筆者は、創価学会と日蓮正宗との分離という状態を踏まえ、創価学会の宗教的理念を学問的に検討するために、『創価学会研究』理念編4部作、すなわち第1部日蓮正宗論、第2部日蓮論、第3部現代宗教論、第4部創価学会論の執筆を計画している。本論文は数年前に執筆したものであるが、諸般の事情のために公表を控えていたものであり、第1部の重要な議論の一部を構成するものである。
大石寺九世日有(1402-1482)の教学思想については、執行海秀『日蓮宗教学史』ではごく簡潔に述べられているが、望月歓厚の『日蓮宗学説史』ではまったく言及されず、長期に渡って大石寺の住持職を勤め(1419-1482)、大石寺中興の祖と言われるわりには、その教学思想は注目されずに来た。その理由としては日有自身の著作が伝わらず、その教学思想に関しては弟子達の聞書に断片的に述べられていることしか資料がなく、またその資料の信憑性の評価も困難であるということにもよるだろう。
筆者は大石寺教学の特徴である日蓮本仏論は開山日興(1246-1333)、重須学頭三位日順(1294-1356-?)、四世日道(1283-1341)にはまだ見られないと考えており、その思想は六世日時(?-1365-1406)の『本因妙抄』写本で明らかになり、九世日有においてさらにより明確に主張されたと考えている。
その問題を含めて本論文では日有の教学思想の概要を、本尊論、日蓮論、仏身論、成仏論、修行論、住持論などに即して概括してみる。その中で日有の教学思想が日蓮や日興の教学思想とどのように異なるかについて言及する。なお以下の考察においては、資料としては『富士宗学要集』(以下『富要』と略記する)収録の南条日住(?-1462-?)筆の『有師化儀抄』(以下『化儀抄』と略記する)、『連陽房聞書』、『下野阿闍梨聞書』を基本にし、『日格聞書』『雑雑見聞』は一部他の聞書が混入しているので基本にした資料と整合的な部分のみを利用する。また三十一世日因(1687-1769)の『有師物語聴聞抄佳跡』に引用されている日有の聞書は、内容的には基本にした資料とはおおむね整合的ではあるが、日因が記しているように筆記した者が不明であるので参考程度にのみ使用する。
「追記 日有について正信会の池田令道『富士門流の信仰と化儀』がhttp://home.att.ne.jp/blue/houmon/ikeda/kegi.htmに掲載されている。包括的な議論で大いに参考になる。特に第7章「富士門流の本尊観」の「I 人法本尊について」の議論を参照されたい。筆者とは見解が異なるが、曼荼羅、御影像の本尊安置形式が日興の時代の化儀であったことを強調し、日蓮本仏論の傍証としている。しかし、そこでは日興の他の著作での久遠実成仏への言及は無視している。私は、日興が本尊=曼荼羅と考え、御影を安置していたことは認めるが、御影の宗教的意義付けは日興の文献では明確になっていないという私の考えには変化がない。」(2009/3/29)
日有は本尊に関しては大石寺派(日蓮正宗のこと、明治期より前の時代の日蓮正宗を大石寺派と呼ぶことにする)の伝統を受け継いでまず曼陀羅本尊論を主張する。『化儀抄』では「法華宗は何なる名筆たりとも観音妙音等の諸仏諸菩薩を本尊と為すべからず、只十界所図の日蓮聖人の遊ばれたる所の本尊を用ふべきなり」(『富要』1-70)とあり、曼陀羅本尊論を主張する。
さらに『下野阿闍梨聞書』でも「釈迦多宝等を造立することは正像二千年の時・天台真言等の彼の宗の修行なり、今の所用にあらず」(『富要』2-156)と述べて、釈尊像を本尊とすることを末法に相応しないとして否定する。
この曼荼羅本尊重視の立場は日蓮の『本尊問答抄』や日興印可の重須学頭寂仙房日澄(1262-1310)の『富士一跡門徒存知事』(以下『存知事』と略記する)、三位日順の『五人所破抄』などの日蓮正宗で重要視されてきた文献の立場と一致する。
日興写本のある『本尊問答抄』は「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし、・・・問う其の義如何仏と経といづれか勝れたるや、答えて云く本尊とは勝れたるを用うべし、・・・仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし。 問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答う・・・釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり」(『創』365,366、『定』1573-1575)と述べて、法華経の教主釈尊ではなく、法華経の題目を本尊とする、すなわち題目が中尊として描かれている曼荼羅を本尊とすべきことを明確にしている。日興はこの『本尊問答抄』を御書十大部の一つに数え重視していた。
また『存知事』では、「一、本尊の事四箇条 一、五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を崇め奉る可しとて既に立てたり、・・・仍つて聖人御筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り又は堂舎の廊に之を捨て置く。 日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」(『創』1605,1606、『宗全』2-123,124)と述べて、日興は他の弟子たちが釈尊像を本尊とすることを批判し、曼荼羅のみを本尊とすることを主張したとしている。
もっとも『存知事』の追加部分では「伊予阿闍梨の下総国真間の堂は一躰仏なり、而るに去る年月・日興が義を盗み取つて四脇士を副う彼の菩薩の像は宝冠形なり。」(『創』1609、『宗全』2-127)とあるように、釈尊像に本化の四菩薩を添えて、久遠実成の釈尊であることを明確にすれば、仏像造立を日興の義、すなわち日興の個人的見解として容認している。ただ本文では曼荼羅のみを本尊とすることを強調しているから、この見解が本意ではないと解釈することもできる。
また三位日順の『五人所破抄』では仏像本尊に関して「又五人一同に云く、先師所持の釈尊は忝くも弘長配流の昔之を刻み、弘安帰寂の日も随身せり何ぞ輙く言うに及ばんや云云。 日興が云く、諸仏の荘厳同じと雖も印契に依つて異を弁ず如来の本迹は測り難し眷属を以て之を知る、・・・聖人出世の本懐を尋ぬれば源と権実已過の化導を改め上行所伝の乗戒を弘めんが為なり、図する所の本尊は亦正像二千の間・一閻浮提の内未會有の大漫茶羅なり、今に当つては迹化の教主・既に益無し況や??婆和の拙仏をや、次に随身所持の俗難は只是れ継子一旦の寵愛・月を待つ片時の螢光か、執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿れ云云。」(『創』1614、『宗全』2-83)と述べて、曼荼羅正意説、四菩薩添加の釈尊像造立を方便説としている。
この三つの文献での議論を見ると、『本尊問答抄』の議論が一番明確に、法は仏よりも勝れているという理由で釈尊像ではなく曼荼羅を本尊とすべきことを述べている。また『存知事』では「御書の意にまかせて」仏像ではなく曼荼羅を本尊とすべきことを主張しているが、この場合の御書とはどれのことかは、ここでは明確にしていない。
それを明確にしている資料は四世日道の『御伝土代』の日興に関する伝記部分の記述である。そこでは日興の一体仏批判について、「一、脇士なき一体の仏を本尊と崇るは謗法の事。 ・・・法華本門の釈迦は上行等の四菩薩を脇士となす云云、一躰の小釈迦をば三蔵を修する釈迦とも申し又頭陀釈迦とも申すなり、・・・一体の仏を崇る事旁々もつて謂はれなき事なり誤まりが中の誤まりなり。 仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く云云、何そ三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや、既に本尊の階級に迷う、全く末法の導師に非るかな。本尊問答抄に云く」(『富要』5-12、『宗全』2-255,256)と述べて、『五人所破抄』の記述を引用しながら、日興の曼荼羅正意説は『本尊問答抄』に基づくことを明確にしている。
以上の文献で示されたことは、大石寺派では、日興から日道に至るまで曼荼羅を本尊とするという見解が維持されたことであり、しかも釈尊像を本尊として認めない理由は『本尊問答抄』の議論すなわち、「法は仏よりも勝れている」という法勝人劣の議論であったということである。この段階では大石寺派に人本尊の思想や、ましてや人法一箇論の本尊思想は見られない。
なお日有の曼荼羅本尊論には戒壇本尊が言及されていない。後代の日蓮正宗の教学においては、二十六世日寛(1665-1726)が『観心本尊抄文段』で明らかにしたように、単に曼陀羅本尊論が主張されるのみならず、その曼陀羅本尊の中でも特に弘安二年に日興に与えられた戒壇本尊こそが「究竟中の究竟、本懐中の本懐」(『文段集』452、『宗全』4-137)であり、日蓮正宗の公式教義解説書である『日蓮正宗要義』(以下『要義』と略記する)でも、戒壇本尊こそ三大秘法が整足するために必要な本門の本尊である(『要義』113)と主張されている。本尊については多くの言及を残している日有が、そのような特別の意義がある戒壇本尊について言及していないということは、一つの問題として残っている。
日有は伝統的な曼陀羅本尊論だけではなく、日蓮も本尊とすることを『化儀抄』で次のように主張する。「当宗の本尊のこと、日蓮聖人に限り奉るべし、すなわち今の弘法は流通なり、滅後の宗旨なるゆえに未断惑の導師を本尊とするなり」(『富要』1-65)、あるいは「当宗には断惑証理の在世正宗の機に対する所の釈迦をば本尊には安置せざるなり、その故は未断惑の機にして六即の中には名字初心に建立する所の宗なるゆえに、地住以上の機に対する所の釈尊は名字初心の感見には及ばざるゆえに、釈迦の因行を本尊とするなり、その故は我等が高祖日蓮聖人にて在すなり」(『富要』1-78)など数箇所で述べている。
日蓮を本尊とするということが具体的にどのようなことかは必ずしも明確ではなく、日蓮御影を本尊とすることを教えられていない創価学会員であれば、日蓮を本尊とするということは、日蓮の図顕した人法一箇の曼陀羅を本尊とするという意味に解釈するかもしれない。しかし日蓮正宗の伝統的教義理解によれば、これは明確に日蓮御影を人本尊として扱うということを意味している。
堀日亨は『有師化儀抄註解』(以下『註解』と略記する)で「日蓮大聖人を本尊とする事・当家独頭の大義にして・興目嫡流の相承茲に存して誤らずといへども・他の日蓮諸宗に於いては大に惑ふ所なり、之を以つて諸宗に宗祖の影像を安置する事あるも・唯日蓮一家の高祖として之を視るに過ぎずして・本尊本仏に以て之を尊敬せず、」(『富要』1-85)と述べて、日蓮を本尊とするということは、日蓮御影を本仏の具体的形象化として信仰することであり、教義的には人本尊として扱うということだと解釈している。
そして日蓮御影信仰は日蓮宗各派においてあるが、日蓮御影を本仏として信仰するのは日蓮正宗だけであることを強調している。ただしこの日蓮本尊論は上記の『本尊問答抄』『存知事』『五人所破抄』『御伝土代』の曼荼羅のみを本尊と認める記述とは整合しない思想であるが、それについては後述する。
日寛は『観心本尊抄文段』において、『本尊問答抄』『存知事』を引用して釈尊像を本尊としないことを述べた後で、「問う、蓮祖の影像を造立して本尊として崇め奉る、その謂は如何」(『文段集』529、『宗全』4-217)という問題を立て、それに対する答えとして、日蓮が下種の教主(本仏)であること、主師親の三徳を持つこと、人法体一であることを挙げる。
この人法体一、人法一箇の議論はどのような文脈で使用されるか検討してみよう。日寛は「問う、本尊問答抄の意は、但『法華経の題目を以て本尊とすべし』と云々。何ぞ蓮祖の形像を以てまた本尊と為すや。 答う、『法華経の題目』とは蓮祖聖人の御事なり。蓮祖聖人は即ちこれ法華経の題目なり。諸法実相抄に云く『釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ』等云々。具には予が末法相応抄の如し云々。」(『文段集』532、『宗全』4-220)と述べて、『本尊問答抄』における「法華経の題目」とは「本仏日蓮」を指すのであり、それは『諸法実相抄』(真蹟、上代古写本なし)で「妙法蓮華経」を「本仏」と規定していることに根拠を持つ、つまり法と人(仏)とはその体(本質)は同一であるという人法一箇論によるのだと説明している。
この人法一箇論は『本尊問答抄』における仏像ではなく曼荼羅を本尊とすべきだという議論を無効にして、久遠元初仏の具体的形象化である日蓮御影を本尊とすることの理由として使用されているのである。
なお不思議なことには、釈尊像造立を批判した日寛の『末法相応抄下』には日蓮を人本尊とすることは述べているが、それが具体的には日蓮御影であることは言及されていない。そこでは要法寺十九世日辰(1508-1576)が「もし蓮祖を以て本尊と為ば左右に釈迦多宝を安置するや」という非難を加えていたことに対して、日寛は蓮祖を本尊とするということが日蓮御影を本尊とすることであるというようには明確に答えずに、「蓮祖一身の当体全く是十界互具の大曼荼羅なり」(『富要』3-165,166、『宗全』4-81)と答えている。
この日寛の言葉は、日蓮御影は曼荼羅と同一であるから、日蓮御影以外に釈迦多宝の二仏を安置する必要はないという意味なのか、それとも日蓮を本尊とすることは曼荼羅を本尊とすることであるという意味なのか不明である。(創価学会新宿区青年部編の『末法相応抄に学ぶ』は、後者の解釈をとって、日蓮御影には言及していない。 181)
筆者には日寛がなぜこの『末法相応抄下』で日蓮御影を本尊とすることを明確にすることを避けているのか、また後の『観心本尊抄文段』でそれを具体的に述べているのか、その理由がわからない。つまり日蓮御影本尊論とは日蓮正宗の教義の中ではどのような位置づけになっているのか、後に述べるように、その出版物を読んでもかよくわからないのである。
日有は曼荼羅と日蓮御影の二種類の本尊を認めているが、曼荼羅本尊論と日蓮御影本尊論との関係についてどこにも述べていない。曼陀羅本尊(法本尊)論と仏像本尊(人本尊)論とは伝統的には人法本尊論として日蓮宗各派で論争されてきたが、日有はその議論を展開していない。このことは日有に人法一箇の曼荼羅本尊という思想がまだなかったことを示している。
日有より少し前に活躍した八品派開祖日隆(1385-1463)は『私新抄』においてさまざまな論点から本尊について述べているが、まず「問円宗本尊三身何耶」においては、一般論として「円宗ノ本尊は三身具足ノ報身ナルベシ、・・・報身ハ是レ修因感果ノ仏ナレバ総ジテハ一切衆生ノ本尊ナルベシ、法身ハ非因非果、応身ハ無常ノ仏ナル故ニ、末代ノ本未有善ノ機修因感果長寿証得ノ非本尊」(『宗全』8-142)と述べて、修因感果の報身仏を本尊としてふさわしいとする。
しかし次の「当宗本尊報応二身耶」では「報身ト云方ハ長寿ニシテ三世倶ニ無作ノ一仏ナレバ常住ニシテ無生無滅也、此レハ断惑証理ノ人ノ本尊ナルベシ、末代ハ五濁乱漫ノ衆生・・・顕本ノ応身を以テ可為本尊・・・殊更ニ滅後ノ本尊は影像木像ニ移之応身尤モ便也」(『宗全』8-143)と述べて、応身としての木像絵像の本尊を認め、さらに「地湧ノ菩薩ハ本地ノ応身ノ眷属ナルベシ」(『宗全』8-144)と述べて、地湧の菩薩像すなわち日蓮御影も応身の本尊として理論的には認めている。
しかし次の「以法身本門円宗為本尊耶」においては「口伝云、円宗本尊亘三身其ノ意有之、所望不同ナルベシ、・・・以法身為円宗本尊ト云事ハ殊更末代為凡夫便ナル者也、所以ニ為脱機、以色相荘厳仏為教主、為下種機首題ノ法を以テ為本尊、仏法身ハ所顕所証ノ境ニシテ法ノ所摂也、・・・当宗本尊ニ具人法顕総別、首題ハ法也総也、釈尊以下ハ人也別也、・・・妙法ハ能具余ハ所具ナルベシ」(『宗全』8-145,146)と述べて、報身、応身よりも法を顕した法身を重視し、曼荼羅本尊の首題である南無妙法蓮華経がもっとも勝れた本尊であることを主張する。
この法本尊を人本尊より重視する日隆の議論は「円宗本尊亘人法耶」において種脱を区別した本尊論の中で明瞭に示されている。人本尊と法本尊との関係を論じ、「口伝云在世滅後倶ニ熟脱ノ時分ハ以人仏為本尊、下種ノ時ハ以法可為本尊、其ノ故ハ熟脱ハ最初下種ノ法ヲ以自力令修行、自身即仏ノ義をハダ(膚)ヘニ得タリ、能顕能証ノ方を為正意、尤モ尊形の仏ヲ為本尊便也、サレバ正像二時ノ本尊ハ皆仏菩薩等ノ尊形ノ仏ヲ本尊トせり、次ニ下種ノ時ハ以法他力経力仏果ノ種子ヲ令成、仏ニ成ル種子トハ南無妙法蓮華経ニ可限、・・・法ハ聖ノ師也、聖人ニ可成種子ヲ初テ下ス故ニ首題ノ法ヲ以テ可為本尊、本尊問答抄云」(『宗全』8-148)とあり、正像時代の本尊は仏像だが、末法の本尊は法であることを『本尊問答抄』を根拠にして主張している。
そしてその後の箇所で「難云約種熟脱分本尊事不審也、所以ニ当宗ノ本尊ハ本門ノ南無妙法蓮華経也、然ルニ首題ニ具五重玄、五重玄ハ人法也、名ハ法、三章ハ人三身也、人法合シテ妙法蓮華経ト云、故ニ当宗ノ本尊ハ可亘人法」(『宗全』8-149)という人法一箇論に基づく人本尊と法本尊の両方を認める立場からの反論について論じて、『本尊問答抄』を論拠にして人本尊を否定している。
このように日隆は法本尊と人本尊との関係について詳細に論じ、最終的には『本尊問答抄』を根拠にして、法本尊(曼陀羅、中尊=曼陀羅の中に書かれた中央の題目)を根本として、人本尊を認めなかった。
しかしながらその後の箇所の「本門円宗意以首題五字本尊ト定玉ヘリ、爾者色相荘厳仏果非本尊可云耶」においては、「末代当時ハ以首題、正体ノ為本尊、助縁助道ノ方ハ色相荘厳の仏に可亘、唱法華題目抄云、常ノ所行ハ題目ヲ南無妙法蓮華経ト可唱、助縁ニハ南無釈迦牟尼仏南無多宝仏」(『宗全』8-157)と述べて、日蓮初期の『唱法華題目抄』を根拠に、曼荼羅本尊を正意としながらも仏菩薩の絵像木像も助縁として本尊とすることを認めている。
筆者は日隆がここで天台付随の立場を採っていた初期の日蓮の著作を根拠にして、法本尊と人本尊とを明確に比較して論じた唯一の後期の著作である『本尊問答抄』の法本尊に限るべしという趣旨を実質的に否定しているのは、仏像本尊を要求する僧侶信者の圧力の強さに抵抗できなかったものと考える。そのような欠点はあるにしても、日隆には仏像本尊は助縁にすぎず、曼荼羅本尊と比較すれば、法勝人劣があるという考えは明確である。
日隆に代表されるような法勝人劣の本尊論に対して、上述のように大石寺派では後に日寛が『観心本尊抄文段』で、人法一箇論により、表現形態としては、曼荼羅本尊と日蓮御影本尊とは異なるがその本質においては同一であるという議論を展開したが、日有がそのような議論をした資料は残っていない。
堀日亨も先に引用した『註解』で、「有師の文中・便宜に依り或は宗祖の人を挙げ、或は大曼荼羅の法を挙げ・互顕的に人法一個の本尊を顕揚し給へり」(『富要』1-85)と述べて、どちらか一方について言及した文は残っているが、両方に同時に言及し、両者の関係を述べた文は残っていないことを述べて、日有の時代には人法一箇論という教義が存在したということを文献学的には証明できないことを認めている。
『要義』においても「日有上人の聞書中に本尊の人法一箇の語はないが、その実義は常に具わっている。」(『要義』274)とあり、文献学的には人法一箇の議論を日有の中に見出すことができないことを認めている。
さらに日蓮御影本尊論の主張は、本因妙の仏としての日蓮と本果妙の仏としての久遠実成仏との対比において、展開されている議論であり、人本尊として久遠実成の釈尊を採用しない理由として、末法においては愚痴の衆生には本果妙の仏より、煩悩未断の本因妙の仏のほうがふさわしいとしているのである。
すでに見た日興から日道にいたる議論では、なぜ本尊として釈尊像ではいけないかの理由としては『本尊問答抄』の法は人(仏)より勝れているという法勝人劣論が採用されていたのに、日有の議論ではこの『本尊問答抄』の議論はまったく無視され、人本尊として本果妙の仏と本因妙の仏のどちらがふさわしいかという議論として展開されているのである。初めから法本尊と人本尊の両方を認めるという日有の態度は、日興から日道に至る本尊観とは相違する。
以下において日有の日蓮御影本尊論が日興の御影についての考えと整合しないことを示そう。日興の日蓮御影についての考えは『存知事』に、「一、聖人御影像の事。 ・・・日興が云く、御影を図する所詮は後代に知らしめん為なり是に付け非に付け・有りの侭に図し奉る可きなり」(『創』1603、『宗全』2-121)と述べて、日蓮御影を本尊としてではなく、日蓮の姿を後世に伝えるために造ったのであり、宗教的意義はないことを明確にしている。
したがって日有、日寛、日亨と日蓮正宗の主要法主に伝わった日蓮御影本尊論は日興の日蓮御影観に反し、また日興の曼荼羅(法本尊)中心主義からの逸脱であると私は考えている。
ついでに述べておけば、『存知事』追加の条で、釈尊像に四菩薩像を脇士とし加えることで仏像本尊を認めることを日興の立義として述べていること(『創』1609『宗全』2-127)、また日順作『五人所破抄』でも「執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿れ」(『創』1614、『宗全』2-83)と述べていることから、日興の本意ではないかもしれないが、当時の時代風潮への妥協として、日興が久遠実成の釈尊像を人本尊とすることを容認したことがわかる。
しかし、もし日興が日蓮御影をも人本尊として認めていたとすると、日興は全く異なる二種類の人本尊(久遠実成釈尊像と日蓮御影像)を同時に認めていたということになり、このことはかなり説明困難なことである。したがって私は日興が日蓮御影像を人本尊として崇拝していたという見解を取ることはできないと考えている。
なお堀日亨は『注解』において、日興の書簡の記述、たとえば「又おほせの候御法聞を一分も踏み違へまいらせ候はば本尊(法本尊)並に御聖人の御影(人本尊)の苦まれを清長が身に厚く深く被るべく候(正応元年波木井清長状)」などを引用して、日興も日蓮御影=人本尊を認めていたかのように述べているが(『富要』1-85以下)、日亨の解釈には無理がある。
日興の記述は信者の供養の品々を主に日蓮御影に供えたことを述べているだけであり、日興が日蓮御影を生身の日蓮のように崇重に扱っていたことは示されても、その日蓮御影の宗教的意義を明確に論じている箇所はない。手紙類には日興の日蓮に対する心情的な崇重は示されても、そのことと日蓮御影本尊論という教義とを混同することはできない。(このことは後述する。)
これまで述べてきたように、日蓮御影を人本尊として信仰するという化儀(宗教的儀礼)は日有、日寛、日亨に明確に見られるが、この日蓮御影本尊論は、創価学会の出版物では全く言及されていず、また日蓮正宗の公式教義解説書である『日蓮正宗要義』でも最重要の教義である三大秘法の本門本尊に関する記述、日有、日寛の思想に関する記述でも全く言及されていない。(ただし数箇所、興味ある箇所において日蓮御影本尊論が言及されているので、これについては後で述べる。)
日蓮正宗の教義に関しては、昭和期に入ってからは、1929年堀日亨『日蓮正宗綱要』(以下『綱要』と略記する)、1973年『日蓮正宗略解』(以下『略解』と略記する)、1978年『日蓮正宗要義』が重要なものである。
『略解』の序においては、「昭和四年、堀日亨上人が日蓮正宗綱要を著述せられて、我が宗の簡略な宗史及び宗旨の三秘と宗教の五綱について説かれ、当時の信徒の為に本宗の教義の概略を書かれたが、・・・その本も絶版になっているので入手しがたい。 そこで昨年総本山に正本堂が建立された記念として、日蓮正宗要義を出版して本宗の教義信条を一般世人に知らせ布教の資とするように事務を進めているが、今回正本堂一周年に当たり、取りあえず、そのミニ本として、日蓮正宗略解と題して出版することにした。」(『略解』ページ番号なし)と述べて、堀日亨の『綱要』を継承するものとして、『略解』『要義』を出版するとしている。
堀日亨の『註解』は『富要』の前書きによれば、「明治四十(1907)年より稿を起して、大正六(1917)年に至る」(『富要』1-81)間に宗門雑誌に掲載したものを昭和32(1957)年に『富要』再版に際して、編入したものであるから、1929年の『綱要』以前の著作である。つまり明治、大正時代には日蓮御影本尊論を日亨は当然の教義であると考えていたことがわかる。
『綱要』の三大秘法中の本門本尊の項には「本尊の出現に霊格としてと人格としてとの両面がある。即ち法の本尊と人の本尊とである。・・・人の本尊と云ふのは、法報応の三身が互いに融通する上での自受用報身如来である。・・・其が末法には人格者としての日蓮大聖人と信じ奉って、木像にも絵像にも作りて猶生きて御座する如く敬ひ奉るのである」(『綱要』45)と述べている。つまりこの時期には日蓮正宗の教義として、人本尊=日蓮御影という議論は公言されていたのである。
ところが後の『略解』では本門本尊の人本尊の項では、日蓮御影本尊論を全く無視している(『略解』67-75)。同様に『要義』でも人本尊に関して「宗祖大聖人こそ所顕の大曼荼羅本尊の当体であり、久遠の本仏であると信ずるものは我が日蓮正宗のみである。」(『要義』96)と述べて、日蓮が人本尊であることを主張しているが、日蓮御影本尊論については全く言及せず、むしろ人法一箇論を背景にした日蓮本仏=曼荼羅本尊論を主張している。
さらに日有の思想について述べた箇所においては、『化儀抄』を引用して、「人本尊は『日蓮聖人に限り奉るべし』とされ、・・・凡夫の導師が本尊であると示されたのである」(『要義』272)と述べて、日蓮=人本尊論は述べているが、その具体的な形態である御影本尊論については述べていない。
日亨が『註解』でこの文を日蓮御影本尊論として明確に述べていたのに、同じ文を引用しながらそのことに言及していないのは、日蓮正宗の教義から日蓮御影本尊論が削除されたのかとも思われかねない。
『略解』『要義』が日蓮正宗の教義として日蓮御影本尊論を明確に述べることを避けているということは何を意味するのであろうか。私に容易に推測できることは、当時日蓮正宗は創価学会と分離する前であったから、創価学会が認めていない日蓮御影本尊論を明確に述べることを避けたという教団運営上の配慮が働いたであろうということである。
日蓮正宗が教義的な解釈として日蓮御影本尊論を否定したということは私には考えられない。日蓮正宗は伝統教団として、日有、日寛の教義解釈を権威として重視してきたのであるから、彼らの説を否定することは教団の自殺行為に等しい。
さらに後に述べるように『要義』では興味深い箇所で数箇所日蓮御影本尊論を根拠にした議論を展開しているのであり、ある種の議論の正当化のためにはまだ日蓮御影本尊論は有効な議論であると日蓮正宗が考えていることを示している。
日蓮正宗が日蓮御影本尊論を教義として公言することを避け始めたのはいつごろからか、そこにはどのような事情があったのか、なぜ創価学会は日蓮御影本尊論を全く無視することになったのか、という一連の問題に解答を与えるものは、堀日亨の『富士日興上人詳伝』(以下『詳伝』と略記する)である。この本は1963年に堀日亨七回忌を記念して単行本として出版されたが、もともとは1949年から1955年まで創価学会の機関誌『大百蓮華』に連載されたものである。
この『詳伝』においては、『存知事』の記述に言及して、日蓮御影像に関して、「存知事では『後代に知らしめんがためなり』と首記せられており、次々項の本尊事の下では、妙法曼荼羅と御影像の関係寸辞も述べていないが、信仰に情味が加上してくるが、法が自然に人に傾いてくる。御開山当時の御影に対する崇重の念は、記念のためであることが存知抄の御文のとおりであることは、明々たるが、いずれの時代からか本尊御影が一対みたいのようになった。 あるいは、それは富士の各方面であったとみえて、八品の開祖日隆は、東国の富士門流では御影を本尊としておると、批判の筆を残しておる。あるいは、房山系にこれらしい、またはこれとみゆるすなわち短小なる曼荼羅を蔽うて巨大な御影が祀ってあったのではなかろうか。」(『詳伝』390)と述べている。
堀日亨は『註解』『綱要』では日蓮御影本尊論を主張していたが、ここでは『存知事』の記述を考慮すると、日蓮御影を本尊とすることは日興の思想ではないと認めているのである。それでは日興は日蓮御影を教義的にはどのように解釈していたのであろうか。日亨はそれについては「記念のため」とだけ答えて、その教義的位置づけについては何も答えていない。しかしその後の記述は日蓮正宗内部で日興にはなかった日蓮御影本尊論が次第に形成されて、八品派日隆は日蓮正宗の日蓮御影本尊論について知っていたことを日亨は認めている。
日亨は『詳伝』の上記の部分では日蓮御影本尊論を否定しているが、他の箇所、すなわち日興の手紙類に見える御影崇重に関する箇所では微妙な表現になっている。
日亨は『註解』では日興の手紙類を根拠にして「殊に開山状数十通の中に・一も釈迦仏の見参に申し上げ候等といへるものなし、法華経といひ・御経といひ・法華聖人といひ・御聖人といひ・或は直に人法一個を云ひ顕はし、或は別に人をのみ挙げて・些細の供養も一々宗祖御影の見参に供へて・如在の礼を本仏大聖に尽し給ふ・・・殊に波木井清長状の如きは本尊と御影とを竝べ挙げて誓状を造る、」(『富要』1-86)と手紙類の記述を根拠に、日蓮御影本尊論、日蓮本仏論を主張していた。
日亨は『詳伝』ではほぼ同様な手紙類を引用しながら、「開山上人以来の富士の日蓮本仏の内証論を、他教団の時機不相応の釈迦円(本)仏説の上から未断煩悩の麁仏であるの行き過ぎの信念であるとの妄批し、日興上人にはまったく他の一般と同じく、上行再誕の日蓮に止まっておれるといえるに対して、五人所破抄や門徒存知事に、日蓮本仏の直接の明文を見ざるも、開山上人には釈迦仏造立の史実もまったくなく、門下の僧俗の供養の志をば、一も釈迦その他の仏菩薩に披露せず、細大となく一に日蓮大聖人に取り次がれた事実を、日常不用意のとっさのお手紙の上に見んとする」(『詳伝416』)と述べて、他の教団が『存知事』や『五人所破抄』の記述を根拠にして、日興は日蓮本仏論を持っていなかったという主張をしていることに対して、日亨は手紙類の記述を根拠にして、日興が日蓮御影を崇拝していたことを証明し、それが日蓮本仏論を根拠づけるとしている。
だがこの日亨の主張は先述の『存知事』に関連した日亨自身の記述とは整合しない。先の箇所では日興は日蓮御影を記念のために作成し、崇拝していたのであり、それが後に日蓮御影本尊論として展開していったと述べていたのに、今度は日蓮本仏という宗教的意義をもって日興は日蓮御影を崇拝していたという主張に変わったのである。
この日亨の曖昧な議論は何を意味するのだろうか。それは日興から日道にいたる大石寺派の明確な文献は日蓮=上行菩薩論に立脚しているが、日時写本『本因妙抄』以来の大石寺派の独自な日蓮解釈である日蓮本仏論を主張するためには、日興による日蓮御影崇拝が、日蓮本仏論を証明する化儀、宗教的儀礼であると解釈することが必要であるということである。
『要義』では『註解』『詳伝』の記述を受けて、「日興上人の信条教学のすべてはその師に対する給仕の心、滅私奉公の念が基本となって形成せられている。その素直な行学の故によく大聖人の仏法の甚深の境地に到達せられ、大聖人を末法の仏と拝することができたのである。このような日興上人の日常の信仰の的が何であったのかを示すものとして、後年数十通にあまる弟子檀那よりの供物の御返事がある。これはすべて大聖人の宝前へ供えたことが書かれており、釈迦仏に供えたとの文書が一通も見当たらないことが、その明らかな証明である。大聖人こそ末法の仏であるとの本師に対する絶対の信である。」(『要義』210)と述べて、日興が日蓮本仏論を持っていたことの証拠として、釈尊像ではなく日蓮(御影)に供養を供えたことを挙げている。
また『要義』は、日興の思想について「前記相伝書(筆者注 『身延相承書』『池上相承書』『本因妙抄』『百六箇書』)の外、日興上人の著述中明瞭に宗祖本仏や大曼荼羅即大聖人観を述べたものは見られないが、これは宗門草創の時期においてむしろ当然であり、種本脱迹、宗祖本仏、大曼荼羅正意論を化儀の上に示されたことが明らかである。故に日興上人書写の本尊の体相や、七百年を一貫する富士門家の化儀化法に日興上人の本尊観が明らかである。」(『要義』232)と述べて、日興の信頼のおける文献(私は上記の相伝書に関して多くの歴史学者、仏教学者と同様に文献学的な信頼性を否定している)には日蓮本仏論、日蓮本尊論がないことを認めて、日興が日蓮本仏を持っていた証拠は富士門家の化儀化法つまり日蓮(御影)を本仏として崇拝してきたことだと述べているのである。
しかも、堀日亨は『詳伝』で、この手紙が日蓮御影像に供養をささげ、日蓮御影を崇拝していたと述べていたのに対して、奇妙なことには『要義』は、これらの手紙類には「釈迦仏等の字は一言半句も見当たらない。したがって釈迦仏像の奉安はまったくなく、かつ大曼荼羅を大聖人と拝されたことが明らかである。」(『要義』228)と述べている。
つまり『要義』の先の箇所では日蓮御影に言及することなく、日蓮に供物を奉げたことをもって日蓮本仏論を主張していたのが、ここでは供物を曼荼羅本尊に奉げ、その曼荼羅が日蓮大聖人であるという主張になっている。
私にはなぜ『要義』において、日興が日蓮御影に供物を供えたということをことさらに隠蔽しようとするのかわからないが、手紙類の中には「御影」に供物を供えたということが明確に述べているものもあるのだから、「大曼荼羅を大聖人と拝された」という人法一箇論的な解釈は無理だろうと思う。
しかしそもそも日興が日蓮御影に対して供養を取り次ぐとき、そこには日蓮御影だけが安置されていたのか、それとも御影堂方式の三宝奉安形態のように曼荼羅を後部に日蓮御影を前部に安置していたのか、あるいは日蓮御影の前に法華経を安置していたのか、それを明確に示す文献もない。
したがって供物が奉納される対象について多様に述べている手紙の表現から日蓮御影に対する宗教的意義を導き出すのはかなりの説明が必要である。
『要義』は手紙類の記述の中に、供養を奉げた対象を、「仏」「仏聖人」と書いてあることから、日蓮を仏として日興が見なしていたとしているが(『要義』228)、もし安置の形式が曼荼羅を後置し、日蓮御影を前置する御影堂方式の奉安形態ならば、曼荼羅には諸仏が勧請されているから、曼荼羅を仏と表現することには何の問題もない。
『要義』にはないが、手紙類の中には、「御経聖人」「御経」に供養を奉げたという記述も見えるのであり(『歴代法主全書』1-1151,167)、これを日蓮御影のみと解釈するには困難がある。したがって手紙類に「仏」、「仏聖人」とあるから、日蓮を仏として崇拝していたという『要義』の議論には無理がある。
私は日蓮本仏論という教義が日蓮、日興、日目(1260-1333)、日道にはまだなく、日蓮御影崇拝ならびに釈迦仏造立否定という日蓮正宗に伝わる化儀から、その化儀を正当化する理論として日蓮本仏論が形成されてきたと考えている。
さて創価学会が日蓮正宗の日蓮御影本尊論を完全に無視することができたのは、『仏教哲学大辞典』の御影に関する記述を見ると、『存知事』の御影に関する記述を引用し、御影は記念のためであるとだけ述べて、人本尊との関係には全く言及していないが(5-724,725)、その意味では日亨の『詳伝』の『存知事』の日蓮御影に関する記述を尊重しているからだということが言えるのである。
日蓮正宗は室町、江戸時代に形成された、文献学的な観点からは問題が多すぎる教学を現代の仏教学、歴史学との対決の中で正当化するという課題を放棄しているが、マイナーな自閉的教団であればその態度は維持できるが、創価学会のような大きな教団になるといつまでもそのような態度は取れない。
教団の中にそれなりの知的な問題意識を持つ会員を取り込もうとすると、学問的に明らかに受け入れることが困難な主張はできるだけ避けようとする態度が生じる。
創価学会にとっては、曼荼羅本尊論があれば十分であり、日蓮御影本尊論は『存知事』の記述に反した不必要な教義、邪魔な教義であると見なされたのであろう。
創価学会は後世に生じた曼荼羅本尊=日蓮本仏という人法一箇論だけで人本尊を説明しているが、日蓮御影を人本尊とする化儀は創価学会には存在しないから、人法一箇論は単に日蓮正宗から継承しただけであり、実践的には人法一箇論は本尊論としては無意味な教義となっている。