日蓮正宗の教義についての学者による研究は、執行海秀『日蓮宗教学史』や望月歓厚『日蓮宗学説史』で、日蓮宗各派の教義の歴史的展開の一部として、考察されているほかに、執行海秀の遺稿を編纂した『興門教学の研究』ではこの問題に焦点を絞った考察がなされている。執行はまた日蓮宗教化部長金子弁浄編『創価学会批判』の「教学面からの批判」を執筆している(執行1 p.2)。
これらの研究に共通しているのは、文献学的考察に基づいて、日蓮正宗の教義の歴史的展開過程を明らかにするということであり、それによって、現在の日蓮正宗の最も特徴的な教義である日蓮本仏論は、日蓮正宗の派祖である日興(1246-AN52)の教学思想とは異なっていることを証明するということである。
これらの研究に対しては、創価学会教学部編『日蓮正宗創価学会批判を破す』などの反論がある。だが創価学会による反論の問題点は、文献学的考察において、直接文献を確かめた上で反論するということができなかったということにある。
日蓮正宗はいくつかの重要な文献に関して、日興正筆の存在を主張するが、その主張を客観的に証明するための文献資料の公開をしていなかった。部外者の学者のみならず、在家信者の創価学会員にも、また日蓮正宗の一般僧侶にも公開していなかった。
さらに創価学会は日蓮正宗の在家団体であり、日蓮正宗の教義の解釈権を持たず、教義の最終的解釈権は日蓮正宗にあるから、創価学会がそれなりの自立的な研究により、日蓮正宗の公式見解とは別の見解を発表するということも制度的に不可能であった。しかし現在創価学会は日蓮正宗とは教義的には無関係な教団となったのだから、日蓮正宗とは無関係にその教義の説明責任を果たさなければならない。
現在、第一次宗門問題以後に日蓮正宗から分離した細井日達前法主系の僧侶集団である正信会の僧侶たちが立ち上げた興風談所の地道な研究により、『日興上人全集』(以後『興全』と略称)『日興上人御本尊集』が出版され、日興正本の写真版により、従来未公開であった日興の資料的問題はある程度解決済みとなっていると思われる状況にある。
もっとも編者大黒喜道は「『日興上人全集』正編編纂補遺」において本来は写真版ではなく古文書原本を参照すべきであるが、直接原本に接することができたのは数点のみであったことを述べ、「その原因は専ら文書の非公開性にある」(大黒p.321)という現状を指摘している。
これらの資料を駆使して、日蓮正宗の教義的問題に批判的検討を加えたのが、東祐介「 佑介 以下変更する。指摘があるまで、著者名の転換ミスに気づかず、著者に対して大変申し訳なく思っています。また指摘してくださった方に感謝します。」の『大石寺教学の研究』である。これらの研究状況を踏まえて、日蓮正宗の教義を再検討し、創価学会が日蓮正宗のどの教義を否定し、どの教義を継承すべきかを試論的に検討することが、私の『創価学会研究』理念編第1部日蓮正宗論の課題であるが、本論はその一部をなす日興の教学思想の諸問題を検討する。(結果的に紙幅の関係で今回は(1)資料編のみを公表する。)
第二次宗門問題が発生して以来10年以上が経過して、創価学会は会則変更により日蓮正宗との教義的関係を会則からは消去したが、創価学会自身の教義書を未だに発行していない。(これは私の認識不足で、創価学会は2002年に『教学の基礎』という教義書を発行している。「まえがき」に「本書は、腐敗した日蓮正宗宗門の権威主義を打ち破り、民衆仏法の一段と力強い展開を示してのち、初めてまとめられる教学の手引き書である。」とあるように、日蓮正宗から分離したことを明確にしている。引き続いて「まだ不備なところもあると思われるが、読者諸氏のご意見をいただきながら、改訂を重ねつつ、よりよいものにしていきたいと決意している。」とあり、今後の改訂を展望している。私が読んだ範囲では、救済論に関して致命的な欠陥があると思われる。すなわち「第1章」の「(七)」において「全民衆の救済」のための「弘安二年の大御本尊」に言及しながら、「第五章」「第二節」「第一項御本尊」においては「弘安二年の大御本尊」にはまったく言及がなく、「御本尊は、根源の妙法である南無妙法蓮華経を体得された日蓮大聖人の御生命を顕されたものといえます」と述べているだけである。この議論では日蓮が図顕した曼荼羅であればどれでもいいという議論を否定することはできない。日蓮正宗の教導下にあった時代には、それぞれの時代における日蓮の代理人(「三世の諸仏高祖開山も当住持の所にもぬけられる所なる」(日有『化儀抄』14))である大石寺住職が、「弘安二年の大御本尊」を書写した「御本尊」を信者に授与するという、「弘安二年の大御本尊」に込められた本仏日蓮の救済のカリスマが、大石寺住職という聖職カリスマを媒介にして、信者に授与される「御本尊」に移されるという議論となっていた。しかし分離後においても、もし「弘安二年の大御本尊」を日蓮の「出世の本懐」として認め、そこに救済のカリスマを認めるならば、その「弘安二年の大御本尊」と創価学会が会員に授与した本尊との救済論上の関係を論じなくてはならないだろう。「一閻浮提総与(全民衆に与えられた)」というだけでは、どこの日蓮系教団の曼荼羅本尊であっても、「弘安二年の大御本尊」をモデルにしたと言えば、救済のカリスマが移転するということになろう。この問題は複雑なので、『日興の教学思想の諸問題ーーー思想編』で議論する。2013.11.13付加)私の理解では、創価学会は日蓮本仏論のひとつの派生形態である法主=日蓮代理人説(血脈相承説)に関して、現法主の血脈断絶を主張しているとは思われるが、日蓮正宗の教義はそもそも法主の不在を想定していない教義であるから、そのような事態が生じた場合に、日蓮の救済の秘儀はどのようにして継承可能かという新しい血脈の理論が必要となる。
正信会は、創価学会と同様に現法主の血脈が断絶したことを主張したが、日蓮からの血脈が断絶したという事態を避けるために、『日興遺誡置文』を根拠にして血脈二管論を主張し、血脈は法主だけでなく同時に僧侶集団にも継承され、法主の血脈が断絶した場合は、僧侶集団によって継承された血脈を新しい法主に注入するという議論をしている。
これは日蓮正宗の歴史において異流義の要法寺系の僧侶によって法主が継承され、法主の血脈が断絶した時代にあっても、僧侶集団に継承された大石寺の血脈がやがて日寛に注入され、日寛が法主となり本来の大石寺教学を完成したという歴史を説明する議論としてはそれなりに説得力を持つ。(これに対して日蓮正宗はその時代にあっても法主に正しい血脈が継承されており、異流義である造仏論を主張した法主はいなかったと主張している。現在の創価学会は正信会と同じく法主に異流義があったと見ている。)
血脈問題に関して創価学会はかっては血脈二管論には否定的であり、現在は御書を通じて得た信仰にも日蓮の救済の秘蹟はあるとする信心の血脈論を採用しているようであるが、この議論は実は室町時代の顕本法華宗の派祖である玄妙日什(AN33-111)の経巻相承論と表面的には同じであると考えられるかもしれない。
なるほどこの経巻相承については例えば創価学会の『折伏教典』においては「仏法の真髄は血脈相承・師子相承といって、かならず面授口決のご相伝によらなければならない。・・・しかるに日什の場合には予言の経証もなく、面授口決ももちろんないままに、経巻相承と立てて、自己の正統を主張するのは、仏法を破壊する根本原因となるのである。日蓮宗なら、どんな宗派でも御書と法華経を手にするのはとうぜんであるが、それでいて多数の邪流邪義を生ずる理由は、まったく経巻相承という増上慢をおこすからである。」(『折伏教典』 p.132)と批判を加えている。
創価学会の信仰の正しさは少なくともどの法主からも面授口決されていないようであるから、この批判はそのまま現在の創価学会にも当てはまるのではないかと質問されたら、どのように回答するのだろうかという疑問が生ずるかもしれない。それに対しては一例として以下のような回答が可能であろう。
「創価学会は唯授一人面授口決による血脈相承という日蓮正宗の伝統法義を遵守してきたことは確かであり、その法義自体が誤っているとは考えてはいないが、細井日達法主から阿部日顕への面授口決による血脈相承という事実があったかどうかに関しては、これまでのさまざまな法主の地位をめぐる裁判の過程で、阿部日顕が、自分に相承があったことを、説得力をともなって証明できなかったことから、血脈相承がなかったと判断している。面授口決による血脈相承が存続している限りは、それを無視して御書を根本にして信心の血脈を主張するのは、経巻相承にあたるかもしれないが、現在面授口決による血脈相承を受けた法主は誰もいないのであり、また法主による血脈相承が断絶したという日蓮正宗では全く想定もしていない事態が生じたのであるから、日蓮の指導を記した御書から直接学ぶ以外に成仏への道はない。」という創価学会の回答が予測される。
正信会の血脈二管論は、僧侶集団にも法主による血脈と同等の血脈が流れているために、法主による血脈が断絶した場合は、僧侶集団の血脈から再び法主への血脈を修復、復活することが可能であることを主張している。しかしこの議論がどのように文献的に根拠づけられるかに関しては、かなりの困難が指摘されている。
創価学会は法主による血脈が断絶すれば、修復不可能という立場に立っている。わたしはこの創価学会の立場はそれなりに整合的な考えであると考えるが、問題は法主が永遠に不在となったという現状を踏まえて、どのような教義を形成していくかということである。
日蓮正宗の教義は、日蓮、日興から唯授一人面授口決による法主の存在を大前提にして、形成されている。日蓮正宗管長や大石寺住職は選出可能であるが、それは法主ではなく、法主がいなくなれば、日蓮正宗に伝わった日蓮の救済の秘儀を人々に伝える手段が断絶することを含意しているのが日蓮正宗の教義であり、そのような事態が現実に起こってしまったと創価学会が判断する限りは、説得力のある新しい教義をできるだけ早く形成する責務があると私は考えている。
また、このほかにも、信心の血脈は広宣流布を目指す日蓮直結の信心であるとして、法主の血脈よりも根本的なものとする考え方が創価学会にはあるが、この点についても、いわゆる経巻相承との相違を明示することが要請されると考える。
先にあげた立正大学の学者たちは、日蓮正宗の教義と日興の教義とは異なっていることを主張しているが、このことは日興から日蓮正宗の法主への血脈相承を否定するということを意味している。
日興教学と日蓮正宗教学は同じであるのか、それとも異なっているのか、私なりの検討を加えたい。そのためには、第一段階として日興の確実な正本資料を基礎にして、どのような日興の教学思想が構成できるのかということを明らかにし、第二段階として写本資料しかないが、偽作の可能性が薄いと多くの研究者によって認められている資料も使用すると、どのような日興の教学思想が構成できるのかを明らかにし、第三段階として日蓮正宗の日興の教学思想に関する主張の資料的問題点を検討したい。(なお以下の論述では文献が日蓮滅後何年頃に成立したかが重要な論点になるので、日蓮のなくなった1282年(弘安5年)をAN1年として、以下『富士年表』の年代記述を基本にしてAN年代を表記する。)
日興がどのような教学思想を持っていたのかについて検討するにあたって、どのような文献的資料が存在するのか、またその文献的資料が信頼できるのかどうかを検討することは、学問的には必要な手続きである。
興風談所による『日興上人全集』は日興の真筆が現存している文献(疑義のある文献も含む)を正編とし、日興撰として写本で伝承された文献を続編として収録している。文献学的な考察も丁寧にしてあり、多くの写真版も掲載され、信頼するに足る資料集であるが、『日蓮宗宗学全書』(以下『宗全』と略称)第2巻所収の日蓮撰日興相承とされる相伝筆録分は収録されていない。
日蓮正宗の教義と日興の教学思想との関係を検討する場合、この日興相伝筆録分の検討を欠かすことはできないので、これらについての文献学的考察も必要な範囲で行ないたい。以下で述べることは先行研究を私なりに確認する作業であり、三証の中の文証を確定するという基礎的な作業にあたるが、多くの読者にとっては退屈な部分となることと思われる。
執行海秀は『興門教学の研究』において、『宗全』第2巻の構成に準拠して、日興関係文献として、次の六種類に区分して、資料的価値を検討している。(執行1 p.97)
(1) 日蓮聖人より唯受一人相承の血脈相伝類
(2) 日蓮聖人の口決を日興が筆録した口伝類
(3) 日興自身の述作した著書類
(4) 日興の口述、あるいは講義を弟子が筆録した講述類
(5) 日興の消息類
(6) 日興の記録した文書、要文類、申状、置文等
私の見るところでは、執行の文献学的検討は充分なものとは言えないが、日興関係文献のまとまった考察としては他にないようなので、以下においてこの区分に従って、文献学的検討を加えたい。なお文献の名称は『富士宗学要集』(以下『富要』と略称)に従い、『宗全』の名称が異なる場合は( )で表記した。『興全』が資料集としては最適であるが、一般には入手しにくいので、『富要』と『宗全』からの引用を主とする。
この部類に算入されるのは、『本因妙抄』(『法華本門宗血脈相承事』)『百六箇抄』(『具謄本種正法実義本迹勝劣正伝』)の両巻血脈書である。また教義的には重要ではないが、血脈相承を証拠立てるとされる『身延相承書』(『身延相承』)『池上相承書』(『池上相承』)の二箇相承書も便宜上ここに含めておく。
『本因妙抄』(『富要』1-1『宗全』2-1)の最古の写本は大石寺六世の日時(?-AN84-125)写本とされている(『富要』1-8)。ただし日時写本には執筆年次が書かれていないうえ、写本の原本が日興正本であったかどうかも言及されていない。
東佑介の『大石寺教学の研究』によれば、興風談所の大黒喜道が『興風』第14号の「日興門流における本因妙思想形成に関する覚書(一)」において、『本因妙抄』の日時写本の字体が、日時の他の文献の字体と異なっていることを指摘し、日時写本ということに疑義を提出していることが紹介されている(東 40)。
私は活字資料を基礎にして考察しているので、活字資料になる以前の写本資料の作者の確定という問題は既に解決済みという前提で議論していたのだが、この問題が解決済みでないということは、『本因妙抄』と日蓮―日興の結びつきへの信頼が一層揺らぐということを意味している。
次に古いのは要法寺日辰(AN227-295)の写本(AN279)である(『宗全』2-10、『富要』1-8)。『宗全』は日辰本によっているが、『富要』は諸本を校合したとあり、『宗全』の最後の系図の部分が『富要』では欠落している。日辰本の奥書によると、日辰は、日興の直弟子である日尊(1265-AN64)筆とされる写本を写したとあるが、日辰自身はその写本に日尊の花押がなく、字体も日尊筆であるかどうかを確認できないことを認めている(『宗全』2-10)。
したがって日尊本が発見され、それが日尊自筆であることが証明されれば、『本因妙抄』が日興―日尊と継承されたことを推測できるが、日尊本の所在が確認されていない現状では、『本因妙抄』を日尊の時代まで遡及させることはできない。
『本因妙抄』の引用文献に関しては日興の薫陶を受けた三位日順(AN13-75-?)の『本因妙口決』(『富要』2-69 『宗全』2-294 執筆年次不明 写本は日棟本(写本年代不明)、日俊(AN356-410)本)があり、次いで日眼の『五人所破抄見聞』(『富要』4-1 『宗全』2-503 AN99? 写本は日諦本(AN377))がある(下記注)。
もし日順の『本因妙口決』が日順自身の作であるなら、日時写本より古いことになるが、その文章の中に日順の活躍当時には決して使用されなかった「日蓮宗」という用語が使用されていることから、後代の偽作とみなされている。
(下記注)で考察するように日眼が妙蓮寺5世日眼(?-AN88-AN103)であるとすれば、ほぼ日時と同時代の引用である。これらのことから、日蓮正宗に好意的に見ても、『本因妙抄』は文献学的には日蓮滅後100年前後までしか遡れない。
内容的にも現行資料のままでは、日蓮滅後に日蓮宗各派の中で論争となった本迹一致、勝劣の論争に言及しているから、日蓮から日興への直授とはみなせない。堀日亨は『富要』では「後加と見ゆる分には一線を引く」(『富要』1-8)として、現行資料から時代的に適合しない部分を削除しているが、その削除が妥当であるかどうかの文献学的根拠は何も示されていない。
執行は『本因妙抄』は日時によって書かれたことを示唆している(執行1 p.23)。東は大黒の説を踏まえて日時写本説を否定して、また堀日亨の『隠れたる左京日教師』の記述も参考にして、日尊門流による偽作説を主張している(東 p.42)。
日時写本への疑問が生じてくれば(私は堀日亨の古文書鑑定能力をかなり信用しているのだが、後述の『滝泉寺申状』が日興筆であるという堀日亨の鑑定に対して、堀日亨が活躍していたときには、まだ未公開であった富木常忍の直筆資料の写真版と比較検討して、興風談所の菅原関道が富木常忍筆という見解を発表したことを見れば、古文書鑑定の難しさ、資料の公開の必要性を実感する)、私には『本因妙抄』が誰によって作成されたかの判断はできないが、日興との結びつきが文献学的に証明できないことだけで、この資料を日興の教学思想の解明のために第一段階や第二段階で利用することを差し控える十分な理由となる。
(注) 宮崎英修は「富士戒壇論について」の中で、『五人所破抄見聞』に伝奏衆として勧修寺、広橋氏が挙げられている点を取り上げて、この両者が伝奏として活躍するのは、AN190年頃であり、ゆえに日眼はAN100年頃の妙蓮寺5世日眼ではなく、AN190年頃の西山本門寺8世日眼であると主張している(宮崎 p.652)。
これに対して当時日蓮正宗教学部長であった阿部信雄(日顕)は、資料は明記しなかったが、両者が伝奏であった時代は南北朝以来であり、妙蓮寺日眼とすることに問題ないという反論をした(阿部1 p.30)。
同僚の坂井孝一に尋ねたところ、足利義満のころには伝奏が制度化されており、当時の資料、例えば三条公忠の『後愚昧記』などを調べるとよいだろうと教えていただいた。それを調べる前に義満時代を描いた今谷明の『室町の王権』を調べたところ、今谷は上記資料などを使用しながら、義満がそれまで幕府との折衝役であった朝廷の武家申次(九清華家の一つである西園寺家が担当)に代えて、それより身分の低い伝奏衆をあたかも自分の部下のように使用していたこと(今谷p.42)、伝奏衆として勧修寺経顕、万里小路嗣房、日野資康、広橋仲光を挙げ、特に広橋仲光は義満の意を受けて、寺院の人事を裁定していたことを述べている(今谷 p.68)。
このことから見ると義満時代のAN100年頃には伝奏衆が制度化されていたのであり、日眼を妙蓮寺5世日眼とすることを伝奏衆という論点で否定するという宮崎の議論は破綻している。このことは日眼を妙蓮寺5世であると断定する理由とはならないが、宮崎のように無理な論拠で『五人所破抄見聞』の成立をさらに遅らせることにはそれほど意味のあることとも思えない。重要なのは『本因妙抄』の引用が日時写本(?)とほぼ同時期にまでしか遡ることができないということであり、日蓮、日興との関係を文献的資料によっては証明することができないということである。
「 東佑介は『二箇相承の真偽論』において、『五人所破抄見聞』の記述内容を検討し、日代・日仙の論争の記述内容から西山系ではないこと、本仏論に関して、左京日教に代表される在世は釈尊が本仏であり、上行が脇士となるが、末法では釈尊は脇士となり、上行が本仏となるという互為主伴論を展開していること(また日郷系の三河日要にも見られる)、また同じく左京日教の『穆作抄』(九州日向で著作)で展開される、代々の法主に妙法が伝わるという議論を展開していること、また大石寺三世の日目の業績を高く評価していることから西山日眼説を否定し、また妙蓮寺は日目系の寺院であるという論拠がないことから、妙蓮寺日眼説も否定し、結論的には日目の弟子日郷が開いた保田妙本寺の、地方の中心拠点である日向の日郷門徒の中で形成され、日向出身で後に保田妙本寺を継承した三河日要も左京日教の議論を受け入れたと推測している(東
2006-1, p. 40-47)。この議論では筆者日眼は事跡不明となるが、互為主伴説がAN100年ごろに既に妙蓮寺にあり、その思想が後代の大石寺九世日有には見られず、その後の左京日教、三河日要に見られるというのも不自然であるから、思想史的方法論から見れば、東の議論はある程度妥当であると思われる。」
『百六箇抄』(『富要』1-9『宗全』2-11)の写本は要法寺日辰本が最古の写本として現存している。その奥書によればAN31年に日興から日尊に授与され、AN61年日尊から日大・日頼に授与された。しかし日辰自身が誰の写本によったのか、またいつ書写したのかは不明である。(『百六箇抄』の内容は、『宗全』『富要』とも同じであるが、創価学会版の『日蓮大聖人御書全集』では著しく異なっており、日尊系統から伝承されたことの記述が削除されている。)
また堀日亨は『富要』において『百六箇抄』の多くの箇所とともに、「弘安三年・・・日蓮在御判」の日付、署名部分を後加として二線をつけて削除している(『富要』1-23)。『本因妙抄』の日付、署名部分には後加記号がつけられていないのに、『百六箇抄』に付けられているのは、いかなる意味があるのか不明であるが、堀日亨が『百六箇抄』を日蓮の相伝書とは見なしていないということなのだろうか。
『百六箇抄』の引用文献としては、日尊系の住本寺本是院日什(AN147-208-?) (後に大石寺に帰服して左京日教と名乗る)が大石寺9世日有に帰服する前に書いた『百五十箇条』の中に、「百六箇条の本迹口決」(『富要』2-180)とあり、またその中に「文明十二(AN199)年」(『富要』2-211)の語が見えるので、日蓮滅後200年頃には成立していたと推測できる。左京日教の帰服以前に大石寺に『百六箇抄』が存在していた文献的証拠はない。
日朗門流から派生した勝劣派の日陣門流に所属する越後本成寺8世日現(AN178-233)が書いた『五人所破抄斥』(執筆年代不明)に「百六箇等種々異義」(『宗全』7-182)とあり、『百六箇抄』が引用された『百五十箇条』の執筆後まもなく他門流にもその内容が知られ、『百六箇抄』が偽書として批判されたことがわかる。
以上のことから『百六箇抄』も日興相伝として認定するに十分な文献学的証拠は見出せないので、この資料も日興の教学思想の解明のために第一段階、第二段階で使用することは差し控えるべきであろう。
二箇相承書(『宗全』2-33)に関しては『宗全』では単に古写本を校合したとあるだけで(『宗全』2-34)、写本がどの時代に遡れるのか不明である。『富士年表』によれば、AN187年の住本寺日広(?-AN187-206)の写本がある。
堀日亨は『富士日興上人詳伝』(以下『詳伝』と略称)で天正9 (AN300) 年に正本が紛失したと述べているが(『詳伝』 p.140 ただし本文は「天文九年」と誤植されている)、そのとき紛失した文書が正本であったという根拠は充分ではない。その紛失以前のAN278年に要法寺日辰が北山本門寺にあった日蓮自筆正本とされる文書を臨写したが、日辰写本によっては正本とされる文書の字配は確認できても、筆跡は日蓮筆とは確認できず(臨写本は筆跡もできるだけ似せて書写するのが通例であるが)、堀日亨は佐渡世尊寺蔵の日健(AN280-344)写本も同じ字配であったことから、日辰写本が信頼できることを主張しているにすぎない(『詳伝』p.155)。
二箇相承書の引用に関しては、既に『本因妙抄』の項で述べた日眼の『五人所破抄見聞』に「日蓮聖人之御付嘱弘安五年九月十二日、同十月十三日の御入滅の時の御判形分明也。」(『富要』4-8)とある。したがってAN100年頃には二箇相承書が成立していたと推定できる。
この二箇相承書が日蓮から日興に直授されたということは、日興在世の文書では確認できないので、この資料も日興の教学思想の解明のためには第一段階、第二段階で使用できない。
「追記 上述の追記で述べたように、『五人所破抄見聞』の成立時期をAN100年頃とするのは、思想史的に無理がある。なお東佑介は『二箇相承の真偽論』で、二箇相承の成立時期に関して、日興の下で重須学頭として活躍した三位日順の『摧邪立正抄』の「大聖忝くも真筆に載する本尊・日興上人に授くる遺札には白蓮阿闍梨と云云」という記述に注目し、「白蓮阿闍梨」という尊称が使われている文献を検討し、この遺札に該当するのは、二箇相承しかないと判断し、その偽作者も三位日順であろうと推測している(東 2006-1, p. 62-64)。東は「 遺札」に注目しているが、私はその前の「真筆に載する本尊」に注目している。現存する日蓮筆の曼荼羅本尊には「白蓮阿闍梨」あるいは「日興」宛の曼荼羅はない。六老僧の日昭などにはその名を示書した曼荼羅本尊を授与しているのに、なぜ日興に授与した本尊がないのか不思議に思っていた。大石寺では戒壇本尊を日興に与えた本尊であるとするが、三位日順は「白蓮阿闍梨」という示書のある本尊があると述べている。その曼荼羅本尊はどうしたのだろうか。日興が書写した曼荼羅はすべて「滅(度)後二千二百三十余年」となっているが、戒壇本尊は「二十余年」となっている。日興が書写したオリジナルの本尊は戒壇本尊ではなく、「三十余年」と書いてある本尊である蓋然性が高いが、その本尊が三位日順が言う「白蓮阿闍梨」という示書がある曼荼羅なのだろうか。日蓮から与えられた文書類を厳重に保管した中山法華経寺でも、かって存在した冨木常忍に与えられた曼荼羅本尊が所在不明となっている現状を考えれば、「白蓮阿闍梨」宛の曼荼羅も紛失したという可能性もある。そしてまた、同様に白蓮阿闍梨宛の遺札も紛失したかもしれない。現存する資料から判断すれば、遺札に該当する資料は二箇相承であるという東の議論はそれなりの説得力を持つが、『摧邪立正抄』においては、御書の真偽問題がテーマにされているのに、わざわざ周辺で偽作された二箇相承を議論の中で使用するだろうか。私はいまいち腑に落ちない。もっとも「阿闍梨」という示書のある曼荼羅本尊の存在にも疑念をもっているので、東の議論を適用すれば、二箇相承と同様に「白蓮阿闍梨」という示書を持つ曼荼羅本尊も偽作されたのだろうか。三位日順の記述の背景については、不明なことが多すぎる。」(2009/3/22)
[追記ネットでいろいろ検索していたら、『富士門流信徒の掲示板』の「富士宗学要集について」というスレッドでHNれんの発言(33)として「三位日順の摧破立正抄に「抑大聖忝載真筆本尊授日興上人遺札白蓮阿闍梨云々」(抑も大聖忝くも真筆の本尊に日興上人に授くと載せ、遺札には白蓮阿闍梨と云々)」とあった。つまりこの読みでは真筆本尊には「授日興(上人)」とあり、遺札には「白蓮阿闍梨」とあるという読みである。そうすると「白蓮阿闍梨」の示書がある曼荼羅をめぐっての上述の議論は無意味になるが、このれんの読み方のほうが無理が無いと思われる。
また日興へ授与された曼荼羅についてれんは「参考までに申し上げれば、御伝土代に記述される“日興上人”上人号授与の本尊ですが、安房妙本寺文書と日向定善寺文書により、重須の本門寺大堂本尊であることが分かっています。もっとも、こちらは安土桃山時代の天正年間の日代師門流の西山本門寺を首謀とする重須重宝の強奪後、西山が乱取りに遇い、所謂る、二箇相承原本と伴に紛失しております」(29)と述べている。
その資料として「参考までに、重須の本門寺大堂本尊裏書きに関する史料を提示しておきます。保田日要師御談・法華本門開目抄聞書
「聖人の御正筆富士におはしますなり。其の御筆に此の本尊は日蓮一期の大事なり、日興上人に授く、血脈の次第は日蓮日興云々」
安房妙本寺文書・本門寺大堂本尊裏書写
「本門寺大堂本尊裏書云、日興上人授、此本尊、日蓮大事也、日蓮在判。日興御自筆裏書云、正中二年十月十三日、日興在判・日妙授与」(千葉県の歴史・資料編中世3の妙本寺文書の一四二号・二四三号・二八一号)
定善寺文書・日蓮付属状写「釈尊五十年説法、相承白蓮阿闍梨日興、可為身延山久遠寺別当、背在家出家共輩者、可為非法衆、弘安五年十月[ ]日蓮在判、武州池上。本門寺大堂本尊裏、日興上人授、此本尊、日蓮大事也、日[ ]日興御自筆裏書云、正中二年十月十三日、日興在判・日妙授与」(宮崎県史・定善寺文書四号・五号)」(31)と述べる。
最後に二箇相承について「なお、定善寺文書所収の写本の末尾には「御正本富士日浄所持也」(重須六代日浄師のこと)とあり、重須日浄師の時代、室町中期に写本せられたことが分かります。本門寺大堂本尊裏書は二箇相承と一具に書写されているので、二箇相承はやはり本門寺大堂本尊裏書の「正中二年(中略)日興在判・日妙授与」の文言とともに、本来、日蓮−日興−日妙の正統を主張する為の文献であることは明らかですね。」(31)と述べる。
このれんの考察によれば、『御伝土代』に「さて熱原の法華宗二人は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と(日興上人に授与するの意味か)御本尊に遊ばすのみならず」という記述にある弘安二年に日興に授与された曼荼羅は重須本門寺大堂本尊として継承され、その本尊は天正年間の西山・重須騒乱(AN300)の中で喪失されたとするのである。「定善寺文書」で言及される重須日浄は明応二年(AN212)に亡くなっており、また保田日要は永正十一年(AN233)に亡くなっているが、この頃にはまだ重須の北山本門寺に日興に授与された弘安二年の曼荼羅があったのであろうか。なかなか私では眼の通すことの出来ない資料を使用した、貴重な教示であると思われる。(2012/3/02)]
「追記 池田令道『富士門流の信仰と化儀』の「第5章師弟子の法門」の「『二箇相承』の考察」でも「一つは、二箇相承そのものが文献的に信頼できないこと三師伝や聞書類などの後の有力史料が二箇相承について沈黙していることも含めて。二つには、上代の門下全般の状況と二箇相承によって想定するそれとの懸隔があまりに大きいこと六門徒同格と日興上人一人を付弟にすることとの相違の大きさです。」と述べて、二箇相承偽撰説を主張する。http://home.att.ne.jp/blue/houmon/ikeda/kegi.htm」(2009/3/29)