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赤い繭 16

「有栖川さんに謝りたかったんです」
 交差点で出会った足立に「少しよろしいですか?」と言われてそのまま宿を素通りしてやってきた喫茶店。
 蔵を改造したこの店を訪れたのは2回目だ。
「コーヒーなら自分の店で飲めばいいのですが、妻には聞かせたくなかったので」と前置きを入れて、足立はいきなり頭を下げてそう言ったのだった。
「ち・・ちょっと待って下さい。何で足立さんが私に謝るんですか?」
 一瞬“噂”の事が頭を駆け抜けたが、それがこんな風に頭を下げられる類のものなのかと思う。
 大体今の時点では“噂”は“噂”でしかなく、この為に有栖に事件の嫌疑がかかっているわけではないのだ。
 面を食らってしまったという有栖に足立は顔を歪めて話し始めた。
「・・・・・今朝、満寿屋に行ったんです」
 満寿屋は例の爺のいる蕎麦屋だ。
「満寿屋さんに有栖川さんの事を言ったのは私です。あの事件のあった次の日、火村という人が刑事と一緒に現れて話をしているうちにどうも警察では話さない・・その・・山に登らなくなった事とか・・。その日の私の行動も何だか刑事さんよりよくご存じで。後で有栖川さんのご友人と伺って、私は何だか有栖川さんに裏切られたような気がしてしまったんです。あんな風に心配して警察にまで付き添って下さったのは厚意ではなく、興味だったのかとそんな風にさえ思いました。けれど時間が経つうちに、あれはやっぱり有栖川さんが心配して下さったのだと、警察に通じるご友人に連絡をとって下さったのも、早く事件が解決するようにという有栖川さんなりの思いやりだったのだと・・・・私は、自分が恥ずかしくなりました」
「・・足立さん・・」
 運ばれてきたコーヒーに手をつけないまま、足立は更に言葉を続ける。
「あの時、私はどうでもいいと言いました。それは私の正直な気持ちです。犯人も、時効も、もうどうでもいい。けれど
それでは何も終わらないし、始まらない事を火村さんはおっしゃいました。その言葉が懲り固まった私の中に届くまでに時間がかかりました。勿論、今の私にあれ以上の情報を出せと言われても出しようがないのも事実です。何も出来ない。でも、解決をしようとする人間の気持ちを否定することはしてはいけない。それは、判る。判りたいと思える。ですから謝りたい。自分の苦しさに負けて、あんな事を言って、他人にまで、まるで言いつけをする子供のような真似をして有栖川さんを傷付けた。満寿屋の親父さんに追い帰してやったと言われた時、私は・・・私のエゴで人を傷付けた事を知りました。すみません。あの事件の日、貴方に一緒に居てもらえて本当に有り難かった。あの日、貴方に間違いではないと思いたいと言ってもらえて嬉しかった。だから、何も出来ないけれど、一日も早く事件が解決する事を願っていますと伝えたいと思いました。火村さんという方にもよろしくお伝え下さい。“始まり”を迎えられたら、妻と一緒に表山に咲く花たちを見て回ろうと思います」
 うっすらと涙を浮かべながらそう言った男を有栖は強いと思った。自分はただ足立の気持ちに同調して、でもどうする事も出来ずに、その一瞬を隣に居ただけだ。
「・・・・私も、早く事件が解決する事を願っています。そうしたら、山登りは全くの初心者ですが、ぜひご一緒させて下さい」
「ええ。ぜひ。その日が来るのを楽しみにしています」
 嬉しそうにそう言って、深々と頭を下げると足立は席を立った。これから仕事にかかるのだと言う。その足立の後ろ姿を見送って、少しだけ温くなったコーヒーを飲み干すと有栖はゆっくりと店を出た。
 何だかひどく長い時間をこの村で過ごしている。そんな気がした。けれど実際は死体が発見されたのは僅か4日前の事だ。戸隠に来てからまだ5日しか経っていない。
「・・・・目まぐるしいな・・」
 思わずポツリと零れ落ちた言葉。
 足立の言葉が嬉しくて、結局何も出来ていない自分が少しだけ口惜しくて、有栖は中社の前の駐車場に停めた車にキーを差し込んだ。とにかく、宿に帰って火村からの連絡を待とう。真っ直に帰る筈が思いがけない寄り道をしてしまった。
 カチャリと開いたドア。
 けれど、思いがけない寄り道は、更に有栖の予定を狂わせる。
「有栖川さん?」
「?・・はい」
 振り返った先に居たのは、私服姿の飯田菜月だった。
 思わずドキリと鳴る鼓動。
「菜・・月さん。どないしたんですか?こんな所で。どこかにお出かけですか?」
「ええ。今日は仕事が休みなので、母の墓参りに。有栖川さんは?」
「宿に帰るところです。この後友人のお迎えを仰せつかりそうなんですが」
「まぁ。ああ、そうだわ。昨日言ってらした紅葉の話ですけど」
 彼女の口から出てきた“紅葉”の名前に再び動揺する気持ちを抑えて有栖は彼女を見つめる。
 別に菜月が何かをしたというわけではない。けれど頭のどこかで警鐘が鳴る。
 近づかない方がいいと思わせる。
 あれほど親切にしてもらったというのに、今朝、田部井夫人から聞いた話と、火村の言葉に、菜月を疑っている自分がいる。
「有栖川さん?どうかしたんですか?」
「いえ。紅葉がどうかしましたか?」
「ええ・・・紅葉の話ですけど、鬼無里の方に松巌寺さんというお寺がありまして、紅葉のお墓が祭られているんです。
もしかしたらそちらでもお話を聞かせて貰えるんじゃないかと思ってお知らせしようと」
「そう・・ですか。わざわざありがとうございます」
 言いながら頭を下げた有栖に菜月はクスリと笑った。
「本当に有栖川さんって面白い」
「え・・?」
「だって言ったでしょう?お客様に自分が知っている事を教えるのは当然の事です。だからそんなに恐縮されるとかえって困ってしまうわ。なんだかお節介を焼いているみたい」
「そんな!そんな事ないです。ほんまに有り難いと思う。本当に・・」
「それなら私も嬉しいです」
 フワリと浮かんだ笑み。
 それを見つめて有栖はふと、先ほどの足立の言葉を思い出していた。
 もしかしたら自分も勝手な想像で彼女を傷付けてしまうかもしれない。
 何も判らない、何もはっきりしないうちに、勝手に思って警戒をして、彼女に嫌な思いをさせてしまうかもしれない。
自分が恥ずかしいと言った足立の顔を思い出して、有栖は思わず顔を歪めた。
 その瞬間。
「!」
 突然鳴り出した携帯に思わず自分のものかとポケットを探った有栖の目の前で菜月がシルバーグレーの小型のそれを取り出した。
「え・・?・・それは・・・克彦!・」
 耳に否応なく飛び込んできた彼女の声は引き吊った響きを持っていた。
 切れたらしい電話に菜月は弟の名前を呼ぶ。
「・・ど・・どうしたんですか?」
「克彦が・・弟が・・・」
 振り返った顔は青く、心なしか唇が震えていた。
 そして。
「・・助けて、有栖川さん!あの子を止めて!!」
「−−−−−−−!?」
 その瞬間、有栖の中でモヤモヤとしていた何かが修正される。

-----------菜月デハナク、克彦ダッタ?

 そうして次の瞬間、有栖は菜月を助手席に乗せて車を発進させた。


いよいよ動き始めました。さて・・・犯人は?