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赤い繭 17

 飯田菜月は東京で生まれた。
 母親は飯田江美子。菜月を生んだ時は矢嶋江美子だった。
 江美子は鬼無里で生まれ、19までをそこで過ごす。しかし、鬼無里を訪れていた若い旅行者と知り合い、わずか1週間でかけ落ちをして東京に上京する。
 20で菜月を出産。が、籍を入れたにも関わらず夫・矢嶋恭介の放浪癖は直らず、23の時に正式に離婚をして3才の菜月をつれて鬼無里に戻る。
 閉鎖された村の出戻り娘。しかもかけ落ちまでしたというそれはひどい中傷や噂の種になったらしい。菜月自身もそれでいじめられたようだ。そんな娘に世間体を重視した両親は再婚を勧め、翌年、飯田昌彦と再婚。戸隠へと移り住む。更にその翌年、克彦が生まれる。が、事故で4年後に昌彦が亡くなり、再び江美子への世間のというよりは今度は父親の風当りが強くなり、それを庇っていた母のヨシが菜月が中学の時に死亡する。
 鬼無里に父を一人にはしておけないと、この時点で江美子は安三を戸隠に呼ぶ。
 けれど江美子も菜月が高校に入った年に、更に残された姉弟に辛く当っていたらしい祖父の安三も、菜月が高校を卒業する年に死亡し、5つ違いの異父姉弟は、その2年後、克彦が中学を卒業するのを機に別れて暮らすようになる。

「・・・・・・13と18か・・」
 資料に目を落としながら火村はポツリと呟いた。
 事件の起きた14年前。菜月は18才で、弟の克彦は13才だった。
 まだ、はっきりとは固まっていないが、火村の中にはボンヤリとその概要が浮かび始めていた。
 そうしてそれが有栖に辛い顔をさせるのだろう事が予測出来て、火村はらしくもなく苦い表情を浮かべてギシリと椅子を唸らせる。
「・・・話を聞かせろって言うんだろうな」
 帰ったら有栖がそう言い出すだろうと火村は思っていた。
 先刻の電話では有栖自身も“何か”を感じているように思えた。それが救いと言えば救いだろうか。
「・・俺も大概甘いよな・・」
 悲しい顔は見たくない。それは火村が唯一感じるセンチメンタルというものかもしれない。
「・・・・・・かと言ってここにお泊まりするわけにもいかねぇしな」
 菜月の、というよりは飯田江美子に関する資料は思った以上に早く揃った。小さな村の、大きなゴシップだったのだろう。それを待ち、目を通す為に思っていたよりも遅い時間になってしまった。おそらく有栖は宿でイライラとしているに違いない。
「・・・・・お迎えに来ていただくか」
 とにかく、事件を終わられなければならない。
 それが火村の結論だった。その為に、これから仮定を組み立てる。
 そしてそれは二人でやらなければならないのだ。
 有栖が自分をここに呼んだのだから。
「・・・・・」
 携帯を取り出して、火村は短縮ボタンを押した。
 繰り返す呼び出し音。けれど、それは不意に途切れた。
「・・・?」
 湧き上がる嫌な予感。
 リダイヤルを押してもう一度呼び出すと、今度は電源が切られていると告げる声が聞こえる。
 予感が、確信に変わるのにそれ程時間はかからなかった。
「・・・・・あの馬鹿・・!」
 漏れ落ちた低く唸るような声。
 同時に広げていた資料をグシャリと握り潰して、次の瞬間
 火村はガタリと椅子を鳴らして立ち上がった。

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 頭がズキズキとする。
 吐くほどではないが、気持ちが悪い。
(風邪でもひいたんかなぁ・・)
 そう思うとなんだか寒くなってくるような気がして、有栖はボンヤリとした意識の中で、人間というのは結構いい加減
な生き物だと思った。そうして、そんな事を考える事すら億劫になって、今度はこのまま眠ってしまおうと思い始める。
だがしかし、眠りたい気持ちと、その眠りを妨げる頭の痛みと、なぜかは判らないけれど眠っている場合ではないという危機感にも似た思いが重なって、絡まって、有栖はうっすらと目を開けた。
 途端にズキリとひどく痛んだ頭。
「・・・つぅ・・」
 始めに視界に入ったのは、何もない殺風景な小屋の朽ちかけた木の壁だった。
 瞬時に頭を駆け抜けた2つの疑問。
 ここは何処なのか。
 何故こんな所に居るのか。
 ゆっくりと身体を起こしかけると再びズキリと頭が痛む。
 触れると派手な瘤が判り、出血もしたらしい。もっとももう止まっているようなので、それ程ひどいものではないらし
いが。
「・・・何処なんや・・ここは」
 言いながら見回したそこは、どうやら木造の納屋のような所らしかった。
 人の手が入らなくなって久しい、荒れ果てた小屋の中はクモの巣が張り、なんともすさんだ印象を与える。
 一体何だって自分はこんな所で寝て、もとい、倒れていたのだろう?
 痛む頭を抱えつつ、記憶を辿り始めた有栖の脳裏にふいに
 菜月の顔が浮かんだ。
(・・・・そうや・・菜月さんと一緒だったんや・・)
 けれど見回しても菜月の姿も、気配も感じられない。
「・・・菜月さんは・・・」
 ズキズキと頭が痛む。
 そう。菜月と話をしている時に菜月の携帯が鳴り、助けを求められたのだ。
“あの子を止めて!”
 それはどういう意味だったのか。
 とにかく菜月を乗せて、有栖は言われるままに車を走らせた。中社から奥社の方に、更に脇道に逸れて、山道を登る。
 何処に行くのかと尋ねた有栖に、菜月は確かこう言ったのだ。
『家に・・・私達の家だった所に』
 昨夜の雪が残る山道をどれ程登ったか、幾度かスリップした車を途中で降りて、する予定のなかった山登り(あれが山登りの域に入るものなのかは定かではないが)をして「この先です」という菜月の言葉に残る体力を振り絞ったその途端後頭部に痛みが走った。
 そこからは記憶がない。かろうじて携帯電話が鳴ったような気がするが、それも勿論定かではない。
 菜月に何かで殴られたのか。どこかに潜んでいた克彦の仕業なのか。それとも全く判らない第三者なのか。もしも後者だとしたら菜月はどうなってしまったのだろう。
「・・・・・・ほんまに寝とる場合やないわ」
 そう。これがあの“赤い繭”を作った犯人だとしたら今度は有栖自身がそれにされてしまう可能性もあるのだ。
 菜月がどうなったのか。克彦が何なのか。
 今の時点では何一つ判らないが、ただ一つ、ここに居ない方がいいという事は判る。
 ポケットを探ると案の定電話はなくなっていた。
「・・車まで戻れればええんやけど」
 痛む頭を押さえつつ、有栖はゆっくりと立ち上がる。
「つつつ・・ったく、どこのどいつか判らんけど人の頭を思いきり殴りやがって、これで脳細胞が幾つイカレたか判らん
で・・」
 言った途端、脳裏に甦る皮肉気な笑みに有栖はクシャリと顔を歪めた。多分、火村は有栖が宿に帰っていない事をもう知っているだろう。そしてきっと怒って・・・心配をしているに違いない。薄れてゆく意識の中に聞こえたそれはもしかすると、否、十中八九火村からのものだったに違いない。
「・・・・今回はあいつを怒らせてばかりやな」
 朽ち果てた小屋の戸は、一応鍵がかけられていたらしいが、ガタガタと揺するうちにガタンと壊れるようにして開いた。外はそろそろ日暮れが近づいてきている。夜が来る前に山を降りなければ“繭”にならずとも今度は遭難をしてしまう。
 雪の上には足跡と、何かを引きずったような跡がついていた。おそらく、後者が自分の跡なのだろう。だとすればこちらは有栖をここまで連れてきた犯人のものだ。
「・・・・・・」
 サクリと踏んでその隣につけた有栖自身の足跡。
 こんな事をしなくても判っていたが、小屋を往復しているそれは、たった今つけた有栖のものと比べると小さくて、ど
う見ても男のものとは思えない。
 有栖の中に苦い思いが込み上げた。
 何が、どうなっているのか。今回の事件と、14年前の事件がどう繋がっているのか判らないけれど・・・菜月は何か
を知っているのだ。
 足跡を消さないように気を付けながら有栖は自然に足を急がせた。この跡を辿るのは帰り道にもなるけれど、犯人につながる道にもなる。けれど今はそれしかない。
 雪が、靴の中に入った。
 足がとられて滑る。
 暮れ始める空。
 赤い夕日が純白に化粧をした木立を染めて行く。
 そして−−−−−−。
「!!」
 その先に有栖は飯田克彦の姿を見つけた。


刻一刻とクライマックス。さて、貴女の推理は固まりましたでしょうか?