Love fool days 2 「・・・・・」
パサリと床の上に落ちたレポート。
その音にフワリと浮かび上がる意識。
目を開けると飛び込んでくるのは見慣れた埃っぽい研究室。いつか見た風景の様に窓から差し込む光の中で小さな粒子が踊っている。
「・・・・チッ・」
その記憶のどこが気に入らなかったのか、もしくはらしくなく居眠りをしてしまった事に対してか、この研究室の主人である火村は不機嫌に舌打ちをすると床の上に落ちたそれを−−−学生が見たら己の提出したレポートの扱いに嘆くだろう仕草で−−−無造作に拾い上げながら緩んでいるネクタイを更に緩めて息をついた。
チラリと見た腕時計の針は記憶が途切れてから30分後を指している。有り難い事に眠りこけて講義をすっぽかすという大失態はせずに済んだらしい。
今日の講義はちょっと外すわけにはいかないのだ。
「・・・・ったく・・年かよ・・」
どうやらここ何日かの学会に向けての資料作りが響いているらしい。
その途端、この台詞を聞いたら指を差して笑い転げそうな友人の顔を思い出して火村は思わず顔を歪めた。
「・・・・っ・・」
漏れ落ちた小さな舌打ち。ついで机の上に放り投げてあったキャメルに手を伸ばしてゆっくりと口に銜える。
カチリと点けられた火。ユラリと上がった紫煙。
脳裏に甦ったのは一週間前の記憶だった。そう、あれからもう一週間が経っている。
連絡はない。自分も勿論していない。あの日のあの時間を空けるだけでも随分と苦労をしたのだ。譫言を製作すれば休みになるどこかの気楽な推理小説家とは訳が違う。
「・・・・・・」
そう思って、次の瞬間そう思った事自体が子供じみていると火村は思いきり白い煙を吐き出した。
“・・これだけやないよな?
縋りつく様な眼差し。
“身体だけの為に会うてるんやないよな?
「・・馬鹿が・!」
何を今更そんな事を聞かなければならないのか。
火村にしてみればまさにふざけるな、である。
なのに・・・。
「・・出てけって言ったのはてめぇだからな」
そう考える事がすでに子供じみているのだ。
だが判ってはいても絶対に頭を下げるつもりはない。
思わず、それが悪いのだという様に鳴らない電話を眈みつけて火村は短くなったキャメルをいっぱいになりつつある灰皿に苛立たしげに押しつけた。
その瞬間−−−−−−。
「−−−−−−−!」
鳴り出した電話に息を飲む。
2回・3回・・・コール音が数を重ねて行く。
「・・はい、火村です」
『お世話になっております。大阪府警の森下です』
「・・ああ、事件ですか?」
『はい。船曳警部が先生にぜひご協力お願いしたいと』
「場所は?」
『都島区です。善源寺町の−−−−−−』
「判りました」
サラサラとメモを取りながら火村はチラリと時計を見た講義の時間まであと10分足らず。さすがに今からの休講はきつい。何より今日の講義は外したくないのだ。
(・・・先月2回たて続けに休講にしちまったからな)
脳裏に教務課の連中の面白くない顔が浮かぶ。
「すみませんがこの後の講義がどうしても外せないんです。もうすぐ開始ですので少し早目に切り上げて伺います」
『判りました、お待ちしております。あのそれで』
「はい?」
『場所も場所ですし、よろしければ有栖川さんもどうぞという警部からの伝言です』
「・・・・・・・」
再び脳裏を寄切った顔。
「推理作家向けの事件なんですか?」
『は?・・あ・・いえ・・あの・・?』
受話機の向こうで戸惑った様な若い刑事の声を聞きながら火村は思わず胸の中で苦い思いを噛み締めていた。
判ってはいるのだ。
このままでいい訳がない。済ましたい訳ではない。
『火村先生?』
「ああ、失礼。一応声は掛けてみます。ただこの前締め切りがどうとか、もうあかんとかグチャグチャ言ってましたから顔を出せるかどうかは判りませんが」
火村の答えに若い刑事は納得がいったという様に少しだけ笑いを含んだ声を零した。そして。
『判りました。警部にもその様に伝えておきます。それでは後ほど』
プツリと切れた電話。それをゆっくりと元の位置に戻して火村は息をついた。
講義5分前。
残りの少なくなった煙草を取り出して、銜えて・・。
「・・・・畜生・・!」
ガシャガシャと若白髪混じりの髪をかき回すと火村は再び受話機を取り上げた。
謝る訳ではない。事実を伝えて選択権を与えてやるだけだ、と余分な言い訳をしながらソラで覚えている番号を押す。
耳の奥で響く呼び出し音。
カチャリと切り替わった様な小さな音。
『はい、有栖川です。只今留守にしております−−−』
「!クソッたれ!!」
教育者にあるまじき言葉を口にして火村は受話機を叩きつけた。
「・・知るか・・あのバカ!!」
バサバサとまとめた資料。
靴音高く部屋を横切ってドアを開けると、回りが振り返るような勢いでそれを閉めて。
(・・あのバカ・・!)
胸の中で繰り返した、たった今口にした言葉。
まるで仲直りのきっかけを失って癇癪を起こした子供の様にどこかふてくされて息をつく。
“・・火村
「・・・知るか、馬鹿野郎」
そうして一瞬後、その表情を完全に消して火村は長い廊下を歩き始めた。
「・・アホんだら・・一週間やぞ!?」
−−−−大阪、天王寺区。
夕陽丘という中々ちょっと青春くさい地名に建つマンションの7階の1室で、有栖は鳴らない電話を眈みつけていた。
そう・・あの日から一週間。
“言いたかないがまともに会ったのは2ケ月ぶりだ”
長年の友人であり、実は恋人であったりもする彼がそんな風に言うのは本当に珍しい事だった。
今までも何度かはそれ位会えない事があった。
けれど今回の様にとにかくお互いの予定が噛み合わず電話もままならず、誘われたフィールドに一度顔を出した程度で・・等というのは初めてだったかもしれない。
「・・・・・・・・」
判ってはいたのだ。その日の時間を確保するのに火村がどれ程のスケジュールを調整したのか。だけど。
「・・頭から離れんかったんや」
有栖にとっても又、それはまさに生きる死ぬか(ちょっと大げさだが)の問題だったのだ。
作家が書けなくなったらそれはやっぱりある意味で死を表す事だと思う。
切り出しは「整理し切れない」という軽いものだったが本当はそれどころではなかった。
火村の言う通り締め切りまでにはまだ時間はあったものの切羽の詰まり様はそれ以上という状態だった。
それなのに・・。
(それとなく、で犯人を当てられた俺の身になれ・・)
判ってはいても『駄作』と突きつけられた衝撃は大きいと思う。その上、それだけでも十分こたえているのに話を聞いてやったから今度は自分の番だ、はやっぱりちょっと・・あんまりだと思う。
「・・・・クソボケ!アホ!間抜け!おたんこなす!」
それ自体が嫌だった訳ではない、と有栖は思った。
嫌だったらこんな関係になっていない。
ただあの言い方が、有栖自身を丸っきり無視したような、まるで誰でもいいようなその態度に腹が立って、遣り切れなくなってしまったのだ。だから。
“自分・・もしかしてこれだけやないよな?
馬鹿な事を聞いてしまったと思う。
“身体だけの為に会うてるんやないよな?
今なら、なぜそんな事をと思える。
でも・・
(黙り込むあいつもあいつや・・!)
リビングのテーブルまでコードを伸ばしてきた電話を眺めている事があまりにもアホらしい事に思えて有栖はそのままコロリとソファの上に転がった。
「・・・・・・・」
あの後の怒りのパワーは凄まじく、絶対に火村に当てられたプロデューサーだけは犯人にすまいとトリックを練りに練ってこれでもかと仕掛けを組んで1度目の(ここがミソ!)締め切りを一週間前に上げた有栖は「何があったんですか!有栖川さん!!」と青い顔をして飛んできた片桐にそれを見せた。
沈黙の中、パラパラと原稿をめくる音に少しずつ少しずつ尖った気持ちが溶けてゆく。 そして。
「うん、面白い。この前の打合せの時よりも遥かに内容が膨らんでトリックも効いている。予定のページ数よりも多いですがそれはこちらで調整しますからご安心下さい。このまま戴いて行って宜しいですか?」
その言葉を聞いた時有栖はようやく自分の中で何かが弾けた様な気がした。
「・・有難う」
「有栖川さん?」
「・・・面白いって言われて・・何や凄く嬉かった」
「何言ってるんです?面白いものを面白いって言うのは当り前でしょう?」
「・・うん・・」
「ちょっと有栖川さん?泣いてらっしゃるんですか!?ああ、やっぱりこんなに早く原稿が上がるなんておかしいと思ったんですよ!熱は!?具合が悪いんじゃないですか!?」
ワタワタと慌てる人の好い担当に「ひどいなぁ片桐さん」と言いながら、有栖は脳裏を寄切った独特の笑みを浮かべる男に会いたくて、会いたくて、今すぐにその声を聞きたくてたまらなくなってしまったのだ。
けれど・・でも・・。
それから4日。
有栖はまだ友人兼恋人である男に会えずにいた。
“悪かった
そう言えば許してくれるだろうか・・?と思うそばから「何でこっちから謝らなあかんのや」と思う自分がいる。
落ち着いて考えれば、多分・・・・恐らく・・・例え火村が話をそれとなくしか聞いていなくても、無理やりコトに及ぼうとしたとしても・・・自分が悪かったのかもしれないと有栖は思う。
でも・・だけど・・・。
「このままでええのか、君は」
鳴らない電話。
それで済まされてしまえるのかもしれない自分の存在に不安になる気持ちが嫌だ。
「・・・・アホんだら・・」
過ぎてしまった一週間。
もしも本当にこのまま連絡がなければ・・・。
「・・・・・・・・謝らへん!」
ガバリと起き上がって有栖はまるでそれが火村だとでも言う様に電話を眈みつけた。
「謝らんけど、文句を言いに行ってやる!」
なぜ連絡を寄越さないのか。
それならばきっと出来ると思う。
「よし!」
立ち上がってスタスタとクローゼットのある部屋に行きパッパと着替えを済ませると有栖はそのまま玄関に向かった。そうして。
「あっ・・と、そうや」
慌てて戻ってテーブルの上に置いた電話の留守電機能を入れる。
「これでよし。ガスは使ってへんし・・鍵も持った・・財布と・・・覚悟しとけや、火村」
どこか楽しげに口にそう口にして。
パタンと閉じたドア。
ガチャガチャと締められた鍵。
やがて、静まり返った部屋の中で電話のベルが鳴り出した−−−−−−−−・・。