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赤い繭 10

「お帰りなさいませ」
 ドアを開けたと同時にフロントの中からかけられた声。
 まだ日暮れ前だと言うのにひどく疲れてしまった身体を引きずるようにして部屋へと向かう。
 八木の話を聞き、足立とも会ってみたいという火村に、どうしても同行する気になれず、有栖は一足先に旅館に戻ってきた。今頃三好と一緒に火村は足立と会っているのだろう。不意に胸の中をよぎる苦い思い。
 今回の事件の犯人も、14年前の事件の犯人も、人を殺したというだけでなく、関係のない人間の心までも傷付けたのだ。もっともそれはこの事件だけに限られた事ではないのだが・・・。
「・・まいったな・・・思考がえらくナーバースやないか」
 やや自嘲気味にポツリと呟いて有栖は辿り着いた部屋の畳の上にコロリと転がった。
 何だか“紅葉伝説”の話を聞かせてもらった事がひどく昔の事のように思える。
「・・・結局中社もまだ見てへん・・」
 取材旅行は台無しだ。もっともこんな事件のあったこの土地を舞台に、自分が後日、殺人事件を扱う話を書くかというのは甚だ難しいところなのだが。
(・・・・・やっぱり書けんやろうなぁ・・)
 これ以上資料を集めても、結局は今回の事件が頭に浮かんできて作品にはならないだろう。
 ゴロゴロと畳の上を転がりながら有栖は思わず溜め息を漏らした。片桐には申し訳ないが、まだはっきりとした構想が決まっていた話ではない。また新たに場所を考えて下見に行こう。
「・・・・何や・・腹へったなー」
 ゴロリと寝返りを打って腕時計を見る。3時半を少し回っている。昼は蕎麦だけだったからなと身体を起こして有栖はテーブルの上のガイドブックをパラパラとめくった。きっとこんなにモヤモヤとして、らしくもなく気持ちが塞いでしまうのは、腹が減っている事も一因に違いない。
「蕎麦と竹細工の他には何が有名だったかなぁ?」
 何かを考えまいとしている。そんな自覚はあった。けれどそれでもいいと有栖は思った。警察の言い分も、足立たちの言い分ももっともで、今の自分にはそれをどうこう言えるものはない。そう思うのが一番いい。
「うーん・・天然なめこもええけどそのままじゃ食えんし。さすがにこの時間にコース料理食うわけにもいかんやろう」
 大体そんな事をしたら火村の報復が恐ろしい。
「・・・・気分転換にブラブラして何か酒の摘みになるようなもんでも買い込んでくるか」
 ついでにせっかく来ているのだ。観光に徹して目の前にある中社位は見てこよう。
 先ほどよりは幾分軽くなった気持ちで有栖はゆっくりと立ち上がり、部屋を出た。
 何となく、ここ2.3日ですっかり馴染んでしまった宿。良く磨かれた板張りの廊下を歩いて玄関へと向かうその途中
有栖は飯田菜月を見つけた。
「有栖川さん、お帰りになっていらしたんですね。あら、これから又お出掛けされるんですか?」
「ええ。何だか小腹が空いて。蕎麦は旨いんですが、それだけだとすぐに腹が減るのが難点ですね」
「まぁ・・」
 有栖の言葉に菜月はクスクスと笑って口元を隠した。
「その辺りをブラブラして、ついでに中社も見て来ようかと思います」
「いってらっしゃいませ。日暮れが早くなっておりますので中社の方は暗くならないうちに行かれた方がいいと思いますよ。それから、このすぐそばの国民宿舎に併設された喫茶店が挽き立てのコーヒーを入れてくれるのが有名で手づくりのケーキとかもあるんです。蔵を改造して作られた所だからすぐに判ると思います。甘いものがお嫌いでなければ」
「大好きです。ありがとうございます。何だかほんまに菜月さんにはお世話になりっぱなしや」
「それ位のお世話でしたらいくらでも。そう言えば、有栖川さん、今日は牧場の方に行かれたんですって?」
「え?」
「弟が近く来たからって寄って、その時に。何だか事件に巻き込まれたとか?」
 僅かに眉を寄せて心配気な表情を浮かべた菜月に有栖は慌てて口を開いた。
「いえ、巻き込まれたって言うても、ただ単にその場所に居たってだけで。そうや・・あの時、菜月さんに雪が降るから
鬼無里の方に先に言った方がいいって言われてなければ、もしかしたら第一発見者は俺だったのかもしれへんのやなぁ」
 そう。足立と同じ立場に自分が居たのかもしれない。その言葉に思わず声を詰まらせてしまったような菜月に気付いて有栖は苦笑に近い笑みを浮かべて言葉を繋げた。
「すみません。変な事言うて。それじゃ行ってきます」
「いってらっしゃいませ」
 ペコリと下げられた頭。彼女に見送られるようにして有栖は宿を出た。
 結局降る降ると言っていた割に、夜になってから降り出した雪は夜半過ぎには止んでしまい、積もるまではいかず町中にテンテンとその形跡を残すにとどまった。
 先刻、宿に戻ってきた時よりさらに曇った空。今日も又夜になったら雪が降るのかもしれない。降る時は一度に結構な量が降るらしいが、今年はこんな風にしながら根雪になってゆくのだろうか?
 そんな事を考えながら有栖は目の前にある参道の石段を登り始めた。中社とは勿論戸隠神社の中社である。
 戸隠神社は奥社、中社、宝光社の三社の総称で神話伝説の天の岩戸開きにゆかりのある神々を祭っている。創建は明らかではないが平安時代から山岳仏教の影響を受けて開かれたという説が一般的である。
 境内に上がると広場にある大鳥居を囲むように正三角形に植えられた3本の杉の大木。
 祭神の天八意思兼命は岩戸開きに神楽の献奏を提案した知恵の神で、学業成就・商売繁盛・開運・家内安全などに御利益があるらしい。
 鳥居をくぐり、唐破風母家造りと呼ばれる建築技法の本殿に御参りをして、ふと目に飛び込んだ“戸隠神社御神籖文”の文字。自分の年齢を神官に伝えて授与されるという形式の珍しさに運試し(?)をして有栖は中吉のそれをそばの枝にくくりつけた。
「さてと・・・ケーキでも食いに行くか」
 第一目的を達成したとばかりに小さく伸びをするとジャリジャリと元来た道を歩き出す。
 酒の肴は喫茶店の帰りにでもどこかの土産屋を覗いてみよう。新たに立てた予定を胸に有栖は杉木立の参道を歩く。
 菜月の言っていた蔵を改造したという喫茶店はすぐに見つかった。そこでコーヒーと手作りのマロンケーキを頼んで有栖はボンヤリと外へと視線を向けた。
 暮れ始める町並み。冬の日暮れはひどく早い。
「・・・・・・・」
 火村は足立と話を終えて宿に戻ってきているだろうか。
 明日は又長野南署に行って、14年前の資料を見せてもらうのだ。なぜか思わず零れた溜め息。
 警察や火村が考えているように、今回の事件は本当に14年前の事件と関係があるのだろうか?
 有栖が引っ掛かっているのはまずそこだった。
 万に一つ同一犯だとして、時効を目前に控え、なぜ今こんな事を起こしたのか?
 殺さなければならない事情−−−この言い方もおかしいが−−−があったとしても、前回と同じようにしたその理由は何なのだろう?
 14年前の事件を思い起こさせたかった。
 それならば、同一犯でなくてもいい。むしろその確率の方が低いだろう。時効が成立してしまえば罪に問われる事はないのだ。犯人にとってはまさに願っていた事だ。
 では、何か?
 切り取らなければならない状況があった。
(何かを握られたとか、犯人にとってまずいものがあった)
 が、これも考えにくい。発見されてはいない左腕も犬が銜えて行ってしまっただけで現場には残されていたのだ。
(・・・手足を切り取る事にメッセージがあった)
 何だかあまり現実的ではないような気がするが、さもなければ死体を解体する趣味のある性癖の持ち主が犯人であるとしか今の時点では言いにくい。
(・・・14年前の調書を見れば何か手がかりが見つかるやろか?)
 結局は有栖自身も14年前の事件を外しては考えられなかった。小さな村で14年という時をおいて繰り返された同じような事件。バラバラ殺人というだけで十分奇異なのだ。はっきりとした理由が見つけられなくても結び付けないわけにはいかない。
(・・・又足立さんが巻き込まれるんやな・・)
 運ばれてきたコーヒーとケーキに有栖はふっと何度目かの溜め息を漏らす。
 とにかく、犯人を見つけなければ足立にとっても、八木にとっても“終わり”は訪れないのだ。
 一口口に含み、少しだけ考えるようにした有栖はミルクを注いだ。
 ユラリと褐色の上に揺れて広がる白い模様。
『−−−−−−−という見方で−−−長野県警は−−・・』
 そうして次の瞬間、耳に飛び込んできたテレビのニュースに茫然として、有栖はカウンターの中の画面を見つめた。

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「優雅にコーヒーブレイクとは羨ましいですよ。で?土産にケーキでも持ってきてくれたのか?」
「・・・・・・・菜月さんに聞いたんか?」
「聞いたわけじゃねぇぜ。廊下を歩いていたら、向こうが教えてくれたんだ。“有栖川さんなら中社の方に行かれてますよ。喫茶店もお教えしたのでそちらに寄られているんじゃないかしら ちなみにコーヒーとケーキが旨いんだって?」
「・・・・・・・ゆ・夕食は蕎麦御膳やて」
「そうかよ」
「・・・・・・じ・・じゃあ、夕食の後にでも行くか?」
「いや、風呂に入って寝る。明日も早いからな」
 ニベもない火村の言葉。それに思わず顔を俯かせて、有栖は次の瞬間弾かれたように顔を上げた。
「せや、こんな事言うとる場合やなかった。なぁ、今回の事件、ニュースでやっとった」
「ああ、別に報道規制をしいてたわけじゃねぇからな」
「ちゃうわ、14年前にも同じ事があったって事まで言うとったんや!それってまだ全然判らん段階やろ?」
「ちゃんと日本語を喋れよ。同じ犯人なのか、何か関係があるのかが判っていないだけで、あった事はあった事でそれ以上でもそれ以下でもないだろうが」
「・・・・・けど・・」
「お前が言いたい事は判るさ。マスコミ連中が面白おかしく書くにはちょうどいいネタだって言うんだろう?まぁ、明日
にはこの戸隠村にはワイドショーのレポーターたちが押し寄せるかもしれないな」
「そんな・・・」
 淡々と何でもない事のようにそう言う火村に有栖は思わず唇を噛み締めた。
 それを見て火村はどこか呆れたような色を含んだ笑みを浮かべる。
「おいおい、先生。今回は一体どうしたんだ?人の予定を繰り上げさせてまでここに呼び寄せた割りには途中で宿に帰っちまったりえらく消極的じゃねぇか」
「・・そんなん・・・そんな事は」
「何を考えているか判らねぇけどな、余分な感情で振り回されるのは迷惑だ」
「・・・・・っ・・!」
 弾かれたように上げた顔。重なる視線の中で火村は真っ直に有栖を見つめていた。
「・・判った」
「なら、飯にしてくれって電話をしてくれ。腹が減って倒れそうだ」
 言いながら本当にゴロリと畳の上に転がった助教授。
 その背中を見て有栖はゆっくりと内線の電話を取った。


少しずつ動き始めている事件の外側・・・って感じかな。うーん・・言われてみれば火村が今より冷たい感じ??