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日興の教学思想の諸問題(1)−2

 

(2)日興筆録の口伝類

 この部類に算入されるのは、『産湯相承事』『寿量品文底大事』『教化弘経七箇口決大事』『御本尊七箇相承』(『御本尊七箇之相承』)『上行所伝三大秘法口決』『御義口伝』である。

 

 (a)『産湯相承事』

 『富士年表』によれば、『産湯相承事』(『富要』1-27 『宗全』2-35)の最古の写本はAN279年の要法寺日辰写本(現存するのは日辰写本を書写したAN347年の日精(AN319-402)本であるが)であるとする。しかし『宗全』にはそれ以前の左京日教の写本も存在しているとしている(『宗全』2-38)。
『富要』では年号、署名部分に後加を示す二線が引かれており(『富要』1-29)、堀日亨は日蓮の親撰であることを疑問視しているのかもしれない。なお『本尊論資料』には日興門流の相伝として日辰写本の後半部分が欠如した『御実名縁起』(AN215年 日意写本)が異本として記載されている(『本尊論資料』 p.335)
 『産湯相承事』の引用は、『百六箇抄』で述べた左京日教の『百五十箇条』にある(『富要』2-232)。したがって文献的にはAN200年頃には存在したと言えよう(ただしいくつかの異本のうちのどの『産湯相承事』が存在していたかは不明である)。
内容的には「国をば日本と云ひ、神をば日神と申し、仏の童名をば日種太子と申し、予が童名をば善日、仮名は是生、実名は即ち日蓮なり。・・・是生とは日の下の人を生むと書けり。日蓮は天上天下の一切衆生の主君なり、父母なり、師匠なり。」(『宗全』2-36,『富要』1-28)とあり、日蓮の出家名(仮名)が「是生房」であったという前提で記述されているが、日蓮自身は金沢文庫蔵の『授決円多羅義集唐決』の自筆写本の奥書において「是聖房」と書いている。日蓮が自分の出家名を間違って覚えていたということはありそうにないから、『産湯相承事』を日蓮親撰とみなすことはできない。
 なお日朗門流の相伝書である『当宗相伝大曼荼羅事』にも仮名が「是生」(『本尊論資料』p.280)とあるが、身延門流の相伝書である日意の『日蓮大聖人五字口伝』には「仮名ハ是性房」(『本尊論資料』p.178)とあり、左京日教の『百五十箇条』にも「是性」(『富要』2-232)とあり(このことは左京日教の日文字相伝は『産湯相承事』とは異なる異本であった可能性が高い)、日蓮の仮名は音で「ぜしょうぼう」と伝えられたが、漢字では伝わらなかったことを示している。また日道の『御伝土代』にも、日蓮の伝記が書かれた『法華本門宗要抄』にも日蓮の仮名は言及されていない。
 また『本尊論資料』には日常門流の日実筆とされる多くの相伝書が掲載されているが、その中には日興門流とは異なった『日文字相伝』もあり、他の門流にも法華経神力品の上行菩薩を喩えた文に即して、日蓮を日月と読むことの相伝も数種類ある。これらのことから考えると多くの日文字伝説のひとつである『産湯相承記』を日蓮撰日興相伝とみなすことはできない。
追記 東佑介は『産湯相承事の真偽論』において、種々の考察を加え、特に出雲の日御碕神社に関する記述に注目して、出雲の日尊門流において、AN140年以後に偽作されたと見ている(東 2007-1, p. 17-24)。日御碕神社に十羅刹女が祀られたのが特定の時期に限られるという神道研究が妥当であれば、東の結論も妥当であろう。」(2009/3/22)

 

 (b)『寿量品文底大事』 

 『富士年表』には『寿量品文底大事』(『富要』1-43 『宗全』2-44)への言及は全くないので日興の筆録であることを否定しているようだ。『富要』『宗全』では保田妙本寺14世日我(AN227-AN305)の弟子の日山(?-?)写本を最古としている(『富要』1-43『宗全』2-45)。『富要』では文末の「日蓮日興記」が後加記号により削除されている。
 引用に関しては不明であるが、内容的には『本因妙抄』を継承していると思われる。寿量品文底大事と命名されているけれども、寿量品のどの文に文底が秘沈されているのかという議論に立ち入っていない。また「一所の所判に末法に入りぬれば余経も法華経も詮無し乃至妙法蓮華経に余行を交へばゆゝしき僻事なりと遊ばさるゝ此の意なり」(『富要』1-43『宗全』2-45)という日蓮の御書の引用があり、また日蓮に対して敬語を使用している。この部分に後加記号が当然必要と思われるが、付加されていないのは、堀日亨が日蓮親撰を否定しているからであろうか。資料的には日興の教学思想の構成のためには使用できない。

 

 (c)『教化弘経七箇口決大事』

 『教化弘経七箇口決大事』(『宗全』2-39)については、写本は『宗全』では日山本が挙げられている(同)。しかし『富要』には収録されていない。内容的には法華経文上によって、法華本門宗と天台宗を含む他宗との相違の要点を七か条挙げたもので、日蓮=上行説であり、日興から日尊、日代への血脈相承を述べており、大石寺3世日目を除外している。『富要』に収録されなかったのは、編者堀日亨が日蓮―日興の口伝書とは認めなかったということだろう。ただし『富士年表』には1282年10月10日に日蓮がなくなる直前に日興に口伝したとある。この資料も使用不可である。

 

 (d)『御本尊七箇相承』

 『御本尊七箇相承』(『富要』1-31『宗全』2-41)については、写本は『宗全』では日山本が挙げられている(『宗全』2-44)。『富要』では年号と日蓮在御判に削除記号が付されている(『富要』1-33)。引用は不明であるが、日有より日格がAN177年に聞書したとされる文書に「本尊七箇・十四箇の大事の弘決之あり」(『富要』2-160)とあり、この時代には存在していたと思われる。(ただし、以下で述べる『本尊論資料』の『御本尊七箇大相承』を考え合わせると、どのような内容の「本尊七箇相承」が存在したのかは不明である。)
 内容的には、本尊を十界曼荼羅と規定し、そのうえで十界を日蓮の己心と解釈している。重要なのは本尊書写には「日蓮(在)御判」と書くことを明記し、さらに追加箇条で大石寺嫡々代々と書くことも明記し、その理由として歴代(大石寺住職)法主が日蓮の代理であることを明記している。日蓮正宗では最も重視される本尊相伝の書である。
 なお『本尊論資料』には日興門流の相伝書として『御本尊七箇大相承』が掲載されているが、そこでは相承の内容は七箇条であり、大石寺嫡々代々などの追加項目はない(『本尊論資料』 p.369)。この身延写本がいつ頃のものかは明記されていないが、他の相承書同様に、次々に後代の相伝継承者が付加していったことを推測させる資料である。その点ではこの『御本尊七箇相承』も使用できない。

 

 私の自宅の本尊は、北海道から上京してきたときにいただいた細井日達筆の形木本尊、その後阿部日顕筆の特別形木本尊、そして現在の日寛の形木本尊と変わってきたが、その本尊は、歴代法主が戒壇本尊を書写した本尊であると教えられ、ある時期までそれを素朴に信じていた。大石寺には数多く参詣し、戒壇本尊にも何度も目通りしているが、奉安殿の御開扉のときには、本尊に関する教義的な疑問は全く持っていない時代であったので、自宅の本尊と戒壇本尊との異同などには無頓着であった。正本堂の御開扉のときには、あまりにも距離がありすぎて戒壇本尊に何が書いてあるかはほとんど読み取れなかったのが実情である。現在ではweb上で戒壇本尊の写真が公開され、戒壇本尊に何がどのように書かれているかが明確にされている。
 それを調べてみると、歴代法主による戒壇本尊の書写という説明にそれなりの疑問が生じてくる。戒壇本尊の讃文には「仏滅後二千二百二十余年」とあるのに対して形木本尊の讃文には「仏滅度後二千二百三十余年」とある。普通書写するならばわざわざ年号を変えて書写することはありえないと思うのだが、どうだろうか。
また戒壇本尊には中央の日蓮の署名の下に花押が描かれているが、形木本尊には花押の代わりに「在御判」の文字が書かれている。これは、花押は本人しか使用してはならないという暗黙の前提があるから、説明がつく相違である。また戒壇本尊にはない大石寺住職の名前と花押が形木本尊には書かれている。これも書写した人の証明書であるから説明がつく。
ただ戒壇本尊には功徳罰を説いた讃文が欠如しているが、形木本尊には書かれている。書写ならば、手本とした本尊にない項目を書き加えるということは避けるべきであると思うのだが、どうだろうか。
 日蓮正宗の公式教義書である『日蓮正宗要義』には、「大石寺血脈の法主の略本尊」(p.200)の宗教的意義に関して、「万年の流通においては、一器の水を一器に移す如く、唯授一人の血脈相伝においてのみ本尊の深義が相伝されるのである。したがって、文永・建治・弘安も、略式・広式の如何を問わず、時の血脈の法主上人の認可せられるところ、すべては根本の大御本尊の絶待妙義に通ずる即身成仏現当二世の本尊なのである」(p.201)と述べられて、戒壇本尊を書写したとは明言されていず、戒壇本尊の内証を(あるいは相伝された深義の内証を)法主が書写したものであり、法主の認可があれば、「戒壇本尊の妙義に通ずる」として、戒壇本尊とその他の本尊との救済論的関係を保証する者としての法主の役割を強調しているだけである。
 戒壇本尊と伝統的に書写されてきた本尊との様式の相違については、説明がないのでどのように教義的に解釈されるのか不明であるが、法主の中でもこのことに疑問をもって、「仏滅度後二千二百二十余年」と書いたのが阿部日開であった。しかし彼はこの本尊が相伝書と異なるとして批判され、謝罪文を書かざるを得なかったという出来事があった。その実子阿部日顕は、父の不名誉を雪ごうとして、讃文はどちらでも構わないと主張しているが、その根拠は法主の内証によるとしているだけで、あたかも法主の内証次第では、相伝書だろうが、伝統法義であろうが、何でも変える権限を、法主が日蓮代理人としての資格において持っていると言わんばかりの主張をしている。(阿部2 p.48)
 ここで問題にすべきは、本尊書写は戒壇本尊を忠実にコピーするのではなく、別の指示に従ってしなければならないということであり、その指示には少なくとも法主であった阿部日開も従わざるをえなかったということである。その指示とは何かといえば、ここで問題にしている『御本尊七箇相承』である。
 そこでは滅度讃文に関して「一、仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曽有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉るこそ御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり。」(『富要』1-32『宗全』2-43)とあり、この滅度讃文は戒壇本尊の滅度讃文のコピーとは無関係に指示されている。
 なおこの滅度讃文の年号については『本尊論資料』には身延門流の相伝として日朝談日仁筆の『本尊相伝事』の「仏滅後二千二百二十余年等アソバシタルハ建治文永等ノ御本尊ニ爾カアソバシタル也。是ハ未再治御本尊ナル故也。サテ二千二百三十余年等アソバシタルハ弘安涅槃ノ時分ニ爾カアソバシタルナリ。故ニ身延今家ノ形木ノ本尊ニハ二千二百三十余年等アソバシタル也。」(『本尊論資料』 p.3)が記載されており、「二十余年」にすべきか「三十余年」にすべきかを論じている。同様なことは日朝の『大曼荼羅事』(同 p.33)でも論じられている。
 また日常門流では「二十余年」と書くことが伝統となっているが、『本尊論資料』には日常門流相伝書として日実の『仏滅度後等之事』に「弘安以前を取り合わせて二千二百二十余年也。さて弘安以後は三十余年とお書き也云々。別の御義之無し。」(同 p.432)とあり、「二十余年」と「三十余年」には教義的区別はないことを述べたうえで「二十余年」と書くことを継承している。あるいは同じ日実の『御本尊図給年号事』には「弘安年中の御本尊は随自意と習う也。よって三十余年と云えるは随自意の辺なり。」(同 p.445)とあり、随自意優位ならば「三十余年」と書くべきだということを暗示しながらも、別の資料である『首題五字五種妙行事』では「二十余年」と伝えることが血脈であるとしている(同 p.490)。
 このように「二十余年」か「三十余年」か、という問題は日蓮の図顕した本尊に二種類あることから、各門流でも議論されたのであり、『御本尊七箇相承』が戒壇本尊の「二十余年」を手本にしながら、それと異なる「三十余年」と書写すべきだとするなら、当然説明があってしかるべきだと思われ、この点でも『御本尊七箇相承』ならびに戒壇本尊の資料的価値は疑われる。
 次に日蓮の花押ではなく「在御判」と書くことについて「日蓮と御判を置き給ふ事如何(三世印判日蓮躰具)、師の曰はく首題も釈迦多宝も上行無辺行等も普賢文殊等も舎利弗迦葉等も梵釈四天日月等も鬼子母神十羅刹女等も天照八幡等も悉く日蓮なりと申す心なり、之に付いて受持法華本門の四部の衆を悉聖人の化身と思ふ可きか。 師の曰はく法界の五大は一身の五大なり、一箇の五大は法界の五大なり、法界即日蓮、日蓮即法界なり、当位即妙不改・無作本仏の即身成仏の当躰蓮花・因果同時の妙法蓮華経の色心直達の観、心法妙の振舞なり、又本尊書写の事予が顕はし奉るが如くなるべし、若し日蓮御判と書かずんば天神地神もよも用ひ給はざらん」(『富要』1-32『宗全』2-42)とあり、日蓮花押の代わりに「(在)御判」と書くことを明示している。
 なお『本尊論資料』にはAN174の日朗門流の筆者不明の相伝書『御本尊相伝』があるが、そこには「問首題の下に必ず日蓮判と遊ばす義如何 答日向門徒には法華堂をば皆御影堂と習うなり。その故は首題の下に日蓮と遊ばしたるは妙法全く我が身なりといえる御心中なる旨なり。左右の脇士はまた日蓮聖人の脇士なり。諸堂みな御影堂なりと申す伝なり。また首題の下に御名を遊ばすは人法一体能弘所弘不二なることを顕すなり。真間流の人は大聖人の大の字を制して書くなり。定めて人法一体の意なり。その故は地湧の四大士と中央の首題と引き合わせて習うに、首題は空大なり、四菩薩は四大にて、その義通ずる故に空大妙法と聖人とは全く一体となれば、日蓮空聖人という意にて大聖人と書くなり。大は空の義の故なり。」(『本尊論資料』 p.314)とあり、後に日蓮正宗で主張される本尊の首題と日蓮を一体にして人法一体と解釈するという議論が既に日有の時代に日朗門流や真間門流には存在していたことを示している。日有自身には人法一体の議論はまだない。
 次に戒壇本尊にない法主の名前と花押を書くことについて『御本尊七箇相承』の後半の追加部分には、「日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり。」(『富要』1-32『宗全』2-43)と述べて、歴代の法主がそれぞれの時代の日蓮であり、日蓮の救済の秘儀を伝えるために、必要な存在であるということを主張している。
しかもこの文には歴代の法主の備えるべき資質、資格などには一切言及していない。その意味でどんな人格を持とうが、法主である限りは、日蓮の代理人として、日蓮の救済の権能を継承する制度カリスマを主張しているのである(この点ではカトリックと同じ救済論を持っているが、カトリックの場合には日蓮正宗のような面授相承を主張せず、教皇に就任することによって自動的にイエス、ペテロから継承された聖職者カリスマが生じるとしている。日蓮正宗の場合には、聖職者カリスマは断絶の可能性があるが、カトリックの場合にはない)。
 以上述べたように日蓮正宗に由来する本尊は、戒壇本尊のコピーではなく、日蓮の代理人としての権限において、法主が書写した本尊であるということは明確である。この『御本尊七箇相承』の主張は、日蓮の救済の秘儀は、戒壇本尊ではなく、歴代の法主にあるということを明確にしている。
創価学会は法主の血脈断絶という事態に対応して、法主僭称者である阿部日顕筆の本尊を会員に安置させ続けることは、信仰上問題があるとして、緊急避難的に、多くの会員にも教学学習上でなじみのある日寛筆の本尊に差し替えるようにし、私の自宅にもそれが安置されているわけだが、法主不在の下では当然法主の認可はない本尊であり、今後も永遠に法主不在の時代が続くのであるから、法主の存在を前提とした『御本尊七箇相承』や『日蓮正宗要義』の議論とは別の本尊の宗教的意義付けを必要としていると私は考えている。
   なお興風談所によって『日興上人御本尊集』が刊行され、現在では日興の書写した本尊を写真で見ることができるが、その中で『御本尊七箇相承』の記述とは合わない本尊もかなり見られる。特に初期の本尊には、「在(御)判」の代わりに「聖人」と書いた本尊も見られ、また讃文に関しても「仏滅度後」ではなく「仏滅後」や「如来滅後」と書いた本尊も多数見られる。このことは、日興は日蓮から直授されたとする『御本尊七箇相承』を守らずに本尊書写をしたということを意味しており、むしろこの『御本尊七箇相承』の資料的価値を疑わせるものである。
 なお菅原関道は「日興上人本尊の拝考と『日興上人御本尊集』補足」において、日興のみならず、日興門流の本尊の中には「日蓮聖人」「日蓮大聖人」とだけ記して、「在御判」がない本尊が少数ではあるが、存在することを述べている(菅原 p.342)。このことは『御本尊七箇相承』がまだ存在しなかったか、あるいは存在しても厳格には守られなかったかということを示している。
 東は『本尊論資料』に収録されている『御本尊七箇大相承』には日蓮本仏論が見られるから、本文七箇条は日時以降に成立し、附文の部分は稚児貫主である日鎮を擁護するために左京日教が書いたものと見なしている(東 p.53)。いずれにせよ、この資料を日興の思想解明のためには使用できない。

 

 (e)『上行所伝三大秘法口決』

 『上行所伝三大秘法口決』(『富要』1-45『宗全』2-46)については、『宗全』では要法寺日辰がAN279年に『産湯相承事』と同日に記録した写本をAN351年に日精が書写したものが挙げられている(『宗全』2-49)。『富要』でも同様である(『富要』1-47)。しかし同時に『宗全』はほぼ同じ内容の口伝書が八品派日隆の系統に「直受日弁」として伝えられたことも述べている(『宗全』2-50)。
 内容的には勝劣派に共通の日蓮=上行説に基づいて、法華経神力品の偈を解釈しているもので、特に日蓮正宗特有の内容があるわけではない。むしろ神力品強調は八品派日隆の特徴であるから、その系統の口伝書が日興門流に入ってきたと見るほうがよいだろう。

 

 (f)『本尊三度相伝』

 『本尊三度相伝』(『富要』1-35)については、『宗全』には収録されていないが、『富要』に日興の相伝書として挙げられている。『富要』では水口日源(?-?)(訂正 1296-?)(2009/3/22)の写本が挙げられている。しかしその内容に関しては、初めの「一、本尊口伝」の部分は『本尊論資料』に収録されている、日朗門流池上本門寺・比企谷妙本寺4世日山(AN57-AN100)の『本尊五大口伝』(『本尊論資料』 p.286)とほぼ同じであり、次の「二度 本尊の聞書」の部分は、日朗門流の筆者不明の『本尊ノ聞書』(同 p.324)とほぼ同じであり、最後の「三度 本尊相伝」は日朗門流日学(?-?)の『本尊相伝』(同 p.319)とほぼ同じであり、これはさらに日興の弟子の三位日順の『本門心底抄』(『富要』2-31)ともほぼ同じである。
『本門心底抄』では日蓮の口伝としては述べられていず、三位日順自身の解釈として述べられている。執行海秀は『本門心底抄』をもとに、『本尊三度相伝』『本尊相伝』が作成されたと見ている(執行1 p.60)。また『富要』では日興相伝、日蓮在御判に後加の記号が付されている(『富要』1-38)。この資料も使用不可である。
追記 東佑介は『本尊三度相伝の真偽論』において、詳細な考察を加え、写本の筆者日源が水口日源ではなく、京都の日尊系日大の弟子本是院日源(?-1406)であり、『本尊三度相伝』は日大がAN68-85年に偽作したものであるとしている(東 2006-2, p. 23)。」(2009/3/22)

 

 (g)『御義口伝』

 『御義口伝』は『宗全』『富要』ともに掲載していないが、それは日蓮遺文の範疇として扱われているからである。写本は『富士年表』によれば、日隆門流に属する日経本(AN256)が最古である。引用は一致派日像門流の円明日澄(AN160-AN229)の『法華経啓運抄』(AN211)が最古とされている。日興筆録とされているが、大石寺には古い写本は残っていない。この資料も日興直筆を根拠として使用する第1段階の議論や、多くの研究者が日興筆と認める資料を根拠として使用する第2段階の議論としては使用不可である。

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