『守護国家論』は序の部分で「選択集謗法の縁起を顕わし、名づけて守護国家論と号す。」(『創』、p. 56、『定』、p. 90)とその趣旨を述べている。次いで全体の構成を、「分ちて七門と為す、一には如来の経教に於て権実二教を定むることを明し、二には正像末の興廃を明し、三には選択集の謗法の縁起を明し、四には謗法の者を対治すべき証文を出すことを明し、五には善知識並に真実の法には値い難きことを明し、六には法華涅槃に依る行者の用心を明し、七には問に随つて答うることを明す。」(同)と述べている。
法然の『選択集』に対しては、既にいくつかの反論があることを、「此の悪義を破らんが為に亦多くの書有り、所謂・浄土決義鈔・弾選択・摧邪輪等なり。」(同)と述べている。しかし、これらの反論が有効ではなかったことを、「此の書を造る人・皆碩徳の名一天に弥ると雖も、恐くは未だ選択集謗法の根源を顕わさず。故に還つて悪法の流布を増す。」(同)と述べている。これらの反論書のうち現存するのは明恵の『摧邪輪』のみである。
日蓮はこれらの反論書が有効でなかった理由について詳述していないが、それについて多少考察するために、明恵の『摧邪輪』の内容を検討してみたい。明恵は華厳教学と真言密教を兼修する聖僧であった。法然の死後いっそう専修念仏が広まったのを憂えて、旧仏教の立場から『選択集』を批判した。明恵は華厳宗の学僧ではあったが、『選択集』を必ずしも華厳教学から批判しているわけではない。
明恵は「我念仏宗に入りて、善導・道綽等の所製を以て依憑と為す。此の選択集に於いて、たとえいかなる邪義の有りと雖も、もし善導等の義に相い順うものは、何ぞ強いて汝を責めんや。然れども善導の釈を披閲するに、全く此の義無し。汝自らの邪心に任せて、善導の正義を汚す。」(明恵、『摧邪輪』(『浄土宗全書』第8巻、p. 690)と、善導と法然の教義の相違を述べている。この善導の義による念仏を承認していることは、「称名行を非とせず、善導の釈に背かず。正念正見の念仏者に於いて悉く帰命頂礼を奉らば、必ず来世引導を蒙るべし。」(同、p. 676)と述べていることにも示されている。
明恵は、「善導和尚は文殊般若経等に依りて、称名を以て宗と為し、三昧を以て趣と為す。真念を得さしめんがための故に称名を勧むるなり。是れが故に此等の文を引きて、証と為し、念仏の義を成ず。更に一向称名を以て本と為し、心念に関わらざるに非ず。」(同、p. 689)と述べて、善導の念仏とは真実の念仏、つまり念仏三昧、観想念仏が根本であり、称名念仏はそのための手段に過ぎないと主張する。
あるいはまた「口称と念想とは必ず具足するなり。然りと雖も両種を相対する時は、念心を以て勝と為す。…称名を以て劣と為す。…劣を隠し、勝を顕すを名づけて念仏と為すなり。」(同、p. 691)と述べて、念仏三昧、観想念仏が称名念仏より優れているという立場を示している。
また善導が『観経疏』で正雑の二行を立て、さらに正行の中でも称名を正業とし、その他の礼拝などの行を助業とし、それ以外の行を雑行として斥けたたことについて、明恵は、「善導の正助の二業を作るは、能起の菩提心を以て置いて之を論ぜず。所起の諸行に就いて之を分別するなり。…仏法諸行、皆まさに功を菩提心に譲るべし。菩提心は是れ体にして、称名等は是れ業なるを以ての故に。是れが故にもし菩提心と称名との二行に就いて之を論ずる時は、菩提心を以て正業と為す事、理在り、絶言すべし。是れを以て観経疏の第一の初めに、道俗時に衆等、各無上心を発せよと云う」(同、p. 688)と述べて、善導においても、称名念仏が念仏の根本ではなく、菩提心に基づく念仏三昧、観想念仏が根本であることを主張する。
このような立場から明恵は、法然の『選択集』においては、称名念仏が選び取られ、菩提心は捨てられていると非難する。このような法然の邪法が放置されれば、「三宝は滅し、国土を損じ、善神国を捨て、悪鬼国に入る。三災興り、十善廃る。」(同、p. 676)と嘆き、また「師及び弟子ともに大地獄に堕つ。」(同)と呪っている。
また明恵は、末法になれば諸行の功徳がなくなるという主張に対して、「若し其の機根有る者は、悪世と為ると雖も、必ず発心す。若し発心する者は、必ず其の果有るべきなり。」(p. 715)と述べて、末法においても諸行の有効性は変わらないと主張する。この明恵の立場は、法然の専修・排他を批判しているのであって、兼修・諸行往生を認めれば、称名念仏をもそれなりの功徳のある修行として容認するものであった。
明恵は称名念仏容認の立場から法然の専修理論批判を展開したが、日蓮は法華経至上主義に基づいて法然批判を展開した。その議論を展開したのが、大文の第一の部分である。日蓮はこれをさらに4つの部分に分け、「大文の第一に如来の経教に於て権実二教を定むることを明すとは此れに於て四有り、一には大部の経の次第を出して流類を摂することを明し、二には諸経の浅深を明し、三には大小乗を定むることを明し、四には且らく権を捨てて実に就くべきことを明す。」(『創』、p. 56、『定』、p. 90)と述べる。法華経至上主義の立場はこの四の部分で示されるが、その部分を検討する前に、各々の部分を検討してみよう。
一の部分は天台宗の五時説を経文によって証明しようとする試みであるが、この五時説は中国、日本に伝えられた経典の大部分が直接釈尊によって説かれたという、今日では承認されない前提に立脚した議論である。諸経典は相互に無関係に作成されたものが多いから、それらの記述から、この前提に立って、諸経典の説時の前後関係を定めるということは、不可能に近い試みである。日蓮自身もこのことが困難であることを認めている。
伝統的な五時説では、華厳、阿含、方等、般若、法華・涅槃の順に経が説かれたとされていた。ところが日蓮も「問うて云く、無量義経に云く、『初めに四諦を説き、乃至・次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説く』、此くの如き文は般若経の後に華厳経を説くと相違如何、」(『創』、p. 57、『定』、p. 91)、あるいは「問うて云く、無量義経には般若経の後に華厳経を列ね、涅槃経には般若経の後に涅槃経を列ぬ、今の所立の次第は般若経の後に無量義経を列ぬる、相違如何」(『創』、p. 58、『定』、p. 92)と述べているように、諸経典の記述は相互に矛盾していた。
日蓮は前者の無量義経の記述に関しては、「答えて云く、浅深の次第なるか、或は後分の華厳経なるか、」(『創』、p. 57、『定』、p. 91)と答え、無量義経の記述は、経典の説時の前後を述べたものではなく、経典の内容の浅深を述べたものであると解釈するか、あるいは華厳経の説時を二つに分け、華厳経の一部(初頓の華厳経)は最初に説法されたが、残りの部分(後分の華厳経)はかなり後で説法され、無量義経では後分の華厳経の説時について言及していると解釈するか、二つの可能性があるとしている。
また後者の無量義経の記述と涅槃経の記述との矛盾に関しては、「答えて云く、涅槃経第十四の文を見るに、涅槃経已前の諸経を列ねて涅槃経に対して勝劣を論じ、而も法華経を挙げず、第九の巻に於て法華経は涅槃経より已前なりと之を定め給う、法華経の序品を見るに無量義経は法華経の序文なり、無量義経には般若の次に華厳経を列ぬれども、華厳経を初時に遣れば般若経の後は無量義経なり。」(『創』、p. 58、『定』、p. 92)と述べて、その矛盾を回避しようとする。
日蓮はこの五時説を支持した後で、「大部の経大概是くの如し、此より已外諸の大小乗経は次第不定なり、或は阿含経より已後に華厳経を説き、法華経より已後に方等般若を説く、皆義類を以て之を収めて一処に置くべし。」(『創』、p. 59、『定』、p. 93)と述べて、五時説が完全なものではないことを認めてはいるが、五時説に従うべきだとしている。この日蓮の五時説の解釈の問題点については後に検討する。
五時説を主張した後で日蓮は、諸経の内容の浅深、価値について二の部分で論じる。そこで重要な役割を果たすのが、無量義経である。
日蓮は「無量義経に云く、『初に四諦を説き[阿含]、次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説き、菩薩の歴劫修行を宣説す』、亦云く、『四十余年には未だ真実を顕わさず』、又云く、『無量義経は尊く過上無し』、此等の文の如くんば、四十余年の諸経は無量義経に劣ること疑い無き者なり。」(『創』、p. 59、『定』、p. 93)と述べて、特に「四十余年には未だ真実を顕わさず」という部分に着目して、無量義経以前の諸経は方便の教えであり、仮の教えであり、真実ではないという立場を取る。
その上で無量義経と法華経を比較して、二乗作仏と久遠実成という教説が無量義経にはないから、法華経が優れているとする。
さらに日蓮は「問うて云く、法華経と涅槃経と何れが勝れたるや、答えて云く法華経勝るるなり、問うて云く何を以て之を知るや、答えて云く、涅槃経に自ら如法華中等と説き、更無所作と云う、法華経に当説を指して難信難解と云わざるが故なり。」(『創』、p. 59、『定』、p. 94)と述べて、法華経が最も優れた経典であることを主張する。
三の部分は法華経に対すれば、他の大乗経も小乗経となるという主張であり、それほど大きな意味を持たない。
最も重要なのは、「第四に且らく権教を閣いて実経に就くことを明さば」(『創』、p. 61、『定』、p. 95)から始まる部分である。ここで「権教を閣く」と述べて、法華経以外の価値を認めないという法華経至上主義の立場を鮮明にしている。
日蓮はその証文として十箇所を挙げているが、特に重要なのは「法華経に云く、『但大乗経典を受持することを楽て、乃至余経の一偈をも受けざれ』[是一]、涅槃経に云く、『了義経に依つて不了義経に依らざれ』[四十余年を不了義経という][是二]」(同)の二つであり、補足的に重要なのは、末法における法華経の有効性を述べた、「法華経第八普賢菩薩の誓に云く、『如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめん』[是六]、法華経第七に云く、『我が滅度の後・後の五百歳の中に閻浮提に於て断絶せしむること無けん』[釈迦如来の誓なり][是七]」(『創』、p. 61、『定』、p. 96)の二つである。
是一の証文の「余経」を「法華経以外の経」と解釈すれば法華経至上主義の証文としては決定的な重みを持つ。是二の証文は、「了義経」がどの経であるかは諸宗によって異なるという問題はあるが、大文一の第一、第二の部分で法華経が最も優れていることを経文によって証明したと考えた日蓮にとっては、了義経とは法華経であり、法華経以外の諸経は不了義経となる。
もし法華経や涅槃経の中にこれらの記述と矛盾する諸行往生の思想がなければ、日蓮の法華経至上主義の議論には十分な根拠があると言えるだろう。是六、是七の証文は末法においても法華経が有効であるという証文とされるが、これは法華経の末法についての記述を見なければ、いかなる重要性を持つのかまだ不明である。これについては次の節で検討しよう。
明恵は末法になれば、優れた機根の衆生は少なくなるが、それでもその機根に応じて修行すれば、正法時代と同様な宗教的功徳を得ることができるとしている。この立場はまた道元においても変わらない。
しかし日蓮は「大文の第二に、正像末に就て仏法の興廃有ることを明すとは、之に就て二有り、一には爾前四十余年の内の諸経と浄土の三部経と末法に於て久住・不久住を明す、二には法華涅槃と浄土の三部経並に諸経との久住・不久住を明す。」(『創』、p. 65、『定』、p. 100)と述べて、法然と同様に末法においては有効な経典と無効な経典とが区別され、またそれに応じて有効な修行方法と無効な修行方法があることを容認する。
この一の部分では、爾前の諸経典の範囲内では「諸経に於ては、多く三乗現身の得道を説く故に、末代に於ては現身得道の者之少きなり、十方の往生浄土は多くは末代の機に蒙らしむ、之に就て西方極楽は、娑婆隣近なるが故に、最下の浄土なるが故に、日輪東に出で西に没するが故に、諸経に多く之を勧む、随つて浄土の祖師のみ独り此の義を勧むるのみに非ず、天台妙楽等も亦爾前の経に依るの日は且らく此の筋あり、亦独り人師のみに非ず、竜樹・天親も此の意有り、是れ一義なり、」(『創』、p. 66、『定』、p. 101)と述べて、末代においては、成仏は困難であるから、浄土三部経に基づく極楽往生を願う修行方法の意義を一応は認める。
しかし他方では「亦仁王経等の如きは、浄土の三部経より尚久く、末法万年の後・八千年住す可しとなり、故に爾前の諸経に於ては一定すべからず。」(同)と述べて、末法において有効なのは浄土三部経だけであるという主張を明確に否定している。
しかしより重要なのは二の部分である。日蓮は「第二に法華涅槃と浄土の三部経との久住・不久住とを明さば、問うて云く、法華・涅槃と浄土の三部経と何れが先に滅すべきや、答えて云く、法華涅槃より已前に浄土の三部経は滅す可きなり、問うて云く、何を以て之を知るや、答えて云く、無量義経に四十余年の大部の諸経を挙げ了つて、『未顕真実』と云う故に、雙観経等の『特り此の経を留む』の言は皆方便なり虚妄なり、・・・身を苦しめ行を作すとも、法華涅槃に至らずんば一分の利益無く、有因無果の外道なり、在世滅後倶に教有つて人無く、行有つて証無きなり」(同)と述べて、無量義経以前の諸経典の説は全て無効であるから、大集経・雙観経の末法における有効性の議論も無効であり、正像末の三時に関わりなく、他の諸経典に基づく修行は無効であることを、「在世滅後倶に教有つて人無く行有つて証無きなり」と断定する。
ここの議論で重要なのは、末法理論も爾前経で説かれるだけであったなら、日蓮は無効な議論として捨て去ることが可能であったということである。日蓮はこの後の箇所で薬王品の「我が滅度の後・後の五百歳の中に広宣流布し閻浮提に於て断絶せしむること無けん」(p. 54c, p. 605)を引用して、釈尊滅後の法華経の有効性を主張している。
しかし、例えば後の『教機時国抄』に「日本国の当世は如来の滅後二千二百一十余年、後五百歳に当つて、妙法蓮華経広宣流布の時刻なり、是れ時を知れるなり、」(『創』、p. 190、『定』、p. 244)とあるのとは異なって、「後五百歳」を特に末法の初めの五百歳であるというようには規定していない。法華経において末法理論がどのように記述されているのかということは重要な問題であるので後で検討しよう。
日蓮は「大文の第三」において法然の『選択集』を謗法と非難し、その理由を詳述している。その非難に対して、浄土宗の立場から予想される反論を、「問うて云く、一代聖教を聖道・浄土・難行・易行・正行・雑行と分ち、其の中に難・聖・雑を以て時機不相応と称すること、源空一人の新義に非ず、曇鸞・道綽・善導の三師の義なり、此亦此等の人師の私の案に非ず、其の源は竜樹菩薩の十住毘婆沙論より出でたり、若し源空を謗法の者と称せば、竜樹菩薩並に三師を謗法の者と称するに非ずや、」(『創』、p. 77、『定』、p. 106)と述べる。それによれば、法然の見解は竜樹・曇鸞・道綽・善導の解釈の伝統を踏まえているのである。
それに対して日蓮は、「答えて云く、竜樹菩薩並に三師の意は法華已前の四十余年の経経に於て難易等の義を存す、而るに源空より已来竜樹並に三師の難行等の語を借りて、法華真言等を以て難・雑等の内に入れぬ、」(同)と述べて、法然は竜樹以来の解釈の伝統を誤解していると批判する。
日蓮は法然の誤りを「選択集の第一篇に云く、道綽禅師・聖道浄土の二門を立て、而して聖道を捨てて、正しく浄土に帰するの文と約束し了つて、次下に安楽集を引いて、私の料簡の段に云く、『初に聖道門とは、之に就て二有り・一には大乗・二には小乗なり、大乗の中に就て、顕密権実等の不同有りと雖も、今此の集の意は唯顕大及以び権大を存す故に、歴劫迂回の行に当る、之に準じて之を思うに、応に密大及以び実大をも存すべし』[已上]選択集の文なり、此の文の意は、道綽禅師の安楽集の意は、法華已前の大小乗経に於て、聖道浄土の二門を分つと雖も、我私に法華・真言等の実大・密大を以て、四十余年の権大乗に同じて、聖道門と称す、『準之思之』の四字是なり、・・・総じて選択集の十六段に亘つて無量の謗法を作す根源は、偏に此の四字より起る誤れるかな、畏しきかな。」(『創』、p. 71、『定』、p. 106)と述べて、道綽は聖道門の中に、法華・真言を入れていないのに、法然は法華・真言を歴劫迂回の修行として、聖道門に入れたことに、誤りを見出している。
確かに法華・真言は歴劫迂回の修行ではなく、速疾頓成の即身成仏の修行を説いているから、法然が歴劫迂回として実大、密大である法華・真言を聖道門に入れたのは誤りと言えよう。
法然が道綽の聖道門の定義を拡大解釈して、法華・真言を歴劫迂回の聖道門の修行としたことは、理論的には誤りであったかもしれないが、道綽・法然の、末法の時代の衆生は機根が低く、修行しても証得することができないという主張は、理論的にはともかく実感的には説得力があったろう。
日蓮は最初期の著作である『戒体即身成仏義』において、念仏批判を展開した後で、「法華経の悟と申すは易行の中の易行也。只五戒の身を押へて仏因と云ふ事也。五戒の我体は即身成仏とも云はる也。……此の法華経は三世の戒体也。……此五戒を十界具足の五戒と知る時、我が身に十界を具足す。我が身に十界を具すと得意し時、欲令衆生仏之知見と説て、自身に一分の行無くして即身成仏する也。」(『定』、p. 13)と述べて、在家信者の戒である五戒を守るだけでも、法華経の十界互具を悟れば、即身成仏できるとしていた。
しかし問題はこのように述べたことから始まる。悟るとはどういうことなのか、単に十界互具の理論を知ることで悟ることになるのか、それとも悟るということは『摩訶止観』に説かれるような一心三観のような修行を必要とするのであろうか、あるいは台密における特殊な密教儀式を受けることが必要なのであろうかという修行方法の問題が生じる。
そして「易行の中の易行」と言うほど簡単な修行であるはずの「法華経の悟」を得て、即身成仏した人間は誰であり、また本当にいるのか、という証得の問題が生じる。
法然は、このような問題に対して、既成の仏教の修行方法では、この世で即身成仏することは事実上無理であり、それならば来世極楽往生を願うべきだという結論を出したのである。
日蓮は『守護国家論』で法然批判を展開した後で、法華経に基づく易行を提示し、それが宗教的にどのような意義を持つのか、代案を提出しなければならなかった。それが称名念仏に対抗する唱題行であった。
平安時代においても三宝に対する讃歎の儀式で南無妙法蓮華経と唱題されたことはあったが、称名念仏と同じような修行方法として主張したのは日蓮が最初であった。それゆえ日蓮は唱題が法華経に基づく一つの修行方法であることを論証しなければならなかった。
日蓮は大文の第六において、「法華涅槃に依る行者の用心を明さば、一代教門の勝劣・浅深・難易等に於ては先の段に既に之を出す、此の一段に於ては一向に後世を念う、末代常没の五逆・謗法・一闡提等の愚人の為に之を注す、」(『創』、p. 87、『定』、p. 125)と救済の対象となる衆生を挙げる。
次いで日蓮は唱題行の文証として、「但法華経の題目計りを唱えて三悪道を離る可きことを明さば、法華経の第五に云く『文殊師利是の法華経は無量の国中に於て乃至名字をも聞くことを得べからず』第八に云く『汝等但能く法華名を受持する者を擁護する福量る可らず』提婆品に云く『妙法華経の提婆品を聞いて浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は地獄餓鬼畜生に堕ちず』大般涅槃経名字功徳品に云く『若し善男子善女人有つて是の経の名を聞いて悪趣に生ずと云わば是の処有ること無けん』[涅槃経は法華経の流通たるが故に引けるなり]。」(『創』、p. 87、『定』、p. 125)と述べて、唱題行に関する経典上の根拠を示す。
まず安楽行品の、仏滅後においては受持読誦の修行をする者はおろか、法華経の名字を聞くこともできないという記述はそれほど重要ではないが、次ぎの陀羅尼品の、受持読誦の修行者を擁護することはもちろん、法華名を受持する者を擁護することすら功徳が多いことを述べた記述は重要である。提婆品の記述は唱題行には直接は関係がないが不堕三悪道の証文としての役割を果たしている。これらの記述が唱題行の根拠として十分であるとは思われないが、陀羅尼品の受持法華名の一つの形態として法華名を唱えるという修行形態を提唱することは可能であろう。
さらに日蓮は大文の第三の問答の易行問題に関連した箇所で、妙楽の解釈を引用して、「妙楽大師の、末代の鈍者無智の者等の法華経を行ずるに、普賢菩薩並に多宝十方の諸仏を見奉るを易行と定めて云く『散心に法華を誦し禅三昧に入らず坐立行・一心に法華の文字を念ぜよ』[已上]此の釈の意趣は末代の愚者を摂せんが為なり、散心とは定心に対する語なり、誦法華とは八巻一巻一字一句一偈題目一心一念随喜の者五十展転等なり、坐立行とは四威儀を嫌わざるなり、一心とは定の一心に非ず理の一心に非ず散心の中の一心なり、念法華文字とは此の経は諸経の文字に似ず一字を誦すと雖も八万宝蔵の文字を含み一切諸仏の功徳を納むるなり」(『創』、p. 74、『定』、p. 110)と述べて、誦法華の一部として題目を誦することを挙げている。
この文脈との関連においては、法師品の一念随喜の箇所にある、「聞妙法華經一偈一句。乃至一念隨喜者。我皆與授記。當得阿耨多羅三藐三菩提。」(p. 30c, p. 384)、あるいは「若復有人。受持讀誦解説書寫妙法華經乃至一偈。於此經卷敬視如佛。」(同)という記述は、一偈一句の受持読誦を推奨しており、その一偈一句を妙法蓮華経という題目と解釈することを日蓮は提案しているとも読むことが可能である。
日蓮は諸経典の記述により五時説を論証するという方法を使用した。諸経典が釈尊によって説かれたという当時の仏教界の共通理解が、今日においては承認されないという、現在の文化基準から生じる外在的問題はここでは論じないことにする。むしろ私は日蓮の方法を使用して、五時説の論証が成功しているかどうか、内在的に検討したい。
日蓮の議論の中で最も重要なのは無量義経の扱いであろう。無量義経は「四十余年未顕真実」(p. 386b, p. 88)という記述により、それ以前の全ての経典の価値を否定した、日蓮にとって最も重要な経典の一つである。
ところが無量義経の中に「初説四諦。爲求聲聞人。而八億諸天來下聽法。發菩提心。中於處處演説甚深十二因縁。爲求辟支佛人。而無量衆生發菩提心。或住聲聞。次説方等十二部經摩訶般若華嚴海雲。演説菩薩歴劫修行。」(p. 386b, p. 90)という記述があり、この脈絡からは、四諦、十二因縁、方等、般若、華厳という順に説いていったとしか読めない。
日蓮はこの説が天台の五時説と矛盾することを回避しようとして、(1)、無量義経は説時の前後ではなく、経典の内容の浅深を説いている、あるいは(2)、初頓の華厳経ではなく、後分の華厳経のことを述べていると解釈している。しかし無量義経には後分の華厳経という記述は全くなく、(2)の解釈には無理がある。
また(1)の解釈については、方等経の説時に関して、無量義経の同じ箇所の記述を根拠に挙げて、阿含経の後に配置しているいるが(『創』、p. 57、『定』、p. 92)、これは無量義経が説時の前後を説いているという解釈を採用していることであり、(1)の解釈とは矛盾する。
一つの経典の同じ箇所を説時の前後と経典の内容の浅深という二重の基準で解釈することは恣意的な解釈であると見なされてもしかたがないであろう。
無量義経の記述を重視すれば、天台の五時説は成立せず、無量義経の記述を無視すれば、四十余年未顕真実が成立しないというジレンマがここに生じている。したがって諸経典の記述を根拠にして五時説を立証するという日蓮の試みは失敗していると思われる。
ただ日蓮にとって重要なのは、無量義経以前の経典の説時の順序がどうあれ、それらはすべて無効であるということである。五時説の論証という理論構成ゲームとしての日蓮の試みは失敗しても、法華至上主義のために無量義経の重要性を強調することの意義は失われない。
日蓮は当時の支配的思想であった末法理論を受け入れているが、やはりここでも私は、釈尊の仏滅年代に関する当時の共通理解が今日の歴史学では認められないという外在的問題は扱わないことにしよう。ただ法華経が正像末の三時説を説いているかどうかという問題は、法華経解釈の重要な論点であるから、内在的問題として検討しよう。
法華経(羅什訳『妙法蓮華経』)の中には「末法」という用語は、安楽行品の中に一ヶ所「又文殊師利。如來滅後。於末法中欲説是經。應住安樂行。」(p. 38a, p. 453)とあるが、
安楽行品においては「末法」という用語よりも、「後悪世」(5ヶ所)、「後末世」(4ヶ所)という用語が多用され、これらは相互に同じ意味で使用されている。したがって「末法」という用語の存在が三時説における末法概念の存在を根拠づけているわけではない。
さらに譬喩品以降の釈尊の弟子達への授記の記述においては、「仏の寿命」「正法」「像法」(それも十二小劫、二十小劫などという長期間続く)という順で説明され、像法に続く末法の時代があることは予測されていない。したがって法華経には正像末の三時説がないという解釈は妥当であると思われる。
「付記 分別功徳品に「悪世末法時」という語句があると指摘され、SATの大正蔵のデータベースで確認したところ、「末法」というテキストと「法末」というテキストの2種類があった。日蓮の真蹟遺文でも引用されているとも指摘があり、御書検索したところ『開目抄』に「分別功徳品」「悪世末法時」とあった。日蓮は分別功徳品に「末法」という用語がある法華経テキストを使用していた。」(2009/4/10)
法華経には三時説がないけれども、その代わりに釈尊滅後の時代を表現した用語として「悪世」が法師品、宝塔品、勧持品で、「後悪世」「後末世」が、勧持品、安楽行品で使用され、また「後五百歳」の用語が薬王品では2ヶ所、普賢品では3ヶ所使用されている。
これらの用語が釈尊後いつの時代を指すのかは定かではないが、法華経作成の時代が紀元前後であるとすれば、法華経制作者たちの意図としては釈尊滅後の第二の五百年であったろうと思われるが、北伝仏教の中では時代確定は明確ではなかった。
そのため後に日蓮は薬王品の「我滅度後後五百歳中。廣宣流布於閻浮提無令斷絶」。(p. 54c, p. 605)の「後五百歳」の時期を確定するために、法華経の中でこれらの時代相を記述した部分に注目することによって、日蓮が生きていた時代(それは大集経の第五の五百歳、末法の初めの五百歳にあたる)が「後五百歳」に当てはまると解釈するようになったが、『守護国家論』の段階では、そこまで込み入った解釈はせず、単純に三時説を前提にし、それと「教行証」の議論とを結びつけ、末法において有効な経典と無効な経典があるという議論を展開している。
ただしここで留意しなければならないことは、法華至上主義という議論においては、末法理論は付随的な議論であり、無量義経の「四十余年未顕真実」の証文のほうが日蓮にとっては決定的な重みを持ったということである。
天台法華宗では法華経が最高の経典であることを認めた上で、四種三昧という諸経典に基づいた修行方法の有効性をも認め、諸行往生、諸行得脱の立場をとっていた。日蓮は大文第一の議論において、無量義経の記述などを論拠にして法華経こそ真の了義経、最高の経典であり、修行は法華経に基づくべきだと主張した。しかし問題は、法華経が最高の経典であると認めたとしても、それが法華専修を直ちに意味するかどうかを、検討しなければならないというところにある。
属累品には、「未來世に於いて、若し善男子善女人有って、信如來の智慧を信ぜん者には、当に爲に、此の法華經を演説して、聞知することを得せしむべし。其の人をして佛慧を得せしめんが為の故なり。若し衆生有って、信受せざらん者には、当に如來の餘の深法の中に於いて、示教利喜すべし。」(p. 52c、p. 586)とあり、ここには法華経を信受しない者には、法華経以外の教えを説けと法華経自身のなかに説かれている。これは大文第一の四の是一の「大乘經典。乃至不受。餘經一偈」(p. 16a、 p. 248)という証文とは全く矛盾する記述である。
是一の譬喩品の引用された文の近くにも是一と全く矛盾する文がある。例えば「斯の法華經は、深智の為に説く。淺識は之を聞いて、迷惑して解せず。」(p. 15b 、p. 239)とあり、ついで「驕慢懈怠にして、我見を計る者には、此の經を説くなかれ。凡夫の淺識にして、深く五欲に著せるは、聞くとも解する能はず。亦た爲に説くことなかれ。」(p. 15b、p. 240)とあり、機根の悪い者には法華経を説くことを禁じている。
実は日蓮が引用した是一の文も「但だ楽って、大乘經典を受持して、乃至、餘經の一偈をも受けざる有らん、是くの如きの人に、乃ち爲めに説くべし。」(p. 16a、 p. 248)という文脈の一部であり、機根のよい人の一例を挙げて、その人に法華経を説けという意味であり、「余経の一偈も受けるな」という意味ではない。
したがって法華経は法華経の修行のみを勧め、他の経の修行を無効としているわけではない。その意味で法華経至上主義は法華専修を意味するわけではない。法華経を信受しない者に浄土信仰を勧めることは属累品の記述によって正当化されうる。
『守護国家論』においては、日蓮は法華経至上主義の立場は固めることができたが、法華専修の立場を正当化することはできなかったと見てよいだろう。後に法華専修の理論として展開される本未有善、而強毒之の思想をまだ日蓮は発見していなかった。
日蓮は大文の第六において陀羅尼品の「受持法華名」に着目して唱題行を提唱したが、『守護国家論』では、唱題行以外の修行としては謗法対治、正法護持などを強調するだけで、法華経の代表的な修行方法である五種の妙行については全く言及していない。
日蓮は唱題行の功徳を不堕三悪道に限定したが、それは日蓮が大文の第六で唱題行の根拠として引用した、安楽行品、陀羅尼品の文が、いずれも五種の妙行に言及し、「(法華の)名字を聞く」ことや「受持法華名」は五種の妙行より劣るとしているから、唱題行の功徳を五種の妙行よりも優れたものとは主張できなかったことによる。
法華経には実に多様な修行方法が説かれている。代表的な受・持・読誦・解説・書写の五種の妙行については法師品以降で数多く言及され、その修行を行う者は「已曾供養十萬億佛。於諸佛所成就大願。愍衆生故生此人間。」(p. 30c, p. 384)の大菩薩であるとされ、「是諸人等於未來世必得作佛。」(p. 30c, p. 385)と未来の成仏を約束されている。
また法師功徳品においては五種の妙行により「以是功徳莊嚴六根皆令清淨。」(p. 47c, p. 541)と、六根清浄の位に昇ることが述べられている。天台の六即の位では、五種の妙行の修行者は観行即、六根清浄を得た者は相似即に配当されている。
またより容易な修行としては、法師品では「聞妙法華經一偈一句。乃至一念隨喜者。我皆與授記。當得阿耨多羅三藐三菩提。」(p. 30c, p. 383)と述べられ、法華経の一偈一句を聞いて随喜することも修行の一つであり、未来世の成仏を授記している。この随喜の心については分別功徳品に「如來滅後若聞是經。而不毀呰起隨喜心。當知已爲深信解相。」(p. 45b, p. 523)とあり、受持読誦の修行の前段階として位置づけされており、天台は観行即の五つの位の中では最初の位としている。
さらに容易な修行としては、法華経を聞くことも修行であることは、方便品に「聲聞若菩薩。聞我所説法。乃至於一偈。皆成佛無疑。」(p. 8a, p. 174)とあり、ここでは随喜の心への言及もない。
方便品には、過古仏の下での修行として、「乃至童子戲。聚沙爲佛塔。如是諸人等。皆已成佛道。」(p. 8c, p. 180)、あるいは「乃至童子戲。若草木及筆。或以指爪甲。而畫作佛像。如是諸人等。漸漸積功徳。具足大悲心。皆已成佛道。」(p. 9a, p. 181)、あるいは「若人散亂心。入於塔廟中。一稱南無佛。皆已成佛道。」(p. 9a, p. 182)ということが記述されており、これらの修行とも言えないほどの行為が成仏の因となることを示している。
さらに安楽行品の中には「如來滅後。於末法中欲説是經。應住安樂行。若口宣説若讀經時。不樂説人及經典過。亦不輕慢諸餘法師。不説他人好惡長短。」(p. 37c, p. 453)とあり、悪世末法においては、他宗、他師を非難することがないように指示している。そのような安楽行品の指示を守って法を説く場合には、「有人來欲難問者。諸天晝夜。常爲法故而衞
護之。能令聽者皆得歡喜。」(p. 38c, p. 462)と述べて、諸天の加護があることを約束している。
あるいはこれらとは逆に、薬王品には厳しい修行として、「若有發心欲得阿耨多羅三藐三菩提者。能燃手指乃至足一指供養佛塔。勝以國城妻子。及三千大千國土山林河池。諸珍寶物而供養者。」(p. 54a, p. 599)と、焼身供養が説かれている。また勧持品には、悪世の中で迫害に堪えて法を説く菩薩の覚悟が述べられている。
さらに修行の功徳として、さまざまなことが法華経では説かれている。薬王品には「若如來滅後後五百歳中。若有女人。聞是經典如説修行。於此命終。即住安樂世界阿彌陀佛大菩薩衆圍繞住處。生蓮華中寶座之上。」(p. 54b, p. 603)とあり、女人が法華経の修行をして阿弥陀仏の極楽世界へ往生できることを述べている。
また普賢品では「若有人受持讀誦解其義趣。是人命終爲千佛授手。令不恐怖不墮惡趣。即往兜率天上彌勒菩薩所。」(p. 61c, p. 667)と述べて、未来仏である弥勒菩薩の兜卒天に往生できることを述べたりもする。
あるいは普賢品には「若後世後五百歳濁惡世中。比丘比丘尼優婆塞優婆夷。求索者。受
持者。讀誦者。書寫者。欲修習是法華經。於三七日中應一心精進。」(p. 61b, p. 664)と、21日間の精進修行を勧め、その修行が完成すれば「滿三七日已。我當乘六牙白象。」(p. 61b, p. 665)と述べて、普賢菩薩が白象に乗って現れるという奇瑞が生じることを約束している。
また提婆達多品では竜女の即身成仏が、「當時衆會皆見龍女。忽然之間變成男子。具菩薩行。即往南方無垢世界。坐寶蓮華成等正覺。三十二相八十種好。普爲十方一切衆生演説妙法。」(p. 35c, p. 433)とある。
法華至上主義の論証に成功し、法華専修(=法華経に基づく修行)をうまく主張できたとしても、法華経が容認するこれらの多様な修行方法の中から何を選ぶべきか、あるいはこれらの中では直接言及されていない唱題行を唯一の修行であると述べるためには、日蓮はどのような議論を提案すべきなのだろうか。『守護国家論』で展開された議論は、日蓮の三大秘法専修への苦しい道のりを暗示している。