とほぼ同時に曼荼羅を書写したのが、日道と争った日郷であり、1344年8月に曼荼羅を書写している(『富要』8 p206)。また日郷は天奏により1345年に光明院から綸旨と嵯峨天皇筆の法華経10巻を拝領する(『富要』8 p372)から、その時には明白に大石寺とは別に一派をなして天奏するという意識があったと思われる。
また佐渡日満は1357年に曼荼羅を書写している(『門下曼荼羅集成』)。これは佐渡の地が遠隔地であったことによるのかもしれないが、日満は西山日代を日興嫡流として支持し、そのため大石寺との関係はどうであったか不明であり、後には北陸七国の別当職を日興から授与されたと称されているから、比較的早く分立したのかもしれない(『宗全』2 p396)。
次に要法寺日大は1364年京都木辻に上行院を創立するときに曼荼羅を書写している(『門下曼荼羅集成』)。師の日尊は曼荼羅書写については「付弟一人が書写すべきである」と言い、自分は曼荼羅書写をせず、1340年に日目筆曼荼羅を模刻して板曼荼羅とした(『富要』8 p210)。ただ既に引用した『尊師実録』においては日尊の言葉として「わが一門においては本義の如く、一人これを書写すべきか」と述べて、日興門流ではあるが、大石寺とは別の一派を立てるという意識が見られる。(この『尊師実録』は必ずしも日尊の言葉通りではなく、弟子日大の解釈が相当入っているというのが、正宗の見解であるが。)また曼荼羅書写権についての争いが生じる場合もありうるから「大聖人筆の曼荼羅を印板に刻んで、主だった弟子六人が協議して、曼荼羅授与を決定すればよい」という考えを日尊が述べたとも書いてある(『宗全』2 p419)。(また日尊が曼荼羅を書写せず、形木曼荼羅を授与したと堀日亨は述べている。参考堀米日淳『日淳全集』下 p1544)(注 大聖人筆の曼荼羅を板に刻み印刷するということは既に『富士一跡門徒存知事』の中に「日向、日頂、日春」の事例として言及されている。正宗では戒壇本尊を書写するべきであるとして、大聖人筆の曼荼羅を形木に刻み印刷することは禁止し、形木は日興以後の歴代の曼荼羅に限っている。参考 高橋粛道『日興上人御述作拝考1』 p230)
また西山日代はかなり遅く1388年になって曼荼羅を書写している(『門下曼荼羅集成)。日興の甥でもあり、重須を日興から譲られた経緯からしても、日興嫡流意識からもっと早く曼荼羅書写をしても不思議ではないが、現在残っている日代筆の曼荼羅は他の日興の弟子達よりも遅い時期のものである。堀日亨は『日興上人詳伝』において佐渡の弟子達に日代筆の曼荼羅が多く授与された可能性について言及している。
大石寺の山法山規の骨格をなすとされる日有の『化儀抄』では曼荼羅書写権についてどのように述べているだろうか。
まず御守り本尊に関しては、「77 末寺において弟子檀那を持つ人は守をば書くべし、但し判形はあるべからず本寺住持の所作に限るべし」(『富要』1 p71)とあり、次いで曼荼羅書写について「78 曼荼羅は末寺においては弟子檀那を持つ人は之を書くべし判形をば為すべからず、但し本寺の住持は即身成仏の信心一定の道俗には判形を成さるることも之あり、希なる義なり」(同 p72)と述べている。これによると末寺住職が御守り本尊や曼荼羅を書写してもよかったが、ただしその曼荼羅に「判形」すなわちそれを書写した人の花押を書入れてはいけなかった。その理由は堀日亨によると「判形」を加えることは、本尊を書写する権限を持つ法主一人に限定されるからである。
判形のない曼荼羅は「仮本尊」でしかなく、また形木の曼荼羅も同様に仮本尊でしかない。正宗においては法主によって常住本尊にその名前を記入されなければ「信心決定即身成仏と言うこと能はざるなり」(同 p112)であるから、仮本尊だけではそれなりの功徳はあるかもしれないが、成仏が決定するところまではいかない。(正宗において形木の曼荼羅が使用され始めたのは8世日影の時代と言われている。同 p113)
ところでこの末寺住職に仮本尊書写を許可した理由は戦国時代にあっては交通不便のため、大石寺に参詣して法主から常住曼荼羅を授与されることが困難になったからである。これと同様に海外布教においても法主に常住曼荼羅授与を願うことは困難であり、「学頭日照師が朝鮮に布教するや、紫宸殿御本尊を有師の模写するものによりて写真石版に縮写し、新入の信徒に授与せり」(同)とあり、やはり形木本尊を授与したことを述べている。(この形木本尊の製作権を日照が法主より許可されたのか、それとも学頭だから法主と同等の権限において独自の判断で行ったのかは不明である。)常住本尊を書写することが物理的に困難である現在においては、形木の本尊を大石寺において製作して、末寺住職の判断において授与するという形態がとられている。しかしその形木の本尊が常住本尊と同じ意義をもつのか、それともあくまで仮本尊の意義しかもたないのかについては不明であり、今後研究の余地がある。
またこの本尊書写権と密接に関係しているのが、寺院の本末関係であると思われるが、日仙の讃岐法華寺、日華の下条妙蓮寺、日尊の上行院(後の要法寺)、日郷の小泉久遠寺や保田妙本寺、日代の西山本門寺、日妙の重須(北山本門寺)などは早い時期から大石寺から人事的に独立しており、後継住職の任免権は大石寺の住職ではなく、それぞれの寺の住職にあった。また僧侶としての修行を本寺で行うことは重要なことであるが、日興が重須に移ってからは、大石寺が寂れた状況になり、日目が日郷に宛てた手紙において「大坊…に法師一人も候わず、説法をする者がいない」と述べているほどであり(『歴代法主全書』1 p229)、弟子の育成は主に重須で行ったものと推定されるから、大石寺が日興教団の中心であるという意識が薄れていったのかもしれない。それぞれの寺院が独立性を強めると、当然それぞれの寺院を運営していくために、弟子や信徒に本尊を授与する必要があるが、その本尊を書写する権限がその寺院の住職になく、法主=大石寺の住職にのみあるというのでは、各寺院の住職にとっては不都合であり、次第に曼荼羅を書写するようになったと思われる。
また大石寺とその他の寺と本末関係について明確に規定したのは日有『化儀抄』であるが、その98条に「末寺の事は我建立なるが故に付弟を我と定めてこの由を本寺へ披露せらるるばかりなり」(『富要』1 p74)とあり、末寺の住職の任免権がその寺院の住職にあったことが、明白である。ただその頃は既に述べたように本尊の書写権は法主一人に限定し、仮本尊の書写権を末寺の住職に授与したのである。僧侶は本寺=大石寺での修行が義務づけられていたようであるが、本寺に出向した僧侶が末寺の住職に無断で常住本尊を法主に授与するよう申請したり、また日号、僧位を申請してはいけなかった。つまり末寺住職の権限がかなり強く、法主が本寺の修行の機会に僧侶を自分の弟子にするような行為を禁止していたと解釈することができる。このような規定は本寺としての大石寺の権限をあまり強くすると末寺が離反するような状況の下での妥協的な規定であったと推測できよう。末寺の住職は宗教的権威を大石寺に求めたが、末寺の管理運営権を保持することも重要なことであった。仮本尊の書写権を確保できれば、末寺の住職にとっては、それほど不都合はなかったと思われる。
31代日因 『有師物語聴聞抄佳跡上』
「日影上人、日時上人に随順し出家…会津実成寺に住居すの時日時上人御遷化なり…日 阿代官として当山大坊に居住して日影上人を請す…日阿老衰病にあい遷化なり…これに より…相承等柚野の浄蓮に伝えて日影上人に授与す」(『富要』1−222)
日精「家中抄下」にも同様な文章あり (『富要』5−255)
@ 「日興跡条々事」 (大石寺に正本?) 「日興充身所給弘安二年大御本尊日目□□ □□授与之」 (堀注 □□□□は後人が故意に欠損する。授与以下に他筆で「相伝之 可奉懸本門寺」を加える。『宗全』2−134 高橋粛道『日興上人御述作拝考1』では「堀模写本を見ると日興筆であると確信した」とある。)
@ 日道『三師御伝土代』 熱原の法難の「その時大聖人御かんあつて、日興上人と御本尊にあそはすのみならす」(『歴全』2−266)
@ 『聖人御難事』の弘安2年10月1日の本懐の解釈
これらの文献により弘安2年の熱原法難の時に日興に本尊を授与したこと、それを日目に 授与したことは明らかであるが、その本尊に「本門戒壇」という脇書があったかどうかは不明である。
また本懐が何を具体的に指示しているかは不明。日興「原殿御返事」には「聖人御出世本懐南無妙法蓮華経の教主の木像」(『歴全』1−171)とあり、本懐が戒壇本尊であるかどうかは不明。
@ 戒壇本尊の願主について
「此処の地頭は南部六郎実長なり …その嫡子弥四郎国重と申す是本門戒壇の願主なり」(日精『日蓮聖人年譜』(執筆年代不明 1640?) 『富要』5−127)
@ 万年救護本尊について
「(文永11年)12月、万年救護本尊書写して以て日興に授与したまふ」(日精『日蓮聖人年譜』『富要』5−133)
「弘安2年に三大秘法の口決を記録せり、此年に大曼荼羅を日興に授与し給う万年救護の本尊というは是なり、日興より又日目に付嘱して今房州に在り、此西山に移り、うる故に今は西山に在るなり」(日精『富士門家中見聞上』(1662年執筆 隠尊の立場)『富要』5−154)
@ 熱原の時の本尊について
「大聖人は両人(日弁と日秀)の衆褒美として大曼荼羅を下され賞嘆の言を加えたまふ」(日精『日蓮聖人年譜』『富要』5−135)
「(熱原の時)聖人御感ありて直に(日秀日弁を)上人とぞ召しける(本尊について言及なし)」(日精『富士門家中見聞上』『富要』5−152)
@ 板本尊について
「(1617年要法寺日陽が)大石寺に着く、当住日昌は本来要法寺の住僧で…同学であり…霊宝残らず頂拝す、中にも日本第一の板本尊」(日辰『祖師伝』に合本した』日陽 伝』による筆者不明の写本 『富要』5−59)
「弘安2年に板本尊彫刻し此次を以て末代未聞不見の者の為に…一体三寸の御影を造立」(日精『日蓮聖人年譜』『富要』5−145)
「(身延離山)日興は…板御本尊…取り具して離山し給ふ」(日精『富士門家中見聞上』『富要』5−159)
@ 家中抄、日蓮聖人年譜について
「祖師の伝文不同なきには非らず、日順の血脈抄極略にして…日時三師の伝はわずかに 一二の行業をあげて…日辰の祖師伝は多く西山の説を記して、…富士五所の所伝にすこし差会あり。…寛永庚辰(1640)に…この三伝を集めて一巻として(『日蓮聖人年譜』 ?)…その後御筆本尊、並びに遺弟の書籍記文を拝見し…次第前後をただす、ただ…御筆記文は散失し…見聞の及ぶ所…記録して未だ精密ならざるなり、…その欠を補ひ給はば是吾ねがふ所なり」(日精『富士門家中見聞上』同180)
これらの日精の文章を見るかぎり、戒壇の本尊の由来については、日精は法主になってからも知らないことが明らかであり、戒壇の本尊=板本尊と、弘安2年の本尊と、万年救護の本尊との関係について不明である。つまり戒壇の本尊が熱原の法難の時に大聖人の出 世の本懐として日興上人に与えられたという議論は日精が受けた相伝にはなかったと言えよう。
「なぜその時分、寛師(日寛)の前後にこういう言葉(=天生原)が、相伝だと間違えるほど、要法寺の法門がはいってきたかというと、ほとんど御書も何もみな日辰そのものの御書を使っておった。…非常に法門が、純粋の富士の法門からぬけていってきた…だから、どなたがおっしゃったからといって、あながちそのままとっていいというんじゃない。やはり、日興上人、日有上人。日有上人までは立派な本宗の御法門である。」(日達「天生原・天生山・六万坊の名称と本宗の関係についての一考察」 阿部日顕編 『戒壇論』所収p46)
日蓮正宗においては弘安2年10月12日に御図顕された戒壇の本尊が法体として伝承されてきている。その戒壇の本尊について古い記録にはあまりはっきりと述べられていない。『日蓮正宗要義』にはこの戒壇の本尊の特別の意義として「三大秘法整足のためと本門戒壇に安置すべき一切衆生のための大曼荼羅本尊」(同 p204)ということを述べている。他の大聖人筆の曼荼羅はそのような意義を持たないのである。
そのことについて日霑は「宗祖御真筆の本尊天下に布在するもの挙げて数ふべからず、しかれども未だ一も本門戒壇の文字を標するものあるを聞かず」と述べてその特殊性を主張している(『富要』7 p134)。
そしてこの特別の意義を証拠だてる文献として真筆が残っている弘安2年10月1日の『聖人御難事』の「出世の本懐…余は二十七年なり」の文を示し、四条金吾を代表とする檀越に出世の本懐の時が至ろうとすることを略示せられたのであるとしている(同 p203)。この文献では出世の本懐が何であるかは明示していないが、日蓮正宗では戒壇の本尊を御図顕したことであると解釈している。他の日蓮宗ではこのことについて明確な説明はしていない。
そしてこの戒壇の本尊こそ『日興跡条々事』(大石寺に正本?)に「日興充身所給弘安二年大御本尊日目□□□□授与之」と述べている本尊であるとしている。(堀日亨の注によれば「□□□□」は後人が故意に書き消した箇所であり、授与以下に他筆で「相伝之可奉懸本門寺」を加えてあるという。『宗全』2 p134)この戒壇の本尊の脇書(下部)にある「本門戒壇の願主弥四郎国重」については単に「大聖人境界中の弥四郎国重」と述べて実在の人物であるかどうかについては明言していない。またこの戒壇の本尊について広宣流布本門戒壇建立の時のため、日興上人へ特別に授与になったから、日興上人はまた次に一閻浮提の座主としての日目上人へ譲られたのである。個人への授与でないから、大聖人より日興上人への授与書きが示されていないのは当然である」(『日蓮正宗要義』 p205)と述べている。
さらに『日蓮正宗要義』では述べられていないが、この戒壇の本尊について傍証する文献として大石寺4世日道の『三師御伝土代』(正本大石寺)がある。そこには熱原の法難の「その時大聖人御かんあって、日興上人と御本尊にあそはすのみならす」(『歴全』1 p266)と述べてあり、文の意味はとりにくいが、大聖人が熱原の法難の時に特別に曼荼羅を御図顕され、その曼荼羅が日興上人と特別の関係があることを述べていると解釈している。
その後の文献では戒壇の本尊について言及したものは1561年(AN280)保田妙本寺日我が『観心本尊抄抜書』において「久遠寺の板本尊今大石寺にあり大聖御存日の時造立なり」(『富要』4 p170)と記述されるまでないようである。その次には1617年(AN336)に要法寺日陽が「大石寺に着く、当住日昌は本来要法寺の住僧で…同学であり…霊宝残らず頂拝す、中にも日本第一の板本尊」(日辰『祖師伝』に合本した『日陽伝』による 『富要』5 p59)と述べている。
あるいは1489年(AN208)の左京日教の『六人立義破立抄私記』に「日興嫡々相承曼荼羅以可為本堂之正本尊」(『富要』4 p43)が戒壇の本尊を指しているかとも思われる。その前文で戒壇について述べ「三箇秘法建立勝地富士山本門寺本堂也」(同)とあり、本門の戒壇が富士山本門寺本堂であり、そこに安置される正本尊が日興嫡々相承曼荼羅であると述べられているからである。
これらの文献により弘安2年の熱原法難の時に大聖人は曼荼羅を御図顕し、その曼荼羅を日興に授与したこと、さらにそれを日目に授与したことは文献的に明らかであるとするが、その本尊が現在大石寺にある戒壇の板本尊であるかどうか、あるいはその本尊に「本門戒壇」という脇書があったかどうかは不明である。
まず『聖人御難事』の「出世の本懐」という言葉であるが、この文脈においては特別な とをしたということが推測されるが、本懐が何を具体的に指示しているかは不明である。だからこそ正宗の戒壇の本尊の建立という主張にそれなりの説得性があるのだが、日興『原殿御返事』には「聖人御出世本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像」(『歴代法主全集』1 p170)とあり、「本懐」が「南無妙法蓮華経」に係るのか、それとも「教主釈尊久遠実成の如来」に係るのかは解釈が別れるが、いづれにしても「戒壇の本尊」が出世の本懐であるとは述べていない。
次に『日興跡条々事』についてであるが、大石寺では正本があると主張しているが、その正本を公開していない。しかも堀日亨によればその正本に書き消した箇所や書き加えた箇所があるということで、文献的な信憑性が論争されている。また『日興上人詳伝』においては、堀日亨は「弘安二年大御本尊弘安五年御下文、日目に之を授与す」と読んで、書き消された部分に「弘安五年御下文」があったと推定している(同 p126)。このように『日興跡条々事』については文献的に問題が多いのであるが、たとえ正本であっても単に「弘安2年の日興に給わった本尊を日目に授与する」ということだけが述べられているのであり、その本尊が熱原の法難の時に御図顕された本尊かどうか、またその本尊が現在大石寺にある戒壇の本尊かは、これだけでは不明である。後に他筆で加筆された「相伝之可奉懸本門寺」という文は、日興が日目に授与した本尊が戒壇の本尊であることを主張するために誰かが書き加えたとも推定されうる。
ただ日興が日目に授与した本尊が熱原法難の時に御図顕された本尊であるということは、日道の『三師御伝土代』からそれなりに推測できる。しかしその本尊が現在の戒壇の本尊かどうかについては古い時代の文献的な資料はないと言えよう。「板本尊」が確実な文献に現われるのが、日陽伝の1617年(AN336)であり、日道の『三師御伝土代』の執筆が1333年(AN52)と推定されているから、その間280年ほどの間、戒壇の本尊について言及がないことに不自然さを感じるのはやむをえないであろう。
このことについて明治時代になってから北山本門寺の玉野日志が論難を加え、1493年(AN212)の北山6世日浄の日記を引用して、「日有未聞未見の板本尊を彫刻し、なお己義の偽書(日興跡条々事)を作る」と述べ、板曼荼羅を日有が作ったという議論をしている(『富要』7 p42)。これに対して日霑は「日有の彫刻した本尊とは大聖人の紫宸殿本尊を模写して彫刻した本尊のことである」と回答している(同 p101)。
このように古い文献にないことについて堀日亨は『日興上人詳伝』において「開山上人は、これを弘安二年に密付せられて、正しき広布の時まで苦心して秘蔵せられたのであるが、上代にはこのことが自他に喧伝せられなかったが、いずれの時代(中古か)からか、遠き広布を待ちかねて特縁により強信により内拝のやむなきにいたり、ついには今日のごとき常例となった…開山上人より三祖日目上人への富士総跡の御譲り状にも、『日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊』として、戒壇本尊と書かれなかったのは、大いに味わいがある」と述べている(同 p277)。
しかしながら板本尊が大聖人在世時代に身延の寺院に安置されていたという説もあり、日霑は「弘安二年より根本たつ身延の本堂に安置し給ひたる本門戒壇の大本尊にして」(『富要』7 p134)と述べているが、それならばどうしてその当時の他の弟子達が戒壇の本尊に言及していないのか、理解できない。
すでに述べたように戒壇の本尊については1617年の日陽の記録が初出であるが、その後要法寺出身の17世日精が『日蓮聖人年譜』『家中抄』等の宗門史を著してから、戒壇の本尊についての記述が頻出するようになる。それまでの宗門史については日興の弟子日順の『血脈抄』、日道の『三師御伝土代』が古い記録であり、その次は1560年(AN279)の要法寺日辰の『祖師伝』まで230年ほど時代が隔たっている。しかも「日辰の祖師伝は多く西山の説を記して、」と『家中抄』(『富要』5 p180)にあるように、必ずしも大石寺の記録としては適切ではなかった。そのため日精は不十分な資料を使いながらも、大石寺に伝承されていた宗門史を記録し、将来の訂正を期待した。
その中で板本尊(=戒壇の本尊)については『日蓮聖人年譜』において「弘安2年に板本尊彫刻し此次を以て末代未聞不見の者の為に…一体三寸の御影を造立」(同 p145)、あるいは『家中抄上』においては「(身延離山の時)日興は…板御本尊…取り具して離山し給ふ」(同 p159)と言及している。しかしながら戒壇の本尊が熱原の法難の時に御図顕されたということについては言及されていない。むしろ『家中抄下』の日法の伝記においては「ある時日法御影を造り奉らんと欲す…浮木出来せり、この木を以て戒壇院の本尊を造立し次に大聖人の御影を造ること以上三体なり」(同 p244)と述べて、熱原の緊迫した状況において戒壇の本尊が御図顕されたということを全く感じさせない記述となっている。
むしろ日精は熱原の時に図顕された曼荼羅と戒壇の本尊とは別のものであったと考えていたようである。熱原の時の本尊について日精は『日蓮聖人年譜』においては「大聖人は両人(日弁と日秀)の御褒美として大曼荼羅を下され賞嘆の言を加えたまふ」(同 p135)とあり、また『家中抄上』においては「(熱原の時)聖人御感ありて直に(日秀日弁を)上人とぞ召しける(本尊について言及なし)」(同 p152、196)とあり、あるいは『家中抄下』日弁の伝記においては、「直ちに上人と号しまた本尊を授与したまう」(同 p246)とあり、むしろ熱原の法難の時に日弁、日秀に本尊が授与されたという記述になっている。
またややこしいことには弘安2年の本尊について日精はさらに別の本尊について言及している。『家中抄上』には「弘安2年に三大秘法の口決を記録せり、此年に大曼荼羅を日興に授与し給う万年救護の本尊というは是なり、日興より又日目に付嘱して今房州に在り、此西山に移り、うる故に今は西山に在るなり」(同 p154)とあり、弘安2年に「万年救護の本尊」を大聖人から日興が授与され、その本尊がまた日目に付嘱されたと述べている。その万年救護の本尊の由来について日精は『日蓮聖人年譜』において「(文永11年)12月、万年救護本尊書写して以て日興に授与したまふ」(同 p133)と述べて、書写されたのは文永11年で、日興に授与されたのが弘安2年であると考えているようだ。
これらの日精の文章を見るかぎり、弘安2年の本尊に関しては3体の本尊があり、それぞれ由来が異なるが、戒壇の本尊=熱原の法難の本尊=日興に授与した本尊という図式は見られない。むしろその3つの本尊は別々の本尊であると日精は考えていたようである。 また願主弥四郎国重について日精は『日蓮聖人年譜』において「此処の地頭は南部六郎実長なり…その嫡子弥四郎国重と申す是本門戒壇の願主なり」(同 p127)と述べて波木井実長の嫡子であると考えている。むろんこの考えは現在では否定されている。だが本門戒壇の本尊の願主について何も相伝がなかったということが、この日精の文章によって明らかであり、戒壇の本尊の歴史は法主にも相承されず、また古い記録にもなく、ただいつごろからか、戒壇の本尊=熱原の法難の本尊=日興に授与した本尊という図式が成立して、今日に至っているのである。
日霑はこの弥四郎国重について「宗祖の在世に於いては日興上人と太田氏の他は、本門戒壇とはその形貌の何物たるを知れるものは至って希なるべきなり、しかるに彼の国重なる者・いかなる宿縁の深厚なるによってや、はた本仏の加被力によってや、衆に先立ち弘安二年十月の頃より深く本門戒壇の義理を信解し永く未来の一切の衆生のために本門戒壇大御本尊を遺し給はんことを希望す、これ即ち本門戒壇の発起対告衆者なり」(『富要』7 p99)と述べて、弥四郎国重が実在の人物であると解釈している。また弥四郎国重が波木井一族ではないという玉野日志の見解に疑問を投掛け、弥四郎が波木井一族である可能性を指摘している(同 p101)。
また日法が戒壇の本尊を彫刻したという伝承については1757年(AN476)31世日因の『有師物語聴聞抄佳跡』に「松野殿御書」という御書を引用して詳細に述べている(『富要』1 p251)。しかし日霑はこの御書が偽書であると述べている(『富要』7 p102)。