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日本仏教と平和主義の諸問題(1)
宮田幸一
創価大学人文論集第16号 2004

1 はじめに

 本論文は2003年8月にガンジー記念館において開催された東洋哲学研究所と国立ガンジー博物館との共催による共同シンポジウム「Contemporary Thought On Gandhiism and Buddhism」での英文発表「Nonviolence and Japanese Buddhism」を敷衍したものである。(注1)
 筆者の立場は一定の条件の下での暴力の使用を認める条件付きの平和主義の立場であり、ガンジーの立場であるとされる非暴力を貫徹する絶対的平和主義の立場とは異なる。筆者は仏教が平和主義を唱える宗教であると考えることには、日本仏教史に関する意図的な無視があり、またそのことが仏教を建前だけの宗教にし、行為の規範として現実的に有用なものにすることを阻害していると考えている。仏教の中には相互に矛盾する諸思想が混在しているのであって、その中でどの思想を支持し、どの思想を拒否するのかということを、自覚的に選択しない限り、仏教の名の下で正反対の諸行為が正当化されるであろう。
 まず非暴力の教えと日本仏教との関係を論じるにあたって、非暴力のいくつかのレベルを区別する必要がある。仏教においては不殺生が出家者、在家者に共通な五戒の一つとして定められており、いかなる殺人行為、さらには動物の屠殺行為や害虫の駆除すらもこの戒により是認されない行為となる。個人的次元では、僧尼などのように暴力を使用せず、不殺生戒を守ることができる人もいる。
しかし肉食が普及した現在では、食用の動物を殺さなければならない職業の人々が存在し、彼らは不殺生戒を守ることはできない。あるいは普通の人でさえも蚊や蝿などの害虫を殺すことはあるだろう。(注2)
 人間以外の動物を殺生することばかりでなく、場合によっては人間をも殺すことを現代社会はある程度認めている。国内次元では、市民を守り、治安維持のために警察官が犯罪者に対して暴力を使用し、また裁判の結果、社会に対して重大な悪影響を与える場合には、死刑もやむをえないとする国家もある程度存在する。
さらに国際的次元では、外国からの攻撃に対して国家を守るために軍人が暴力を使用することは、国家の正当防衛権として国際法でも認められている。
 極端な平和主義者は絶対的非暴力を主張し、いかなる次元での暴力にも反対する。(注3)
しかし日本における多くの平和主義者は条件付きの平和主義者であり、いくつかの次元で暴力の使用を容認していると筆者は思う。ロバート・キサラが日本の新宗教における平和主義を論じている Prophets of Peace: Pacifism and Cultural Identity in Japan’s New Religions の中で指摘しているように、仏教があくまでも不殺生戒に固執するなら、場合によっては殺人も正当化されるという信念を持っている大多数の人々には受け入れることの出来ない少数者の宗教として存続するしかなかったであろう。(キサラ p. 9 、注4)
 フランスの仏教研究者ポール・ドミエヴィルは1957年「仏教と戦争――殺生戒の根本問題――」(注5)の中で、大乗仏教徒が、いかにして不殺生戒を無効にして、殺人を正当化する論理を形成したか(ドミエヴィル p. 58-59)、またいかにして実際に仏教徒たちが特殊な仏教思想の下で積極的に戦闘行為を行ったかを概説している。
彼が指摘した事例には、中国や日本における下層民の宗教的反乱も含まれている。(同 p. 63-64, p. 74)  絶対的平和主義の立場から、これらの暴力的反乱を、殺生禁断という観点で非難することは容易なことであろう。
しかし不殺生戒を第一義的な遵守規定と見なし、抑圧された人々が自己の現世的救済を求めて仏教的思想の下で戦闘行為をすることを一概に否定するならば、仏教は結果的に体制側の暴力を容認し続ける体制擁護の宗教でしかないと社会的政治的脈絡の中で判断されてしまうだろう。
不殺生戒は抑圧からの解放、自由の獲得より優先されるべき価値なのだろうか。仏教は社会的経済的格差、差別を、解消するためになんらかの方法を提案できる宗教なのか、それともそれらは迷いの世界の出来事であるとして放置し、結果的に格差、差別を容認する宗教なのだろうか。
この問題は仏教を信奉している人々が、自分たちが信仰している仏教とはどのような宗教であると自己理解しているのかという問題でもある。当然宗派により、また同じ宗派内でも人によって自己理解の相違はあり、さまざまな考えがあるが、その相違を明らかにすることも重要なことであると思われる。
 本論文において、最初に、筆者は非暴力の教えと日本仏教との歴史的関係を考察する。ついで、日本仏教が非暴力を促進するために解決しなければならないいくつかの問題を指摘したい。

2 聖徳太子の和の思想

 日本に仏教を本格的に導入するにあたって、聖徳太子の果たした役割は非常に大きい。太子が出現する前には、仏は異国の新しい神と見なされ、日本の氏神と同様に、自然的災害を防ぎ、氏族の繁栄、病気の平癒などの現世利益をもたらす威力をもった神と考えられた。経典の読誦や仏像の安置などはすぐれた効果をもたらす呪術と信じられた。僧尼は仏陀の教える新しい生き方を説く教師としてではなく、仏という新しい神の威力を呼び起こすシャーマンと見なされた。
 日本人が持っていた呪術的宗教観を超えて、仏教の普遍的思想に着目した人が聖徳太子であった。太子は有力氏族の連合政権であった日本を、中国の隋帝国をモデルにして、天皇を中心とした中央集権的国家に再編しようとした。太子は氏族的信仰を超えた普遍的宗教としての仏教に注目し、官吏の守るべき規則として十七条憲法を制定した。日本の仏教学者中村元は太子をインドのアショーカ王、チベットのソンツェンガンボ王、隋の文帝などと同様に、仏教の普遍的理念を実現しようとした帝王の一人として考察している。(中村4 p. 75)
 聖徳太子の仏教理解は、十七条憲法と『三経義疏』によって知ることが出来る。十七条憲法で最も強調されているのは「和」であった。第1条で、党派性を克服して、共同体内部の和合・協調を力説している。そして第10条で、人間は誤りを犯しやすい凡夫であるから、意見の違う相手に対する怒りを捨てて、平静に和の精神で議論することを強調する。そして第2条で仏教が人間の邪悪な心を正す普遍的な教えであることを強調し、和の実現のためには仏教が必要であることを述べている。以上のように、聖徳太子は共同体内部の平和を実現するために、仏教による人格形成を強調したのである。
 しかし他方では第3条で天皇の命令には絶対服従すべきことを主張し、第12条で国に二人の君主がいないことや役人は君主の家臣であることを強調するなど、天皇専制政治への方向性も示し、天皇が不徳である場合の革命思想などは完全に排除していることも忘れてはならない。(注6)
 太子は『法華経』などの在家主義的な大乗仏教を選択したが、大乗仏教においても五戒の一つである不殺生戒は強調されている。しかし出家者は軍務などの世俗的義務を放棄しているため、不殺生戒を守ることは可能であるが、社会的義務を負わされている在家者にはその戒を守ることは困難であった。
太子も個人倫理としては不殺生戒を守ることを当然と考えていたと思われるが、太子自身の事跡を考察する限り、共同体の平和、あるいは仏法守護のためには、場合によっては暴力も必要であると考えていたようだ。崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏が武力対決をしたときに、太子は蘇我氏の勝利を四天王に祈り、その戦勝への加護を感謝して、四天王寺を建立したという。後期大乗経典の一つである『金光明経』には国王が正法を護持すると、四天王が仏敵を滅ぼすということが述べてあり、太子は仏敵を滅ぼすためには不殺生戒を破ることはやむをえないと考えていたようだ。(注7)

3 護国仏教の諸問題

 聖徳太子が目指した中央集権的国家は、大化改新により蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子(天智天皇)や、壬申の乱を勝利した天武天皇によって形成された。公地公民制により、出家得度の権限は国家が持ち、律令制の整備とともに、出家教団を管理するための僧尼令が制定された。この法は、出家教団を僧侶による自立的な管理に任せるのではなく、国家が僧尼に律令官人的身分特権を保証するとともに、僧尼の宗教生活を規定するものであった。
僧尼令の第22条では私度を禁止し、出家という宗教行為を国家が管理することを明確にしている。第5条、第23条で僧侶の自由な布教活動を禁止し、第27条では『法華経』などに説かれた焼身供養、捨身供養の修行を禁止し、第13条では山林修行も許可制に制限した。
 寺院は潜在的な軍事拠点でもあり、寺院に所属する奴婢が武器を所有し、時には僧侶も加わって軍事行動を起こしたこともあった。それを防止するため第1条では僧侶が人を殺すことや兵書を習読することを禁止し、また第26条で奴婢、兵器を布施として寺院に寄付することや、寺院がそれらを安易に受け取ることを禁止している。
これらの禁止には殺生禁断という仏法の戒律を尊重するという意味もあったけれども、寺院の軍事拠点化の防止という世俗的意味、さらには律令国家が僧侶に清浄なシャーマンとして鎮護国家を祈らせるという宗教的意味もあった。(速水 p. 15)
 律令政府は僧尼令によって僧尼の行動を規制し、国分寺、国分尼寺を建立し、僧尼に『仁王経』『金光明経』『法華経』の護国三部経を定期的に読誦することを命じた。このような仏教の統制的保護に対して、仏教者の側から仏教思想に基づいて自発的な活動をした事例は行基の活動などに見られるものの、多くの場合、国家による仏教統制を当然と僧侶側もみなしていた。平安仏教の創始者最澄、空海もそれぞれ天台宗、真言宗が護国宗教として十分な機能を果たすことを強調した。
このような護国仏教の立場では、国家は直ちに天皇中心の朝廷を指していたから、『仁王経』や『金光明経』の思想により、朝廷に対する反乱を武力で鎮圧することも、諸外国からの侵略を武力で撃退することも当然と考えられていた。僧侶自身は不殺生戒を守ることを義務付けられていたが、僧侶は在家信者である兵士たちが朝廷権力を守るために殺生を犯すことを禁止もしなかったし、かえってその勝利を祈るということが義務付けられていたのである。

4 荘園制度と僧兵

 律令国家においては僧尼令により僧侶の武装や殺生は禁止されていたが、奈良時代において寺院に住む奴婢が武器を所有していたことはいくつかの文献資料に記載されている。武装の理由は主に寺院財産を盗賊などから防衛するためであったと考えられている。(日置 p. 59)
 律令制度が次第に形骸化し、寺院の経済的基盤が、国家からの給付に依存できなくなり、墾田開発などを基礎とする荘園の獲得に変化すると、荘園の維持管理を寺院が自力で行う必要が生じ、寺院の下級の使用人である堂衆や、荘園の下級管理者が武装して荘園を守るようになったことが、僧兵の出現理由と考えられている。(日置 p. 67)
 10世紀後半に天台座主に就任して、天台宗を再建した良源は『二十六箇条の制式』の中で寺院内での武装の禁止を命じている。良源は天台宗を再建したが、そのときに自分が所属する円仁門流を重用し、それまで主流であった円珍門流を弾圧したので、天台宗内部で両派の対立が激しくなった。円珍門流の拠点であった園城寺を円仁門流の拠点である延暦寺の衆徒が襲い、焼き討ちするという事件が11世紀に生じた。
後に良源が愚鈍な僧侶を武装させたという伝説が生じ、経巻は智恵の徳であり、文殊の利剣は利智の用であり、末法においては仏法を守るためには武力も必要であると述べたとされている。(注8) これは良源自身の考えではないにせよ、下級僧侶が武装し、殺生を犯すことへの正当化の論理として仏法護持のためには殺生を容認する思想が主張されていたことを示している。
 天台宗ばかりでなく、興福寺や東大寺などの奈良の大寺院や真言宗の高野山も武装し、主に荘園の獲得という経済的要求を掲げて、朝廷に武力を背景にした強訴を繰り返した。寺院側は、仏法が栄えることは王法が栄えることの条件であり、盛大な仏事を執行し、豪華な伽藍を建築するための寄付を国家の当然の義務であると主張した。
皇族、貴族たちは一方において護国仏教を信じていたので寺院の要求をしばしば聞き入れたが、他方では護国を祈るべき仏教教団が武装して朝廷に強訴する姿を見て、仏法の威力が衰え、世の中が乱れる末法の時代が到来したことを嘆くのみで、有効な対抗手段をとることが出来なかった。寺院側は末法の到来が仏法守護のために武力を必要とするという理論を主張し、不殺生戒を守ろうとはしなかった。

5 鎌倉新仏教と宗教一揆

 僧兵とは異なった形態で出現した宗教的武装のもう一つの事例は宗教一揆である。
平安末期に出現した法然は『選択本願念仏集』を著し、末法時代には既存の仏教の救済力がなくなると主張し、その時代における唯一の救済方法として称名念仏を主張した。この専修思想は、中国、日本仏教における伝統的な兼修思想を否定した異端的な思想であったため、既成教団から厳しい非難を受け、朝廷によりその宗教活動を禁止された。法然滅後の浄土宗は弾圧を避けるため兼修思想に戻るが、親鸞の浄土真宗は地方に活動拠点を持ち、専修思想を維持した。また専修思想は浄土系仏教を超えて、道元の曹洞宗や日蓮の法華宗でも維持され、鎌倉新仏教の一つの特徴となっている。
 15世紀には、浄土真宗は主に地方の農民、下級武士に広まり、日蓮法華宗は都市の商工業者に支持された。応仁の乱以後、政治体制が混乱し、しばしば農民一揆が発生し、それが浄土真宗本願寺派の信者と重なった場合には、一向一揆とよばれた。
京都においても商工業者に法華宗の信者が多かったため、町の自警組織が宗教組織と重なり、法華一揆と呼ばれる軍事組織が形成され、一向一揆や他の大名から京都を守るために闘った。(注9)
 これらの宗教一揆は、自分たちの宗教王国を作るために暴力を使用した。
 鎌倉新仏教の創始者達は概ね既成教団や国家権力により迫害を受けているが、その中で最も国家権力から迫害を受けたのは日蓮であったが、その日蓮が理想の仏国土建設のためとはいえ、国家権力による宗教統制を最も明白に正当化しているのは歴史の皮肉である。
日蓮の初期の思想を体系的に示している『守護国家論』では、謗法禁断という思想が強調されている。そこでは鳩摩羅什訳『仏説仁王般若波羅蜜経』を引用して(8.832.b)、仏法を仏弟子ではなく、権力を持つ国王・大臣に付属していることが主張されている。(創 p. 59、定 p. 115)
また大乗の『大般涅槃経』の「正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せずして、まさに刀剣・弓箭・鉾槊を持つべし」(12.383b)を引用して(創 p. 59、定 p. 115)、 不殺生戒を無視することを容認し、「弓箭・刀杖を帯して悪法の比丘を治し正法の比丘を守護する者は、必ず無上道を証明するだろう」と、仏法守護のために武力を使用することを積極的に容認している。(創 p. 59、定 p. 115)
さらに釈尊過去世の姿である仙予国王が、大乗誹謗の婆羅門の命根を断った功徳で地獄に堕ちることがなくなったという『大般涅槃経』(12.434c)の因縁話を挙げる。(創 p. 62、定 p. 118)
そして『大般涅槃経』の「もし善比丘が、法を壊る者を見て呵責し駈遣し挙処しなければ、まさにこの人は仏法の中の怨であると知るべきである。もし駈遣し呵責し挙処することができれば、この人は私の弟子であり真の声聞である」(12.381a)を引用して、謗法禁断を強く国王に要求した。(創 p. 62-63、定 p. 119)
 日蓮は大乗の『大般涅槃経』を根拠にして、彼が信奉する正法、すなわち法華経に、反する仏教宗派を謗法と断罪して、国家権力によって弾圧することを主張したことは明らかである。
なお『立正安国論』では、謗法禁断に関して、「全く仏子を禁める趣旨ではない。ただひとえに謗法を悪むからである。釈迦以前の仏教では斬罪であったけれども、釈尊以後の経説は布施を停止するのである」(創 p. 30、定 p. 224)と述べて、謗法の者への布施の禁止という経済的手段により謗法禁断を実現するという柔軟な手段を提案している。
しかし晩年の『撰時抄』では再び「建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等の寺塔を焼き払って、彼等の頚を由比ケ浜で切らなければ、日本国は必ず滅ぶだろうと申しあげた」(創 p. 287、定 p. 1053)と再び武力による謗法禁断を主張している。
日蓮が謗法禁断を主張したのは、謗法を放置しておくと「まもなく自界反逆難という同士討ちが生じ、他国侵逼難というこの国の人人が他国に打ち殺されるのみならず、多くの人が生け捕りにされるだろう」(同)という国内の戦乱、外国からの侵略が生じるという護国経典の思想を継承した危機意識からでもあるが、それはまた逆に、正法=法華経を国家全体が信じれば、平和な仏国土が建設できるとかれが信じていたことにもよる。
日蓮は「日蓮は日本国の棟梁なり、予を失うことは日本国の柱橦を倒すことである」(同)という使命感を持ち、鎌倉幕府による弾圧を覚悟していた。理想の仏国土実現という目的のためには、武力による謗法禁断も正当化できるというのが日蓮の思想であった。
この日蓮の正法守護のために武力を使用することを容認する思想が法華一揆の精神的支柱になったことを、今谷明は、近世に編纂された『天文法華松本問答記』を利用して示している。(今谷 p. 190-194)
 16世紀後半には、僧兵組織、宗教一揆は織田信長、豊臣秀吉という武士によって徹底的に弾圧され、日蓮の『立正安国論』の謗法禁断の思想も日蓮教団では軽視され、江戸幕府の宗教的統制の下では、僧侶が武装することはなくなったが、幕府が宗門人別帳、寺請制度により寺院を統治機構の一部にしたため、僧侶が幕府の管理機構の一員として、人々を抑圧するようになった。

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