日蓮正宗の特徴的な教義に日蓮本仏論があるが、それは具体的には日蓮御影本尊論であったことは上述したが、この問題を別の角度から見るために、日有において日蓮はどのように位置づけされているかを検討してみよう。
まず既に日蓮本尊論で引用した『化儀抄』の箇所では「未断惑の導師」(『富要』1-65)とあり、日蓮を未断惑の位に位置づけている。あるいは『連陽房聞書』には「師弟ともに三毒強盛の愚者迷者の上にして位・名字の初心に居して」(『富要』2-147)とあり、この「師」に日蓮も含まれると解釈するならば、日蓮を「名字即の初心」の凡夫位に位置づけていると言えよう。
日蓮自身は諸御書の中で自分が凡夫であることを積極的に認めていたが、日興から日道にいたる大石寺派の日蓮論では、日蓮を上行菩薩の再誕として特別視する議論が中心であり、天台の六即の中で下から二番目の地位である名字即、凡夫の位に日蓮がいることは強調されない。
わずかに三位日順の『日順雑集』に「六即は観門・五十二位は教門なり、聖人は六即の中には名字即の位なり。 問ふ名字の位は知一切法皆是仏法と云ふ意如何、答ふ今の文・名字の後心なり・即観行の初心是へ発りたるなり・名字の半は而不毀呰起随喜心と云へる是こそ名字の正躰なれ」(『富要』2-115)とあるだけで、日有のように日蓮を未断惑の凡夫として積極的に位置づけて議論しているところはない。
しかもこの日順の文も日蓮自身が名字即の凡夫であることを強調しているというよりも、日蓮の教えを受ける名字即の信者の地位について、「一切法皆是仏法」などと難しいことを知らなくても、「而不毀呰起随喜心」、つまり、誹謗せず、随喜を起すだけでよいとしているのである。これは日蓮初期の『唱法華題目抄』から晩年の『四信五品抄』まで一貫して見られる名字即の機根の衆生、つまり信のみで解のない凡夫を救うのが法華経であるという趣旨と一致している。
同じく日順の『摧邪立正抄』では日蓮の『観心本尊抄』の「迹門十四品の正宗八品一往之れを見れば・二乗を以て正と為し・菩薩凡夫を以つて傍と為す、再往之れを勘ふれば・正像末の凡夫を以て正と為し・正像末の三時の中には末法の始を以つて正中の正と為す、勧持安楽等之れを見るべし」(『創』249、『定』714,715)という一文をめぐって、日興門流の日寿と日朗―日像門流の日学との論争について検討している中で、末法正意説は展開しているが、日蓮凡夫説を展開していない(『富要』2-40、『宗全』2-351)。つまり日順には日蓮を未断惑の名字の凡夫であると積極的に位置づけている箇所はない。
むしろ日道の『御伝土代』では「一、天台沙門と仰せらる申状は大謗法の事。 地涌千界の根源を忘れ天台四明の末流に跪く天台宗は智禅師の所立迹門行者の所判なり、既に上行菩薩の血脈を汚す争か下方大士の相承と云はん、本地は薬王菩薩、垂迹は天台智者大師なり、・・・勧持品にして本門弘経を申し給ふと云へども、涌出品にして止善男子と止められ給ふ、上行菩薩をめしいだされ候、その機を論ずれば此の菩薩爾前迹門にして三惑已断の菩薩なれども、本門にしては徳薄垢重、貧窮下賤、楽於小法、諸子幼稚と云はれて見思未断の凡夫なり、本門寿量品の怨嫉の科あり。 日蓮聖人の云く本地は寂光、地涌の大士上行菩薩六万恒河沙の上首なり、久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心の第一の御弟子なり。」(『富要』5-10,11、『宗全』2-252,253)と述べて、日蓮の本地である上行菩薩に比べれば、天台大師智の本地である薬王菩薩が「見思未断の凡夫」とされており、日蓮を凡夫とする議論はない。
日有が日蓮を名字即の凡夫として積極的に規定することは、本因妙の仏としての日蓮本仏論への展開の布石であるが、そのような議論が日興から日道に至るまで見られないということは、日蓮本仏論がこの時代にはまだ存在しなかったことを示す傍証になる。
日蓮を名字初心の凡夫位に位置づけると同時に、『日格聞書』に「この上行菩薩も付属おわりてやがて下方に帰りたまひ、正像二千年の間にも出でず、末法今時上行菩薩の御再誕日蓮聖人と名乗り」(『富要』2-159)とあるように、上行菩薩の再誕という位置づけもされている。しかし日有の議論の中で、日蓮上行説を主張する箇所は非常に少ない。
それに対して日興から日道に至る大石寺派の文献には日蓮上行説は頻出する。『五人所破抄』には、日興の朝廷、幕府への申状を引用して、「日興公家に奏し武家に訴えて云く。 日蓮聖人は忝くも上行菩薩の再誕にして本門弘経の大権なり、・・・今末法に入つては上行出世の竟本門流布の時なり」(『創』1611、『宗全』2-799)と述べて、日蓮は上行再誕であり、その教えは天台宗とは異なることを明確にしている。
これは当時の他門流の多くが顕密体制の中で圧倒的な力を持っていた天台宗との対立を避けて、天台宗批判をせず、むしろ天台宗内の一派として活動しているという立場をとったことへの、大石寺派からの非難の意味を持っている。
日順の『摧邪立正抄』は大石寺派と日朗―日像門流との論争を示す格好の資料であるが、そこでは、「次に富士(大石寺派・・筆者注)の義に云はく・日蓮聖人は上行菩薩にて御座す、大宮方(日像門流・・筆者注)には迹化の菩薩と申すは僻見なりと云云」(『富要』2-47、『宗全』2-359)と述べて、大石寺派が日蓮=上行説を主張するのに対して、日像門流がさまざまな日蓮遺文を駆使して、日蓮=上行説を否定しているのが示されている。
この日蓮上行再誕説は日道の『御伝土代』でも、「日蓮聖人は本地是れ地涌千界上行菩薩の後身なり、垂迹は則安房の国長狭の郡東条片海の郷、海人の子なり。」(『富要』5-1、『宗全』2-236)と明確に述べられている。日興から日道に至る大石寺派においては、日蓮上行説を示す文献は多いが、日蓮本仏論を示す信頼に足る文献は皆無である。
『富士宗学要集』に収録されている基本にした資料の中には日蓮を仏であると明確に位置づけた箇所はない。しかしある種の論理的操作を行えば日蓮を仏として位置づけていると考えることができる。まず日有は『化儀抄』で仏身に因果の区別を導入して、本因妙の仏身と本果妙の仏身があることを、「本迹とは身に約し位に約するなり、仏身において因果の身在すゆえに本因妙の身は本、本果の身より迹の方へ取るなり」(『富要』1-76)と述べる。そのうえで「釈迦の因行を本尊とするなり、そのゆえは我等が高祖日蓮聖人にて在すなり」(『富要』1-78)という記述から、釈迦の因位の姿を日蓮であると位置づけていると解釈するならば、釈迦=本果妙の仏身、日蓮=本因妙の仏身と日有が考えているという推論も可能であり、本因妙の仏としての日蓮本仏論を日有が持っていたと見なしてもよいだろう。
なおこの論理的操作は八品派日隆が仏身を本因本果に区別し、本因妙の仏身=上行菩薩=日蓮とした解釈と同じである。日隆は『私新抄』の「種脱顕本事」において、本門顕本に二種類があり、釈尊在世の顕本は本果の成道を顕し、「本果所成ノ妙ハ本仏ノ脱益也」(『宗全』8-85)とし、それは「末法当時名字即ノ凡夫口唱の妙法下種ノ手本ニ非ズ」とし、この「本果妙覚ノ脱ヲ廃シテ本因妙名字即ヲ顕本」し、これが「末法当時下種ノ顕本」であるとする。そして下種の「本門顕本トハ久遠ノ仏凡夫ニテ名字即ニ居シ、或従知識或従経巻シテ知識ノ口ヨリ南無妙法蓮華経妙と受持受戒シ玉ヘリ、此時初植仏種子己来、名字乃至究境経六即成道し玉ヘリ、成仏ノ根本種子ハ名字即ニアレバ名字即ハ根本也、本果妙覚ハ枝葉也、」と述べて、下種の顕本を勝れているという勝劣派の主張を展開する。
そのうえで「久遠本因妙釈尊位と末法蓮祖ノ位ト一体也、位既ニ一位也、所行ノ妙法又一致ナルベシ、此時ハ釈尊モ名字即の凡人、日蓮聖人モ名字ノ凡人全同也、蓮師即釈尊、釈尊即蓮師ナルベシ」(同上)と述べて、久遠本因妙釈尊と日蓮が一体であることを主張する。
つまり『私新抄』において、日隆は理論的には日蓮本仏論を主張していると見ることも可能なのであるが、日隆の日蓮本仏論が日蓮正宗のそれと異なるのは、日隆は教主として久遠本仏の報身を認め、その報身内部に因果の区別により本果妙の報身と本因妙の報身との位を区別するが、本因妙の仏が修行の末に本果妙の仏になったとして、本因妙の仏と本果妙の仏が別の仏であるとは考えてはいない。そのうえで本因妙の仏の位と日蓮の位は名字即の凡夫のままで唱題修行するという点で同体であるとしているのである。それに対して、日蓮正宗では本因妙の仏と本果妙の仏を別の仏と解釈し、本因妙の仏は末法に日蓮として出現し、本果妙の仏はインドの釈尊として出現したと考える。
日隆は、本因妙の久遠本仏の報身は「或従知識或従経巻」(なおこの言葉は『法華玄義』第一部七番共解第三章生起で名字即の修行として述べられている。2008/8/23付記)により、またその知識から「南無妙法蓮華経を受持受戒」して修行したと述べて、久遠本仏の前に仏が存在したということは言わないが、既に南無妙法蓮華経を知っていた知識(先覚者)の存在を認めていたが、日蓮正宗ではたとえば『要義』では「久遠元初、未だ仏法や一切万物の名目も存在しない古の時点において、一人の聖人が顕われた。宇宙間の一切の現象と実在を直観によって通暁され、混沌より万象に至る事理を了解し、一切の分立と統合の原点となる不思議な法を覚知されたのである。・・・これを聖人は妙法蓮華経と名づけられた。」(『要義』81)と述べて、本因妙の仏は無師であり、自身の直観によって成仏の法を覚知したとしている。
この記述は『当体義抄』の「至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり」(『創』513、『定』760)という記述によっているが、この『当体義抄』には他の日蓮本覚思想文献と同様に真蹟、直弟子古写本もなく日蓮自身の親撰であると見なすことは軽々にはできない。
日蓮正宗はこの無師成道の本因妙の仏=久遠元初仏と本果妙の久遠実成仏とは別の仏であると解釈している。その理由のひとつは『三世諸仏総勘文経相廃立』に「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき、後に化他の為に世世・番番に出世・成道し在在・処処に八相作仏し王宮に誕生し樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ」(『創』568、『定』1698)と述べていることを、「五百塵点劫の当初」すなわち久遠元初に即座に凡夫から仏になった久遠元初仏は、修行して仏となった久遠実成の仏とは別であるという解釈をしていることによる。この『三世諸仏総勘文経相廃立』にも真蹟、直弟子古写本はなく、日蓮の親撰であるとみなすことには困難がある。
ところで『当体義抄』の記述には曖昧なところがある。この聖人は南無妙法蓮華経を悟り、一度唱題しただけで成仏したのか、それともある程度の期間の修行をして妙覚果満の如来になった、すなわち成仏したのか、どちらなのであろうか。「因果倶時」という言葉は前者であることを暗示するが、そうなると本覚思想に特有の問題、すなわち同じ法を修行しているわれわれが一度の唱題では妙覚果満の如来になったとは自覚できないという問題に関して、理由を探す必要が生じる。
『三世諸仏総勘文経相廃立』では凡夫であった久遠元初仏は即座に成仏したと述べているが、もともと本因妙の仏となる久遠元初仏即ち日蓮とわれわれ凡夫とは根本的に異なっているという凡夫本仏論における総別の二義による差別の論理が生じることになる。
本仏日蓮の場合は自分で仏種を発見し、修行し、即座に成仏したが、われわれは本仏日蓮とは異なっているから、自分で発見することもできなければ、即座に成仏することもできず、せいぜいできることは日蓮の発見した仏種を正しく継承した大石寺住持に指導されて、いつか成仏することができるでしょうということでしかない。(『要義』は日蓮正宗の教義をそのようなものとして記述している。)。
あるいはもし後者のようにある期間の修行の結果成仏したというなら、本因妙の仏が修行(菩薩道)の結果本果妙の仏になったということになり、両者を別の仏にする必要がなくなる。
さらに日隆と日蓮正宗の相違を言えば、本尊の人法論においては、日隆は本尊としては妙法五字の法身を中心とした曼荼羅本尊を根本と見なし、本仏の応身である日蓮御影を助縁としては容認しても積極的には本尊とはせず、本尊に関する人法一箇論を採用しないので、特に日蓮本仏論を強調する必要がない。
日隆は後者について、「末法ノ我等一反モ奉唱我等即蓮師、蓮師即地湧、地湧即本地一仏ノ釈尊、釈尊即南無妙法蓮華経也、・・・仏ハ是所生妙法ハ是能生」(『宗全』8-86)と述べて、釈尊と妙法の同体を言いながらも、基本的には法勝人劣の立場を堅持する。
しかし日蓮正宗は久遠実成釈尊像ではなく日蓮御影を人本尊として積極的に主張するから、日蓮御影本尊論を根拠づけるものとして日蓮本仏論は不可欠の主張となっている。もし日蓮正宗に日蓮御影本尊論がなければ、日蓮本仏論を積極的に主張する必要はない。そのことは日興から日道に至る『本尊問答抄』を根本として曼荼羅本尊のみを認める伝統の中に示されている。
なお日蓮自身の信頼のおける文献には本因妙の仏と本果妙の仏を分ける思想は見られない。日蓮には『観心本尊抄』に「五百塵点乃至所顕の三身」=「無始の古仏」(『創』247、『定』712)、あるいは『一代五時鶏図』に「天台宗の御本尊」=「久遠実成実修実証の仏」、「久成の三身」=「無始無終」(『創』632、『定』2342)という表現があり、『法華経』で説かれる久遠実成仏が無始無終の三身であるという考えが日蓮の文献上に顕れた基本的見解であると思われる。そこには本因妙の仏と本果妙の仏を区別する考えはない。
また凡夫である日蓮が本因妙の仏であるということが言えるためには、凡夫本仏論がすでに形成されていなければならないが、そのことを示す日蓮本覚思想関係の御書の真蹟、直弟子写本は全くなく、また日興から日道に至る日蓮正宗内部の信頼できる資料には、凡夫本仏論を述べた御書の引用も全くない。
大石寺四世日道の『御伝土台』には「本門教主は久遠実成無作三身・・・の本仏なり」(『富要』5-11、『宗全』2-253,254)とあり、この時代においては大石寺でも、まだ久遠実成=無作三身説であり、久遠実成仏と区別される久遠元初仏を想定していなかったと考えることができる。
久遠実成仏とは異なる久遠元初仏という思想を初めて明確にしたのは、日時写本の『本因妙抄』の「二十四番勝劣」の記述、「彼は応仏昇進の自受用報身の一念三千一心三観・此は久遠元初の自受用報身無作本有の妙法を直に唱う」(『創』875,876、『宗全』2-7,8)である。筆者は『観心本尊抄』などの最も信頼のおけるテキストと整合性がないことから、『本因妙抄』は日蓮の撰述ではないと考えている。
『本因妙抄』は天台本覚法門の「三大章疏七面口決」を基礎テキストにしてその一部を日蓮法華宗の立場で読み替えた文献であり、きわめてオリジナリティのないテキストであり、日蓮法華宗が天台本覚法門と同様な血脈相承主義に犯された時代の産物であると推定される。私は『本因妙抄』は関東天台教学の中心地仙波で学んだ日時の作だと考えている。
なお三位日順の『本因妙口決』をもって、日時以前に『本因妙抄』が存在したことを主張する人もあるが、『本因妙抄口決』には、三位日順が生きていた時代には使われなかった「日蓮宗」という用語が頻出している(『富要』2-72、『宗全』2-298)。彼のほかのテキストでは「法華宗」という用語を使用している。「日蓮宗」という用語は、天台法華宗が、日蓮系の教団に対して、「法華宗」という用語の使用を禁止した天文法華の乱以後に、自称として使用するようになるある種屈辱的な意味を帯びた用語である。また三位日順のほかの著作との思想内容上の相違も大きく『本因妙抄口決』を三位日順の著作とするのは、困難である。
資料的に問題のある『日格聞書』には「上行菩薩の御後身・日蓮大士は九界の頂上たる本果の仏界と現れ、無辺行菩薩の再誕・日興は本因妙の九界と現れおわんぬ。しかれば本果妙の日蓮は経巻を持ちたまへば本因妙の日興は手を合わせ拝したまふこと・師弟相対して受持斯経の化儀・信心の処を表したまふなり」(『富要』2-160)という記述があるが、その前の部分には「日要仰せに云く」という記述もあり、この聞書の記述がすべて日有の談義の聞書であるということには疑問が残る。この資料は日蓮、日興の後継者である法主とその弟子である僧侶との師弟関係を強調するものとして使用されたが、他の聞書の記述と著しく整合性を欠く記述に関しては積極的に日有の見解として使用することは差し控えるべきであろう。