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『守護国家論』について(1)
宮田幸一 創価大学
東洋哲学研究所紀要第16号  2000

T 標準文献としての『守護国家論』

『守護国家論』は、日蓮の初期の、むしろ全ての著作の中で、最も体系的な内容構成を持つ教学書である。真筆は身延にあったが、火災で焼失してしまった。系年はその中に記述されている自然現象の年号から、正元元年と推定されている。著作の意図は法然の『選択集』を批判し、末法においては『法華経』を正法と定め、法華経の題目を唱えることによって、三悪道から離れることができることを、経典を根拠に整然と証明することにある。そのため『立正安国論』と同様に、鎌倉幕府の要人に謗法禁断、正法護持を訴えようとして著述されたものと推定されている。
 しかし本書の意義は、何よりも日蓮の初期の教学思想を、非常に体系的に、また明確に叙述していることにあり、その点では『立正安国論』よりも重要な著作である。この『守護国家論』で展開された教義を基本としてみれば、同時代の御書とされる文献に関してさまざまな疑問が生じる。以下においては第一部(本稿)において、標準文献として『国家守護論』を採用した場合、どのような問題が生じるかを、文献学的、かつ思想的に検討してみたい。次稿においては『守護国家論』の教義上の特色と内在的諸問題を論じる予定である。

1−1 系年順で見た初期の日蓮遺文

 『守護国家論』とほぼ同時代に著作された御書を、『編年体日蓮大聖人御書全集 創価学会版』(以下『創』と略称)と『昭和定本日蓮聖人遺文』(正篇)(以下『定』と略称)とに従って、立宗宣言の年とされる建長五年から、伊豆流罪の年弘長元年の前年まで、系年順に列挙してみると極めて興味深いことがわかる。

 ここで○は真筆がある、あるいは曾存したテキスト、△は直弟子写本があるテキスト、□は孫弟子写本があるテキストという文献学的記号である。また●は本覚思想が濃厚なテキスト、×は天台宗批判をしているテキスト、▲は僧侶による追善供養を強調しているテキストという内容上の記号である。一覧すると○、△のテキストには本覚思想の●も、天台宗批判の×もなく、□のテキストになって初めて●や、×が現れ、▲には古い写本もないという文献学的差違と思想的差違の並行性が見て取れる。

1−2 日蓮の初期の本覚思想との関わり

 日蓮が非常に早い段階から本覚思想を知っていたということは、日蓮の最初の著作とされる仁治三年の●『戒体即身成仏義』(録内、『創』未収録)に次のようにあることから分かる。
 「法華の覚を得る時、我等が色心生滅の身即不生不滅也。国土もかくの如し。此国土の牛馬六畜も皆仏なり。・・・法華経の悟と申は、此国土と我等が身と釈迦如来の御舎利と一と知る也。・・・ 法華経を是の体に意得れば則ち真言の初門也」(『定』、p. 14)。
ここでは覚りにおいては衆生も、国土も本来的には仏であるという本覚思想が述べられ、そのことが「我等が色心生滅の身即不生不滅也」(ただし後の本覚思想の中で多用された「我が身即本覚の如来」などという定型的な表現は使用されていない)という用語で述べられ、この本覚思想が真言、この場合では台密と密接な関係があることを示唆している。
 日蓮が、立宗宣言の年とされる建長五年以後も、台密の影響下にあったことは、建長六年の○『不動愛染感見記』に「自大日如来至日蓮二十三代嫡々相承」(『定』、p. 16)とあることによって分かる。
 日蓮の修学期にどのような本覚思想があり、またどのような本覚思想の文献があったかについては、あまり確実なことは分かっていないが、大石寺の後の資料には、恵心流の俊範や静明の名が出てきており、日蓮が彼らから相伝書を学んだとは思えないが、本覚思想について多少の知識はあったと思われる。

1−3 日蓮初期の本覚思想文献について

 日蓮遺文の初期の文献の中にも本覚思想を展開しているものは多いが、それらは文献学的には不確実な遺文である。例えば本覚思想を極端な形で述べた×●『一念三千法門』を見てみよう。そこにはまず、「我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり、是をしるを如来とも聖人とも悟とも云う、知らざるを凡夫とも衆生とも迷とも申す。・・・本と申すは仏性・末と申すは未顕の仏・九界の名なり、究竟等と申すは妙覚究竟の如来と理即の凡夫なる我等と差別無きを究竟等とも平等大慧の法華経とも申すなり、始の三如是は本覚の如来なり、本覚の如来を悟り出し給へる妙覚の仏なれば我等は妙覚の父母なり、仏は我等が所生の子なり、・・・凡夫は親なれども愚癡にして未だ悟らず、委しき義を知らざる人毘盧の頂上をふむなんど悪口す、大なる僻事なり。」(『創』、p. 50, 『定』、p. 2034)という記述がある。
 ここでは、衆生、凡夫も仏も本来的には「本覚の仏」であるという本覚思想がまず明確に述べられている。両者の違いは単に凡夫は「迷」いの中にあり、仏は「悟」りの中にあるということにあるが、強調点は相違よりも、本質的同質性にある。
その上で理即の凡夫が「妙覚の如来」であり、仏は「本覚の仏」である、また「凡夫」は「父母」であり、「仏」は子であるという、凡夫と仏を対比して、凡夫に優位を与えるいわゆる凡夫本仏論が主張されている。そしてこの凡夫本仏論を「毘盧の頂上をふむ」と批判する者に対して、それは全く誤った見解であるとしている。
この「毘盧の頂上をふむ」という批判は、実は禅宗に向けられた批判であり、例えば『蓮盛抄』にあるように、「(禅宗の是心即仏・即身是仏を、)理性の仏を尊んで己れ仏に均しと思ひ増上慢に堕つ」(『創』、p. 2,『定』、p. 19)という批判なのである。つまり本覚思想は禅宗の理性仏の思想と同じだという批判が既にある時期からなされていたということを×●『一念三千法門』は示している。
さらに×●『一念三千法門』には天台宗の観念観法と比較して、(日蓮)法華宗(注1)の唱題行の優位を主張するという論点もある。まず「法華経は念念に一心三観・一念三千の謂を観ずれば、我が身本覚の如来なること悟り出され、無明の雲晴れて法性の月明かに妄想の夢醒て本覚の月輪いさぎよく、父母所生の肉身・煩悩具縛の身・即本有常住の如来となるべし、此を即身成仏とも煩悩即菩提とも生死即涅槃とも申す、」(『創』、p. 51,『定』、p. 2036)と述べて、天台宗における観念観法によって即身成仏することを一応認める。
 そのうえで、「一念三千の観念も一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納れり、妙法蓮華経の五字は又我等が一心に納りて候けり、・・・さて此の妙法蓮華経を唱うる時心中の本覚の仏顕る、」(同)と述べて、唱題によっても観念観法と同じく即身成仏できることを述べる。
 次いで「一念三千・一心三観等の観心計りが法華経の肝心なるべくば、題目に十如是を置くべき処に、題目に妙法蓮華経と置かれたる上は子細に及ばず、・・・智者は読誦に観念をも並ぶべし、愚者は題目計りを唱ふとも此の理に会う可し、此の妙法蓮華経とは我等が心性・総じては一切衆生の心性・八葉の白蓮華の名なり、是を教え給ふ仏の御詞なり、無始より以来、我が身中の心性に迷て生死を流転せし身、今此の経に値ひ奉つて、三身即一の本覚の如来を唱うるに顕れて、現世に其内証成仏するを即身成仏と申す、死すれば光を放つ、是れ外用の成仏と申す、来世得作仏とは是なり、」(『創』、p. 53, 『定』、p. 2038)と述べ、末法の愚者にとっては唱題行が唯一の成仏の修行法であることを主張する。
 次いで「法華経の行者は如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し、譬えば春夏田を作るに早晩あれども一年の中には必ず之を納む、法華の行者も上中下根あれども必ず一生の中に証得す、玄の一に云く『上中下根皆記別を与う』と云云、観心計りにて成仏せんと思ふ人は一方かけたる人なり、」(『創』、p. 54, 『定』、p. 2039)と述べて、天台宗の観念観法の限界を指摘し、「凡そ此の経は悪人・女人・二乗・闡提を簡ばず、故に皆成仏道とも云ひ、又平等大慧とも云う、善悪不二・邪正一如と聞く処にやがて内証成仏す、故に即身成仏と申し、一生に証得するが故に一生妙覚と云ふ、」(『創』、p. 54, 『定』、p. 2040)と述べて、唱題行こそが皆成仏道を説く法華経の真意であることを主張し、天台宗に対する日蓮法華宗の優位を強調する。
この×●『一念三千法門』に散見する「本覚の仏」「知る、悟る=如来」「知らざる、迷う=凡夫、衆生」「凡夫=父母」「如来=子」「本有常住の如来」「八葉蓮華」「内証成仏」「一生成仏」「一生妙覚」という術語は本覚思想を特徴づける術語としてよく使用されているものである。術語使用の上から同時期の他の本覚思想の見られるテキストを見てみよう。

 ●『一生成仏抄』は対告衆が富木常忍になっているが、富木氏に与えられた御書の多くは真筆が残っているから、この御書に真筆が残っていないことには疑問が残る。ここには、「衆生本有の妙理を観ず」(『創』、p. 21、『定』、p. 42)、「迷=衆生、悟=仏」の二法(『創』、p. 22、『定』、p. 43)、「一生成仏」(『創』、p. 22、『定』、p. 44)という術語が見られる。
●『総在一念抄』には、「此の身即本有の一念三千」(『定』、p. 81)、「本有の仏体」(『定』、p. 83)という用語があり、さらに「実相観」(『定』、p. 81)=「理」と「唯識観」(『定』、p. 82)=「事」という観念修行の区別を述べ、そのうえで「事理体一の不思議の総在一念」(『定』、p. 82)、「理を悟る人は仏と等しく」(『定』、p. 83)、「悟りの仏とは此の理を知る法華経の行者」(『定』、p. 85)と述べて、「本迹雖殊不思議一」(『定』、p. 85)ということを強調し、本迹一致の立場から本覚思想を展開している。
●『十如是事』には、「我が身三身即一の本覚の如来」(『創』、p. 48、『定』、p. 2030)、「衆生=迷い、如来=覚り」(『創』、p. 48、『定』、p. 2031)の対比、「今生の中に本覚の如来を顕わして即身成仏」(『創』、p. 49、『定』、p. 2031)、「上中下の三根」と稲の譬え(『創』、p. 49、『定』、p. 2032)、「一生に本覚の如来を顕わし」(『創』、p. 49、『定』、p. 2032)、「妙法蓮華経の体=心性の八葉の白蓮華」(『創』、p. 49、『定』、p. 2032)という術語が散見される。
 ●『十法界事』には、「迹門の大教起れば爾前の大教亡じ・本門の大教起れば迹門爾前亡じ・観心の大教起れば本迹爾前共に亡ず」(『創』、p. 111、『定』、p. 140)という四重の興廃が述べられている。これは法華経という教相よりも、観心、すなわち天台本覚思想では観念観法の修行、日蓮法華宗では唱題行を重視する立場であり、術語的には本覚思想の流れの中で形成されてきた。
□●『十法界明因果抄』には身延三世日進の写本があるが、ここでは他の文献には現れない「相待妙の戒、絶待妙の戒」(『創』、p. 136、『定』、p. 182)という区別がなされ、日蓮の弟子達の間で論争があった受戒問題に対して、日蓮法華宗の戒を「信」に求める(つまり比叡山の大乗戒壇で受戒しない)という日進なりの回答を示した文献と見ることができ、ここにも「凡夫一生の中に妙覚に入る」(『創』、p. 137『定』、p. 183)という本覚思想の中で主張された一生成仏論が見られる。
●『船守弥三郎許御書』には、「久遠五百塵点の当初唯我一人の教主釈尊とは我等衆生」(『創』、p. 181『定』、p. 230)、「凡夫即仏・一念三千即我実成仏」(『創』、p. 181『定』、p. 231)という本覚思想の術語がある。

このように日蓮初期の御書とされるテキストの中には、本覚思想を展開したものは多いが、それらはみな真筆、直弟子写本がなく、最も古い写本が孫弟子の日進の写本である。
天台の一念三千論では、仏にも九界が備わり、凡夫にも仏界が備わっていることが主張され、仏と凡夫が連続的に捉えられているから、凡夫も本来は仏であり、ただ迷いの中にあるから、自分を仏と悟った仏と区別されるにすぎないという本覚思想への思想的展開は、ある意味で自然であるかもしれない。
ただ理性として仏界を持つ凡夫と、修行の結果ある境涯に到達した仏とを、同一視することは、『蓮盛抄』で主張されている「理性の仏を尊んで、己れ仏に均しと思ひ、増上慢に堕つ」という禅宗批判の言葉が当てはまるかもしれない。本来の天台の一念三千の理論と本覚思想との微妙な差違は、よく注意しなければ見落としかねない理論的差違であるとも言えよう。

1−4 天台宗批判の初期文献

また日蓮遺文の初期の文献において、天台法華宗を批判しているものもある。上述の×●『一念三千法門』には、天台宗の本覚思想の中で主張された観念観法よりも、日蓮法華宗の唱題行の優位を明確に説いていた。
□×『諸宗問答抄』には大石寺開山の日興の甥、日代の写本があるが、ここでは天台宗の側から(日蓮)法華宗に対して質問されたことに回答するという趣旨で議論が展開されている。注1で述べたように、「天台宗」から独立した宗派として「法華宗」を自称したのは、明確には日蓮の死後からであり、もちろん日蓮自身が、「法華宗」という宗名を自称していたとは思われない。この法華宗と天台宗を区別(『創』、p. 6、『定』、p. 22)するという議論が初期になされていたかどうかは、疑問が残る。
ただ議論の内容は、天台宗の開会の法門を批判し、爾前の円を、法華の体内に開会しても、体内の権であって、実ではない(『創』、p. 9、『定』、p. 26)と述べて、法華独勝を主張しているのであり、この開会の法門批判自体は日蓮の初期の他の文献(例えば日興写本のある△『唱法華題目抄』)にも見られる。
次にこの文献では真言宗批判を教主の問題から展開しているが、この議論自体は後の時期の文献には散見されるものだが、やはりこの時期になされたかどうかは、疑問が残る。
また念仏批判に伝教の『法華秀句』(誤り 『守護国界章』が正しい08/9/11 訂正)の「有為の報仏は夢中の権果・無作の三身は覚前の実仏」を引用しているが、日蓮が伝教のこの句を引用しているのは、この文献のみであり、念仏批判をわざわざ本覚思想の中でよく利用された伝教のこの句を引用して展開するというのも極めて異例である。

1−5 真筆、曾存の初期文献における本覚思想との関連

 ところが○のテキストの中で、教義について論じた最初のテキストである○『守護国家論』では、この本覚思想について全く言及していない。それどころか、「(爾前経においては)凡夫も亦十界互具を知らざるが故に自身の仏界も顕れず、・・・今法華経に至って九界の仏界を開くが故に、四十余年の菩薩・二乗・六凡始めて自身の仏界を見る・・・此の時に二乗菩薩始めて成仏し凡夫も始めて往生す」(『創』、p. 86, 『定』、p. 124)と述べて、まず教義的に十界互具論によって成仏論に制限を加え、次いで凡夫には成仏ではなく、往生しか許さないという制限も加える。そして「解心」なく法華経の題目を唱えるだけの凡夫については「今生は悪人無智なりと雖も必ず過去の宿善あるが故に此の経の名を聞いて信を致す者なるが故に悪道に堕せず」(『創』、p. 89, 『定』、p. 127)と述べて、不堕三悪道という功徳しか認めていない。
また○『爾前二乗菩薩不作仏事』においても、爾前経では二乗作仏を許さないから、厳密に言えば、菩薩の成仏もないことが、源信の『一乗要決』、円仁の注釈書などを使用して、論証している。ここにも本覚思想は見られない。
 次に○『災難興起由来』、○『災難対治抄』はほぼ同内容の文献であり、『立正安国論』の準備段階の草稿と推測できるが、そこでは『選択集』を信じる者と、法華真言の諸大乗経を信じる者とが対比されている。これは『立正安国論』でも、法華・涅槃などの立場から『選択集』を批判するという姿勢が取られており、本覚思想の片鱗も伺えない。
 このように真筆、曾存の文献においては、本覚思想への言及がないばかりか、○『守護国家論』に見られるように、唱題の功徳として不堕三悪道しか認めないという立場は、本覚思想とは異質である。
例えば×●『一念三千法門』には「此の妙法蓮華経を唱うる時心中の本覚の仏顕る」と述べて、唱題を通じて成仏(それは即身成仏、一生成仏などど表現されている)が可能であることを強調しているが、この二つの立場が同時期に同一人物によって主張されたということを説得するのにはかなりの説明が必要であると思われる。

1−6 真筆の初期文献における天台宗への言及

 初期の真筆御書で天台宗を全体として批判して、(日蓮)法華宗を別立するという箇所はない。例えば○『一代五時図』(Aとする)については、系年に問題があるが、内容的には当時の真筆御書と矛盾するわけではない。そこでは『法華経』に基づく宗名として「法華宗」が線で結ばれ、その下に「天台宗」が線で結ばれている。この資料では経と宗名とは線で結ばれているが、二つの宗名が書かれている箇所はここだけであるので、日蓮の不確実な文献に見られるように法華宗と天台宗とを区別して書いたものか、それとも法華宗は経から名づけた宗名で実体的には天台宗と同じという意味なのかは、これだけでは簡単には判断できない。
 しかし執筆年次未定とされる○『一代五時図』(Bとする)(『創』、p. 1408、『定』、p. 2299)では『法華経』に基づく宗名として、「顕露宗、最秘密宗、仏立宗、法華宗、天台宗」(『創』、p. 1410、『定』、p. 2301)と書かれており、これらは同格と見なしうるから、天台宗と法華宗とは同じ宗名であると推測できる。
 また同様に執筆年次未定の○『一代五時鶏図』(Aとする)(『創』、p. 1435、『定』、p. 2333)にも、『法華経』に関係する宗名として、「諸宗依憑宗、仏立宗、天台宗、法華宗、秘密宗、顕露彰灼宗」(『創』、p. 1439、『定』、p. 2337)と書かれており、天台宗と法華宗とは同格であると見なすことができる。
またこの○『一代五時鶏図』(A)には、各宗の本尊が書かれているが、そこでは天台宗の本尊として「久遠実成実修実証の仏」として「久成の三身」が「無始無終」として位置づけされている(『創』、p. 1444、『定』、p. 2342)が、法華宗の本尊については何も言及されていないので、天台宗と法華宗とを区別する姿勢はまだなかったと見てよい。
 このことは同じく執筆年次未定の○『一代五時鶏図』(Bとする)(『創』未収録、『定』、p. 2355)には、例えば禅宗は「仏心宗、達磨宗」と呼ばれているように、「天台宗、仏立宗、法華宗」(『定』、p. 2357)は同格で呼ばれている。
 また同じく執筆年次未定の○『一代五時鶏図』(Cとする)(『創』未収録、『定』、p. 2384)には、「天台法華宗、仏立宗」(『定』、p. 2386)と書かれてあり、また別の○『一代五時鶏図』(Dとする)(『創』未収録、『定』、p. 2388)には「法華宗、仏立宗」とだけ書かれ、その「法華宗」に「天台大師、伝教大師」の名が線で結ばれている(『定』、p. 2390)。
 またそれぞれの宗名を内容によって特徴づけた○『十宗判名の事』(『創』、p. 1537、『定』、p. 2391)には、十宗の名として通常使用される天台宗の代わりに「法華宗」と書かれ、その特徴として「仏立宗」と書かれている(同)。
 これらの諸文献には本覚思想も全体としての天台宗批判も全く見られない。ただ○『一代五時図』(A)の最後に「一切の天台・真言等の諸宗の人々法然が智分を出でず、各々その宗を習えども心は皆一同に念仏者なり」(『創』、p. 177、『定』、p. 2388)とあるが、これは『立正安国論』などにも散見される天台宗の僧侶たちが法然に影響されていることを批判したものであり、天台宗の教義自体を批判したものではない。
こうしてみると日蓮が十宗の分類に言及した真筆テキストにおいては、「法華宗」と「天台宗」とは同じ宗派の異なった名称として使用されていることがわかる。したがって□×『諸宗問答抄』に見られるような、「法華宗」と「天台宗」とを異なった宗派の名称として使用している文献には、疑義が生じると言えよう。

1−7 直弟子写本に見られる本覚思想、天台宗批判に関連した記述

 直弟子写本が残っている△『一代聖教大意』と△『唱法華題目抄』は、教義的には○『守護国家論』を補完する重要な文献である。
 日目写本の残っている△『一代聖教大意』ではまず、天台の四教説に従って、蔵・通・別・円の四教を区別し、さらに円教に関して爾前の円と法華・涅槃の円とを区別する。次いで五時説に従って、法華最勝を主張する。その後『法華経』の意義について問答し、「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(『創』、p. 36、『定』、p. 66)と述べ、日蓮が学んだ天台宗内部でも、この問題に関して流派によって解釈が異なることを示唆している。
そのうえで爾前の円を否定し、法華の円のみを認める立場を主張する。その論拠として十界互具を挙げ、爾前の円教には二乗の仏性を認めないから真の円教とは言えないとしている。
次いで諸経にも悪人、女人、二乗、凡夫の成仏・往生を説いていることに対して、「予の習い伝うる処の法門・此の答に顕るべし、此の答に法華経の諸経に超過し又諸経の成仏を許し許さぬは聞うべし、秘蔵の故に顕露に書さず。」(『創』、p. 39、『定』、p. 71)と述べて、詳論を避けているが、爾前の円を否定する立場から、爾前経で説く成仏・往生を否定してる。
しかも爾前の円を否定する立場は、「予の習い伝うる処の法門」と述べて、天台宗の特定の流派に伝わった解釈であることを示唆している。この爾前の円と法華の円を区別する立場を、相待妙の立場、あるいは能開の立場として説明し、日蓮自身が両者を区別する立場であることを示している。
この△『一代聖教大意』は、日蓮が天台宗の特定の流派に所属している、あるいは所属していたこと、さらにはその流派の解釈を維持していることを示している。したがって天台宗の中でも爾前の円を認める流派に対して批判しても、天台宗全体を批判する姿勢はなかったと考えるべきだろう。
このことは△『唱法華題目抄』になるともっと明確に述べられている。そこではわずかでも『法華経』への信仰があれば、浄土への往生あるいはこの娑婆世界での即身成仏の可能性があるのかという問いに対して、不堕三悪道のみを認めている(『創』、p. 138、『定』、p. 184)。さらに六道輪廻から脱するためには、「一分のさとり」(『創』、p. 140、『定』、p. 188)が必要であるとしている。
次いで爾前の円と法華の円との勝劣に関して、五時説を基礎とする約部の場合は、爾前経よりも『法華経』を優れたものとするが、蔵・通・別・円の四教を論じる約教の場合には、爾前の円も法華の円も等しく円教としていることについて天台宗内部のさまざまな解釈を挙げている。
その上で「予が流の義」として「四の筋目」(『創』、p. 149、『定』、p. 201)を挙げて、最終的には法華の円は爾前の円よりも優れているという立場を取る。この記述は日蓮が天台宗の特定の流派の教義を継承していることを明確に示している。
 次いで日常の修行方法を述べた箇所で、「常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、たへたらん人は一偈・一句をも読み奉る可し助縁には南無釈迦牟尼仏・多宝仏・十方諸仏・一切の諸菩薩・二乗・天人・竜神・八部等心に随うべし愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし。」(『創』、p. 149、『定』、p. 202)と述べて、愚者の修行法として、唱題を勧めるが、もし能力が有れば、一念三千の観念観法をすべきであるとしている。このことは愚者は唱題行を修行することにより三悪道に堕ちないようにすべきであるが、六道輪廻から脱するために必要な「一分のさとり」を得るためには、さらに一念三千の観念観法をすべきだという立場を示していると考えられる。
この立場は例えば、●『一念三千法門』の「観心計りにて成仏せんと思ふ人は一方欠けたる人なり」という観念観法を批判する立場とは異なっている。
 もちろん△『唱法華題目抄』においても、唱題の功徳を述べた箇所で、「法華経の肝心たる方便・寿量の一念三千・久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり、・・・妙法の二字に諸仏皆収まれり、故に妙法蓮華経の五字を唱うる功徳莫大なり諸仏・諸経の題目は法華経の所開なり妙法は能開なりとしりて法華経の題目を唱うべし。」(『創』、p. 150、『定』、p. 202)と述べて、●『一念三千法門』と同様に唱題の功徳が他の諸経の修行の功徳よりも優れており、一念三千の法門を説く『法華経』と同じ功徳があることを強調している。
 しかし△『唱法華題目抄』のこの箇所ではまた「妙法の二字は玄義の心は百界千如・心仏衆生の法門なり止観十巻の心は一念三千・百界千如・三千世間・心仏衆生・三無差別と立て給う、一切の諸仏菩薩十界の因果・十方の草木・瓦礫等・妙法の二字にあらずと云う事なし、」(同)と述べている。本覚思想の文献であれば、同内容を「衆生本有の妙理」「この身即本有の一念三千」「三身即一身の本覚の如来」などと表現しているが、この△『唱法華題目抄』には天台、伝教の教相を踏まえるという姿勢が貫かれている。
これらの直弟子写本のテキストを見ると、この時期には日蓮は自分を天台宗の特定の流派に所属しているものとして議論を展開していると見なすことができ、天台宗から独立したという意識を明確に持っていたとは考えにくい。
真筆が残っている『御輿振御書』には比叡山の中堂が炎上したことを聞いて、「山門破滅の期・その節に候か」と述べた後で、「滅するは生ぜんが為、下るは登らんが為なり、山門繁昌の為にかくのごとき留難を起こすか」(『創』、p. 219、『定』、p. 438)と述べて、日蓮の末法における法華復興の運動により天台宗が復興する可能性を示唆している。
また一部真筆が残っている文永三年の『法華経題目抄』には「根本大師(=伝教)門人 日蓮撰」とあり、日蓮自身の意識としては天台宗の改革派という位置づけであったのかもしれない。ただしこれより古い文献には「本朝沙門」という用語が使用され、「天台沙門」を自称していないので、この問題は解釈が難しい。天台宗と区別される法華本門の立場がはっきりと明確にされるのは、佐渡期以後の三大秘法の名目が示されてからであるとは言えるが、それ以前の天台宗との関係は微妙である。

1ー8 論点の整理

 日蓮は建長五年に唱題行という新しい修行方法を人々に勧め始めたということは、確実であろうが、その唱題行にどのような宗教的意義があるかを、どのように人々に説明したかは、検討の余地がある。
 法然は、称名念仏だけで極楽往生ができる(専修)と主張し、他の修行方法は末法においては無効である(排他)と主張した。しかし、これは伝統的な天台教学における、称名念仏は機根の低い衆生の低級な修行方法であり、それだけでは往生できないし、ましてやそれ以上の高級な修行方法が無効であるなどということはないという解釈を真っ向から批判したものであった。そのために、異端、邪説として天台宗から批判され、朝廷からも弾圧された。
日蓮の真筆や真筆曾存、直弟子写本の文献では、唱題行には不堕三悪道の功徳はあるが、六道輪廻を越えるには一分の悟りが必要であるということを述べている。これは唱題行の功徳は、伝統的な天台教学の枠内に収まっていることを、日蓮が認めていることでもある。
しかし本覚思想文献には、×●『一念三千法門』のように、唱題だけで本覚の仏が現れる=成仏する、しかも今生、一生という短い期間で成仏が可能だとする専修思想があり、また、天台宗の観念観法は末法においては唱題より劣るという思想を主張しているが、これは、唱題行以外は末法では無効であるという排他思想に発展する可能性を示している。
 日蓮が法然と同様に専修、排他思想を持ち、天台宗の枠外で、活動したと解釈するならば、初期本覚思想文献が日蓮の著作であると認めてもよいだろう。しかし、日蓮が天台宗の学僧としての立場を対外的には取り続けたとするならば(少なくとも『立正安国論』は天台宗の学僧の立場から主張されていると見てよいだろう)、もし万一、本覚思想文献を他の学僧に閲覧可能な形で表明したならば、日蓮はその二重基準を他の学僧から責められたであろう。
唯一、初期本覚思想文献を日蓮の著作とする道は、日蓮は多くの弟子達には天台宗の学僧としての立場から、不堕三悪道の功徳がある唱題行を勧め、ごく一部の弟子にのみ、本覚思想により成仏の直道としての唱題行を勧めたという二重基準を持つ秘密主義者日蓮という解釈しか残されていないと思われる。
 どのような日蓮像を描き、どのように日蓮の宗教思想を解釈するかは、現在の日蓮解釈者の自由と責任とに任されているが、私としては二重基準を持った宗教者という日蓮像は好きではない。その意味で初期本覚思想文献が文書として存在したということは否定したい。
ただ日蓮が他人には話さなかったが、心の奥底に、唱題によって成仏が可能だという確信を持っていたかもしれないという可能性までは否定していない。日蓮が宗教的迫害を乗り越えて唱題行を勧める姿には、特別な宗教的確信が存在していたであろうことを推測させる。
しかし私が想像する日蓮は、宗教的確信をそのまま叫ぶ修行者ではなく、その宗教的確信を理論化し、説得力を持たせようと努力している学僧の側面も持っている。『開目抄』で「智者に我義やぶられずば用いじ」と述べて、義=説得力に自己の宗教的存在を賭けている日蓮像は宗教者の一つの典型だと考えている。
 以下においては、『守護国家論』において、日蓮は法然の専修、排他思想に対して、どのような批判を加えているかを検討する。その批判の仕方が伝統的な天台教学による批判とどのような共通性と差異性があるかを見て取ることによって、唱題行の専修、他宗排他という佐渡期以後の日蓮の思想への萌芽が見えてくるのかもしれない。

注1 「法華宗」という名称は「天台宗」という名称の別称でもあり、「天台法華宗」という用語も使用されていたし、日蓮の文献でも両者は同義に使用されている箇所が圧倒的に多いし、「法華宗」「日蓮宗」を自称している文献には疑義が生じる。
しかし日蓮の死後、日蓮の弟子達は天台宗から独立した宗派としての意識を持ち、特に日像が後醍醐天皇の帝都弘通の勅許の綸旨を得たことは「宗派」として朝廷に認知されたことと解釈され、 自分たちを「法華宗」と呼び、天台法華宗を「天台宗」と呼んだ。
「法華宗」という宗名使用に関しては、天台宗からたびたび非難が加えられたが、後醍醐天皇の綸旨を盾に、「法華宗」を自称しつづけた。しかし後に天文法華の乱において、天台宗に破れた法華宗は、以後「法華宗」の宗名使用を禁止され、「日蓮宗」を自称するようになった。

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