「生まれてくる子に障害さえなければ」。出産を前に、そればかりを祈るのが親というものだろう。が、その祈りをよそに、最初から重いハンデを背負わなければならない親子は、医学の進歩にもかかわらずなくならない。しかし、障害をもつ親の体験こそは、子供を育てることの真の意味をすべての親に問いかけていないだろうか。
一緒に小学校''入学''
練馬区・光ヶ丘団地の主婦、森すみこさんが長男の裕太君(10)と一緒に近所の小学校に''入学''してから、もう4年。わが子の隣で、一緒に授業に耳を傾け、給食を取る。夏には、水着になってプールに飛び込むこともある。
「つきっきりの介護」。それが、裕太君を普通の学校に入れるための条件だった。4年前、母親はその条件を受け入れたのだ。裕太君は、脳性マヒによる全身機能障害。歩くことも、話すこともできない。障害者手帳には、最重度の障害を示す「一級一種」とある。
医師の言葉に憤り
「命が助かっても、ずっと植物状態ですよ。どうしますか。」すみこさんと夫のこういちさんは、病院で出産直後に聞いた事務的な言葉を、いまも忘れない。
分娩台にしばらく放置された時は「今日はお産が重なって忙しいのね」と思ったすみこさんだった。異常に気づいた時は遅く、初めての赤ちゃんは、酸欠で仮死状態。「どうしますか。」他人事のような若い医師の口調に、激しい憤りを感じた。
親になったばかりの夫婦は、黙って互いの目をのぞき込む。母親が「自分が死にたい……」とつぶやいた時、「ともかく、この子は生かして下さい」と医師に言ったのは、父親だった。
同じ日に生を受けた子供の親たちとは全く違う日々が、それから始まる。機能回復に役立ちそうな施設や病院に通い、無理を押して3人一緒の旅行もした。やがて、専門医のアドバイスに従い、次の出産に挑んだことが転機となった。
男の子が次々と3人。みんな健康そのものだ。どんどん育つ。動き回る。
息抜く間もない日課
「この子たちが、私にも裕太にも、新しい人生を開いてくれた。」いまは、そう思うすみこさんだが、その日課は息を抜く間がない。
朝、裕太君と同じ学校に通う二男の英君(8つ)と、夫を送り出す。それから裕太君を車いすに乗せ、四男拓ちゃん(9ヶ月)をだっこして、三男奏君(5つ)の手を引き、2つの保育園を回ってから学校へ。授業が終われば、裕太君と歩行訓練などの施設に通う。
いま、一家には笑い声が絶えない。ソファにうずくまる長兄にまとわりつき、はしゃぎ回る弟たち。クラスメートたちもしょっちゅう遊びにくる。とにかくにぎやかだ。
初めて「みかん」と
周囲の励ましにこたえるように、裕太君にも楽しみな兆しが見られる。初めて「みかん」という単語を口にしたのが、去年。最近は左手もだいぶ動くようになった。声をかけられるたびに、ニコッと笑ってみせる。
今後、彼の機能がどの程度まで回復できるのか、すみこさんにはわからない。ただ、はっきりしていることが一つある。いつか病院で味わった深い絶望が、いまは大きな希望に変わったということだ。
(読売新聞1991年12月12日)
|