BEGIN

 時として人生の中には、科学的に説明のつかないことが起こりうることがある。
 どうしても不思議としか思えないようなもの。
 夢を見ていたとしか考えようのないこと。
 人はそれを『神』の仕業としてきたり、はたまた霊的なものの力にしてみたり、自分自身の錯覚と思い込んでみたりしてきた。
 さて、ここにこんな物語があります。
 貴女は信じますか?

 それとも、笑いますか?

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.「ほんまに悪いなぁ」
 窓から入ってくる午後のどこか白っぽい光。
 その光の中に浮かぶ無数の粒子に、英都大学社会学部助教授の火村英生は小さく顔を顰めた。どうやら煙草の煙は気にならないが、光に照らし出される細かい埃は気になるらしい。身体に悪いのは圧倒的に前者の方だと思うのだが、普段見えないものが見えればやはり気になる。
「悪いと思うなら言葉じゃなくて態度で示せよ」
 図書館内の禁煙が恐らく彼の機嫌の悪さに一役買っているのだろう。もっともこれが自分自身の用事であれば何時間でも大丈夫なのだが、今回は火村は単なる付き添いだ。 借りてきた書庫の鍵を手の中でチャリリと鳴らす助教授に、学生時代からの友人であり、実は恋人でもある推理小説作家の有栖川有栖は「うーん・・」と小さく唸るように声を出し、「じゃあ」と口を開いた。
「今夜の酒代は俺の奢りってことで」
「もう一声」
「何やそりゃ。原稿料も出てへんのにこれ以上出せるか」
「いや別に肉体労働で払っていただいても」
「・・・肉体労働・・?・・って・おい!」
「へぇ、だいぶ鋭くなってきたじゃないか」
 ニヤリと笑う火村に有栖は怒っているような、けれど勿論それだけではない赤い顔で辺りを見回した。
「誰もいないよ」
 図書館の奥の扉を開けて更に鉄製の階段を降りる。禁帯本が多く入れられているこの地下書庫は普段は鍵がかけられており、火村が言う通り滅多に学生達が来る場所ではない。だからと言って全く彼らが訪れないかと言えばそうでもなく、学生時代の火村はよく教授に頼まれてここを訪れていたのだ。もっともそのお陰で有栖も滅多にお目にかかれない本を手にする機会に恵まれたのだが。
「・・変わってへんなぁ」
「そう変わられたら困るだろうが」
 壁際のスイッチを入れると点いた灯りに照らし出された室内。ひんやりとした空気の中、有栖は「確かに」と口にして何かを思い出した様にクスリと笑い出した。
「何だ?」
「いや・・ちょっと」
「何だよ、気になるだろう」
「うん・・・だから・・その・・そう言えばここではじめてキスされたなぁって・・」
「・・・・ああ・・」
「おまけにわけの分からん事言うてたし」
「・・まぁな・・」
 珍しく苦笑を滲ませるような火村に有栖は小さく肩を竦めて話題を変えた。
「さてと思い出話はこれ位にしてと。けどほんまにこの地下の書庫ってワクワクするな」
「ああ?」
「だって何か物凄い発見があるような気がするやないか」
「そういうもんか?」
「そういうもんや」
「これこれが入ってるっていうリストがあるんだからそれ以上のものはないと思うがね」
「ほんまに君は夢も希望もないっちゅうか・・」
「リアリストと言ってくれ」
「ふざけろ、アホ。それでKのいくつやったっけ?」
「掘り出し物を探すために片っ端から眺めていくんじゃないのか?」
「せっかく場所が判っとるのにするか。さっさと見つけるに決まっとるやろ。せやからKのいくつか言え」
「作家先生はどうやらエセロマンティストでリアリストらしい」
「誰がエセロマンティストや!・・あ・・あった『K』」
 話しながらもゆっくりと棚を辿っていた指が目的のアルファベットに辿り着き、有栖は後ろを振り返った。
「268」
 すかさず聞こえてきた数字。
「Kの268・・268・・268・・」
 ブツブツと小さく繰り返しながら、年月を重ねた背表紙に貼られたラベルの番号を追っていく有栖の横顔を火村は黙って見つめていた。
『そう言えばここではじめてキスされたなぁって・・』
 脳裏に浮かぶ先程の言葉。
 そう、確かにそうだった。
 学生時代、自分はここで有栖に口付けたのだ。しかも。
「あった・・よし、この辺やな」
 どうやら分類番号に辿り着いたらしく、後はタイトルを探すだけになったようだ。その証拠に有栖の眼差しは先程までのラベルではなく、背表紙のタイトルに向けられている。すぐに目当てのものが見つかるだろう。
『おまけにわけの分からん事言うてたし』
 再び甦る有栖の言葉。確かに有栖にとってはわけの判らない事だったのだろう。それどころか火村自身にとっても説明しろといっても出来ないものだ。
(あの時もこんな感じだったよな・・)
 思い起こす、けれど忘れられない十数年も前の出来事。
 あれは一体何だったのだろう。自分自身が見せた願望のようなものだったのだろうか。
「これや!」
「おめでとう。じゃあ行くか」
 資料に使いたかった絶版本を手にした有栖から視線を逸らして火村は棚の奥にふと目を向けた。
(・・・なんだ・・?)
 不意に胸の中に何か不思議な感覚が湧きあがった。そこに誰かがいるわけではない。その奥は行き止まりになっている。だが・・・。
「何?どうかしたんか?」
 肩越しに覗きこんで来る有栖の顔。
「・・・・まさかな・・・」
「火村?」
 けれどもしもそうだとしたら・・。
 勿論普段の自分であればそんな事は一笑して終わりなのだが妙な胸騒ぎがその仮定を後押しする。
「・・・それなら過去は変えちゃまずいよな」
「おい・・どうかしたんか?」
 さすがに訝しげな表情を浮かべた有栖に火村はニヤリと笑って有栖の身体を押し戻した。
「え・・?何?」
「悪いな、ちょっと思い当たる事があるんでその奥に行ってくれるか?」
「・・何か欲しい本でも思いついたとか?」
「まぁ、そんなもんだ」
 言いながらあと最奥の書棚の所まで進み、火村はもう一度後ろを確認した。
「誰か居るんか?」
「いや、誰も。それよりもアリス」
「何やねん、改まって」
「ちょっと失礼」
「へ・・?・・!・・な・・ん!」
 言うが早いかいきなり塞がれた唇に有栖は思わず固まってしまった。それにこれ幸いとばかりに深くなる口付け。
「・・ぅ・ん・・ちょ・・んん・・」
 ピチャリと響く音にゾクリと背中を這い上がる何か。
「なん・・いきなり・・」
「せっかくだから昔を思い出してみるのもいいかと」
「アホ・・そんなん・・ちょっと!どこ触って、そんなんせぇへんかったやろ!」
「オプション」
「つけるな!」
 一応回りを憚ってか有栖は小さな声で怒鳴りながら押さえ込まれてしまった本棚と火村の腕の中の狭いスペースで必死に抵抗を試みた。
「あか・・マジで誰か来たら・・」
「だから静かにしてろよ、アリス」
「そんなん・・あぁ・!・」
 漏れ落ちた声に慌てて自分の手で口を塞ぐ恋人にクスリと笑って、火村は器用にスラックスから引きずり出したシャツの下の素肌に手を這わせた。
「や・・!」
「冷たかったか?」
「・・・アホ・・も・・ぁ・」
「アリス・・」
 再び名前を呼ばれて重なった唇。
 やがて火村ははじまりと同様、唐突に身体を離した。
 その途端、思わず漏れ落ちた、安堵とも何とも言い様のない吐息。
「立ってるのが辛い、か?」
「!誰のせいや!誰の!こんな所でいきなり」
 赤い顔でそう怒鳴る有栖に、火村は小さく肩を竦めていつの間にか落としてしまったらしい本を足元から拾い上げた。
「仕方ないだろう」
「何が!?」
「誰かさんが煽るような事を言うから」
「!!いつ俺が煽ったんや」
「煽っただろう。立てないようならここで一度」
「嫌や!絶対に」
「なら続きは今夜」
「するか、アホ」
「じゃこいつを俺が借りるって話はなかった事に」
「!!!汚い」
「何とでも。何たってどうやら今日は記念すべき『はじまり』の日だったらしいからな」
「・・・・何やそれ。ほんまに君ここに来るとおかしな事言うな」
 有栖の言葉に小さく笑うと火村は本をユラユラと揺らしながら「行くぞ」と先刻の不機嫌はどこに言ったのかと言う程機嫌よく書庫の階段を昇り始めた。


有栖川ユリさんとのリレー小説です。お互いに書いては渡しの繰り返し。詰まると相手に渡せるというのはある意味とても楽ですが、時々とんでもない伏線がついて返ってくる事もあってなかなかスリリングな一面もありました。どちらがどこを書いたかはそっとしておいてください。