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赤い繭 6

 鬼の無い里と書いて“きなさ”と読む山里は、戸隠の西に位置し、その名の通りにいくつかの鬼伝説を秘めている。
 村を流れる裾花川はその上流の土倉から木曽殿アブキまでの約7キロわたって奇岩怪石が続く奥裾花渓谷が有名で、更に源流に近い濁川渓谷には水芭蕉の大群落で知られる奥裾花自然園が広がる。
 紅葉の頃ならば見事な景観だと言われるその奥裾花渓谷に程近い、田部井家を有栖が訪れたのは11時が少し前の事だった。
 静かな山里の中に、まるで民話の絵本の中から抜け出したような茅葺き屋根の家。
 小さな畑には、まさに自家菜園といったような野菜が植えられていて、その端に咲く色とりどりの小菊がその家に住む者を語っているような気がした。
 今年80になるのだと小さな顔に溢れるような笑みを浮かべた老女は、ここでも又ペコペコと頭を下げる有栖を家に招き入れて二つの伝説を語って聞かせてくれた。曰く、鬼女・紅葉伝説は戸隠と鬼無里に、似ていて否なるものがあるのだと言う。
 戸隠は謡曲“紅葉狩り”の伝承を謡っている。
 謡曲“紅葉狩り”は作者を観世信光とも世阿弥とも言われ、それ自体も又ミステリアスなのだが、江戸時代に入り浄瑠璃では近松門左衛門が「もみじ狩り剣本地」を、歌舞伎では明治に入り、河竹黙阿弥陀が「紅葉狩」を手掛け、いずれも戸隠が舞台となっている。
 一方鬼無里では別所の“北向山霊験記”からの史実を地名などに残し、鬼女・紅葉を語る。
 しかも、この二つの伝説は時代を同じくして隣接する二つの村に残されているのだ。
 戸隠伝説はこうである。
 平安時代、奥州の会津の夫婦が子宝に恵まれず、魔王に願って女の子を授かった。夫婦は赤子を呉羽と名付け大事に育てる。やがて呉羽は娘に成長し、名を『紅葉』と改め、京へ上がりその美貌と才女ぶりを発揮し、源氏の祖・源経基の寵愛を受けるようになる。しかし、紅葉は魔王を守り神として経基の正妻を呪術で除こうとし戸隠山へと流されてしまう。
 こうして紅葉は戸隠の荒倉山の岩屋に住み、里へ出ては一人両身の変身ぶりで里人を瞞すので、ついに京から追討の命を受けた平維茂によってその正体を現したところを討ち果たされてしまうのである。
 ところが鬼無里の伝説では紅葉と言う女性が少し異なる。時は戸隠と同じ平安。都に紅葉という琴を教える美しい女性が居て、源経基の側室となり寵愛を受けていた。ところが経基の御台所が病に倒れ病状が重くなってきた頃、側近から「紅葉が呪いの祈祷をしている」と噂をたてられ紅葉は戸隠の山中に追放されてしまうのである。水無瀬(現在の鬼無里村)の里で暮らす紅葉は村人に色々と尽くしたので敬愛され、京になぞらえて内裏屋敷と呼ぶ館に住まわせて貰い、集落に東京・西京と名をつけ、加茂神社や春日神社を祭って京偲んでいた。が、やがて、魔身が現れ乱心した紅葉は夜な夜な近隣の村を荒らし回るようになる。そこで、信濃守平維茂に鬼女討伐の命が下る。初めは鬼の形相をした紅葉の妖術に敗退した維茂だったが、別所の北向観音から降魔の剣を授かり再度紅葉を攻め、追い詰められた紅葉は荒倉山で自らの命を絶ってしまう。こうして平和になった水無瀬は鬼無里と地名を変えたというのである。
「どちらが正しいとか、違うてるとか、そんな事はどうでもいい事です。同じ時代に、同じ名前の二人の女の伝説があったそれだけです。ただどちらの女も私には哀れで、鬼女なんて語り継ぐのが不憫な気さえするんですよ」
 3年前に元神主だった夫を亡くした老女はそう言って何だか泣き出しそうな笑いを浮かべて有栖を見つめた。
 自分を武器に、その方法はどうであれ、京の都でただ必死に生きようとした戸隠の紅葉。
 貶められるようにして水無瀬に流され、乱心して命を絶った鬼無里の紅葉。
 確かに似ていて異なる二人の紅葉の伝説の他に、こんな話もあるのだと、鬼が一晩で作った山だという一夜山の話を聞いて有栖は田部井家を後にした。
 空は少し雲が出てきたものの、まだ雪が降るという様子はない。これならば予定を変えずにキャンプ場と牧場の方にも行けるかもしれない。
 今聞いたばかりの伝説を頭の中でグルグルとこね回しながら有栖は国道406号線から県道へと入った。
 表れた戸隠村の表示。見えてくる見覚えのある町並みに、道沿いに緩く左にカーブを切って、そのまま宝光社の前から中社に抜けて、一気に奥社まで車を進める。
 宝光社も、中社も、何度かその前を通っているのにまだ見てはいない。仲介をしてもらった関係と訪れる場所の開園時期の関係で、なんだかひどく非効率的な回り方をしているなと、有栖はここも又訪れる予定である奥社の前を通り過ぎて苦笑を浮かべた。
 このままでは長野で腐っている某助教授にこれでもかと馬鹿にされてしまう。
(・・帰りに中社は見ておこう)
 中社は天八意思兼命を祭神としていて、その境内には樹齢900年になる三本杉が植えられている。又、戸隠のをこよなく愛した“戸隠絵本”の作者、詩人・津村信夫の文学碑『戸隠姫』があるとも書かれていた。
 幸いと言うか、何と言うか、中社は宿泊している大谷旅館の目の前だ。多少天候が悪くなろうと、見てこれない距離ではない。
 戸隠のもう一つの名物でもある竹細工センター(ここも営業期間が終わっている)の前を通り過ぎて、有栖はふと見覚えのある人影に後方を確認しながらゆっくりとスピードを落として止まった。
「足立さん!」
「!・・ああ、昨日の・・有栖川さんでしたか。これから牧場の方ですか?」
「ええ。足立さんは?」
「私はこれから仕事です。この近くに工房があるので」
「工房ですか?何の・・」
「竹やら、簡単な焼きものやらの民芸品を作っているんですよ。隣で妻が喫茶店を開いておりますのでよろしかったら帰りにでも寄ってやって下さい」
「喫茶店ですか?嬉しいなぁ」
 そう聞くとコーヒーが飲みたくなるのは、コーヒー党の性である。幸い雪はまだ落ちて来そうにない。
「先に一杯は駄目ですか?“紅葉”の話を聞かせてくれた田部井のおばあちゃんお手製の蕎麦を御馳走になったんですがやっぱり食後のコーヒーがないと淋しくて」
「“忍者 ”の次は“紅葉伝説 ですか?大変ですねぇ。どうぞどうぞすぐそこですから。私も仕事に入る前に一服する事
にします」
 その言葉に有栖はドアを開いて足立を助手席に乗せると再びゆっくりと車を走らせた。
「それで紅葉の伝説は聞けたんですか?」
「ええ、お陰様で。菜月さんが仲介してくれて、いいお話を聞かせて貰いました」
「それは良かった。ああ、そこを左です」
「はい。足立さんはご自宅が近くなんですか?」
「え?」
「あ、いえ・・歩いていらしたので。それに先ほどこれから仕事とおっしゃっていたのでそうなのかなぁと。ああ、ここ
ですね」
 目の前に見えてきた山小屋風の家。そのドアにつけられた“らんぷ”の文字の入った手製の木の看板が暖かくて優しくて有栖の顔にフワリと笑みが浮かんだ。けれど。
「足立さん?」
「!・はい・!そうです」
「・・あの・・何かあったんですか?言うていいのか・・その顔色があんまり良くないと・・・お身体の具合でも?」
「いえ。いえ・・そうじゃないんです。・・ああ・・もう・駄目だなぁ、私は」
「足立さん?」
「こんな1度しか会った事のない有栖川さんにまで判ってしまうなんて情け無いです」
「・・・・・・・」
 ふぅっとついた大きな溜め息。何かをふっきるようにして足立は少しだけ困ったような、辛いような表情を浮かべて有栖に向き直った。
「実は今、警察に呼ばれていたんです」
「警察!?」
「・・ええ。こんな話を観光客の、しかも、出版業の方にお聞かせするのはおかしいのは良く判っています。でも、もし
良かったらグチだと思って聞いていただけますか?勿論、これがメディアに流れてしまうとそれはそれで困るんですが」
「えーっと・・あの・・そういった関係の仕事ではありませんので、その点は安心して下さい。私でよければ、いくらで
もグチを零して下さい」
「・・・・ありがとうございます」
 疲れた顔に浮かんだ微笑み。そうして二人はゆっくりと車を降りた。
「14年前の事です。その頃私は山岳警備の真似事のような事をしておりましてなぁ。と言っても山小屋の整備とか、道案内とかそう言った事でして。その年も小屋の閉まる11月から翌年までの管理を受けたんです。戸隠は冬山登山には向かん山ですが、それでも訪れる人間は居て。まぁそんなわけで月に1.2度は小屋の点検をしておったんです。12月も中旬を過ぎた頃だったでしょうか。御来光を見る人間が毎年多く訪れるので、山小屋の点検を行ったんです。前日吹雪いたのが嘘のようで、途中で馴染みの登山者に会って・・・ところが小屋の前方に“何か が落ちてるんです。半分雪に埋もれて、でも確かに山の色のものではない。はじめは獣の何か・・そういったものだと思いました。ところが近づいてみると締めていた筈の小屋の戸が開いている。ここからは当時の警察の人によく怒られましたよ。現場を台無しにしたってね。でもそんな事を言っていられる状況じゃなかったんです。雪の上に点々としているのは血で、埋もれていたのはどう見ても人間の足だったんですから。焦った私は同じように動転した登山者たちと一緒に小屋の中に踏み込んでとんでもないもんを見つけてしまいました」
「・・・・・・・」
 足立の顔が、当時の事を思い出したのだろう言い様もなく苦しげに歪んだ。
 コトリと小さな音を立てて手の中からソーサーに戻されたカップ。
 コーヒーの香りが時間の流れを遅くする。
「有栖川さん。警察っていう所はどうしてこう時効って言うんですか?それが近づくと忘れていたものを無理やりに掘り起こし始めるんでしょうね」
「・・・・・足立さん・・」
「私はあの時に私の持っていた情報を全て吐き出しました。それでも何度も何度も同じ事を聞かれ、果てはお前がやったんじゃないかとまで言われました。私は山が大好きだった。だから一生を山で過ごそうと思っていた人間だった。あれ以来私は山には入っていません。それほどあの時の記憶は私にとって凄まじいものだったのです。だからもう思い出したくない。山に入れなくても、ここを離れられずにこうして居るそれだけでもういいんです。あの時の記憶を私に突きつけないでほしい。それは人間として間違っている事でしょうか?正直言って、あれがどこの誰でも、犯人が誰でも、私にはどうでもいいんです」
「・・・・・間違いではないと、私も思いたいです」
 有栖の言葉に足立はフゥッと微笑んで、ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干した。
「ありがとうございます。本当にとんだ話を聞かせてしまった」
「いえ、とんでもないです。その・・・この“グチ”はこの中に閉じ込めておきますから」
 言いながらトントンと自分の胸を叩いた有栖に足立は今度はクシャリと泣き出しそうな笑みを浮かべる。
「年をとると涙脆くなっていけませんな」
「何を言ってるんですか。ああ、すっかり長居をしてしまって申し訳ありません。お仕事の邪魔をしてしまいましたね」
「いやいや、こちらこそ。足止めをしてしまって」
 お互いにペコペコと頭を下げながら、有栖と足立はゆっくりと腰を上げた。チラリと視線を走らせた窓の外は重たげな雲が空を覆い始めている。どうやら予報通りに雪になるらしい。
「あなたー、お話が終わったの?」
「ああ」
 話があるからと奥に下がらせていた夫人が有栖たちが立ち上がる気配で奥から顔を覗かせた。
「どうも、長居をしてしまいました」
「いいえー。こんな時期なのでこの通りですから。また寄って下さい」
「ありがとうございます」
 小柄な、笑顔の素敵な女性だった。足立は彼女とその記憶を乗り越えてきたのだろう。
 代金を尋ねると「いい」という足立にそれでは悪すぎると攻防戦を繰り広げているその脇で彼女が小さく「アッ」と声
を上げた。
「どうした?」
「朝、牧場の高階さんから電話があったの思い出した。コーヒー豆を届けてくれないかって」
「ああ、それならどうせこれから行きますので、紹介をしてもらったお礼に私が届けてきますよ」
「とんでもない!お客さんにそんな事させられません!」
「いえ・・でも・・お金も払ってないのに・・お客と違う」
 戦いに敗れて代金を返されてしまった有栖の小さな声に夫人はクスリと笑って口を開いた。
「それなら、この人を牧場まで乗せていって貰えませんか?帰りは私が頼んだものがあるからそれを持って、中島さんの車に乗せて貰えばいいし」
「おいおい・・」
「それならお安い御用です。どうぞ」
 困ったような、仕方がないというような笑いを浮かべる足立とひどく明るい笑顔の夫人。だからこそ足立はここで暮らして行けるのだと有栖は思った。
「それじゃあ、行きましょうか」
「よろしくお願いします」
 ゆっくりと木のドアを開けると入れ違いになるように馴染みの人間なのだろうお客が店内に入ってきた。背中に聞こえる夫人の「いらっしゃいませ」の声を聞きながら有栖は停めてあった車に乗り込んで急いで助手席のドアを開けた。
「ほんまに降りそうですねぇ」
「ええ。夕べも降ったけど、今日のは結構積もりそうです」
「うーん・・・」
「雪の戸隠連峰も綺麗ですよ」
「ああ・・そうですね」
 まだ見ぬその景色に有栖は頭の中でそれを想像してコクリとうなづくとステアリングを握った。
 緩やかに滑り出した車。
 静かで、穏やかな山の風景。
 けれどそれはキャンプ場を過ぎた辺りで突然のサイレンに破られる事になった。
「何かあったんやろか?」
 後方から迫ってくるパトカーの赤いランプにゆっくりと路肩に車を寄せて道を空ける。
 その瞬間。
「あ・足立さん!!」
 いきなり呼ばれた名前にハッとしてすでにガチャリとドアを開けた足立に続いて有栖はキャンプ場の入口近くにある事務所から転げるようにして走ってきた男を見つめた。
 年は40を少し過ぎた位だろうか。足立の知り合いらしい男は青い顔をして震えるように口を開いた。
「大変だぁ・・!・・えらいもんが・・」
「どうした!?何があった?」
「し・・死体だ!」
「死体?」
「バラバラの・・!!」
「−−−−−−−!」
「野良犬が何かを銜えてるって子供が。野犬だったらまずいって牧場から連絡が来て、この辺りで見たって言うから調べるように言われたんだ」
「どこにあったんだ?」
 後ろからパトカーがサイレンを鳴らして又やってくる。
「このすぐ先のバンガローの中と外に・・」
「・・・発見者だから居てほしいって・・けど・・」
 男の顔は蒼を通り越してすでに白くなっていた。居てほしいと言われても何度もそんなものは見たくはないのだろう。“事情聴取”という言葉にすら怯えている状態なのかもしれない。
「一緒に行ってやるから。そこに行こう」
「・あ・ああ・・すまない」
「途中まで一緒に行きましょう。有栖川さん。牧場の入口はこの道沿いです。もっともこの騒ぎで中に入れるかどうか」
「・・・・・・私も足立さんの連れという事で御一緒してもいいですか?」
「有栖川さん!?」
 先ほどの話を聞いたばかりで足立をその場所に行かせたくなかった。何の役にもならないけれど、せめて一緒に居てやりたい。
 僅かな沈黙の後で足立は目を伏せるようにしてペコリと頭を下げた。
「・・お願いします」
 次々に到着する警官たち。
 ワラワラと張られるロープ。
 慌ててカバーをかける一瞬の隙、有栖の視界に入ったそれは、溶けずに残っていた夕べの名残の雪の上に転がる大きな赤い繭玉のように見えた。


いよいよ事件です。バラバラ死体発見。火村はまだお休み。