Magical!Miracle!days

  

 どうしてそんな事をしたのか。
 否、正確に言えばしたのではない。されたのだ。
 そう。どうしてそんな事をされたのか判らなかった。 
 学生時代からの気の置けない友人。
 その男が抱えているらしい何かを知りたいと思った事もあったし、そばにいて出来る事なら何かの支えになりたいと思えるくらい自分にとって彼は大切な、大切な友人だったのだ。
 勿論今でもその気持ちは変わらない。
 変わらないけれど・・・・。
「・・・何でや・・」
 もう幾度繰り返したのか判らない言葉をポツリと呟くように落として、大阪在住の推理小説家・有栖川有栖はソファに腰掛けたまま「はぁ・・」と大きな溜め息を漏らした。
 原因は、3日前に遡る。
 その日大阪で研究会があったのだと長年の友人で、母校の社会学部の助教授でもある火村英生が有栖のマンションにやってきたのは午後十時を少し回ったところだった・・・。


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「何や疲れた顔しとるな。またその研究会とやらでつるし上げでもくったんか?」
 『フィールドワーク』と称して警察に協力するという形で現場に出てゆく火村のその研究方法を良しとしない学者達が居る事を有栖は知っていた。
 そしてそんな人間達と火村が時折ぶつかる事も過去の中で火村自身から聞かされたり、或いは間接的にそれが耳に入ったりする事があったのだ。
 だからこんな風に突然(もっとも火村が有栖のマンションを簡易宿泊施設代わりに使う事は珍しくもない事だったが・・)火村が疲れた顔をして訪れた事は有栖にとって、頼られているというか、こんな風な友人を一人にさせずに済んだというような、どこか屈折した『嬉しさ』を感じさせる出来事だったのだ。
 リビングに入っていつものようにドカリとソファに座った火村に有栖はそう言いながら缶ビールを差し出した。
 それを手にして火村は緩んでいたネクタイを更に緩めてうんざりとしたように口を開く。
「異分子ってヤツはいつの時代も憎まれて叩かれる運命なんだよ」
 パシュッと音を立てて開けられたビール。
「運命なんて言葉を使う事自体が“お疲れ”やな先生」 同じようにその前でビールを開けた有栖に火村は眉間に小さく皺を寄せたまま再び口を開いた。
「そう。“お疲れ”なんだからせいぜい労ってくれ。つまみは何でもいいから。ああ、ついでにもう一本ビールを持ってきてくれるか?」
「もう飲んだんか!?」
「もう少し。何度も立たせると悪いだろう?」
「・・・何で俺がつまみからビールの世話までせなあかんねん」 
「そりゃお前が“お疲れ”だって言ってくれたからだろう?つつかれて、つるし上げられて、落ち込んで酒でも飲んで寝ちまいたい。そんな気持ちが判る友人を持って俺は幸せだよ」
 嘘臭いその台詞に有栖は思わず「ケッ」と下品な声を出した。ニコニコと笑いながら“お疲れ”だの“落ち込んでいる”等と言われても白々しい以外の何ものでもないではないか。
「アリス、空だ。空」
 そう言って火村はビールの缶をユラユラと揺らしてみせた。
「少し身体を動かした方が気分転換になるんやないか?ついでにつまみを作ってみるとそれも又気分が変わっていいかもしれへんで?」
 まだ半分ほど残っているビールを飲みながら有栖はそう言って小さな笑みを浮かべる。
 だがしかし、その日も火村の方がやはり一枚上手だった。
「アリス、違う。至れり尽くせりってぇのが傷ついた心には一番なんだ」
 ニヤリと笑う顔。
「・・・・・ただの無精者や、まったく・・。次は君が取りに行くんやからな!」
 ムッとしたような表情を浮かべながら立ち上がった有栖に火村は更に口を開いた。
「アリス、つまみも忘れるなよ」
「やかましい!ビーフジャーキー位しかないで!」
「我慢しといてやるよ」
「・・・食わんでええ!!」・・・


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「・・・・はぁ・・」
 漏れ落ちた何度目かの溜め息。
 こんなやりとりをして二人でリビングで撃沈をしたのはおそらく12時を回った辺りだったと思う。
 いつもよりも早いペースで飲んで、特にその研究会の話は出なかったが、お互いに行き来のなかったここ半月ばかりの近況報告の様なものを話してそのうち床に転がった。
 暖房がついていてもさすがにこの時期に床の上に一晩寝るというのはまずいと思うくらいの理性は残っていたのだと有栖は思う。
 うつらうつらと風邪ひくなぁと考えながらも一向に動かない身体に、あとちょっと、もう少し、等と思っていたところに「おい」といつもよりも低めの火村の声が聞こえてきた。
 けれどそれでもビクリとも動かない有栖に火村は小さな溜め息をついた。
 そう・・・ここまでは良くある話だった。
 その次にくるのは「寝るならベッドで寝ろ」と言う言葉と共に軽く殴られるか、蹴られるか、もしくは寝室から持ってきてくれた毛布を掛けてくれるか・・・そのどれかだろうと有栖は思った。
 だが、しかし、実際はそのどれでもなかった。
『眠っちまったのか?』
 それは何となく、寝そびれてしまった子供のようなどこか不安な、探るような声だった。
 こんな声も出せるのか。
 ぼんやりとしたままの頭でそんな事を考えた有栖の耳に再び火村の声が聞こえてくる。
『アリス?』
 小さく動く音がする。
『おい、起きろよ』
 近づいてくる人の気配。
『アリス』
 この時点で目を開けていればともう何度思ったか判らない。
 けれど実際は元来の寝汚なさからか、アルコールのせいか、有栖は瞼すら動かす事が出来なかったのだ。
 確かにすぐそばに火村が居る。
 それは判っていた。
 とても、とてもしっかり、はっきりと判っていたのだけれど・・・。
『アリス・・』
 三度呼ばれた名前。そして次の瞬間・・・。
『・・・無防備すぎだ、馬鹿・・』
 掠めるように唇に触れたそれは何だったのか。
 吐息と共に落ちたその言葉はどういう意味なのか。
 結局、それまでとは違った理由で目を開けられなくなってしまった有栖は、翌日リビングの床の上で布団にくるまって目を覚ました。
 勿論いつ眠ったのか、火村がいつ布団を掛けてくれたのか等は全く記憶にない。
 それどころか『ビールとつまみご馳走様』などというメモを残した火村がいつ部屋から出ていったのか、それすらも有栖は判らなくて、3日が経ってしまった。
「・・・ほんまに・・からかうならタチが悪すぎやで」 ベランダから見える青い空。
 『冬晴れ』という言葉がピッタリとくる、柔らかな、それでいてどこか清廉な日差しと凛とする冷たい空気の中で、有栖はハァともう一度溜め息を零した。
 フワリと現れて消えてゆく白い息。
 いくら天気がよいと言っても冬は冬である。
 回っている思考回路には丁度いいかもしれないと日差しに誘われるようにしてベランダに出てみたがやはりどうあってもうまい答えは出ないようだ。
「・・・コーヒーでも飲もう・・」
 一端思考を断ち切って有栖はクルリと踵を返した。
 リビングに入りベランダに続くサッシの窓を閉めると暖房がかかっていないにも関わらずひどく暖かく感じる室内に結構身体が冷えてしまっていたんだなと思う。
「熱いの飲もう・・どうせやから豆挽こうかなぁ」
 冷えてしまった手をすりあわせるようにして有栖はキッチンへと急ぐ。その瞬間部屋の中にインターフォンの音が鳴り響いた。
「・・誰や?」
 何かの勧誘だろうか?
 思いながらインターフォンの受話器を取ると宅急便だと告げる声があった。
 「今出ます」と答えて印鑑を持つと有栖は再びクルリと向きを変えて玄関へと向かう。
「ご苦労さん」
 言いながらはんこを押して受け取った荷物は思っていたよりもずしりと重かった。
 「有り難うございました」と頭を下げて爽やかに走ってゆく“猫”の印の宅配業者の後ろ姿を見送り、有栖は今更ながら差出人を見て口を開いた。
「・・ああ・・片桐さんからや・・」
 背中でゆっくりと閉じたドア。
 そう言えば次の長編の話をした時に有栖が思いつくまま言った事を書き留めて資料を集めておきますと言っていた。これが全て使われるわけではないが、このうちの幾つかは大事な資料になる筈だった。
「・・・・俺どんな話をしたんやろ?」
 荷物を送ってきた東京の編集者が聞いたらガックリと肩を落としそうな事を呟いて有栖はつっかけていたサンダルを脱いでそのまま玄関に上がった。
 と、その途端今度はリビングの電話が鳴り出す。
「何なんや、ほんまに忙しないな・・」
 言いながら今来たばかりの廊下をパタパタと走ってリビングに入ると有栖は持っていた荷物をとりあえず床の上に下ろした。
 多分片桐から荷物が届いたかという電話だろう。
 平日の午後1時過ぎ。昼夜逆転をしているような編集者が掛けてくるには丁度いい時間だ。
「はいはい、今出るって」
 聞こえる筈のない言葉を口にして有栖は下ろした荷物をまたぐようにして電話の方に向かった。けれど鳴っていた電話はその瞬間留守電に切り替わってしまう。
 流れ出す自分の声のメッセージ。
「・・・あかん・・スイッチ切るの忘れとった・・」
 締め切りが近い時や寝る時、有栖は留守電をセットする。けれど朝起きてもそれを解除するのを忘れてしまう事も多く、友人知人の間では有栖川家の電話は大抵居留守電だと言われているらしい。
「・・・・・また居留守とか寝てたとか言われるんやろなぁ・・」
 午後1時も過ぎてまだ寝ているのだと思われるのはあまり嬉しくない。
 小さく溜め息をついて有栖は受話器に手を伸ばした。 その途端タイミング良くピーッと言う音が鳴り、スピーカーからは有栖が予想していた人物とは違う声が聞こえてきた。
『俺だ、アリス。まだ寝てるのか?』
「・・・!!」
『フィールドワークが入った。場所は**町。3ー〇ー××。河川敷のすぐ近くだ。来るなら来いよ。じゃあな』
 用件だけを告げてプツリと切れた電話。
 チカチカと点滅する留守電のランプに、どうして今この受話器を取る事が出来なかったのかを考えて有栖はクシャリと顔を歪めた。
“俺だ、アリス”
 それはいつもと同じ、全く変わりのない声だった。
 胸の中に起きあがる戸惑いとも、あるいは苛立ちともつかないような思い。
「・・・・・」
 どうすればいいのだろう。
 すぐに火村の携帯に電話を掛けて行くと言えばいいだろうか。それとも直接告げられた場所に行けばいいのか。 それとも・・・・・。
「・・せや・・・コーヒー・・飲むんやった・・」
 そう呟くように言って有栖は電話機の前からゆっくりと離れた。
 そうしてインスタントのそれを淹れるとそのまま受け取った荷物の前に座り込み、おもむろに箱を開けて中身を取り出す。
「・・・結構入っとるなぁ・・」
 それは確かに有栖が思っていた通り、新作の資料の本だった。
 まるで無理矢理現実逃避をしているかのように有栖はその箱の中から本を取り出して眺めてゆく。
「・・・・多重人格と精神病とログハウスとガーデニングって・・俺どういう繋がりで喋ってたんやろ?」
 何となく頭の端にはあるのだが、うっすらとしている自分の記憶に有栖は思わず苦笑を浮かべてしまった。これを全て使ったら何だかとんでもない話になってしまいそうだ。
「あ・・まだある。“世界の猫”・・って・・俺ほんまにこんなん言うたんか?」
 精神を病んでいる人間が猫を飼っていてログハウスに住み、ガーデニングをしている・・・?
「・・・・話になるか、そんなん」
 ふぅと溜め息をついて有栖は出した本をテーブルの上に重ね始めた。
 その途端再び鳴り出した電話。
「・・・・・」
 今度は始めから取る気がせずそのままにしておくとスピーカーから先刻予想していた気のよい編集者の声が流れ始めた。
『こんにちわ。片桐です。資料の方は無事着きましたでしょうか?何か足りないものなど有りましたらご連絡下さい。又電話します、失礼いたします』
 途切れた声。
 少し前に入れられたメッセージと同じ標準語の言葉に理由も判らずクスリと笑って有栖は床の上に置かれたままだった雑誌を手に取った。
 【世界の猫】。
 写真集らしいそれは中を見るとこれが本当に猫なのか?と思ってしまうようなものまであって、有栖はパラパラと最後までそれを捲ってパタンと閉じた。
 火村の家にも猫がいる。
 それは勿論この本に載っているような血統書付きのものではなく、完全な雑種だけれど有栖は飼い主に負けず劣らずあの三匹が好きだった。
 この写真集をあの男に見せたなら何と言うだろうか。
 猫でも飼うつもりかと言うだろうか。それともうちの三匹の方が可愛い等と親バカ丸出しのような事を口にするのだろうか。
「・・・・猫・・かぁ・・・」
 飄々と自分のステイタスを守りながら生きているしなやかな動物。
「・・ほんまに猫にでもなりたいわ・・」
 時に甘えて、時に頑なに、自分の思うがままに生きられるとしたら、自分はそれを聞く事が出来るだろうか?
“アリス・・”
 触れた、少しだけ冷たい唇。
何故そんな事をしたのか?
“無防備すぎだ、馬鹿・・”
それは自分のせいなのか?
 何も言わずに行ってしまって、何一つ変わりないあの男に尋ねる事が出来るだろうか?
「・・・って、猫は喋れないやん・・・ほんまに現実逃避のしすぎや・・」
 苦い笑みを浮かべて有栖は床の上に置きっぱなしだったコーヒーにそっと口を付けた。
 少しだけ冷めてしまったそれは、多分火村ならちょうどいい温度だろう。
「・・・・だから何で全部あいつに結びつけるんや」  自分で自分にツッコミを入れて有栖はほぉと溜め息をついた。
 チラリと時計に目を走らせると火村から電話がかかってきてからすでに10分近くが経っている。
 また一つ零れ落ちた溜め息。
 こんな事ではとてもフィールドには行けそうもないと有栖は思った。
 留守電だった事をいい事に今日は行くのは止めよう。 けれどもしかしたら終わった後に火村が訪ねて来るかもしれない。事件現場は大阪で、ここからは30分程度の所だ。その可能性は高い。
「・・・・・・逃げ出すか・・・」
 これでもかと言う程後ろ向きな考えに有栖は今度は声を出して小さく笑った。
 そんな事が出来る筈がないのは何より有栖自身が一番よく分かっている。
 そうするくらいなら多分3日も悩んでいない。
「・・・・・・」
 少しずつ、けれど確実に過ぎてゆく時間。
『無防備すぎだ、馬鹿・・』
「人のせいにするんやないわ、ボケ」
 ポツリとそう呟いて有栖はもう一度留守電のランプが点滅している電話を振り返った。
「・・・・・・」 
 とにかく自分から行く事はしない、有栖は思った。
 でも火村がここに来るならばその時はその時である。
 火村はあの夜、有栖が気付いていた事を知らない。
 もしかしたら可能性として、今までにもこんな事があったのかもしれない。けれど火村に変わりはなかった。 そして今回も変わらずにこんな連絡を入れてくる。
 火村にとってあれはどういう意味なのか。
 考えて、考えて、考え続けていたのだけれど、正直に言えば有栖はそれを判ろうとするのが怖い気がしていたのだ。
 だから今回、今までがどうであれ、今回の事を火村が何もなかった事として振る舞うならば多分自分もそうするしかないのだ。否、そうしてしまいたい。
 グルグルと回った思考がこの3日間で出した答えが『逃避』としか思えないものだとしてもそれが一番いい気がしてしまうのは自分の身勝手さゆえだろうか。。
 会った瞬間は、ほんの少しだけ顔を合わせ辛いような気がするだろうけれど、多分あの夢と同じように自分はきっと何もなかったように振る舞える筈だ。
 そうでなければ困る。
 驚いて、驚いて、これでもかと言うほど驚いたけれど、それを考えていた中で、有栖は【長年の友人からキスをされた】という事に対して嫌悪感が湧いてこない自分にこの3日間でもう気付いてしまっていたのだ。
 もっともそれがどうしてなのか。
 それは“火村がどうしてそんな事をしたのか”と考えるよりも恐ろしい答えを引き当ててしまいそうな気がして有栖はその時点で考えるのを止めた。
 ただでさえ「どうしてそんな事を火村がしたのか」で一杯一杯なのに、その上そんな不可解な感情まで考え出したらきっと一生かかっても答えは出ないと思った。
 そう無理矢理思い込んでいるような気がする部分あるが、多分、現時点ではこれ以上考えられない。
 考えたくない。
 狡いけれど、火村がそのままならば、自分もこのままでいる。
 何より有栖は今の火村との関係が気に入っている・・筈だから。
「・・・・あー・・何やすっきりしない・・けど・・しゃあない・・けど・・うーん・・」
 うだうだと言いながら頭を抱えて、有栖は再び視界に入った先刻の写真集をそっと手にとるとテーブルの上に載せた。
「・・・やっぱあの子等の方が可愛いな」
 何だか火村の家の三匹に有栖は無性に合いたくなった。
 人間相手にはちょっと聞く事は出来ないが火村の事を自分たちとは違う視点で見ているだろう彼等に「火村が俺にキスしたんやけど、それってどういう事だと思う?」等と尋ねたら、彼等は何と答えるだろう。
「・・・あかん・・思考がファンタジーの世界に入ってきた」 
 唸るようにそう言って再び頭を抱えると有栖はほぉと溜め息をつきながら冷めたコーヒーを一気に飲み干した。



アリスが猫になっちゃういつもとはかなりイレギュラーな話だったので、部数はそんなに刷らなかった本でした。
今回、この続編・・というか、その後のストーリーを書いたので、前作をアップする事にしました。
アリスが猫になるなんて非現実的な事は許せない!というお嬢さんはお読みにならない方がよろしいかと・・・