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(一体なんだったんだ・・)
 英都大学社会学部の俊英と言われる3回生の火村英生はらしくもなくザカザカと小走りで廊下を歩いていた。その様子に何事かと振り返る者も居たがそんな事が視界に入る余裕はない。
『アリス』
 確かにそう聞こえた。
 火村が知る限り、アリスという一風変わった日本名を持つ学生は一人しかいない。勿論この大学に通う学生の名前を全員知っているわけではないが、自分の知っている人間と同じ名前の学生が入ったという噂は聞かなかったし、これがまだ4月5月の時期であればともかく、こんな秋も終わるような頃になって情報が全くないわけがない。火村自身はともかくとして回りの人間は結構おしゃべりな人間が揃っているのだ。そんな事があればとっくに面白おかしく同名の新入生が入ったから顔を見に行こうなどと言う話になっていた筈だ。第一・・。
『あぁ・・』
 聞こえてきた細い声は甘いけれど、明らかに女の声ではなかった。この国で男に『アリス』という名前をつけるのは友人の両親には申し訳ないがやはり珍しいだろう。
 つまりは書庫で『アリス』と呼ばれていたのは自分の知る友人『有栖川有栖』である確率が高いと言うわけである。 しかもその名を呼んでいた声も男のものだった。
「・・・・・・・」
 そこまで考えて電池が切れたようにピタリと足を止め、ガシガシと頭を掻くと、火村ははぁ・・と大きな溜め息を零した。その途端視界に入ったゼミ室のドア。
 逃げるようにして書庫を後にしたが、実際はどうやってここまで来たのか今一つ記憶がなかった。大体地下からのあの細い階段をそこにいた人間に気付かれずに上れたのかそれすらも判らない。
「・・・資料・・忘れてきちまったな・・」
 ポツリとそう呟いて火村はもう一度小さな溜め息を漏らすと中庭の方に方向転換をしてゆっくりと歩き始めた。
 外はそろそろ夕暮れ色に染まり始めている。時折拭く風は冷たく季節が変わり始めていることを伝えていた。
 足元でカサカサと渇いた音を立てる落ち葉。
 さすがにこんな季節のこんな時間にわざわざベンチに座ってタバコを吸おうと考える人間はいないらしく、桜だろうか黄色と赤に染まった葉ををパッと払うように退かして座ると火村は取り出したキャメルに火を点けた。
「・・・・・・」
 ユラユラと立ち昇る紫煙。
 火村の知る『アリス』。
 有栖川有栖という名前を持つ彼と会ったのは2回生の春だった。法学部の講義を聴講していた時にその隣で講義そっちのけで原稿を書いていたのが有栖だった。
 およそ殺人事件などというものには縁のないような風貌で彼は殺人事件の現場を紡ぎ出していたのだ。真剣な横顔が印象的だった。
 まずそれに興味が湧き、ついで彼がどんな話を紡いでいるのか気になった。まだまだ粗い部分はあるものの彼の描くキャラクターは火村が有栖に対して受けた印象と同様に魅力的に思えたのだ。
“その続きはどうなるんだ?”
“あっと驚く真相が待ち構えてるんや”
“気になるな”
“ほんまに?”
“もちろん”
 そんな風にはじまった関係も気付けば親友などと呼ばれるようになっていた。学部が社会学部と法学部と違うというのに隣にいるのが自然になっていた。
 それなのに・・。
『あか・・マジで誰か来たら・・』
『だから静かにしてろよ、アリス』
『そんなん・・あぁ・!・』
 はじめはボソボソとした声だった。珍しく他の人間がいる、その程度にしか思っていなかったのだ。だがついつい聞こえてしまったそのやりとりに火村は思わず固まってしまったのだ。一体何が起こっているのか。今の言葉は何なのか。
 ドクンドクンと早くなる鼓動。
 それに比例するように研ぎ澄まされていく聴覚。
『や・・!』
『冷たかったか?』
『・・・アホ・・も・・ぁ・』
『アリス・・』
 それ以上聞いてはいけない。というよりも聞きたくないと思って逃げ出すようにそこを出た。
「・・・・・・」
 白い灰が風にヒラヒラと飛んでいく。長くなってしまったそれの一部が気付かないうちに落ちてしまったらしい。トンと近くの吸殻入れに残りの灰を落として火村はゆっくりと煙を吸い込んだ。
『・・・アホ・・も・・ぁ・』
 あれが有栖の声だと言う確証はない。どこか違うといえば違うようにも聞こえた。だが、それは火村が聞いた事のない声だ。掠れたような甘い声。そんな声は知らない。
「・・・・っ・」
 何故かひどく苦い思いがこみ上げてきて火村は吸いかけのそれを錆付いた吸殻入れの中に捨てた。
 ふぅと吐き出した白い煙。
『火村!』
 ミステリーが好きで、推理小説家を目指している有栖。
 穏やかな風貌のわりに頑固な面もあり、議論を交わすのが好き。笑顔が柔らかく結構面倒見がいい面もあるが、自分の事となると抜けてしまう事も多い。
「・・・・・・」
 どうして自分はこんなにもショックを受けているのか。有栖にそういう趣味が、否、性癖があるのかもしれないという事がショックなのだろうか。それを自分が知らなかったというのがショックだったのだろうか。
 それとも・・・・。
「くそ・・っ!」
 舌打ちをするようにそう言って火村は新たなキャメルを取り出して火を点けた。
 自分とは違う人間に自分の知らない時間があるのは当然だ。しかもそれが性欲的な部分であれば尚の事。有栖だとて火村が誰とどんな付き合いをしているのかのなど知らないだろう。それをまた一々友人に報告する人間はいない。
 あれが有栖だったと仮定して、今までの付き合いの中で有栖がそれを告げなかったのは裏を返せば火村とはあくまでも友人の付き合いで、自分は彼の趣味ではなく、だから男と付き合うという事の対象が火村に向けられる心配はしないでいいという事で・・・。
「・・・・・」
 その考えに何故か再び苛立ちを覚えて、火村はさほどない灰をトントンと指で弾くように落とした。
 色々な性癖の人間はいる。それを気持ち悪いと思うのも、自分に関係ないならば別に気にしないと思うのも、それこそ個人の自由だろう。
 スパスパと吸いながらその次の瞬間、ふと今の今まで気持ち悪いと言う気持ちが浮かんでいなかった事実に気がついて火村はまたしても眉間に皺を寄せた。
 それならば自分のこの感情は一体何なのか。
 気持ち悪いとも思わない。だが気にしないというわけにはいかない。
「・・・・・暮れてきたな・・」
 秋の日は釣瓶落とし。晩秋となればそれも加速という感じだ。藍色が溶け出した空。足元でカサカサと鳴る落ち葉。
「・・・どうするかな」
 2本目のキャメルを吸殻入れに入れて火村は溜め息と同時に煙を吐き出した。
 教授に頼まれた資料を持っていかなければならない。けれどもしもまだあの場所に彼らが居たら・・・否・・喩えいなくとももうしばらくはあの空間に近づきたくない。
 そう考えた瞬間。
「火村?何しとるん?」
「!!」
 聞こえてきたのは紛れもなく自分の知っている法学部3回生の有栖川有栖だった。
 思わず言葉を詰まらせてしまった火村の元に有栖はいつもと変わらぬニコニコとした笑みを浮かべて近づいてくる。
「何や、晩秋の逢魔ガ時にわざわざ外で喫煙か?君の趣味もよう判らんな。風邪引くで」
 すでに丈の短めのダッフルコートを着込んでいる有栖はそう言って火村の目の前に立った。
「火村?」
「あ・・ああ・・」
「何や、どうかしたんか?」
「・・・・いや」
「まだ帰らんの?」
「・・・・ああ・・ゼミの方が・・」
「ひゃー、ガンバルなぁ。で、息抜きに外に出てきたってわけか?」
「まぁそんなところだ」
 火村の答えに有栖は「ふーん」というと「なぁ」と再び話しかけてきた。
「したらもう少し暇になってからでもええねんけど、本借りに行ってもええか?」
「本?」
 一瞬その単語が図書館に結びついて火村は思わず眉を寄せてしまった。けれどそれに気付いた様子はなく有栖は言葉を続ける。
「うん、ほら、この前君が見つけたって言うてたの。読み終わったんやろ?貸してくれ」
「・・ああ・・別にいいけど」
「したら都合がいい時にでも声をかけてな」
 再びフワリと笑う顔。
「じゃあ帰るわ。季節はずれのホタルもオツやけどほどほどにな。また明日」
 そう言って有栖はベンチに腰掛けている火村に背を向けた。
「!」
 その瞬間、思わず開きかけた口。けれど言葉は出なかった。先程書庫にいたかと尋ねてどうなるのだ。言えば自分がそこに居たことを告げるようなものである。
 胸の中で交差する、まだあれが有栖と決まったわけではないと言う思いと、いっそ聞いてしまったらどうなるのかという薄暗い感情。
 そんな火村の思いも知らず有栖は少し歩いた先でクルリと振り返り、まだベンチに座ったままの火村にブンブンと手を振って見せる。
「ほんまに風邪をひかんうちに中に戻るんやでー!」
 変わらない。いつも通りの有栖。
『・・・アホ・・も・・ぁ・』
 あれは本当に有栖だったんだろうか。
 変わらないということは今までもああいった事があったのだろうか。
 あれが火村の知らない有栖の一面だったのか。
「・・・・・・っ・・」
 闇に溶けていく空間で小さく舌打ちをして、その苛立ちの原因が判らないまま、火村は小さくなっていく背中から視線を外した。


さてお気づきでしょうか?そうです。実はこの話はパラレルもどきなのです。いえ、メインは学生時代なのですが・・・・。
自分一人で書くにはちょっとばかり勇気がいって、ユリさんに声をかけたのでした。