Love fool days 3

「火村先生、わざわざ御足労戴いて恐縮です」
 どっしりとした体格に見事にマッチしたトレードマークのサスペンダー。禿げ上がった形の好い頭を下げて大阪府警捜査一課の警部である船曳は、同じくトレードマークの、こちらはアルマーニのスーツを着こなしながら現場を走り回る森下を怒鳴りつつ火村にそう言って中へと促した。
「駆けつけた時から負に落ちん事が多くてご連絡をしたんです。遺体の方はもう解剖に回してありますので説明だけさせてもらいます。・・やっぱり有栖川さんは無理でしたか」
「・・・・ああ・・そのようですね」
 後ろを振り返る様にしての船曳の言葉に火村は思わず苦笑に近い笑みを浮かべた。
 気を取り直して講義を終えた後かけ直した電話はやはり留守電になっていた。それでもどうにかこうにか気持ちを落ち着けてこの場所を言い、来るなら来いとメッセージを入れたのだが何となく可能性は薄い気がする。
「仏さんですが、この家の主人である−−−−−・・」
 手帳を開いた船曳の説明が始まる。
 その説明を聞きながら火村はもう何度思い出したか判らないあの夜の有栖の顔を思い出していた。
“これだけやないよな・・?” 
「判らんのが凶器です。鑑識の方の結果が出ませんと何とも言えんのですが頭部の陥没具合から見て恐らく鈍器の様な物という推測は出来ますが--------・・」
“身体だけの為に会うてるんやないよな?” 
 すぐ様違うと言えば納得出来たのか。それとも・・
「先生、どうかされましたか?」
 不思議そうに覗き込んでくる顔に火村は慌てて俯きかけていた顔を上げた。そうして小さく首を横に振る。
「いえ。それで、凶器が見あたらないと言う訳ですね」
「はい、でもそれだけやないんです。ガイシャのズボンの裾に濡れた様な染みがありまして」
「ここには水気の物はない。殺されてから運ばれた形跡は?例えば風呂場・・・にしてもただの水なら渇けば染みにはならないか」
「はぁ・・これも解剖の結果待ちですがおそらく。家中この通りですが運んだ形跡等は全くないのです。頭からドクドク血を流した人間を運んだら何らかの跡がつく。うまく何かにくるんだりして運べば今度はガイシャの衣服にその痕跡が残るわけですが」
「ないんですね」
「はい。血痕が残っていたのはこの部屋だけです。一応他の所も調べましたが、反応は出ませんでした。まぁガイシャが一人暮らしの上、この部屋からほとんど出ないという生活をしていたらしくて」
「・・聞きそびれましたが発見者は?」
「ああ、すみません。えーっと・・編集者です」
「え・・・」
「これも言い忘れていましたでしょうか。被害者は小説家です」
 火村の脳裏に人懐い友人の笑みが浮かんだ。
 
 


 
 
「・・・・フイ打ちかけたろう思うたら、反対にかけられるとは思わなかったわ」
 変わらぬキャンパスの中を歩きながら有栖はポツリと呟いた。
 勢い込んで来た分だけ何だかショックも大きい。
 幾度も訪れた事のある研究室。その古びたドアの横に掛けられたプレートが不在のそれになっているあたりから嫌な予感がしたのだ。
 一応ノックをしてドアノブを回す。けれどそれは案の定鍵がかかっていた。
 講義だろうか?そう思って思い出すが流石に時間割りの全ては思い出せない。
 ここで待とうか・・考えた末、有栖はそのまま教務課に足を向けた。
 そうして火村助教授が本日の講義を終えて帰ったらしい事とついでに来週早々に学会を控えて大変忙しいらしい事まで教えて戴いてしまったのだ。
「・・・・・下宿に帰ったんやろか?」
 チラリと覗いた図書室にはそれらしい姿はなかった。
 訪ねて行くのはたやすいが忙しいと判っている人間に文句をたれる程根性は曲がっていない、と有栖は思う。
「・・・センセは忙しい・・か・・」
 零れた言葉が情け無くて有栖は何だかしゃがみこみたくなってしまった。
 この一週間、怒って、不安になって、会いたくて、意地を張って・・・そんな風だったのはもしかしたら自分だけなのかもしれないと有栖は思った。
 火村には火村の時間があって、当り前だが毎日が流れていて。その忙しさの中ではもしかしたら自分等とるに足りない存在なのかもしれないと思えてしまう。
「・・あかん・・思考がメチャメチャ暗いわ」
 立ち止まっていた足を再びゆっくりと動かして有栖は俯き掛けていた頭をゆっくりと上げた。
 暮れるには少し早い、午後の眩しい光。
 そう・・ここまで来たのだ。
「・・・文句は諦める。忙しかったら会わんでもええ」
 口に出してとりあえず目的の水準を下げる。
 陣中見舞いとでも言ってちょっと遠回りになるが“世續茶屋”の茶団子でも持って行ってやろう。
 それをいつも世話になっている大家に手渡して・・そして、もしも・・。
「一人しかいない店子に上がっていけと言われたら大腕振って邪魔したらええんや」
 こんな風にしてきっかけを捜している自分がおかしかったけれどそれは仕方がないのだ。多分、きっと、バツが悪いのはお互い様である。
「よし!作戦パート2や!!」
 自分で自分に声をかけて有栖は愛車を止めた駐車場に向かって歩き出した。
 
 
 


 
 
「こちらが監察医からの報告です」
「随分早く出ましたね」
「とりあえずの事柄のみですが。詳しいものは明日に」
「拝見します」
 場所を現場から事件の起こった管轄である都島署の一室に移して、所轄の刑事と船曳等本部の刑事たちに混じって火村は事件の話を繰り返していた。
 不審な点は残っていたが解決した部分もあった。
 ズボンの裾が汚れていたという点はどうやら食べ物が底をついたらしい被害者が近くのコンビニエンスストアーに行った時にその店先の水溜りに(と言っても客が店内でフローズン何とかという食べ物を零した為掃除をして流した水で出来た水溜りらしい)ハマッて汚したものらしい事が判明した。
 ゴミペールという蓋付きのポリ容器のゴミ箱に捨てられていたレトルト食品の残骸と、監察医からの所見にある胃の内容物が一致し、更に買物をしたらしいビニール袋の中に無造作に入れられていたレシートから被害者が何時に買物をし、大体何時頃食事をして、その消化の具合いから何時に絶命したのか。これで犯行時間の幅はかなり狭くなる。後は一応裏を固める為にズボンについた染みの成分とコンビニ前の渇きかけた水溜りの成分が一
致すればその点は万事OKという訳だ。
「それにしても解剖所見の前にゴミ箱の中身とズボンのシミから足取りが割れる言うのも・・中々・・」
 ツルツルの頭を撫で上げてどこかおかしげに笑う船曳に火村はいつもの笑みを浮かべて口を開いた。
「作家と聞くとつい貧困な食生活を連想しちまいましてね。以前どこかの先生もフラフラ買物をしに行って見事に水溜りにはまって。食事代よりクリーニング代の方が高くついたとぼやいていました。よりによってザバザバと洗えるジーンズではなかったそうで」
「ははは・・それは有栖川先生らしい。それでは有栖川先生がいらしていれば見た瞬間に謎解きをしてしまったかもしれませんな」
「そうですね・・」
 答えながら胸の中に落ちた苦い思い。
 ついに有栖から連絡が入る事はなかった。
「それでは今日の所はそろそろ。我々はもう少しガイシャの交友関係を探ります。何か進展がありましたらお伝えします。明日はもう一度第一発見者の編集者に事情を聞きますのでよろしければ又」
「判りました」
 言いながらカタンと椅子から立ち上がって火村はゆっくりとドアに向かって歩き出した。
「ああ、先生。駅までお送りします。これから京都の方まですか?それでは・・」
 言いながら森下を急かす船曳に火村は薄く笑った。
「大丈夫です。都島駅までそうはありませんから」
「そうですか・・?有栖川さんの所に・・という訳にはいきませんな。締め切りですし。では・・」
「失礼します」
 ペコリと頭を下げて火村は都島署を後にした。
 すっかり暗くなってしまった空に薄く光る星。
 見えてきた駅名と馴染みのある“谷町線 の文字。
 ・・よりによって“谷町線 である。
 そのまま降りるべき東梅田を通り越せば四天王寺駅までは数える程だ。
 そして更に明日、又都島署に行くのだ。
「・・・・・っ・・」
 耳に残るどこか取り澄ました様な留守電の声。
「・・・・・・・クソッ・・」
 周囲に人が居たら間違いなくビクリとして身体を引いてしまう不機嫌窮まりない声を落として、火村は四天王寺駅までの区間の切符を買った。