Sweetweddingdays2

「ああ、そうですね。それなら・・うん。面白いと思います」
 広げられた手帳に書き込まれた文字。
「せやろ?この前急に浮かんだらどうしても書きたくなって」
「いい言葉ですねぇ・・。『どうしても書きたくなって』素晴らしいです」
 うっとりとしたようにそう呟く珀友社の編集者、片桐光男にクスリと笑って、有栖は目の前の紅茶に手を伸ばした。
 白っぽい光の射し込むリビング。
 ソファに腰を下ろして担当にプロットの説明をする。
(なんか、こう・・幸せっちゅうか。今更やけど“小説家”しとるなぁって感じやな)
「有栖川さん?」
 ぼんやりとそんな事を思っていた有栖の耳に片桐の声が飛び込んできた。
「あ、すみません。片桐さんからのOKが出たら安心してつい自画自賛して浸っちゃいました」
「浸るにはいいですけど、原稿の方もよろしくお願いしますよ」
「はい」
「こちらの方は、じゃあ出来次第ってことで。この資料の方は集まり次第送らせていただきます。それと再来月の雑誌の方の短編ですが」
「あ・・・それはこの間の内容で現在鋭意執筆中ということで」
「・・・・・・分かりました。でもこちらは締め切りは伸びませんのでよろしくお願いします」
「頑張ります」
 神妙な有栖の答えに、片桐は思わず笑いを浮かべてしまった。それにつられるように有栖もまた笑みを漏らす。
「あ、そうや、片桐さんこの後の予定は?」
「とりあえず**先生の原稿を戴かないと帰れませんのでしばらくは×××ホテルに張り付きです」
「・・そうかぁ。今回は俺やなくてそっちが目的やもんなぁ」
「いえ、有栖川さんの原稿の状況と新作のプロットを拝見するも勿論大きな目的の一つでしたよ」
 慌ててそう付け加える片桐に有栖はクスリと小さく笑った。
「なら飲むのはあれやけど、晩御飯・」
 その途端鳴り響いた電話。
「あ、ちょっと待ってて下さいね」
 言いながらパタパタとリビングボードの上にある電話の所まで言って受話器をとる。
「はい、有栖川です」
『俺だ』
「火村?どないしたんや。こんな時間に」
 思わず走らせてしまった視線の先の時計は4時過ぎ。しかも今日はまだ木曜日だ。火村がやってくる土曜の夕刻にはまだまだ間がある。
 そこまで考えて、なぜすぐにそこに結びつけてしまうのか、自分の思考回路を情けなく思いながら有栖はふたたびゆっくりと口を開いた。
「・・フィールドなんか?」
 そう、普通はこっちだろう。少なくとも今までならばそう考えた。
『いや、学会。急に代役を頼まれて出席する事になったんだ。だから今週は行かれそうもない』
「・・・・・・・・はい?」
『おい、寝ぼけてるのか?まさか起きたばっかりだとか言うんじゃねぇだろうな』
「誰がやねん!仕事中や!仕事中!今ちょうど片桐さんと打ち合わせをしてたとこや!」
『へぇ・・片桐さんとね。でもまぁありえない話じゃないからな、誰かさんの場合。普段の行いがこう言う時にものをいうってヤツだ。とにかくそう言うことだから』
「・・・へ?何がそういうことなんや?」
『・・・・・お前は今、何の話を聞いていたんだ?』
「何のって・・・えーっと・・学会・・?」
『そう。学会が入ったから今週は行かれない。俺はそう言ったんだがな。そこまでは聞こえてなかったのか?』
 嫌みったらしくそう言う火村に、有栖は受話器を持ったまま、ムッとした表情を浮かべた。
「うるさいな、そんなことは聞こえとるんや!そうやなくて俺が言いたいのは、何でそれをわざわざ電話してくるんやってことや!」
『そりゃ、大事な逢瀬が潰れるとなりゃ、一応“浮気はしないぜコール”は入れるだろう?ああ、それとも“浮気はするなよコール”か?」
「あ・アホゥ!!誰が浮気や!ほんまに脳味噌ただれとるんやないか?」
『おいおい、そんな事を言っていいのか?』
「・・どういう意味や?」
『仮にも新婚・』
「!・ふざけんな!出張でも、学会でも、どこでも行ったらええやろ!こっちもこの後は短編の締め切りでそれどころやないわ!」
 腹立ち紛れにガシャンと受話器を置いて、有栖は赤くなってしまった顔でふぅと息を吐いた。
 そうしてそのままクルリと後ろを振り向いて、ギクリと顔を強ばらせる。
 そこにはソファで固まった片桐がいた。
 確か自分は今、浮気だとかそんな事を口にしなかっただろうか。そしてその前に火村の名前をしっかりきっかり出していた様な気がするのは錯覚だろうか。この距離でそれが聞こえていなかったなんてことはあるだろうか。
「・・・あ・・えっと・・」
「あー・・ひ・・火村先生ですか?」
 ヒクリと多少顔を強ばらせつつ片桐が口を開いた。
「え・・ええ。何や忙しいみたいで、急に学会が入ったとか」
 言いながら、まだ幾分ムッとしたような表情の有栖に片桐は怖ず怖ずと、それでも笑みを浮かべて言葉を続ける。
「やっぱり大学の教授っていうのも大変なんですね」
「片桐さん、お世辞は言ったらあかん。あいつは助教授です。まぁだから忙しいって言う部分のあるのかもしれませんけどね。結局下に皺寄せがくるっていうのはどこの世界にもありますし」
「ああ、そうですね。その上火村先生の場合、フィールドワークでしたっけ?そういった現場にも足を運んでいらっしゃるんだから、お身体には十分気をつけないと。ああ、じゃあ今日はこちらにいらっしゃるとかそういう予定だったんですか?」
 幾分さめかけた紅茶に手を伸ばしながら片桐はどこかホッとしたような顔を向けて問い掛けた。そう多分、聞こえてきた浮気だとか言う言葉は長年の友人である二人流のジョークで、ようするに今日の予定のキャンセルを告げてきた火村に有栖が怒って怒鳴っていた。それでもまぁ仕事だからと納得しているそんなところだろう。
「違いますよ。火村が来るのは週末です」
「え・・・」
「いつも土曜の夕方くらいにこっちに来るんですけど来られなくなったからって。まったくそんな事で子供やないんやから一々電話をかけてくるなって言うんですよねぇ。ほんまに何を考えているんだか」
「いつも・・なんですか?」
「あ・・ええ・・・このところ」
 さすがに何かバツが悪く感じたのか、有栖はもごもごと口ごもった。
 訪れた不思議な沈黙。
「と・とりあえずホテルに帰りがてら飯でも食べませんか?」
「!あ・・はい・・!!・いえ・・」
「片桐さん?」
 グルグルと頭の中で回る先刻の電話の言葉。
“何でそれをわざわざ電話してくるんや”
“あ・アホゥ!!誰が浮気や!”
“ふざけんな!出張でも、学会でも、どこでも行ったらええやろ!”
(これってこれってこれって・・・一体火村先生は何を言っていたんだろうか〜〜〜。ああ、それよりも有栖川さんてば僕の名前を出していたような気がするんだけどなぁぁぁ〜〜)
「す・・・すみません有栖川さん。やっぱり**先生が心配なのでホテルの方に帰ります。よく考えたらあの先生カンヅメ中に逃げ出してバーのハシゴをしてた前科があるんです!」
「そ・・それはすごい。じゃあ仕方ないですね。また落ち着いたら。そのうち東京の方に行きますからその時は付き合ってください」
「は・はい!失礼します!!」
 バタバタと部屋を出ていく片桐を見送って有栖はふぅと溜め息をついた。
「・・ったく・・火村のアホんだら。変な時に電話をかけてきて。何が浮気はしないぜで、するなよコールや。ほんまにもう・・・。それにしても片桐さん。変に思ってへんやろか」
 ふぅともう一度溜め息を落として、有栖はローテーブルの上に置いてあった2つのカップを持って、キッチンに向かって歩き始める。
 勿論部屋を飛び出して行った片桐の頭の中が“浮気”とか“間男”などという単語でグチャグチャになっていた等と言う事に有栖が気付く筈もなかった。

***********************************************************

(・・・ったく・・余計なことを押しつけやがって)
 雑多な机の上に高く積み上げられた資料はいつ雪崩を起こしてもおかしくないという状況だった。
 おまけに部屋の中はスモークが焚かれているのかもしれないと思えるほど白く霞んで見える。
 その中に響く、カタカタと苛立たしげにキーボードを叩く音。
「・・・あの先生。これを図書館の方に返してきます」
「あ?・・ああ、ついでに煙草を買ってきてくれないか?もうなくなっちまったんだ」
「あ・・はい」
 一瞬、いい加減吸いすぎではないのか。言いたい言葉を飲み込んで、助手である男は「いってきます」とだけ言って部屋を出ていった。
 パタンと閉じたドア。
 それが合図になったようにキーを打っていた手を止めて火村はふぅと溜め息をつくと、ギシリと椅子を鳴らしながらその背に寄りかかって上体を反らせた。
 視界に入った天井。
 本当ならば明日は有栖の家に行く日だったのだ。
 だがしかし、それは出来なくなった。
 押しつけられた明日、明後日の学会。中途半端なこの時期に、しかも週末に神戸くんだりで行うというのはどうなのか。更に付け加えて言うならば、どうしてそれが普通の論文発表のような形ではなく、パネルディスカッションをメインにしたもので、最悪なことに助教授である自分がそのパネラーにならなければならないのか。
 全ては調子よくそんなパネラーの役目を引き受けた教授が悪い。よりによってこんなに間際にぎっくり腰なんぞをやりやがって、なぜその尻拭いを自分がさせられなければならないのか。
「・・・・・・・ふざけんな・・」
 苦虫を噛み潰した様な顔をして、火村は短くなったキャメルを、吸い殻が零れ落ちそうな灰皿に押しつけた。
 再び漏れ落ちる溜め息。
 そうなのだ、『週末婚』などと馬鹿な事を言ってはいたが、それはそれなりに楽しくて、結構気に入ったりもしていたのだ。だがしかし、現実は上から何かを言われただけで簡単に潰されてしまう。しかもそれを告げれば当の恋人は「なんでそれをわざわざ連絡するのか」等と言う。
「・・・・・・」
 ギシリと軋む椅子。 
 週に一度有栖に会いに行く。そんなリズムが出来てきはじめている所に思わぬ横槍が入れられたようで面白くない。そして電話をした時に自分以外の誰かがその隣にいたのが面白くない。しかも多分、売り言葉に買い言葉だろうと予測はつくにしろどこにでも行ったらいい等というのは大変、大変面白くない。
「・・次にあった時どうなるか・・覚悟しておけよ、アリス」
 呟くようにそう言って火村はキャメルのボックスから最後の一本を取り出した。
 とりあえず、明日は朝一の講義が終わり次第、神戸に向かって午後からのそれに出席をする。
 そうして、日曜日は丸々一杯それに付き合わされて、また新たな一週間が始まる。
『火村・・』
 一ヶ月、二ヶ月会わなかったこともある。
 毎週当たり前のようにそうしているが、別に抱くことだけが目的なわけではない。もっともそれは有栖に言わせたら「ならすんな!」ぐらいは言われてしまいそうだが・・・。
「・・ったく・・もう少し男心を分かれよ、馬鹿アリス」
 銜えた煙草。
 点けた火。
 このままで行くとスプリンクラーが作動してしまうのではないだろうかという部屋の中に、再びカタカタとキーを打つ音が響き始めた。