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赤い繭 5

 フワリと鼻をくすぐる味噌汁の香り。
 開け放した障子から見える、窓ガラス越しに広がる冬の青空が額の中に収まった一枚の絵のようで、なぜだかいつか見た風景のようなそんな懐かしささえ覚える。
「夕べはよくお休みになれましたか?」
 耳に心地好い、涼やかな声。
「ええ。お陰様でぐっすりと」
「それなら良かったわ。夜半過ぎに雪が降ったので寒くなかったかと心配していたんですよ」
「雪が降ったんですか?あんなに綺麗な月が出ていたのに」
「あら、お月さまをご覧になっていたんですか?」
「いえ・・あの・・布団に寝転んだら見えただけで」
「まあ・・」
 思わず小さくなってしまった有栖の言葉に若い仲居−−昨日この宿を紹介してくれた飯田克彦の姉・飯田菜月−−はクスリと笑いを漏らした。
 そう。結局あの電話の後、布団の上に転がっているうちに襲ってきた睡魔に負けて、有栖は日付が変わる前に布団に潜り込むと、寝ながら読もうと思っていた文庫本に手をつける事もなくそのまま眠りの国の住人になってしまったのだ。疲れていたのだ。それが何に起因するかは、朝っぱらからはちょっと考えたくないが、久々の旅行で身体も頭も使ったからだと思っておいた方がいい。
 おかげで今日は8時前に目が覚めて、こうして人並みの時間に純和風の朝食膳を食べる事が出来たのだから。
(ほんまにこんなに健康的な生活は何ケ月ぶりやろ・・)
 程好く焼けた干物に箸を伸ばしつつ、ツラツラとそんな事を考えた有栖に菜月は再び口を開いた。
「今日は午後から又、雪が降るって先ほど天気予報で言ってましたよ」
「えっ!?こんなにいい天気なのに!?」
 その途端有栖は箸を止めて声を上げてしまった。
 確かによくよく見直せば窓の外はところどころに雪が降った名残を見せている。昨日の蕎麦屋の店主も12月に入ればいつ降ってもおかしくないとは言っていた。幾分早いとはいえ、大した差はない。けれど、でも、この青空で午後から雪になるというのはちょっと、否、かなり納得がいかない。
 そこまで一挙に思考を巡らせて、有栖は目の前で驚いたような顔をしている菜月に気が付いた。
「あ・・すみません・・大きな声を出して・・」
「いえ・・」
 ペコリと下げた頭。それを見て菜月は小さく首を横に振ると、何故かクスリと笑いを漏らした。
「・・あの・・?」
「すみません。何だか昨日の事を思い出したら急におかしくなっちゃって」
「・・昨日の事?」
「ええ。有栖川さんがはじめにここにやってきた時の事」
 言いながら菜月の顔に更に笑みが広がる。菜月が“はじめに”と言ったのは弟の克彦に案内されてきた時の事だろう。植物園に行くなら中社は通り道だから先に紹介をしますと彼が申し出てくれたのだ。そうして言われるままに蕎麦屋を出て、とりあえずこの大谷旅館で菜月に会った。その時に一体自分は何をしたのだろうか?
 脳裏に浮かんだ疑問符を抱えたまま有栖はバツが悪そうに口を開いた。
「・・・そんなにおかしな事をしてましたか?」
「いえ・・ごめんなさい。大した事じゃないんです」
「大した事じゃなくてもいいから教えて貰えませんか?思い出し笑いを誘うような事をしたのかと思うと気になって」
 有栖の言葉に菜月は「本当に大した事じゃないんです」と少しだけ困った様な笑みを浮かべて小さく俯いてしまった。
 飯田菜月は、長身で比較的ガッシリとした体格の弟・克彦と違って、“華奢”という言葉がぴったりの小柄な女性だった。恐らく20代半ばから後半位の年齢だろう。顔立ちはまだどこか少女めいた幼さを残しているのに、キッチリと一つにまとめて結い上げられた長めの髪と、すっきりきこなしている揃いの藍の着物が彼女に落ち着いた印象を与えている。
 僅かな沈黙。やがてポツリと声を落として菜月がそれを破る。
「・・・昨日、克彦は“お客を連れてきてやったぞ なんて威張っているのに、有栖川さんはその後ろで“すみません”なんてペコペコ頭を下げていらして。なんだかどっちがお客さんなんだかって。今も大きな声を出してなんておっしゃって謝ってらしたでしょう?それで昨日と同じだわって思ったらつい・・。大した事じゃなかったでしょう?」
「いえ。その位の事で良かったと聞いて安心しました」
 有栖の言葉に菜月はホッとしたように息をついた。
「おかわりはいかがですか?」
「いえ、もう」
「そうですか。それでは、食べ終わりましたら内線でお知らせ下さい。それから本日はどうなさいますか?」
「ああ・・えーっと・・・もう一日お世話になります」
「かしこまりました、。それでは延泊という事で」
 夕べ鬼女“紅葉”の伝説を尋ねた際、菜月自身から聞いた話によると、この辺りの旅館はほとんどが以前以前宿坊だったもので、この大谷旅館同様、茅葺き屋根とどっしりとした門構えが、古くから山岳信仰で栄えた土地の面影を今に伝えている。
 主人はみな聚長と呼ばれる神職者で、戸隠神社の元に集まる神社の経営になっているらしい。
 ようするにどこも大差がないならば、敢えて宿を変える事はない。言っている事とやっている事が違うとどこかの誰かにつっ込まれそうな所業だが“郷に入っては郷に従え”の諺もある−−幾分引用が違っている気もしなくもないが−−とにかくもう一日ここに泊まって、宿替えは火村が来てから考えよう。
「それで田部井さんの方なんですけど、あ・・えっと紅葉の話をして下さる」
「あ、はい」
 紅葉伝説の話を聞きたいと言ったらそれならと菜月が連絡を取ってくれた先が田部井という元神主の夫を持つという老女だった。
「今日は午後から天気が崩れるようですし、おばあちゃんの家は昨日お話した通り鬼無里の外れにあって、ここからだと少し遠くなるので早目に行かれた方がいいかと思ったんですけど。今日は後どちらを回られる予定だったんですか?」
「えーっと・・牧場とキャンプ場の方を。そこからの表山の眺めがいいとガイドブックに書いてあったので」
「・・それなら反対方向になってしまうわねぇ。そちらも天気が悪くなると困るし」
「別に山は逃げるわけではないので、田部井さんのおばあちゃんの方から回らせて貰います。話をお聞きしてまだ行けそうやったらキャンプ場の方に行ってみます」
「そうですか?それなら午前中に伺うと連絡を入れておきますね」
「何から何までお世話になります。本当にあなた方ご姉弟にはご迷惑をかけっぱなしですみません」
 ペコリと頭を下げた有栖に菜月はフワリと笑みを浮かべた
「ほら、又、有栖川さん謝ってる」
「ああ、ほんまや。いえ、でも、感謝を態度で示すとどうしても・・」
「お客様に自分が知っている事をお伝えするのは当然です。こちらこそ長々と話し込んでしまってすみません。御飯が冷めてしまったかしら」
「平気です。それでは宜しくお願いします」
「かしこまりました」
 深々と改めて頭を下げた有栖に菜月も又深く頭を下げる。
 クスリと互いに落ちた笑い。
 そうして次の瞬間、ゆっくりと立ち上がり襖を開けてもう一度こちらを向いて挨拶をすべく座り直した菜月に有栖はハタと何かを思い出したように口を開いた。
「そうや。もう一つ頼み事があるんやった」
「何でしょう?」
「弟さんのお店を教えて下さい。食べに行きたいので」
「かしこまりました。ありがとうございます」
 鮮やかな微笑みとひどく嬉しそうな声。
 静かに閉じた襖を見て、有栖は野沢菜の漬物をパクリと口に放り込んだ。


鬼女紅葉伝説は調べはじめて知りました。本当に日本って至る所に伝説があるんだなぁ。
なかなか面白かったですけどね。
今回も助教授居ません。火村ファンの方ゴメンね。