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赤い繭 2

 古来から山岳信仰の地として栄えた戸隠は、鬼女・紅葉を題材とした謡曲“紅葉狩り”や『天の岩戸伝説』でも有名な土地である。
 屏風のような岩壁が連なる戸隠山を中心に、九頭龍山、西岳、高妻山、乙妻山。少し離れて南に位置する一夜山を擁する戸隠連峰。そしてその裾野に広がる戸隠高原は、水芭蕉などの湿生植物や高山植物の宝庫でもあり、軽井沢と並ぶ野鳥の楽園としても知られ、雄大でどこか厳しい戸隠連山の眺めと共に登山者やハイカーたちを引きつけてやまない。又、戸隠は蕎麦処の信州の中でも、“霧下そば とも呼ばれる“戸隠そば”でも有名だ。
 戸隠の蕎麦の花は夏と秋の2回咲く。この為、夏蕎麦は8月初め、秋蕎麦は11月上旬が旬とい言われ、9月の秋分の日には「戸隠そば祭り」を開催し、毎年多くの観光客がこれを目当てにも訪れるのだ
 長野から戸隠バードラインを経由して約一時間。ちょうど紅葉と、本格的な冬の訪れの間の、どこかエアポケットめいた時期にあたり道は驚く程空いていた。もう少しすればこの道は、スキー場へと向かうマイカー等でごった返すのだろう。
 ツラツラとそんな事を考えながら、有栖は鈍く痛む腰に思わず顔を顰めて赤く染めた。
 長野に入ったのは昨日。約束通りの水曜日。
 「俺はお前の目覚まし時計か」と嫌味だけは決して忘れない多忙な助教授に火曜の夜から夕陽丘のマンションにお泊まりいただいて、翌朝、大阪から唯一『長野』に直通している<しなの15号>に乗り込んだ。そうして無事到着するやい
なや長野駅構内の観光協会に行き、戸隠へと向かうバスの時間を調べる。が、バスの本数は有栖が思っていた以上に少なかった。
 ただでさえ多いとは言えない本数に加えての完全なシーズンオフ。観光案内カウンターの人間の“なぜこの時期に戸隠なのか?”というような表情に思わず意味もなく笑って、斜め後方から聞こえてきた「レンタカーを借りて効率的に回るべきだな」と言う火村の言葉に計画の変更を決意すると、有栖はとりあえず今夜の宿となるビジネス系のホテルへと早々にチェックインをし、そのままおもむろに観光課で見つけた薄いパンフレットと、持ち込んだ資料やガイドブックを紐解いたのだった。
 だがしかし、今日から長野入りをする為に予定を詰めに詰めていた助教授には、同行者がいきなりパンフレットにかじりついて夢中になっているという図は大変面白くない出来事だったらしい。
 それに有栖が気付いたのは、部屋に着いて5本目のキャメルを火村が煙に変え終わった後の事だった−−−−−−・・。

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「・っ・・げへ・・っ・おい・・煙いって!」
「・・ああ、そりゃ悪かった」
 悪びれもせずにそう口にして火村はすでにひっかけてあるだけのようなネクタイを更に緩めて、眉間の皴を深くした。
「・・ったく・・スプリンクラーが作動したらどないするつもりや」
「この位で作動するようなら、本当の時には大いに役立ってくれるだろ」
「・・あほ言いなや。部屋が水浸しになるんやで」
「俺が水浸しにしたわけじゃない。間違った機械の責任まで取る気はない」
「・・・・・もぅええわ。ああ・・もう最悪や・・」
「泊まる宿でも潰れてたか?」
 取り合う気はさらさらありませんというような火村の言葉に有栖は睨んでいたガイドブックからムッとして顔を上げた
「ちゃうわ!そうやなくて・・中社と奥社はやっぱり見ておきたい。それはええねん」
「・・・・・・何の話だ」
 いきなりの話題に火村は眉間に皴を寄せたまま不機嫌な様子で口を開いた。
「せやけどキャンプ場も見ておきたかったんや」
「・・・・・」
「その少し先に牧場があって、その又更に先が登山道の入り口になっとるらしい」
「有栖川先生は登山の趣味でもあったのか?」
「アホ言いなや。大体この戸隠山は鎖場があったり、急な岩場があったり。初心者が登るような山とちゃうわ。装備もなく山登りをしたらどうなるか位は俺にだって判る」
「懸命だな」
 言いながら6本目のキャメルを取り出して、そろそろ無くなりかけているので食事に出かけた時にでも調達しよう等と考えている火村の目の前で有栖の力説は続く。
「せやから!そうやなくて、戸隠連峰の眺めを見たい」
「見ればいいだろ・・」
「聞けって。このキャンプ場や、牧場の辺りからの眺めがいいんやて。けどどっちも開業されてないねん」
「ああ?」
 煙草を銜えながらき有栖の手にするガイドブックを覗き込んでみると確かにどちらの場所も5月から10月中旬、ないしは11月上旬までとなっていた。
 そうして改めて見かえすと書かれている場所は大抵11月中旬までの営業となっている。
「・・・お前どうしてこの時期を選んだんだ?」
「せやかて、この時期にしか暇がなかったんや。もしかしたら紅葉の名残位はあるかもしれへん思うたし」
「作家っていうのは便利でいいな。枯れて、落ちて、土に還りかけたような葉を見て最盛期を想像出来るらしい」
「・・・嫌味もそこまでくると犯罪やで」
 そう、こちらに向かう途中、列車の中でも有栖は愕然とさせられたのだ。
 京都や大阪はまだかろうじて秋の名残を留めているが12月を眼前に控えた信州は平地に雪はないものの、ほとんど冬に突入していると思っていい。
 寒々しい枝を空に伸ばした落葉樹。
 深い緑を称える針葉樹の陰。
 頂上にはうっすらと雪化粧が施されている山もあり、確かにはっきりと季節が移っている事を有栖に伝えていた。
「奥社と中社は出入りが自由やし、植物公園はギリギリ11月いっぱいなら資料館の方も開いているって観光協会の人が言うてたから。それに入るだけなら一年中OKだって」
「それだったら牧場だって、キャンプ場だって入るだけなら平気だろ?別に営業を止めたからって牛やバンガローまでなくなるわけじゃないんだから」
「・・・そりゃ・・そうや」
 一瞬頭の中を駆け抜けた、牛やバンガローが消えるという埒もない想像にフルフルと首を横に振って有栖は「失敗したなぁ」と独りごちる。せめてもう一週。火村の予定に合わせず締め切りが明けたと同時にこちらにくれば見られる資料館はもう少し多かった。
「一緒に行こうって言ったのはお前だからな」
 有栖の声にならない言葉を聞いたかのように火村は憮然と口を開いた。
「そ・そんなん判っとるわ」
「判っているようには見えない」
「・・・・・・・・」
「ついでに予定を早めさせさせて、尚且つ遠回りをさせようとしているのもお前だ」
「・・あのなぁ」
「おい、ここなんか面白そうだな。お前らしくて」
 そうして次の瞬間、いきなり変わった話題と広げられたままのガイドブックに伸ばされた指に、有栖は反射的にそれを見つめて、顔を顰める。
「!?“チビッ子忍者村”って、火村!」
「おいおい、ちゃんと大人用の忍者服もレンタルできるって書いてあるぜ。何たって戸隠流忍法発祥の地だからな。こういうのももしかしたら役に立つかもしれないだろ?」
「俺は別に時代小説を書くわけやない!!大体ここかてもう閉館しとるやないか!」
「そりゃ残念」
「・・・・」
 絶対に判って言っているに違いないのについつい反応して怒鳴り返してしまう自分が情け無いやら、腹が立つやらで有栖はバサバサとガイドブックを閉じると徐ろにそれをしまい始めた。
「予定は決まったのか?」
「うるさい。後で考える」
「何の為に予定を繰り上げて来たんだ。アリス」
「君が水曜からって言ったんやろ!」
「お前が4泊するってきかねぇからだろ」
「そんなん!・・っ・!・」
 振り返った、怒りに赤く染まった顔。言葉を操る職業の割に、有栖は自分の感情を言葉をうまく伝える事があまり得意ではない。多分感情の方が高ぶってしまって言葉が追い付いてこないのだろう。それともただ単にボキャブラリーの問題なのか。その答えを出す気は火村にはさらさらなかった。
「“もういい”か?」
「・・・っ・・」
 その途端プイと横を向いた顔に、本当にこいつは自分と同じ年なのかと胸の中で笑いを漏らして火村は目の前の身体を緩く抱き寄せた。
「何やねん!」
「・・割に合わねぇな」
「は?」
「頑張って仕事を詰めて予定を早め、帰りもそっちまで迎えに行ってやって付き合う約束をして、あげくの果てにこっちの予定に合わせるんじゃなかったなんて思われたんじゃどうしたって割に合わないだろう?」
「誰もそんな事思うてない」
「もう1週早かったら、ここも、ここも、ギリギリやっていたかもしれないとは思っただろう?」
 言いながら覗き込んできた瞳。
「・・・そんなん・・・」
「思った」
「火村」
「これで、蕎麦の奢りだけじゃ絶対に割に合わない。そう思うだろう?」
 言うが早いかトンと身体を押されて、有栖はそのままカバーのかかったままのベッドに倒れた。
 そうして次の瞬間、その上に当り前のように火村が伸しかかってくる。
「な!・何考えとるんや!火村!このアホ!」
「予定はもういいんだろ?そうしたら今度は俺に付き合う番だ。幸い夕飯までにはまだ少し余裕がある」
「幸いって・・」
 どこがどう幸いなのか。反論する間もなくバラバラと脱がされてゆく服に、身体も思考もついてきてはくれない。
「・っ・・や・・」
「諦めな、アリス」
「あ・・諦められるか!離せ・・っ・!」
 言いながら瞼に、目もとに、耳もとに触れるくちづけが優しくてやるせない。
「・・・・無理をきくからって・・あ・・この前もした・」
「あれは奢った分とこの日程を承諾した分」
「詐欺師!」
「失礼な奴だな。大体俺は一緒に行くとは言ったが手は出せないとは言ってないぜ。戸隠には温泉がねぇんだろ?なら別にいいじゃねぇか」
「−−−−−−−!」
何が、どういいと言うのだ!?
「・・っ・・やぁ・・あ・・」
唇が、指が、肌の上を滑って行く。
「・・・ん・・っく・・あぁ・・」
 そうして熱くなり始めたそこに触れられた瞬間、有栖は赤い顔を少しだけ歪めて、抱き締めてくる男の背中にすがりついたのだった−−−−−−−・・・・。


とりあえず長野入り。相変わらずな感じの二人です。