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日有の教学思想の諸問題(2)

1−7 日蓮本仏論の論拠としての日蓮御影本尊論

1−7−a 日道『御伝土代』に関する解釈

 それでは『要義』では表面的には削除された日蓮御影本尊論がどのような議論の脈絡で維持されているのかを詳しく見てみよう。『要義』の日道の項目に御影本尊論が記述されている。
 『要義』は、日道が『御伝土代』で本門の教主を「久遠実成無作三身乃至我本行菩薩道所成寿命今猶未尽復倍上数の本仏なり」(『富要』5-11、『宗全』2-253,254)と記述していることを、この「久遠実成無作三身」という用語は「本因妙の仏」のことであり、「文底観心の重では、上行菩薩が久遠実成の三身であることを暗示されるもので、もし教相上の本果仏をとるなら『我本行』以下の文は必要がない文となる」(『要義』252)と述べて、日道に本因妙の仏=久遠元初仏(日蓮本仏)と本果妙の仏(久遠実成仏)の区別があったことを主張している。私は、これは無理な議論だと考える。
 ここで『要義』が、「我本行」以下の文によって修飾されることにより「久遠実成無作三身」が「本果妙の仏」ではなく、「本因妙の仏」を暗示すると述べていることに関して、日蓮正宗教学に知識を持たない読者には注釈が必要であろう。
「我本行菩薩道」という言葉は日寛の『開目抄愚記』によれば重要な意味を持った言葉である。日蓮の最重要御書の一つである『開目抄』には「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(『創』189、『定』539)という一文がある。この場合の「一念三千」とは伝統的には、単に天台大師智の『摩訶止観』で展開される一念三千論を意味するだけではなく、日蓮独自の三大秘法の意味をも込めている。したがって日蓮の三大秘法の根拠は法華経寿量品のどこの文にあるのかという問題として論及されてきたのである。その寿量品の文を日寛は『開目抄愚記』で他の日蓮宗各派の解釈を退けて、本因妙の仏を示す「我本行菩薩道」であるとしたのである(『文段集』77、『宗全』4-250)。だからその日寛の議論を正しいと見なす『要義』は、『御伝土代』の文中に、仏の修飾語に「我本行菩薩道」があれば当然これは本因妙の仏を指すと解釈したのである。
 だが私は日寛の解釈が正しいかどうかに関して疑問を持っている。日寛は「これは当流一大事の秘要なり。然りと雖も、今一言を以てこれを示さん。謂く、御相伝に云く本因妙の文なり云々。・・・当に知るべし、後後の位に登る所以は並び前前の所修に由る。故に知んぬ、『我本行菩薩道』の文底に久遠名字の妙法を秘沈し給うことを。蓮祖の本因妙抄に云々。」(『文段集』77、『宗全』4-250)と述べているが、この文の「相伝」がどの部分にかかるのか、その趣旨は明確ではないが、大石寺派に伝わる相伝によれば「本因妙」を指す「我本行菩薩道」と解釈するのであり、これは大石寺派にとって重要な解釈であると述べていると読むしかないであろう。
私が問題にするのはこの相伝が一体誰から日寛に伝えられたかと言うことである。日蓮正宗は相伝を非常に重要視しているが、文献の場合と違って相伝には明確な証拠となるものが残らない。しかも天台本覚法門でも日蓮本覚法門でも同様だが、相伝が伝承される過程においては相伝を受けた人物が自分の個人的見解を相伝に付け加え、しかもその付け加えた部分、あるいは改変した部分をも含めて相伝として次の人物に伝えていくという現象が見られる。
歴史学者、仏教学者が相伝書といわれるものを学問的に評価しないということの理由は、そこで伝えられた内容がもともとの内容を保持していることが保証されないということにある。そしてこの「文底」の一文がどの文であるかということをめぐる大石寺派の他の文献との矛盾を考えれば日寛の相伝がいかに怪しげなことであるかが示される。
 大石寺派内部の文献でこの「文底」問題を最初に論及したのは、三位日順の『法華開目抄上私見聞』である。そこでは日順は「問て云く一念三千の法門・本門寿量の文底に沈めたりと云云、然らば何の文を指すや、答て云く経に云く如来如実知見三界之相○非如非異不如三界見於三界○云云」(『富要』2-87,88)と述べて、明確に「如来如実知見」の文であるとしている。
日寛は『開目抄愚記』で他の門流の諸説の中で最初にあげているのが「如来如実知見」という説であり、これを不相伝として批判しているのだが、大石寺派の重須学頭として教義的に重要な役割を果たした日順は日寛によって不相伝とされる説を主張しているのである。あるいは日順は日興から直接指導を受けた学頭であるが、相伝を受けた法主(大石寺住持)ではないから、誤った独自の見解を示しているに過ぎないという説明もあるかもしれない。
 しかし次に挙げる事例はもっと深刻である。日有の講義録である『下野阿闍梨聞書』には「仰せに云はく・西山方の僧・大宝律師来りて問ふて云はく日尊門徒に開目抄に云はく・一念三千の法門は本門寿量品の文の底にしづめたり云云是は何れの文底にしづめたまふやと云ふ時、日有上人仰せに云はく日昭門跡なんどには然我実成仏已来の文という、さて日興上人は此の上に一重遊ばされたるげに候、但し門跡の化儀化法・興上の如く興行有つてこそ何の文底にしづめたまふをも得意申して然るべく候とて置きければ、頻りに問ふ間だ興上如来秘密神通之力の文底にしづめ御座すと遊ばされて候、其の故は然我実成仏已来の文は本果妙の所に諸仏御座す、既に当宗は本因妙の所に宗旨を建立する故なり彼の文にては有るべからず、さて如来秘密神通之力の文は本因妙を説かるゝなり」(『富要』2-152)とある。
 つまり日有は、日昭の説は「然我実成仏」の文であるが、日興の説は「如来秘密神通之力」の文であると述べたと書いてあるのである。だが「如来秘密神通之力」は第三の異説として、「然我実成仏」は第六の異説として、ともに日寛の『開目抄愚記』で否定されているのである。
二十六世日寛の相伝はその系譜をたどれば九世日有に行き着くはずであるが、日有が「如来秘密神通之力」の文である、しかもこれは本因妙を示す文なのだと述べているのに、その日有の説を不相伝として否定しているのである。『下野阿闍梨聞書』が嘘を書いているのだという解釈もありうるが、むしろ日有から日寛に至るまでに相伝の内容が改変されたと解釈するのが普通であろう。
 したがって仏の修飾語に「我本行菩薩道」以下の記述があるから、その仏が本因妙の仏であるという『要義』の主張には根拠が無い。
しかし日道の文が本因妙の仏を指していると解釈する根拠は、久遠実成の仏を「無作三身」と記述していることに求める人もいるかもしれない。創価学会では「無作三身」という言葉は「有始有終」の仏である「久遠実成仏」に修飾される言葉ではなく、「無始無終」の「久遠元初仏」の修飾表現として使用されてきたから(『仏教哲学大辞典』5-830,831、1-973)、そもそも「久遠実成無作三身」という表現は理解不能な表現であるだろう。だから、「無作三身」という言葉が「久遠実成仏」を修飾しているから、この場合の「久遠実成仏」は実は「久遠元初仏」を指すという強引な解釈もあるかもしれない。だがこの解釈もあまり説得力が無い。
 「無作三身」という形容詞を「仏」につけたのは、最澄の『守護国界章』に「有為の報仏は夢裏の権果・無作の三身は覚前の実仏なり。夫れ真如の妙理に両種の義有り。不変真如は凝然常住、隨縁真如は縁起常住なり。報仏如来に両種の身有り。夢裏の権身は有為無常にして覚前の実仏は縁起常住なり。相続の義に亦両種有り。隨縁真如相続常の義、依他縁生相続常の義なり。今真実の報仏は隨縁真如相続常の義に攝す。」(『伝教大師全集』2-567)とあるのが初めてである。
そこでの最澄の議論は、法身は常住だが、『法華経』の久遠実成仏=報身を無常であると主張する法相宗の徳一に対して、報身常住を主張しようとして久遠実成仏を「無作三身」と形容したのであり、後代の天台本覚思想や日蓮本覚思想で主張されるような久遠実成仏と区別される久遠元初仏の形容詞ではない。
日本天台宗の立場としては「久遠実成無作三身」はまったく問題のない表現であり、これを日蓮本覚思想の久遠元初仏として解釈することのほうが理解できないことである。
 この『守護国界章』の文は日蓮も引用している。日興の甥であり、西山本門寺の開基である蔵人阿闍梨日代(1297-1394)の写本が存在している日蓮の『諸宗問答抄』(ただしこの文献では「天台宗」に対して日蓮の立場を「法華宗」として区別していると読めるので、日蓮自身の親撰であるかどうかは疑問がある)には、「次に念仏は是浄土宗所用の義なり、此れ又権教の中の権教なり・・・云う所の仏も有為無常の阿弥陀仏なり何ぞ常住不滅の道理にしかんや、されば本朝の根本大師の御釈に云く『有為の報仏は夢中(『守護国界章』では「裏」となっている)の権果・無作の三身は覚前の実仏』と釈して阿弥陀仏等の有為無常の仏をば大にいましめ捨てをかれ候なり」(『創』382、『定』33)と述べ、「有為の報仏」と「無作の三身」とを対比した最澄の議論を使用して、阿弥陀仏=有為の報仏と規定している。
ここで日蓮が「無作の三身」を「久遠元初仏」と考えていたのか、それとも「久遠実成仏」と考えていたかは、何も述べていないのでわからないが、『諸宗問答抄』全体の文脈では本覚思想が主題になっていないから、「無作の三身」を法華経本門の教主久遠実成仏であると考えていたとみなすほうが自然だろう。
 創価学会は文献学的問題を無視して、創価学会版の御書全集に収録された日蓮遺文を根拠にして無作三身について議論をするが、私のように文献学的に問題がある遺文を使用することに非常に警戒的な人間にとっては、日蓮自身が「無作三身」をどのように考えていたのかは、真蹟資料、直弟子、あるいは孫弟子写本のある遺文では「無作三身」を自分の思想を表すものとしては一度も使用していないので不明である。
しかし「無作三身」の定義に「無始無終」という概念が含まれると考えるならば、日蓮が『一代五時鶏図』(真蹟 『創』632、『定』2342)で天台宗の本尊に関して「久遠実成実修実証の仏」「久遠の三身―無始無終」と規定し、久遠実成仏が無始無終であると認めているのであるから、法華経本門の教主である久遠実成仏を無作三身と考えることにそれほど大きな問題はない。「無作三身」という用語があるから久遠元初無作三身すなわち本因妙の仏を指すと短絡的に考えることはできない。
 以上、日道が『御伝土代』で本門の教主を「久遠実成無作三身乃至我本行菩薩道所成寿命今猶未尽復倍上数の本仏なり」(『富要』5-11、『宗全』2-253,2549と述べている文の解釈に関して、久遠実成無作三身とは法華経本門の教主久遠実成仏であって、久遠元初仏ではないことを説明してきたが、私の解釈とは異なって、『要義』は日道には日蓮本仏論があったという前提で議論をすすめるから、日道が日興の一体仏批判に関して、「脇士なき一体の仏を本尊と崇るは謗法の事。・・・何そ三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや、既に本尊の階級に迷う、全く末法の導師に非るかな。 本尊問答抄に云く。」(『富要』5-12、『宗全』2-255,256)と述べている箇所に関して、「この三身即一身の有縁の釈尊」とは「表現として三大秘法抄の人本尊を受けるもので、大曼荼羅能弘能顕の仏、日蓮大聖人を指されている。文によってのみ義を判ぜず、義をもって文を見なければならない。日興上人日目上人日道上人と相伝して御影を仏と拝し、大曼荼羅即日蓮大聖人と拝する信条の本義の上から文を見極めることが大切である。」(『要義』253)と述べている。
 日道の文は普通に読めば、「三身即一身の有縁の釈迦」=「法華本門の釈迦(久遠実成仏)」となるが、『要義』は普通に読むのではなく、「日蓮本仏論」という教義によって文を解釈すべきであり、しかもその教義は日興、日目、日道の化儀に基づく日蓮御影本尊論に支えられていると主張しているのである。
だが既に指摘したように日興の確実な文献には日蓮御影本尊論は皆無であり、その日蓮御影本尊論を根拠に日蓮本仏論を主張しようとする『要義』の議論は無効である。しかしこの『要義』の記述が、日蓮御影本尊論によって日蓮本仏論を根拠付けているということは、日蓮御影本尊論が教義上どのような役割を果たしているかを明確に示している資料の一つである。
 私が見るところ、日道の上記の記述の中で重要視すべきは、既に述べたように、曼荼羅本尊を釈迦仏像よりも重視する論拠として『本尊問答抄』をあげているということである。『本尊問答抄』では、法華経の教主釈尊ではなく、法華経の題目を本尊とする、すなわち題目が中尊として描かれている曼荼羅を本尊とすべきことを明確にしている。日道がここで『本尊問答抄』を本尊論の根拠にしているということは、法勝人劣論により、久遠実成釈尊像のみならず、日蓮御影も本尊とする議論を否定しているのである。
『要義』は日興が日蓮を本仏として崇拝したということを強引に主張しようとしたために、かえって日興から日道へ継承された曼荼羅のみを本尊とするという趣旨を捻じ曲げて、日蓮御影本尊論を持ち出したのである。

1−7−b 日順、日代の造仏論議の解釈

 別の文脈で『要義』が日蓮御影に言及するのは、西山日代や三位日順が仏像造立について言及している文を説明している箇所である。日代は『宰相阿闍梨御返事』の中で「仏像造立のこと本門寺建立の時なり、未だ勅裁なし、国主御帰依の時三ケ大事一度に成就せしめたまうべきの由御本意なり、ご本尊の図はそのためなり」(『宗全』2-234)と述べて、国主が帰依する広宣流布のとき、本門寺戒壇に曼荼羅本尊の図に従って仏像を造立せよと述べている。
これに関して『要義』は「本門寺建立時の造像論であるが、これは勿論日代の真意ではない。日興上人の前述の対機表現の意味を用い、当時の造像を制止したのである。仏像の言は使うも、いよいよ現実問題となれば仏像とは大聖人の御影なりと、文底下種の法義を示す意味と用意があったことは、御影を『仏』ないし『仏聖人』といわれた日興上人の高弟として、充分な薫陶を受けた日代において、思い半ばに過ぎるのである。」(『要義』242)と述べて、日代が仏像を造立せよと言っているのは、実は日蓮御影を意味しているという解釈をしている。
 同様に三位日順が『本門心底抄』で「行者既に出現し久成の定慧・広宣流布せば本門の戒壇其れ豈に立たざらんや、仏像を安置することは本尊の図の如し・戒壇の方面は地形に随ふべし」(『富要』2-34、『宗全』2-346)と述べて、本門戒壇に仏像を安置すべきであるとしていることに関して、『要義』は「日順の各文に明らかな大曼荼羅即日蓮大聖人の信仰観と、『聖人は造仏の為の出世には無し、本尊を顕さんが為なり』(『富要』2-92)と本尊抄見聞にいう信解からすれば、公布の時こそ大聖人の正意の大曼荼羅本尊でなければならないし、また仏像の言もその意味を持っている。即ち仏像とは御影のことである。」(『要義』242)と述べて、仏像安置とは日蓮御影の安置であると解釈している。
 同様のことは、また三位日順の思想について言及した箇所でも「日順がここに仏像の語をもってしたのは、一往の義として叡山の戒壇院において、和尚釈迦牟尼仏、教授阿闍梨文殊菩薩、羯摩阿闍梨弥勒菩薩の三師の仏像を安置する大乗戒の法式が思考中にあったと思われる。ところがいうところの『本尊の図』とはいかなるものとなるかを考えなければならない。もし十界の図とすれば、地獄・三悪四趣の形像が戒師的意味をもって羅列することになり、観心の談道は別として、事相においては、不統一不体裁を免れない。然るに釈尊と本化四菩薩の木絵の像とすれば、各処に見える日順の本尊観にも違反する。故に本尊の図の如き仏像とは、釈尊に四士を加える如きの像でなく、法に具わる人本尊としての大聖人の御影を指すのである。故に日順を釈迦仏造立論者ということは早計である。」(『要義』257,258)と述べている。
 しかしこの日順の『本門心底抄』の仏像造立に関する文については既に堀日亨が『富要』で頭註をつけて「仏像安置と云々、順師未だ興師の真意を演暢せず。後人此文に滞ることなかれ」(『富要』2-34)述べて、この箇所では日順が仏像造立を主張しているとして、それは日興の真意を述べていないと批判を加えている。『要義』はこの堀日亨の頭註とは全く異なった解釈をして、この文で仏像とは実は日蓮御影像を指すと述べているのである。
日順は一箇所だけ『日順雑集』の中で身延山に日蓮御影を作ったのが日興であることを述べているが(『富要』2-95)、そこでは日蓮御影本尊論はなく、日順が日蓮御影本尊論者であったという証拠は全くない。私には『要義』がいかなる根拠で本門戒壇に安置する仏像を日蓮御影像であると解釈できたのか全く不思議でならない。『要義』は日順が釈尊像を本尊とすることを容認していたという議論を否定するために、仏像を釈尊像ではなく、日蓮御影像であるという強引な解釈をしたとしか思えない。
 『要義』は日代、日順の造仏を日蓮御影のことだと解釈した後で、日寛が『末法相応抄』で展開した日代、日順の議論は「是れ当時の造立を制せんが為に且く事を公布の時に寄するか」(『富要』3-177、『宗全』4-89)を引用して、この日寛の言葉は要を得たものであると評価している。しかし日寛はこの『末法相応抄』で日代、日順の仏像を日蓮御影であるとは解釈していないのであり、上述したように、日蓮御影を造立するのかという日辰の疑難に対して人法一箇の曼荼羅を造立すればよいのだと答えている。
『要義』はこれに続いて「故に日興上人の思想は本門の戒壇即ち本門寺の建立の時においても、釈尊の仏像安置を志すものではなく、大曼荼羅本尊であったことは明白である」(『要義』243)と述べて、結論部分では日蓮御影本尊に言及することなく日寛と同じ曼荼羅本尊安置の議論となっている。
 しかし『要義』は日代、日順の公布時の仏像造立の解釈をする時は、日蓮御影を造立すると述べていたのに、ここでは日蓮御影の造立に言及せず、曼荼羅安置のみを主張している。将来日蓮正宗が公布を達成し、本門戒壇を建立するときには、曼荼羅だけを安置するのか、それとも日蓮御影も安置するのか、どちらを『要義』は主張しているのであろうか。
 私は日興からに日道に至るまでは曼荼羅本尊のみを日蓮の正意とするとする解釈が伝わっていたが、その後に日蓮御影を本尊とする日蓮本仏論が生じて、大石寺派の本尊論を混乱させたと考えている。『要義』における日蓮御影本尊論の扱いの混乱はそのことを示している。

1−7−c 三宝奉安形式の解釈

 次に『要義』が日蓮御影に言及する箇所は、本尊奉安に関する三宝論であるが、そこでは「一体三宝」と「別体三宝」を区別し、さらに前者に関して二種類の奉安形式を区別している。三宝とは日蓮正宗では、法宝とは人即法の本尊(曼荼羅)、仏宝とは法即人の本尊(日蓮)、僧宝とは日興を指す。在家信者も遵守すべき一体三宝の奉安形式とはこの三宝がすべて込められたものとして曼荼羅本尊のみを奉安する形式である。同じく一体三宝の奉安であるが別形態として曼荼羅の前に日蓮御影像を安置して法宝と人宝を分けたのが御影堂の奉安形式である。
別体三宝の奉安形式というのは、曼荼羅の左右に日蓮御影像と日興像を安置する形式である。つまりこの箇所では日蓮御影像は仏宝として、仏像として崇拝されることを認めているのである。『要義』の本尊の項目では人本尊として日蓮御影像については全く言及されていなかったが、本尊の奉安形式という化儀の側面では、日蓮御影本尊論が当然のように述べられているのである。
 ところで堀日亨の『綱要』では、既に述べたように日蓮御影を人本尊とすることを明言していたが、法本尊と人本尊とを論じた後で、「あるいは、密かに考うれば、御曼荼羅の中心の南無妙法蓮華経は法で、日蓮判は人であるから、これが人法一体である。こういえば一重の一体ですむのに、曼荼羅の前に御影をおくときは、二重の一体となる勘定であるけれども、人法を即離するのは、理の当然で、またこれには一般の仏像を安置せし余情を引くことにもなり、常識の上から追慕の意にもなる。人間名字の本宗では、それがよいのではなかろうか。しかし、人情を超越した理智の非常に進んだ非人間には、この信仰の必要はないということにもなろうかと思うのである。」(『綱要』45,46)と述べている。
日蓮正宗が布教対象とする機根の劣った名字即の人々には日蓮御影を本尊とすることは心情的な理由でふさわしいが、ごくまれに機根の優れた「人情を超越した理智の非常に進んだ非人間」(これが具体的にどのような人間を指すかは不明であるが)にとっては、曼荼羅本尊がそれだけで人本尊と法本尊の両方を含むのだから、人本尊を別に安置する日蓮御影本尊は必要ないとしている。
しかし問題の根本は日蓮御影を本尊とするという考え自体が形を変えた造仏論であるということであり、これは日興から日道に至るまで造仏制止を宗旨としてきたということに反するということである。
 『綱要』は人法一体の本尊についての議論の後で、三宝について「また、この本尊を普通の三宝、すなわち仏法僧に区別するとき、仏と僧とは宗祖、法は妙法曼荼羅として、一体三宝に見ることもあるが、古くより仏は宗祖、法は曼荼羅、僧は御開山を代表として、その御影を加うることがあり、それを三宝式とも、古くは三幅一対なんどといっているが、宗祖開山の時代にありうべきものではない。目師以後にできた儀式かも知れぬ。これは一般の通儀でなく、特別の式と見るべきものであろう。」(『綱要』46)と述べている。
この日亨の記述は『要義』の説明とは異なっており、御影と曼荼羅を両方奉安する形式について、『要義』では御影を仏宝とし、僧宝については言及していなかったのに、『綱要』では御影を仏宝、僧宝の両方の意義を含むとしている。また別体三宝の奉安形式について日目以後の特別な奉安形式であるとして、日蓮、日興の本尊奉安形式とは異なることを主張している。

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