「ちょっと、有栖!男やろ!」
「・・せやって朝井さん。この辺で石焼きビビンバが踊ってる気がするんです」
「・・止めてくれる・・」
「修羅場明けやのに凄すぎですよ」
「何言うてんの?これくらい当たり前やろう!まったく・・はい、水」
「・・・すみません。平気やと思うてたんですけど、夕べあんまりよく眠れなくて」
「ネタにでも詰まってたん?」
綺麗にマニキュアが塗られた指が紅い液体の入ったグラスを持ち上げた。
「・・いえ。そういうわけじゃ・・。何て言うか・・人間は慣れる生き物なんやなぁって」
「何やのそれ?今度の新作に関係しとるん?」
「違いますよ。そういうのやなくて、えーっと・・あーやっぱりあかん・・。ちょっと失礼します」
「はい、いってらっしゃい」
ヒラヒラと指先だけを振って、いささか前屈みになっている後ろ姿を見送りながら小夜子はフゥと溜め息をついた。
有栖が調べてきた焼き肉屋は結構美味しかった。
店内もちょっと洒落たエスニック調で確かに普段よりは食べたと思う。だが、修羅場明けなのだ。長い長い地獄から無事生還を果たした身なのだ。
その為に昨日は丸々眠りに眠って復活したのだ。
「・・ほんまもう・・。これじゃここでお開きやないの」
ブツブツと呟いて、カクテルを流し込むと小夜子は通りかかったボーイに新たなカクテルとついでに軽いつまみを注文して、バッグの中からシガレットケースを取り出した。知り合いの助教授と同じ銘柄の煙草。
学会に行っているという無愛想な男は今頃逃げられないしがらみの中で苦虫を噛み潰したような顔をしているのだろうか。
火を点けて、そっと吸い込んで、そうしてゆっくりと白い煙を吐き出して。
「・・・!」
その途端鳴り出した携帯の着メロ。
近くで響く『六甲下ろし』に小夜子は思わず眉を顰めた。
(あのスカタン!携帯は持ち歩け!)
どう考えてもそれは目の前の椅子にかけられている上着の中から鳴っているものだ。
ジリジリとした気持ちで有栖の消えトイレの方向を見るが持ち主は帰って来る気配がない。
いやでも集まる視線。
ようやく鳴りやんだそれにほっとしたのも束の間、再び鳴り出した電話に小夜子はガタリと立ち上がり、後輩の上着のポケットを探り始めた。
電源を切ってしまうしかない。悪いのはマナーモードにしておかない有栖なのだ。
だがしかし・・・。
「・・あら」
取り出した携帯の画面に表示されている名前を見た途端小夜子は思わず小さな声を上げて、次にッと通話ボタンを押した。
『おい、どこにいやがるんだ!』
聞こえてきた不機嫌そうな声。
「センセこそどこに居てはるの?もしかして有栖のマンションの前?」
『・・・・・・・・・・・朝井さん?』
一瞬絶句をしたような火村の声に小さく笑って小夜子は「ビンゴや」と言いながら、吸いかけのキャメルをガラスの灰皿に押しつけた。
『・・・あのすみませんが、アリスは』
「有栖ならトイレに篭もってます。失礼な奴やろ?焼き肉食べて、ビール飲んで。バーに移ってきた時にはちょっと顔色変わってたから、ちょっと危ないかなぁって思うてたら2杯目の途中でアウトです」
『・・・・・ったく・・』
「何やよぉ分かれへんのやけど、夕べよぉ眠られんかったらしいですよ。人間は慣れる生き物だとかブツブツ言うてたけど。意味分かります?」
『・・・・・・・・・・・・・』
沈黙が小夜子の耳に下りた。
その沈黙をどう取ればいいのか。そう考え始めた途端再び火村の声が聞こえてきた。
『すみませんがこれからあいつのマンションに向かいますので、トイレから戻ってきたらタクシーに押し込んでいただけますか?』
そう言って火村は現在居る駅名を小夜子に伝えた。
一瞬、そこからならばこの店にくるのと時間的には大差はないと思ったのだが、何となく自分が馬に蹴られている図が頭の中に浮かんでくるような気がして、それは口にはしなかった。その代わりに小さく笑いを漏らして小夜子はゆっくりと口を開いた。
「過保護やねぇ、先生」
『甘やかしてきた自覚はありますよ』
「・・・・・・・・」
完敗。
頭の中にくっきりと浮かんだ単語。
一体どんな顔をしてこんな事を言っているのか。
本当に嫌味な男だと思う。
そう思いながら、小夜子はもしかしてやっぱりそうなのだろうかと小さく眉間に皺を寄せた。そう・・今までも、もしかしたらそうなのかもしれないと思った事はあったのだれど、これはもう、そうとしか考えられないではないか。
「・・・ごちそうさま」
『いえ。それではお手数をおかけしますがよろしくお願いします』
慇懃な口調でそう言って電話を切ろうとする助教授に、小夜子は慌てて言葉を繋げた。
「あ、センセ?お礼は今度3人で飲みに行く時に奢ってくれるのでええから」
そう。ここはしっかりと強調しなければならない。悪いが当て馬にされるのも、牽制されるのもまっぴら御免である。
『分かりました。あいつにフルコースでも奢らせますよ』
そう言って切れた電話。
同じくそれを切って、ふぅと息をついた途端フラフラと蒼い顔をして帰ってきた有栖を見て、小夜子は思わず頭の中で『こいつタイミングでも計ったんちゃうか?』と思った。もっともそんな小細工が出来る人間ではないことは、もしかすると本人よりも周りの人間の方が分かっているかもしれないというのも真実で。
「・・すみませんでした」
「しゃあないわ。今日はこれでお開きや」
「・・・・・・今度埋め合わせします」
「そうして頂戴。火村センセと一緒に」
「・・・え?火村と?」
「そう、あんた強制送還命令が出されとるで」
「・・・は?」
「火村センセに言うといて、私に牽制の必要ありませんってな。それに馬に蹴られる趣味もあれへんから」
「馬?朝井さん??」
「ほんまに嫉妬深いダーリンを持つと苦労するなぁ」
「ダーリン・・て・・ああああ朝井さん!?」
「行くで」
カタンと立ち上がった小夜子に、有栖は訳も分からないまま、慌ててその後に続いて店を出た。
今聞いた言葉は何だったのか。
何だか恐ろしい言葉に聞こえたのか酔った自分の幻聴なのか。
聞くに聞けないまま、大通りに出ると有栖は小夜子の拾ったタクシーに有無を言わさず乗せられて、まさしく強制送還をされたのだった。