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赤い繭 3

「・・・最悪や」
 結局なんだかんだと、なし崩し的に行くところまで行って意識を失ったのは夕暮れ時。その後叩き起こされるようにして夕食を食べ、部屋に戻ってシャワー浴びた後、ご機嫌を直した助教授の提案で気を取り直して予定を組み直して、更にその後「特別助言料だ」等と言われて又押し倒された。
 お陰で腰は重いは、身体中痛くて、車を運転しているのも億劫になる。
(・・事故ったら絶対にあいつのせいや!)
 心無しか赤くなった顔でゆっくりと右にカーブを切って有栖は見えてきた標識を確認する。眼前には山頂がうっすらと白く染まった山々。
 『戸隠』の地名は、天手力雄命が力一杯引いた天の岩戸が宙を飛び、山の頂きに落ちたのでその山が“戸隠山”と呼ばれ、その麓一帯に“戸隠 の名がつけられたのだという伝説があるのだと夕べ読んだ観光ガイドに書かれていた。
 県道とバードラインのぶつかる手前に見えてきた“そば博物館とんくるりん”と書かれた建物。それを過ぎて、男鹿沢橋という小さな橋を越えれば、天表春命を祭神とした宝光社が杉並木の中に姿を見せる。
 戸隠村の中心は更にその先の中社の辺りだが、とりあえずは目的地に到着だ。
「・・さてと・・とりあえず・・腹ごしらえやな」
 言いながら目に飛び込んだ“戸隠そば の看板ににっこりと笑って有栖はウィンカーを出した。
「お勧めの宿ですか?」
「はい」
 腹ごしらえをした蕎麦屋は、昼には少し早いという時間のせいか、客はあまり居なかった。
 茅葺き屋根の老舗らしい佇まい。味はさすが信州そば処と思わずうなづいてしまうもので、有栖は本場の戸隠そばに舌鼓を打ちながら、どこかホームドラマの中に登場する“昔気質の親父”といった店主と、この時期の観光客は珍しい等と妙な所で話が弾み、その話の勢いでどこかいい宿かないかと切り出した。
 パンフレット等にも色々載っていたのだが、やはり地元の事は地元で尋くのが一番だろう。予定ではこの近くにある観光協会で尋ねるつもりでいたのだが、これも又一興だ。この旅行で有栖はよほどその宿が気に入った時以外は3泊を全て違う宿にしようと思っていた。
 何しろ限られた日程の取材旅行である。効率的に名所旧跡の類を回って、村の雰囲気は宿から感じ取ろう。それも又旅
の醍醐味だ。もっとも、今頃長野市内で仕事に励んでいる助教授に言わせると「馬鹿」の一言で済まされてしまう事らしいのだが・・。
「それじゃあ、お客さん。宿も決めんで来たんですか?」
「はぁ・・」
 熱めのお茶を出しながら店主は驚いたように有栖を見つめた。
「いやぁ、こう言っちゃあなんだけど、そりゃ相当変わっとるわ」
「そうですか?」
「まぁ、もっともこの時期に来るって言うのも変わっとるって言やあ変わってるからねぇ」
「・・・はぁ・・そんなに変わってますか・・?」
 どうやら、世間一般的は火村の見解に歩が上がりそうだ。がっくりとしたような有栖に、店主は少しだけ困ったような、どこか子供を宥めるような瞳を向けて、再びゆっくりと口を開いた。
「うーん・・と言うかね、戸隠山自体が冬山登山には向いてないんですよ。標高の割に雪深い。この辺りでも12月に入ればいつ雪が降ってもおかしくないし、それが根雪になるんです。まぁ、その代わりと言っちゃあ何ですけどスキーには向いていてね、冬場の観光の目玉になるんです。もっともスキー場があるのはこの先の怪無山の方なんですが。だからここが本来の観光シーズンを迎えるのはやっぱり雪解け以降。山開きをしてからでしょうなぁ。植物園の方も山の方もやれ高山植物だ、湿地植物だって。ほら、水芭蕉って花があるでしょ?それが有名で、そのうちには夏そばが旬になり、夏山登山がピークを迎える。勿論紅葉だっていいですよ。その時期には秋そばが出て・・。その頃は秋祭りも色々ありますしね。そうそう、もう少し早ければ“お神楽”がやっとったんですよ。その時はもうすごい人出で。だから、お客さんが来られた今は山は閉まるし、スキーはまだ出来ないしで本当に何もない“移り の時期なんです」
 長い店主の話を有栖はただただ感心して聞いていた。それにハッと気付いたように店主は少しだけ照れたように額に手をやった。
「ああ、すみません。長く話してしまって。ええっとそうですなぁ、この宝光社の辺りにも民宿やら旅館が結構ありますけど、やっぱり賑やかなのは中社の方ですから。それでどちらを回るんですか?」
「・・えーっとキャンプ場の方までは足を伸ばしてみるつもりでいるんですけど」
 有栖のオズオズとした言葉に店主はまたもや驚いたように瞳を見開いた。
「キャンプ場って、今の時期は閉まってますよ」
「ええ、見るだけ。ついでに牧場の方も」
「見るだけってお客さん。それに牧場だって今の時期はやってなかったんじゃ・・。なぁ。おい!?」
 いきなり店主は近くでそばを食べていた馴染みなのだろう客に向かって大声を上げた。それに慌てて振り返った有栖の視界の中で、4人掛けのテーブル席に一人で座っていた眼鏡をかけた人の良さげな中年の男が顔を上げながらゆっくりと口を開く。
「ああ。あそこが放牧してるのは10月位までだったなぁ」
「いえ!あの、泊まるとか、中に入るとかそういうのでなく山登りを出来る根性も体力もないのでそこからの戸隠連峰の眺めがいいとガイドブックにあったもので・・えーっと・」
 何だかとんでもない事になってしまった。このままでは本当にただの変わり者になってしまう。
 焦った有栖に斜め後ろの男は小さく笑ってゆっくりと箸を置くと、これ又ゆっくりとお茶をすすりながら判ったというようにうなづいて改めて有栖に視線を向けた。
「なるほど。それだったら、牧場に知り合いがいるから中に入れるように口を聞いてもいいですよ。柵越しに眺めて怪しがられるよりも、相手も事情が判っていて、いい景色が眺められる方がいいでしょう」
「本当ですか!?」
「ええ。せっかくいらしたんだから、表山をよく見ていって下さい」
 表山とは勿論戸隠山の事だ。ちなみに裏山にあたるのが高妻山・乙妻山になる。
「そんなら頼めるか?」
「ああ。そんな事だったらお安い御用だ。それじゃあえーっと・・・」
「!申し遅れました。有栖川と言います」
「私は足立と申します。それでは有栖川さん。牧場の方には連絡を入れておきますので、一応、足立から話が来てる筈だと中に声をかけて下さい」
「ありがとうございます」
「よかったですなぁ。後は泊まる所だ。キャンプ場の方に行くなら奥社に近い所でもいいけど。やっぱり中社辺りの方が動きが取りやすいし・・」
 その途端、言いかけた店主の言葉に重なるようにしてガラリと戸が開いた。
「こんちわー!親父さん居ますかー!」
「何だ、克彦。こんな時間にー!」
 良く通る声と同時にひょっこりと顔を覗かせたのは克彦と呼ばれた20代前半だろうという若者だった。奥から声を上げた店主に彼は笑って店の中に入ってくる
「藤木の爺さんから明日の事で話があるから手が空いたら連絡くれって言伝頼まれて」
「何だぁ?仕入れの事かぁ?」
「さぁ。そこまでは」
「・・ったく。判った。すまなかったなぁ。・・ああ、そうだ。お前の姉さん“大谷”の仲居してたなぁ」
「?・・そうだけど」
「ああ・・えーっと・・お客さん!“大谷 はどうです?」
「は・・?・・あの」
 いきなり振られた話に有栖は思わず目を瞬せてしまった。それを見て足立が苦笑を浮かべて口を開く。
「親父さんそれじゃ判らんだろ。えーっと・・有栖川さん。“大谷旅館”は中社の近くにある宿で、宿坊の面影を残す老舗の旅館です」
「あの・・・?」
 そのやりとりを見て、今度は入ってきた青年がいぶかしげな表情を浮かべた。
「ああ、悪かった。こちらのお客さんからどこかいい宿を紹介してくれって言われて、どこにするか考えてたんだ。丁度いい。この時期なら満室って事はないだろ」
「そりゃ大丈夫だろうけど」
 言いながらチラリと向けられた視線に有栖はペコリと頭を下げた。
「お世話になります」
「はぁ・・。紹介って言ってもお客を連れてきたって程度のもんですけど。・・・あの失礼ですが、こちらのお知り合いの方とかですか?」
 おずおずとした質問に答えたのは、けれど有栖よりも店の主人の方が早かった。
「いや。有栖川さんって言って、初めてのお客さんだ」
「・・・・」
 途端に眉間の皴を深くする青年に、有栖は慌てて口を開いた。
「あー・・いえ、あの、せっかく旅行に来たんだから土地の方に宿やお勧めの店を紹介していただくのもいいかなぁ等と思って。その・・かえってご迷惑をおかけしてしまったんですけど。何だかとんでもない時期に来たっていうのは先ほどこちらの御主人からお聞きして判りました。でもまぁ、せっかく来たんだし見られる所は見て、楽しんで行こうと思いまして・・えっと・・よろしくお願いします」
 言いながらもう一度ペコリと頭を下げた有栖に青年はようやく小さな笑みを浮かべた。
「判りました。そういう事でしたら口を利くって程の事でもありませんが、よろしければお泊まり下さい。申し遅れましたが飯田と言います。因みに俺の方はこの店のライバル店で働いていますので、そちらの方もよろしければお立ち寄り下さい」
 青年の言葉に有栖はホッと顔を和ませた。
 それを見て足立が笑いながら口を開く。
「うまいなぁ、克彦。商売人の鏡だな」
「やめて下さいよ、足立さん」
 零れる笑い。
 フワリと胸の中に湧き上がる暖かな何か。
 この土地の人間はみんな他人に優しい。そんな風に考えながらぼんやりと3人を眺めていた有栖に飯田が再び顔を向けた。
「まだ昼前なんで宿の方に入るのはちょっと無理だと思うんですが、有栖川さんのこれからの御予定は?」
「!・・あー・・・とりあえず、植物園の方の資料館が明日までだと聞いたのでまずはそちらに。ついでにちょっと足を伸ばして忍者村と忍者資料館の方へも。こっちはもう閉館されているという事だったので外観だけでも見てこようかと思っています」
 有栖の言葉に3人の中に奇妙な沈黙が訪れた。
 それを感じて有栖も又、自分は何かおかしな事を言ってしまったのだろうかとヒクリと顔を引き吊らせる。
「・・・・あの・・」
「・・はい・・?」
 沈黙を破ったのは飯田克彦だった。
「・・失礼ですが・・・その・・有栖川さんはどんなお仕事をされている方なんですか?」
「は・・?」
「私も思ったんですよ!中社、奥社はともかく、この時期にキャンプ場に牧場に植物園に忍者屋敷でしょう?又これが見るだけってぇのも多いし」
 店主の言葉に足立もウンウンとうなづいている。
 向けられた6つの瞳。
「・・・・・」
 ヒクリと引き吊る頬。
 そうして次の瞬間、有栖はこわばった微笑みを浮かべて口を開いた。
「・・しゅ・・出版関係です」


いよいよ戸隠入りです。今回は助教授はお休み(笑)