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赤い繭 18

 火村は三好の運転する車で戸隠へと向かっていた。
 すでに有栖が戻っていない事と菜月が旅館を休んでいる事は判っていた。そして飯田克彦もまた姿を消している事も無線で連絡が入った。
 車内から何度かかけた有栖の携帯は、先ほどと同様電源が切られている事を伝えるだけで埒があかない。
 何かが有栖に起きたのだ。それはほぼ間違いなかった。
 火村は、火村自身がその時点で考えていた“推論”を手短に話した。そうしてその後で「友人が事件に巻き込まれた可能性がある」と竹本等に伝えた。
 その一言ですぐ様緊急配備をとろうとした竹本に、火村はとりあえず自分と三好を先に行かせてほしいと申し出た。戸隠にはマスコミがいる。あまり大げさに騒いでは後の対応が一騒動になり、ともすると彼等が現場にまで入り込んでくる可能性もある。“推論”の枠を出ない今の段階ではそれは避けなければならない事だ。
 とにかく追って連絡を入れるので体制だけは整えておいてほしい。そう言い伝えて火村は長野南署を後にした。
「そこに止めて下さい」
 すでに見慣れた宿専用の駐車場。
 車を滑り込ませた途端、ガチャリとドアを開く。
「一応部屋の方を確かめてきますので。ここで待っていて下さい。すぐに戻ります」
「判りました」
 三好の返事を背中に、火村は宿へと駆け込んだ。
 その途端フロントの中からかけられた声。
「お帰りなさいませ。お連れさんはまだ戻っていらっしゃいませんよ。連絡もありません」
 それに「そうですか」とだけ返して火村はとりあえず部屋へと急ぐ。
「・・・・・っ・・」
 バンと開けたそこは、出かけている間に掃除を済ませたのだろう。きちんと片付けられて、朝、別れた時の名残すら感じられなかった。
『連絡を入れろよ』
『判っとる』
「・・連絡を入れても、その後の約束を守らなかったら元も子もないだろうが」
 胸の中に込み上げてくる苦々しい思いのままそう口にして火村はクルリと踵を返すと再び廊下を戻った。
 とにかく飯田菜月の居所を捜さなければいけない。それが現在の最重要課題だった。
 火村が竹本等に語った推論。
 多分、14年前のあの事件を起こしたのは実質的には克彦である。だが、当時13才の克彦だけで出来る事ではない。菜月も関わっている事は容易に想像できる。
 二人の母である、江美子の過去を知ってそれは火村の中で確信に変わった。
 おそらく、18の菜月はそれまでに何度も何度も聞かされたであろう母親と同じ轍を踏みかけたのだ。
 手段はどうであれ、それを止めたのが克彦だ。
「・・何かあったんですか?」
 部屋から戻ってきた火村に宿の主人がオズオズと顔を出した。それに「いえ」とひどく短い答えを返して、火村は車に戻った。
「たった今連絡が入りました。飯田菜月も、克彦も、自宅には戻っておりません。それから、克彦らしい男が午後になって菜月のアパートを訪れている事が判りました。菜月自身は外出していたようです。それと、もう一つ。中社前の駐車場で有栖川さんらしい人と飯田菜月らしい女性が話をしていたのを土産物屋の店員が目撃していました」
 ドアを開いた途端の報告。バンとドアを閉じると三好はそのまま言葉を続けた。
「奥社の方に向かったそうです」
 走り出す車。
「奥社の方向で飯田菜月か克彦が立ち寄りそうな場所をすぐに調べて下さい」
「判りました」
 答えた途端無線を握る若者を目の端に捕らえつつ、火村は戸隠の山々に視線を当てる。
 傾きかけている午後の日差し。
 有栖の電話が通じなくなってからすでに2時間近くが経過していた。
 冬の日暮れは早い。
 このままただ二人の行方を捜しているだけで本当にいいのか?という思いと、それしかないのだという思いが火村の中で交差する。
「・・・・令状が取れないと家宅捜索は出来ないしな・・」
 今の状況で令状を取るのはまず無理だ。繰り返しになるが全てが推論でしかないのだ。
 もっとも、部屋に行っても有栖がそこにいるとは火村には思えなかった。何があろうとのこのこ女性の部屋に上がる男ではない。大体、菜月自身も有栖を部屋に入れるなどそんな目立つ事はしないだろう。克彦がアパートを訪れただけでそれが判るような所だ。
 どこか、人目のつかない場所で捕らわれている。または動けずにいる。
「・・・馬鹿野郎・・」
「火村先生?」
 思わず漏れ落ちた火村の声に三好はいぶかしげな表情を浮かべ、次の瞬間気を取り直すように口を開いた。
「奥社の辺りで尋ねてみましょうか?」
「・・・そうですね。まぁ、あの馬鹿がもう少し目立つ車を
借りていれば手間も省けたんですけどね」
「はぁ・・・」
どう答えていいのかという返事をして三好は車を奥社の駐
車場に停めた。
「今度は私が聞いてきますので、先生は無線の方をお願いします」
 言うが早いか若い刑事は車を降りて社務所の方に走っていった。車内残されて、火村は唇に指を押し当てる。
「・・・・・ったく・・あの馬鹿」
 再び零れ落ちた苦い言葉。
 不意に火村の脳裏に昨日の有栖の言葉が甦った。
“忘れたいっていう気持ちはどうなるんや?”
 それに、忘れて済むのかと、本当に忘れられるのかと、そしてそれが望みなのかと言ったのは火村自身だった。
 それは突然そんな事を言い出した有栖に言ったものだったが、火村自身に言い聞かせるものでもあったのだ。
 忘れたいと願ってそれで済むのか。
 忘れられるのか。
 本当の望みはそれなのか。
 幾度も繰り返し見る夢。それは現実には起こらなかった火村の昏い願望の証でもある。
 自分はこちら側に留まったのだと、だから向う側に行ってしまった人間をはたき落とすのだと口にしても、それでも尚、夢を見続ける自分。
 もしも忘れたいという願いが叶うとしたら、自分は一体どうするのだろう?
「・・・全く、これじゃあいつ以上にセンチメンタルだな」
 苦く笑ってそう言いながら火村はキャメルを取り出した。三好は戻らない。無線も入らない。
 カチリと点けた火。ゆっくりと吸って、吐き出された煙。
“火村・・ ”
「・・・・何処にいるんだ、アリス?」
 “赤い繭”のように見えたのだと有栖が言った固まり。写真で見たそれは、到底その表現とはかけはなれた代物
だった。
「・・無事でいろ」
 有栖の顔と、それが、頭の中で交互に浮かぶ。
「無事で・・いてくれ・・」
 思わず零れた祈るような呟き。その瞬間。
『奥社方面、相慶寺に飯田菜月の母親の墓があります。確認に向かいます』
「−−−−−!」
 入った無線に火村は弾かれたように顔を上げた。
 ついでザッザッと玉砂利を踏む音と共に三好が戻ってくる
「駄目です。近辺では・」
「相慶寺という所に菜月の母親の墓があるそうです」
 三好の言葉を遮るように火村はそう口にした。
「行ってみましょう。ここからならそうかからずに着くでしょう」
 再び走り出した車。
 そうして、約10分後。
 火村たちは墓前で唇を噛む事になる。
 備えられたばかりの花。まだ灰の中にまだ火種を残している線香。おそらく、菜月が少し前までここにいたのだ。
「捜せば間に合うかもしれません」
 言いながら走り出す刑事の背中に、火村はそれが無理であると思っていた。
 掴みかけた糸は途切れてしまったのだ。
 新たな糸を手繰り寄せるしかない。
(・・・・この近くに・・どこか・・・)
 あの二人に結び付けられるものはないのか。
(・・・畜生・・!)
 うっすらと赤く染まり始めた空。
 緋色に輝く太陽が山々を照らす。
 そのままクルリと踵を返して、火村は車の中から先刻の菜月・克彦に関する資料を掴み出した。
 何か、見落としている所がある筈だ。
「火村先生!」
 三好刑事と、おそらく先ほど無線で連絡をしてきたのだろう警官がこちらに向かって走ってきた。
「今、住職に確かめたのですが、今日は飯田江美子の命日だそうで、菜月は母親の命日には必ず寺を訪れていたという事です。特に挨拶はなかったのでいつ菜月が訪れていたのかは判らないという事です」
「私が到着した時も人影はありませんでした」
「・・・・・三好刑事」
「はい」
「これによると江美子は飯田と再婚して鬼無里の実家から戸隠の方に移ってきた」
「はい・・えー・・そうですね」
「菜月たちの祖母が死んで江美子は父親も戸隠に呼び寄せている」
「・・はぁ・・」
「けれど、その家はどうなったんでしょう?」
「え・・?」
「貸家だったんでしょうか?」
「・・え・・ちょっと待って下さい・・」
「祖父の安三が死んで、克彦が中学を出る年まで菜月たち姉弟が住んでいた家は今はどうなっているんでしょう?」
「すぐに調べます」
 言うが早いか三好はすぐに無線を握った。
 鳥の高い声がした。
 赤く染まった空に浮かぶ、朱色と黄金色の糸を織り込んだような雲。それを黙って見つめていた火村の耳に三好の声が響く。
「判りました!飯田菜月たちの住んでいた家は借家で、すでに新しい借り手が住んでいます」
「−−−−−−−!」
 駄目なのか?一瞬の落胆。
「ただし、父親である飯田昌彦がこの裏山に納屋を借りていました。それは現在は放置されたままのようです」
「竹本警部たちに応援を要請して下さい」
「はい!」
 事件は終末にようやく向かって動き始めた。


さぁ、ラストに向かって一直線。火村の推理は、そして皆様の推理はあっていますでしょうか?