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日興の教学思想の諸問題(1)−3

(3)述作類

 この部類に属するのは『宗全』に収録されている『三時弘経次第』『神天上勘文』『引導秘訣』『安国論問答』『五重円記』である。さらに新たに『興全』の正編に収録されている『仏法相承血脈譜等雑録』『史記抄録』『高麗・新羅・百済事』『禅天魔所以事』『律国賊事』『本門弘通事』がある。

 

 (a)『三時弘経次第』

 『三時弘経次第』(『富要』1-49『宗全』2-52)については、『宗全』には写本などの出典を挙げていないが、(『興全』では後続の『神天上勘文』と一体の資料として、了玄日精写本としている)、『富要』では筆者不明の写本によるとしている。『興全』には関連文献として『連陽房聞書』を挙げているので(『興全』 p.286)、日有の時代には存在していたと見られる。なお『富要』では日興正筆の『本門弘通事』が同趣旨の内容であるとして引用されている。この『本門弘通事』は後出の『安国論問答』に続く文章として、堀日亨の『詳伝』に収録され、また『興全』に収録されている。
 『三時弘経次第』は内容的には天台宗の戒壇=迹門、法華宗の戒壇=本門という台当相対した本迹勝劣、戒壇論を主張している。日興の直筆正本が残っていないので、第一段階においては使用できないが、第二段階においては使用して差し支えない資料と思われる。

 

 (b)『神天上勘文』

 『神天上勘文』(『宗全』2-54)については、写本は重須8世日耀のAN261年の写本に由来する了玄日精本が『宗全』では挙げられている。『富要』には掲載されていないが、編者堀日亨は日興の著作であるとは認めていないようだ。また同氏の『詳伝』でも著作類には含まれていない。『富士年表』には日耀写本を筆写した日辰本を根拠にAN18年日興が『神天上勘文』を著したとしている。
 『興全』では日蓮のことを「高祖」と書いていること (『興全』p.260)、室町時代に偽作されたとされる鴨長明『歌林四季物語』が引用されていること(同 p.265)、また日蓮教団を「当宗」と書いていること(同 p.264)、日興の執筆年代が「正安元年正月」となっているが、正しくは「永仁七年正月」であることなどから(同 p.267)、資料的には問題があることを示唆している。私もこの指摘には同意している。

 

 (c)『引導秘訣』

 『引導秘訣』(『富要』1-267『宗全』2-63)については、『宗全』では了玄日精がAN384年に西山本門寺で古写本を筆者したものが最古の写本として挙げられている。『富要』では、西山本門寺に古写本がないこと、また日有の『化儀抄』の内容と矛盾することをあげ、日興の著作であることを否定し、筆者不明として扱われている(『富要』p.271)。ここでも日蓮を「高祖」「蓮祖」(『富要』p.269)と呼び、日興の確実な文献の呼称名とは異なっているので、資料的には使用不可である。

 

 (d)『安国論問答』

 『安国論問答』(『宗全』2-68)については、『宗全』には日興正本によることが明記されている(『宗全』 p.78)。しかし『富要』に収録されていない。その理由は多分堀日亨の『詳伝』で、『安国論問答』の初めに「聖人注之坐」とあること、また日向の『金綱集』にもほぼ同様の内容が記載されていることから、両者が日蓮の抄録から転写されたものと解釈して、日興自身の著作とは認めていないことによると思われる(『詳伝』 p.412)。
 『興全』には写真版が掲載してある。『興全』によれば日興直筆の外題として「安国論問答並申状」とあるが(『興全』 p.3)、後欠のため申状の部分は現存しない。また『興全』は日蓮の注釈の部分と日興の記述の部分との区別が不明確なため、「私云」が日蓮の意見なのか、日興の意見なのか不明であるとしている(同 p.9)。
また内容的には日蓮の『災難興起由来』『災難対治抄』とほぼ同様な趣旨の部分があり、日興独自の著作と認めるには問題があるが、日蓮の著作には書かれていない部分もあるので、日興の著作と見ることが妥当と私には思われる。
 なお大黒喜道も「『日興上人全集』正編編纂補遺」において、「全体としては宗祖の抄録・記述を日興上人が書写し、さらに自らの記述を多少加えた上で編纂されて、本書は出来上がった」(大黒p.298)としている。

 

 (e)『五重円記』

 『五重円記』(『宗全』2-88)については、『宗全』では要法寺系の嘉伝日悦のAN420年の写本が挙げられている。奥書によれば岡宮光長寺の日興正本を光長寺日賀が書写したものを、日悦が書写したとある。しかし岡宮光長寺は日興に破門された日法が開いた寺院であり、そこに日興の正本が存在したというのは疑問が残る。また『富要』には収録されていない。また『詳伝』にも日興の著作類の中には含まれていない。『興全』では資料的評価をつけずに、続編に収録している(『興全』 p.268)。
 内容的には中古天台本覚思想の五重(権・迹・本・観心・元意)の円の思想に対して、上行所伝の本因妙の思想を元意の円とするもので、四重興廃よりも発達した形の中古天台本覚思想が日興の活躍していた時期に成立していたかどうかは疑問の余地があり、日興のものとしては使用不可である。

 

 (f)『仏法相承血脈譜等雑録』『史記抄録』『高麗・新羅・百済事』『禅天魔所以事』『律国賊事』『本門弘通事』

 これらの資料については『興全』に述べているように日興筆の『安国論問答』に続く一連の日興筆の文献であり(『興全』p.29)、『興全』には写真版が掲載されている。『仏法相承血脈譜等雑録』は『安国論問答』の内容に直接関係するメモであり、『史記抄録』『高麗・新羅・百済事』は『興全』の見解では、『立正安国論』に関係するメモであるとされる(『興全』p.20, p.23 )。 『禅天魔所以事』『律国賊事』はそれぞれの表題に関する資料メモである。『本門弘通事』には「迹門 比叡山」「本門 富士山 蓮華山 大日山」(『興全』p.28)とあり、日興が富士戒壇説を持っていたことの傍証とみなされている。

 

 (4)日興の講述類

 この部類に含まれるのは、重須学頭日澄作、日興印可とされる『富士門徒存知事』と、三位日順作、日興印可とされる『五人所破抄』である。

 

 (a)『富士一跡門徒存知事』

 『富士一跡門徒存知事』(『富要』1-51『宗全』2-118)については、『宗全』ではAN141年に日算(AN77-AN141-?)が書写した写本を、重須僧日誉が日郷系の宮崎県の寺院でAN240年に書写したものが挙げられている。引用の初出は不明である。
 本書が重須学頭日澄の作であるとするのは、日澄の弟子で重須学頭を継いだ三位日順の『日順阿闍梨血脈』に、日澄が日興の命により「数帖自宗所依の肝要を抽んず」(『富要』2-23『宗全』2-336)とあり、しかも日澄は五一の相対について「深く此の意を得るも筆墨に能えずして空しく去りぬ、」(『富要』2-23『宗全』2-337)とあり、日澄の書が未完であったことが述べられていることによる。
 『富士一跡門徒存知事』は本文と追加との部分に分かれ、本文は日澄の作であり、追加の部分は日興の作であるというのが、日蓮正宗の主張である(堀米日淳 p.1136)。執行は「比較的日興の思想を伝えるものと思われる」(執行1 p.100)として、著者の問題はあるにせよ、使用可能な資料と判断している。私も第二段階の資料としては使用可能であると判断している。
[なお高橋粛道『日蓮正宗史の研究』では、堀米日淳の日澄作日興追加説が否定され、全文日興作であるとされる。その根拠は多岐にわたっているが、私が注目しているのは、日道『御伝土代』の「日興上人御遺告」の中の「右以条々鎌倉方五人并ニ天目等之誤多しと雖ども先十七ヶ条を以てこれを難破す、十七の仲に此ノ五の条等第一ノ大事なり何ぞ此を難破しこれを退治せん云云」という箇所について「この十七箇条の御遺告こそ『富士一跡門徒存知事』であると思われる」(p. 186)と高橋が述べていることである。堀日亨は追加八箇条全体を一箇条と見て、本文とあわせて『富士一跡門徒存知事』を十五箇条であると判断したようであるが、高橋はそれを全体で十七箇条に整理し(p. 181の表)、日道が『御伝土代』を書くときに参照した「日興上人御遺告」十七箇条は『富士一跡門徒存知事』であると指摘した。私もだいぶ前にそうではないかと思い、『富士一跡門徒存知事』の条数を検討したことがあるが、その数え方は高橋とは異なっている。高橋の分類に関して、それなりに疑問点も生じる。まず第一に高橋の表に示された分類は『富士一跡門徒存知事』の条項の順番とは大きく異なっている。次に「9 天目」となっているが、『富士一跡門徒存知事』では天目は追加八箇条に表れるだけである。高橋は堀日亨に従って追加八箇条全体を一箇条と見なしながらも、その一部分で言及されているに過ぎない天目について別に一箇条と判断しているが、そこに恣意性はないだろうか。さらに『富士一跡門徒存知事』では本尊について四箇条が記述されているが、高橋はそれを「7 仏像造立と曼荼羅 8 本尊の軽賎と軽重」の二箇条にまとめているが、これも恣意的な統合ではないのか。私がかって試みた数え方を示そう。『富士一跡門徒存知事』の条項を文字通りに順番に数えていくと、「1 六老僧選定 2 国家諌暁 3 神社不参 4 修行方法 5 受戒 6 墓所不参 7 日興の本六選定 8 日蓮御影 9 御書 10 釈尊本尊と曼荼羅本尊 11 曼荼羅の軽賎 12 日興の交名付加 13 形木曼荼羅 14 本門寺 15 王城 16 日興収録の文献 17 奏聞状」となり本文だけで十七箇条になる。ただこの数え方では天目についての言及がなくなる。『御伝土代』の「日興上人御遺告」では「一、大聖人ノ御書ハ和字たるべき事 一、鎌倉五人ノ天台沙門ハ謂レなき事  一、一部五種ノ行ハ時過たる事 一、一躰仏ノ事 一、天目房ノ方便品読ム可からずと立ルハ大謗法ノ事、倩ラ天目一途の邪義を案ずるに専ら地涌千界の正法に背く者なり。右以条々鎌倉方五人并ニ天目等之誤多しと雖ども先十七ヶ条を以てこれを難破す、十七の仲に此ノ五の条等第一ノ大事なり何ぞ此を難破しこれを退治せん云云」とあるから、天目の条項が十七箇条に含まれていると読めるのだが、実際には追加八箇条のごく一部に含まれるだけだから、「日興上人御遺告」を『富士一跡門徒存知事』であると判断することは私には躊躇される。しかし4の書写行の禁止とか、15の王城遷都などの大胆な主張が日興以外の弟子にできるとも思えないので、『富士一跡門徒存知事』が日興の著作であるとまでは主張しないが、日興の思想をよく示している文献であると判断している。(2012/2/20)]

 

 (b)『五人所破抄』

 『五人所破抄』(『富要』2-1『宗全』2-78)については、写本は日興の甥の西山日代の写本が残っている。日代本の末尾に「嘉暦三戊辰年七月草案 日順」が他筆で書かれていることが『宗全』で述べられている(『宗全』2-87)。『富要』ではこの加筆部分が三位日順の筆であると述べられている(『富要』2-8)。
 そして日順の『日順阿闍梨血脈』において、「汝先師の蹤跡を追ふて将に五一の相違を注せよと云云、忝くも厳訓を受けてに紙上に勒し粗ぼ高覧に及ぶ、」(『富要』2-24『宗全』2-337)とあり、日興の命によって五一の相対に関する著書を書き、日興に読んでもらって内容を印可されたとあることから、この著書が『五人所破抄』であると日蓮正宗は主張している。
 宮崎英修は作者を日代としているが、執行は「日順の草案を日代が清書したものではないかと思う」(執行1 p.100)と述べて、日興の教学思想を解明するために使用可能であると判断しているが、私も同意見である。

 

 (5)日興の消息類

 『興全』には正編に89編、続編に5編の手紙を収録している。この中で特に重要なのは、日興の身延登住の事情を記した『美作房御返事』、身延離山の事情を記した『原殿御返事』『与波木井実長書』、師弟関係を強調した『報佐渡国講衆書』である。

 

 (a)『美作房御返事』

 『美作房御返事』(『宗全』2-145)については、『宗全』によれば正本はなく、AN279年の要法寺日辰の『祖師伝』に出典を明示せずに、全文引用されている。引用の初出も不明である。日蓮滅後の身延の状況を記述した唯一の資料であるが、古い写本なども無いのが気にかかることである。しかしこの書簡を疑問視する研究者はいないのであり、第二段階の資料として使用するには問題はないと思われる。

 

 (b)『原殿御返事』

 『原殿御返事』(『宗全』2-170)については、『宗全』によれば正本はなく、要法寺日辰の『祖師伝』に出典を明示せずに、全文引用されている。ただし引用に関しては、身延11世行学日朝(AN141-AN219)の『立像等事』に抄録があり(『本尊論資料』 p.113)、また中山久成日親(AN126-AN207)のAN189年の『伝燈抄』に長文の引用がある(『宗全』18-22)。この資料についても疑義が提出されていないので、第二段階の資料として使用可能である。

 

 (c)『与波木井実長書』

 『与波木井実長書』(『宗全』2-169)については、『宗全』によれば、正本が大石寺にあるということであるが(同 2-170)、堀日亨の『身延離山史』では正本の存在を否定している(『身延離山史』p.143)。『本尊論資料』には身延日朝の『立像等事』に全文引用がある(『本尊論資料』p.114)。
 堀日亨は『身延離山史』の中で、「偽文書にはあらざるが、但しこの状の骨子奈辺にあるや、愚推に能わず、必ず首尾の文または引文の中間にも断章ありしものと思わるる、それらが整束して始めて本状の意義が判明するであろう」(『身延離山史』p.144)と述べて、日興のものであっても、不完全な文書であるから、使用には注意すべきであるとしている。
 現在の日蓮正宗の立場では、高橋粛道の『日興聖人御述作拝考1』によれば、真偽未決とされている(高橋 p.52)。私は堀日亨の考察を妥当と考えているので、第二段階の資料としては使用可能であると思われる。

 

 (d)『報佐渡国講衆書』

 『報佐渡国講衆書』(『宗全』2-177)については日興正本があり、『興全』には日興正筆の写真版が掲載されている。日蓮から続く本弟子六人の師弟の関係を重視し、それを成仏の条件としているようにも解釈でき、また六人以外の日蓮の弟子たちが日蓮の直弟子であることを名乗ること謗法として非難している。この日興の師弟関係の重視は、後述の日興の『本尊分与帳』との内容的関連を示している。
追記 小林正博の「大石寺蔵日興写本の研究」(『東洋哲学研究所紀要』第24号、2008)によれば、『興全』の写真版の筆跡鑑定により、ひらかなのいくつかの字体(変体かな)の使用が他の日興の標準的な字体(変体かな)の使用とは大きく相違していることを指摘し、この文献が日興のものであることを否定している(前掲論文 p. 20-21)。私には小林の議論は説得力があるように思われるのだが、学究諸氏の検討をお願いしたい。疑義が示された以上この文献を第一段階の資料として使用することはできない。」(2009/2/26)

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