Love fool days

プロローグ
      −−−−火村の回想もしくは独白−−−−
 
 始まりは光の粒子が舞う階段教室。
 いかにもやる気の無さそうな一番後ろの席で、どうした事かガリガリと一心不乱にペンを走らせるその姿に目が止まった。
 その脇に積み重ねられた原稿用紙。
 手を伸ばしたのは講義が退屈だったのと、チラリと見えたそれに通常のレポートにはまず有り得ない「」をいくつも見つけたから。そして何よりその横顔がひどく真剣だったからに違いない。
 読み始めた自分に気付くと、驚いてはいたけれど即座に無視を決め込んだらしいその態度が又気に入った。
 やがて積み重ねられていたそれを読破し、その手元を覗き込むに至り、流石に何かを言い掛けた口は教授の終わりを告げる言葉で噤まれた。
 ワタワタと荷物をまとめて立ち上がりかけた身体。
 その瞬間、閉じられたその口から何故か声を発してほしくなった。無性に、けれどどうしても、声が聞きたくなった。
「その続きはどうなるんだ?」
 振り向いた、驚いて丸くなった瞳。
 そうして次の瞬間、その瞳の中に勝ち気な色がふわりと浮かび上がる。
「あっと驚く真相が待ち構えてるんや」
「気になるな」
「ほんまに?」
 勿論その言葉に嘘はなかった。
 だから・・・。
「もちろん」
 答えた途端、目の前に浮かんだそいつの・・『有栖川有栖』というけったいな名前を持つ彼のひどく嬉しそうな笑顔が−−−口が裂けても言わないけれど−−−忘れられない宝になった。
 
 


   
 
「・・でな?ここで犯人が・・おい、聞いとんのか?」
「ああ?」
「ああ、やない。自分が話せ言うたんやろ!?ちゃんと人の話を聞け」
「聞いてるだろ」
「心ここにあらずでボーッとしながらビールを飲んでいるその姿のどこに聞く気持ちがある言うんや!学生たちの聴講の方がなんぼかマシな態度やで!」
 ビールを片手に怒る友人の姿を眺めながら英都大学社会学部の若き助教授であり気鋭の犯罪学者でもある火村英生は“比べ物にならねぇよと 胸の中で思わず毒づい
ていた。
 大体ビールを飲みながら聴講する奴が居る筈がない。否、居たら叩き出している。
「おい・・・」
 すっかり黙り込んでしまった火村に“浪花のエラリークイーン”こと−−本人は言われるといたく苦い顔をするのだが−−推理小説作家の有栖川有栖(本名)はオズ
オズと口を開いた。
「・・何考えてん、自分。いきなり黙り込むなよ」
「へぇ・・有栖川先生自ら新婚ごっこか?そういうのは嫌いじゃなかったのか?」
「誰が新婚ごっこや、ボケ!!ああ、もうほんまに!止め止め。もう話したらん」
「そのうち本になるんだろう?」
「さぁな、片桐さんがにっこり笑って“駄目ですね”って言ったら一生日の目は見ぃへんかもな」
「卑屈になるなよ。悪かった。で?犯人が何だって?」
「もうええって言うてるやろ!」
「アリス」
 名前を呼んだ途端見つめてくる少しだけ恨めしそうな眼差し。
「・・・煮詰まっとるから話したのに」
「・・・だから悪かった」
 そう。確かに話をする前に有栖は珍しく“ちょっと整理しきれないんや”と歯切れの悪い言い方をした。
 だからこそ本当は振りたくなかったのだけれど話してみろと言ったのだ。もっとも火村にしてもまさかその話が発端から謎解きに近い場面までのこれ程長い話になるとは思ってもみなかったのだけれど。
「話してみろとか言うて全然聞いてへんし」
 ブツブツと呟くような有栖の言葉に火村は胸の中で溜め息を漏らした。
「しつこいぞ。大体全然聞いてなかったわけじゃない」
「嘘や」
「そりゃあ・・誰かさんの言う通り。ビールを飲んでボーッとしていた事は認める。けど聞いてた。ちゃんと。いや・・・それとなく。拗ねるなよ。ほら犯人は?そのプロデューサーなのか?」
「−−−−−−!!」
 半分なげやりに口にした言葉に有栖の顔が物凄い勢いで上げられた。僅かな沈黙。
「・・・おい・・ビンゴかよ・・」
「それとなく・・・それとなくしか聞いてへんかった奴に・・トリックもまともに話してへんのに・・」
「いや・・その・・お前もうちょっと捻れよ!」
「やかましい!言われんでもそないな事判ってるんや!もう・・もう駄目や・・」
「アリス・・!?」
 ジワリと瞳に浮かんで溢れた涙。
 それにギョッとして思わず引いてしまった火村の目の前で有栖はいきなりすっくと立ち上がった。
「お・おい!どこに行くんだ」
「・・・・・・」
「・・馬鹿な事を考えるんじゃねぇぞ」
「馬鹿って言うんやないって言うとるやろ!!」
 言いながらもスタスタと歩いて行く有栖の後を追い駆けながら火村は本気で頭を抱えたくなってしまった。
 言いたくはないが言わせてもらうと、まともに会うのは2ケ月ぶりに近い。お互いの仕事が忙しくて、何度かあったフィールドの誘いにも有栖は1度しか来る事が出来なかった。 しかもそれさえも顔を合わせたという程度のものでしかないのだ。
 今更、始終一緒に居ないと嫌だ等というわけでは勿論ないが、一応自分たちは恋人同士なのだ。それなのに。
(2ケ月ぶりに逢って長々と原稿の話を始める事はないだろう!?)
 確か原稿の締め切りまではまだ余裕があると言っていた筈ではないか。
「いい加減にしろ。まだ締め切りまでは余裕があるって言っていただろう。自分でも納得出来ないから俺に話をしたんだろうが。酔ってる頭で考えたってロクなもんじゃねぇよ。とにかく原稿の事は少し忘れろ」
 書斎に入る寸前でようやく手首を捕まえて火村はグイッとその身体を抱き込んだ。
 その腕の中で有栖がプイと子供じみた仕草で顔を背ける。
「・・どうせロクなもんやないもん・・」
「あのなぁ・・」
「火村には分かれへんねん。考えられん様になったらおしまいなんや」
「まだ間があるんだろ?」
「ない。プロットから練り直す」
「!・おい・・」
「こんなバレバレの話、片桐さんに見せられへんもん!根こそぎ、全部替えたる!!」
「アリス!」
 新婚だろうが、熟年だろうが、どういう場面であれ他の男の名前が出るのは面白くない。 思わず怒鳴ってしまった火村に有栖はビクリと身体を震わせた。
「てめぇなぁ・・今日がどういう日だか判って言ってるんだろうな」
「・・へっ・・?」
「言いたかないがまともに会ったのは2ケ月ぶりだ」
 火村の言葉に有栖は半分呆けていた顔をパッと赤く染めて、次にムッとした様な表情を浮かべた。
「そんなん・!・・そんなん判っとるけど・・仕方ない
やん!」
「仕方ない?」
「せやって・・書けへんねんもん!」
「だから、酔って煮詰まった頭じゃロクなもんが浮かばねぇって言ってるだろうが」
「ロクなもんだろうが何だろうが余計な世話や!」
「余計な事だったら始めから人に話すんじゃねぇよ」
「・・!!もう話さんわ!離せ!」
「嫌だね」
「火村!」
「黙れよ。話を聞いてやっただろう?今度は俺に付き合う番だ」
「!!ちょっ・待て・・やっ!!」
 言いながら抱き締めてくる腕に力が込められ、ついで寄せられた唇に、有栖は慌てて身体をよじった。
「嫌っ・!嫌やて・・火村!!」
 けれどそんな事は何の抵抗にもならないのだというように火村は器用に片手で有栖の両手をまとめあげるとドア近くの壁にその身体を押さえ付けてしまう。
「・・・っ・・!」
 スルリとシャツの中に滑り込んでくるもう一方の手。
「アリス・・」
「!!や・嫌や!!火村!!やめ・・聞けって!!」
「もう充分聞いた」
「火村!・・待っ・やぁっ!!」
「うるせぇよ」
 不機嫌に上げられた顔に向けた縋りつくような瞳。
「・・嫌やて言うてる」
「聞かない」
「!・火村!!」
「この時間をどうやって確保したと思ってるんだ」
「・・!!・・あ・」
 シャツのボタンを外してゆく長い指。
 顕になった胸にゆっくりと寄せられる唇にチリリと肌が焼ける。
「・っ・・や・」
「アリス・・」
「・・っ・」
 囁かれた名前に有栖はクシャリと顔を歪めた。
 熱くなってゆく身体に冷めてゆく思考。
「・・・自分・・もしかしてこれだけやないよな?」
「・・アリス?」
「身体だけの為に会うてるんやないよな?」
「−−−−−−−−!」
 訪れた沈黙。
 それをどう受け止めたのか、次の瞬間有栖の悲鳴じみた大声が部屋の中に響いた。
「この・・アホんだら!!出てけー!!!」
 
 
 そうしてその数瞬後、バンッ物凄い音を立ててマンションのドアが開いて・・・閉じた。
「・・・やってらんねぇよ!」
 火村の低いその声は勿論有栖には聞こえなかった。