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赤い繭 1

 −−−−−−14年前。長野県戸隠山中。
 山小屋から死体が発見された。
 だがそれは“死体”と呼ぶには余りにも無惨な代物だった。
 屶のようなもので切られた後で、半ば引きちぎられたような手足。判別が不可能に近い程潰された顔。
 右足と左腕はひしゃげた達磨のようなそれと一緒に小屋の中に散らばっていた。左足はそこから数百mほど歩いた雪の中に半分埋もれるようにして見つかった。
 遠くからでも分かった、純白の雪の上に撒き散らされた真紅のコントラストが、まるでドラマの中のワンシーンのよう
だったと発見した登山者は語った。
 けれど、それは紛れもなく現実だったのだ。
 惨劇を残した小屋も、雪の中に埋もれそうだった赤い、赤い足も、そしてその後の捜査でようやく見つかった手首から
先を切り取られた右腕も、間違いなくそこで起こった現実だった。
 捜査は思っていた通り難行した。とにかく手がかりがないのだ。
 地元の警察署や山岳会にそれらしい登山計画書は提出されておらず、遺体が前記した通りの状態なので身元の割り
出しからお手上げ状態だった。
 ちらほらと掴んだ情報も、どれも皆はっきりとした手がかりになるようなものはなかった。
 唯一、その事件が起こる少し前に戸隠の伝説を聞き歩いていた男がいたという情報が出たが、それも又、その男がどこの誰で、なぜそんな事をしていたのかという事すら判らないあやふやな状況でそれ以上のものにはならず、結局身元も又切り取られた右手も見つける事も出来ないまま事件は迷宮入りの様相を呈する。
 そうしてしばらくの間、麓の村で山神の怒り触れたのだとか、鬼に食われたのだというような非現実的な噂が上りやが
てそれも、年間を通して訪れる登山者たちに埋もれるように風化していった。

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コトンと靴が、足から離れて地面に落ち、おれは事態を理解した。
−−−−−−−−−おれの足がほぐれているのだった。
その糸は、糸瓜のせんいのように分解したおれの足であったのだ。
−−−−−−−−−左足が全部ほぐれてしまうと糸は自然右足に移った。
糸はやがておれの全身を袋のように包み込んだがそれでもほぐれるのをやめず、胴から胸へ、胸から肩へと次々にほどけ−−−−−ついにおれは消滅した。
後に大きな空っぽの繭が残った。
ああ、これでやっと休めるのだ。
夕日が赤々と繭を染めていた。これだけは確実に誰からも妨げられないおれの家だ。
だが、家が出来ても、今度は帰ってゆくおれがいない。

−−−−−阿部公房『赤い繭』より

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「で、今度の自身作はいつ本になるんだ?」
 京都・下鴨の辺りの料理屋。
 と言っても一杯呑み屋に毛が生えたような所だが、落ち着いた佇まいと、京都の家庭料理“おばんざい”を売りにして
いる点。何より値段の割に学生たちの騒がしさがないのが魅力のどこか隠れ家めいたその店で、英都大学社会学部の助教授である火村英生はニヤリと笑いながら取り出したキャメルに火を点けた。
 それに、僅かに眉を寄せて口を開いたのは推理小説作家を生業とする有栖川有栖だ。
「・・嫌味な奴やな。生憎今回のは雑誌用の短編やから本にまとめられるのはまだまだ先や」
「へぇ、そりゃ残念」
「・・・何で君がそこで残念がるんや」
 返ってくる答えを知っているかの様に深くなる眉間の皴。その実に嫌そうな表情と口調に火村はもう一度ニヤリと笑
って白い煙を吐き出した。
「入ってくる予定の印税でここの払いをお任せしようかと思ったんだけど、微々たる原稿料じゃ酷だと思い直したのさ」
「微々たるは余計や!大体何で最高学府で教鞭をとる先生にしがない推理小説家が奢ってやらなあかんのや!きっちりしっかりワリカンや!ワリカン!!」
 言いながら残りのビールをグイと煽る有栖に、火村は相変わらずニヤニヤと笑いながら、短くなったキャメルを灰皿に
押しつけ、そのまま新たな一本を銜えて火を点けた。学生時代からほとんど中身の変わらないようなやりとり。
 火村と有栖は大学時代からの十数年にも及ぶ友人である。因みに、火村の勤める英都大学が二人の母校でもあった。
「・・あー・・せやけどほんま久しぶりに旨かった。やっぱり手作りの“おばんざい”は満腹感が違うね」
「そりゃお前が普段いかにレトルトの食品に頼っているかの証明だろう?」
「・・そんなんしゃあないやん。俺かて作れるもんやったら作って、君に手料理の一つや二つ振る舞ったるわ」
「アリスの手料理ねぇ・・」
 フワフワと浮かぶ紫煙。
「作れたらの話や!作れたら!」
「そうだな、俺もまだ命が惜しいからな」
「あのなぁ・・!」
 ムッとしたように上げられた言葉に重なる、クスクスという笑い声。どうやら、毒舌の調子からして今夜の助教授はい
たって上機嫌らしい。
「さてと、そろそろ行くぞ」
 先ほどのキャメルをすでに何本もの吸い殻が入った灰皿に押しつけて火村はガタリと席を立った。
「へ?何処に?」
「おい、大丈夫か?帰るんだよ、先生。ここは料理屋で旅館じゃないぜ?」
「そ・そんなん言われなくても判っとるわ!」
「それは失礼致しました」
 慇懃な物言いでそう言いながら火村はレジへと向かう。そうしてそのまま勘定を済ませるとカラカラと戸を開けて外に
出てしまう。背中にかかったおかみの「おおきに」の声。
「勘定。半額」
 作家にあるまじき単語の羅列に「いい」と短く口にして歩き出した男を追うようにして有栖はその隣に並んだ。
 晩秋の京都。名残の紅葉を楽しむ観光客の姿も少なくなりこれからこの古都は盆地特有の底冷えをするような厳しい季節を迎えるのだ。
 ぼんやりとした街灯の照らす、薄暗い道。車までの僅かな道を並んで歩きながら、有栖は再びポツリと口を開いた。
「・・・ワリカンやて言うたやろ」
「今回は俺が誘ったからいい。始めからそのつもりだった」
「冷えてきやがった」と漏らしながらの火村の言葉に有栖は僅かに眉を寄せる。
「・・・・せやったら君がうちに作りにくればええやろ。材料費位、微々たる原稿料で払ってやるわ」
 突然のどこか不貞腐れたような有栖の言葉に火村は思わず苦笑に近いような笑みを浮かべて振り向いた。
「拗ねるなよ。本当はそうするつもりだったんだ。だけど急な学会が入って忙しくなった」
 だから頃合いを見計らい、こちらに呼んでここに連れて来たのだと言外に言う火村に有栖は立ち止まってフイと横を向
く。
「おい・・」
 二歩だけ前に出て立ち止まった身体。
「アリス」
「いつからや?」
「ああ?」
「学会。いつから?」
「ああ・・来週末にかけて」
「どこで?」
「アリス?」
「どこでやねん」
 それが何か関係あるのかと言いそうになった口を慌てて押し留めて、火村は一歩だけ道を引き返した。
「信州。長野」
「へぇ・・!」
 その瞬間驚いたように上げられた顔と軽く見開かれた瞳に火村の胸に疑問符が浮かぶ。
「奇遇やなぁ」
「・・何が?」
 話の主語と主体が判らない台詞は有栖の得意とするものだった。
「俺も行くねん」
「・・・・学会にか?」
「アホ!何で推理小説家が学会に出るんや。信州や、信州!今度の長編の取材旅行」
「ああ・・長野が舞台になるのか?」
「んー、正確に言えばもうちょっと先。まだはっきりはしてないんやけど、戸隠の辺りを見てきたい思うてるんや」
 先ほどまでの不機嫌をどこに置いてきたのか、ニコニコと笑いながら一歩を踏み出した有栖に、火村も又ゆっくりと歩
き始めた。
「なぁ、一緒に行かんか?」
「長野にか?」
「戸隠」
「・・・・・・」
「学会はいつまでなんや?」
「来週の木曜から2泊3日の予定だ」
「なら丁度ええやん。俺は4泊位する予定やったし、終わってこっちに来たらええよ。どうせ土日は休みやろ?」
「遠回りじゃねぇか。大体4泊したら帰りは月曜だ」
「・・・いっそ月火を休んで水曜に帰って来るとか」
「お気楽な作家と一緒にするんじゃない」
「ほんなら水曜から出て戸隠から長野に・」
「アリス」
 呆れたような火村の声に有栖は再び足を止めた。前方に見えてきたアートなベンツ。
「ええやん。せっかく行く方向が同じなんやから。判った。もうええわ。この話は無し。行くで」
 言うが早いかいきなり歩き始めた有栖の手を火村は慌てて捕まえた。
「短気は損気って教わらなかったのか?」
「気がない奴に言うたかてアホらしいだけや」
 フイと視線を逸らす顔に、こいつは本当に30を遠にすぎているという自覚があるのだろうかと胸の中で溜め息を漏ら
しつつ火村は掴んでいた腕を引き寄せた。
「誰も気がないとは言ってない」
「言ったも同然やろ」
「・・・水曜から行ってもいい」
「火村?」
「但し宿泊するのは長野市内だ」
「あのなぁ・!」
「そこで調べる所をもう一度ピックアップして、交通手段と時間をしっかりと把握してから戸隠に向かえばいい。その代
わり学会が終わり次第お前の予定に付き合ってやる」
「・・・・・・・・」
「それでどうですか?先生」
 耳もとで囁く声は、ひどく優しいもので有栖の顔に朱が上った。
「・・OKや」
「よし。じゃあ切符の手配は頼むぜ」
「ああ」
「それから、無理をきく分と今日の奢りの礼もな」
 言うが早いか掠めるように落とされた口付けに、更に赤く染まる顔。
「ひ・・火村・!」
 そうして次の瞬間、スタスタと何事もなかったかのように歩き出した身体に有栖は半瞬遅れてその後に続く。
 火照る頬と頭の中にグルグルと回る聞いたばかりの台詞。そう、自分たちは学生時代からの親友で、そして、数年前
から“恋人”という関係でもあるのだ。
 辿りついた愛車のドアを開けて、火村はクルリと振り返った。
「泊まって行くだろう?」
「・・・・・・・・・・」
 それがどういう意味を含むものなのか。
 有栖の答えを聞かないまま火村はベンツに乗り込む。
「何だよ、まださっきの事を気にしてるのか?」
 カチャリと開けられた助手席のドア。
「別に」
「乗らねぇのか?」
 答えが判っていての問いかけに、有栖は小さく唇を噛むと赤い顔のまま目の前の顔を睨みつけるようにしてゆっくりと
口を開いた。
「・・・・・戸隠の」
「アリス?」
「蕎麦が有名なんや。微々たる原稿料で奢ってやるから感謝せぇよ」
 そう言って車に乗り込んできた有栖に“やっぱりこだわってるんじゃねぇか 胸の中で苦笑を落としつつ火村は「そり
ゃどうも」と口にする。閉じたドア。かけられたエンジン。そして・・・。
「言い忘れたけど、明日は午後出なんだ」
「火村・・?」
 だから何だと口にする前にニヤリと笑った顔。
「安心して泊まっていいぜ」
「・・・っ・!」
 囁くようなバリトンについで重なった唇は、先ほどの掠めるようなそれとは違う口付けに変わった。
 そうしてその数瞬後、お世辞にも静かにとは言えない音を立てて、年代物のベンツが静まり返った道を走り出した。


バラバラ殺人を扱った長編です。阿部公房の話はなぜか好きで学生時代はよく読んでました。「棒」はすごいインパクトだった。
この少し前が星新一でその後七瀬(こういう字だったっけ??)シリーズに流れ、なぜかこっちに行ったんですよね。そしてその後になんでか火浦功。判る人には判る話だ(-_-;)
この「赤い繭」の短編はいつかは使いたいとずっと思ってました。長い話ですがお付き合いくださいませ。