.

赤い繭 19

「・・・あ・・」
 ヒヤリと背中に冷たいものが伝った。
 見つかってしまったという気持ちと、これからどうすればいいのかという気持ちが有栖の中でグルグルと回る。
 夕日に赤く染まる木立の中の沈黙。けれどそれは有栖が思ってもみなかった一言で破られた。
「そっちじゃない」
「・・・え?」
「そっちは奥社の裏手につながっているんだ。県道に出るならこっちに行った方が早い」
「・・・・」
 果たしてその言葉を信じていいのか。何も言えず戸惑ったような表情を浮かべた有栖に、克彦はひどく切ない、そしてどこか疲れたような笑みを返して再び口を開いた。
「貴方に警察の知り合いが居た事は誤算でした」
「!!・・君が・・君がやったんか!?」
 思わずそう問いかけた有栖に克彦はもう一度微かな笑みを零す。
 それは否定のようにも、肯定のようにも取れる微笑みだった。そして。
「姉は・・菜月は何もしていない」
「!!」
「山を下りたら警察にそう言ってもらえますか?」
 全てを諦めた色を含ませた言葉。これにうなづいてはいけない。有栖は克彦を真っ直に見つめた。
「それは自分で言うべき事や。俺が言う事やない」
「・・何となく有栖川さんはそう言うように思ってました」
 克彦の顔に今までのものとは少しだけ違う笑みがふわりと浮かんだ。
 訪れた2度目の沈黙。やがて。
「俺と菜月は父親の違う姉弟なんです」
「−−−−!?」
 いきなり飛んだ話題は、すでに有栖が知っていた事実だった。けれど今はそれを言わなくていい。黙ったままの有栖に克彦はゆっくりと話し出す。
「俺が小学校に入るより前に父親は他界していた。母親はいつも疲れて、絶望したような目をしていた。俺は小さい時から何度も何度もそんな母親の“過ち”を聞かされた。祖父母から、母親自身から、そして近所の口性ない連中から。その度に菜月が庇ってくれた。自分の方がもっと色々な事を言われているのに、菜月はいつも俺を守ろうとした。俺には菜月だけだったんだ。“家族”と呼べない“家族”。“家”とも呼べない“家”。菜月だけが俺の居場所を作ってくれた」
 男の独白めいた告白は続く。
「あの男が写真を撮りたいと言った。冬山は山を知っている人間でも一歩間違うをとんでもないことになる。菜月があいつの案内をかって出た時、何度も聞かされた“過ち”が繰り返されてしまうかもしれないと思った。菜月が、俺を置いて行ってしまうかもしれないと思った。みんな・・行ってしまったから。いつまでも同じ話を繰り返す老いぼれだけを残して、みんな・・だから菜月にまで行かれたら、俺にはもうどこにも行くところがないから。本当は判っているんだ。菜月も俺の“家”にはなれない。俺たちは姉弟だから。でも・・それでも俺は・・・」
「・・・・君が・・やったんか・・?」
 敢えて“何を”とは言わずに繰り返した問いかけは少しだけ震えていた。
 切なくて、悲しくて、苦しくて、やりきれない気持ちが有栖の胸の中に押し寄せる。
「有栖川さん・・」
「・・・何や・・?」
「俺は菜月が好きなんです」
「!」
「血の繋がりを恨んでしまう程、菜月を愛してる。だから許せなかった。菜月の目を一瞬でも東京にむけたあの男も。あの事件を思い起こさせて、菜月に近づいてきたあいつの知り合いだという男も」
「・・・・・・」
「俺がやった。全部・・全部だ。あんたをこんな風に捕らえたのも俺だよ。菜月じゃない」
「・・君は・・・」
 バサリとどこかの木から雪が滑り落ちる。
 3度目の沈黙。
 そして・・・。
「・・でもね、何より俺が許せなかったのは」
「克彦!」
 言いかけた言葉を遮るように重なった声に、有栖は思わずそちらに顔を向けた。
「何をしているの!?」
 木立の向こうから走ってくる人影。
 それを真っ直に見つめながら、克彦は微かに微笑み浮かべて話し続ける。
「有栖川さん・・・俺はね・・自分の欲望に負けて一度だけ・・たった一度だけ菜月を手に入れたんです」
「・・・・・・っ・!」
「縋りつくように抱き締めて、彼女を自分のものにした。それは何よりも重い罪だと思いませんか?」
 言いながら再び向けられた顔にドクンドクンと早くなる鼓動。
 嫌な・・嫌な予感が有栖の胸の中に広がってゆく。
「克彦!」
 呼ばれた名前に、克彦は菜月に視線を戻す。
「克彦!!」
 菜月は10mほど離れたところで雪に足をとられてバランスを崩した。
「大丈夫だよ。有栖川さんに頼んでいただけだ。もう、菜月を困らせないよ」
 小さなその声は彼の前にいた有栖には届いたが、雪の中を走ってくる菜月にはおそらく聞こえなかっただろう。
 そして多分、克彦自身それを菜月に伝える気はないのだ。
「間違えないで下さいね。全部俺がやった事だから。菜月が何を言ってもそれは全部嘘です」
 振り向く事なく克彦が言う。
「克彦君!?」
 嫌な予感は止まらない。そして、その次の瞬間−−−−。
「克彦!止めて!!」
 悲鳴のような言葉が赤い木立の中に響いた。
 ポケットの中から取り出された鈍く銀色に光るナイフ。
 有栖が止める間もなく、彼は彼自身の胸にその刃を埋め込んでしまった。
「いやぁぁぁぁっ!!」
「克彦君!!」
 グラリとかしいだ身体。反射的に手を伸ばすと指の間を生暖かい何かが伝って落ちる。
「・・・何で・・」
「克彦!!」
「・・・ごめん・・菜月・・全部俺が持っていくから・・許して・・」
 雪が真紅に染まってゆく。
 どこか安心したような微笑みさえ浮かべて、克彦は身体を二つに折り曲げるように雪の上に崩れ落ちた。
「克彦!克彦!克彦!!」
 ガンガンと頭が痛む。
 狂ったように名前を呼ぶ菜月の声。
 赤く染まった木立。
 赤く染まった雪。
 血に濡れて赤く染まった身体。

.

.

−−−−−コトンと靴が、足から離れて地面に落ち、おれは事態を理解した。−−−−−−−−おれの足がほぐれているのだった。その糸は、糸瓜のせんいのように分解したおれのあしであったのだ。−−−−−−−−糸はやがておれの全身を袋のように包み込んだがそれでもほぐれるのをやめず、ついにおれは消滅した−−−−−−・・・

.

.

「目を開けて・・開けてよぉ・・!ねぇ・・お願い・!」
 愛しい女の胸に抱かれ、血に濡れた身体を丸めてうずくまるその姿はあの日に見た、大きな“赤い繭”のようだった。
「私を一人にしないで!!」
 夕日に照らされ、赤く染まった巨大な繭玉。

.

.

−−−−−ああ、これでやっと休めるのだ。夕日が赤々と繭を染めていた。これだけは確実にだれからも妨げられないおれの家だ。だが、家が出来ても、今度は帰ってゆくおれがいない−−−−−・・・

.

.

「・・・救急車を呼んでくる」
 言うが早いか有栖は雪の木立の中を転がるように走り出した。
 無駄かもしれないという思いと、もしかしたらという思いが交差して、有栖は雪を蹴る。
 克彦は自らの繭の中に全てを抱き込んでしまったのだ。菜月を守る為に。そして、何よりも許せない自分自身を菜月から離す為に。
「・・・・・っ・・・」
 ズルリと足が滑った。
 思い出したようにズキスギと痛み出す頭。でも−−−−−−−・・
 上がる息の下で有栖は考える。
 でもそれでいいのだろうか?
 本当にこれでいいのだろうか?
 これが彼女の望んだ事だったのか?
「・・そんなん・・いい筈ない・・!」
 −−−−−忘れるだけでいいのか?
 あの日の火村の言葉が有栖の脳裏に甦る。
 それでいい筈がないのだ。
 こんな終わり方であってほしくない。
「・・・・本当にこの道でええんやろうな・・」
 ゼイゼイという息を整えて有栖は朱の中に藍の色をにじませ始めた空を一瞬だけ見つめた。早くしなければならない。どんなことをしてもこんな終わり方だけはさせたくない。
「・・・帰ったら少しジョギングでもせんとあかんな」
 己の体力不足を呪いつつ、有栖は再び雪の山道を下る。胸が苦しい。喉が引き吊る。頭が痛む。
 そうしてどれ位、踝が隠れる程度の雪の中を走ったか、やがて有栖の視界にクルクルと回る赤いランプが飛び込んできた。
「・・・・あ・・」
 有栖が乗り捨てたレンタカーを囲むようにして光るそれとそこからこちらに向かって登ってくる幾人かの人影。
 次の瞬間、その中から飛び出してきた男に有栖はクシャリと顔を歪めた。
「アリス!!」
 聞こえてきた声。
 別れたのは今朝の事なのに、もう幾日も会っていないような気がした。
「アリス!!」
 再び呼ばれた名前。近づいてくる身体。彼は怒っているようにも、心配しているようにも見えた。多分どちらもなのだろう。
「火村・・」
 まだドクンドクンと早鐘のように打つ鼓動を宥めつつ有栖は男の名前を口にした。その途端。
「!怪我をしているのか!?」
 眉を寄せた火村の言葉に、有栖は小さく笑って首を横に振る。
「・・大した事ない。これは・・この血は克彦君のもんや。この先に居る。早く救急車を呼んでくれ」
「・・・・判った」
 日が暮れる。
 夕日が最後の力を振り絞るように輝いて、山の向こうに落ちて行く。

 事件は、14年たってようやく一つの結末を迎えようとしていた。


一応の決着。皆様の推理と同じでしたでしょうか?