BEGIN 5

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「あ、火村、帰って来たんや。じゃ、寄せてもろうて楽しかったわ。またな」
 下宿に帰るといきなり隣の部屋から顔を出した有栖は中に居る火村と同じ下宿生にそう言って廊下に出てきた。
「・・・何してるんだ?」
「本借りようと思って来たんやけど、君居らんかったから勝手に中で待たしてもらおうかなーと思うてたら来るかって誘われた。田舎の方から送って来たっていう柿をご馳走になって、自慢のコレクションを・・火村?」
 楽しげにそう話をする有栖から視線を反らすようにして部屋の中に入ってしまった火村を追いかけて有栖もまた部屋に入る。
「バイト?」
「・・ああ」
 点けられた灯り。
「あかんかったか?」
「何が?」
 話しながらも湧きあがってくる苛立ち。
 久しぶりにまともに顔を合わせてどうしたらいいのか判らないという気持ちと、昼間同様またしても自分以外の人間と過ごしていたのかという理不尽極まりない気持ちが交差してついつい無愛想になる火村の声に、そんな彼の気持ちが判らず、有栖はシュンと肩を落とした。
「この頃忙しそうやったから強行手段に出たんやけど・・怒っとるか?」
 部屋の中に立ったままそう尋ねてくる有栖に火村はコートを脱いでハンガーにかけるとカチリとストーブのスイッチを入れた。
「別に・・。いるとは思っていなかったから・・」
 ストーブの網目の上に広がっていくオレンジ色。
 おそらく背中をじっと見つめているのだろう有栖の視線を感じながら、火村は胸の中で溜め息を落とした。
 一体何を自分は馬鹿な事をやっているのか。こんな風に有栖にあたってどうなるというのだ。
「・・お前の強行手段なんていつもの事だろうが。構わないぜ、別に。ただまだ探し出してないから持って行くなら勝手に探せよ」
「!うん!」
 ようやく普段通りに返ってきた言葉に有栖は嬉しげに笑って畳の上に腰を下ろした。
「探すんじゃないのか?」
「へへ・・もう少し部屋が暖まってからにする。けどほんまに今日は寒かったな。夜になったら気温がえらい下がったやろ?」
「お前・・一体いつから来てたんだよ」
 呆れたようにそう言う火村に有栖はもう一度小さく笑って口を開いた。
「4限が終わってすぐ」
 今は9時過ぎだ。5時にここに来たとしても・・・。
「!飯は!?」
「食べてない。あ、でもさっき柿を貰ったから」
「柿くらいで腹が一杯になるか、馬鹿!」
 思わずそう怒鳴ってしまった火村に有栖は何故か嬉しそうな表情を浮かべた。
「良かった」
「・・・腹が減ってるといいのか?」
「ちゃうわ。そうやなくて・・このところ君ちょっとおかしい気がしてたから安心した」
「・・・人の事を勝手におかしくするんじゃねえよ」
 やがてストーブの上にかけたヤカンがチィーと細い音を立て始める。
「ラーメン位しかないぞ」
「有り難く戴きます。今度倍返しにするから」
「期待しないで待ってるよ」
「失礼すぎる」
「日頃の行いがものを言うんだよ」
 大丈夫だ。いつも通りだ。有栖も変には思っていない。
 考えて、考えて、どうしていいのか判らずに顔を合わせる事が躊躇われ、ついつい避けるような態度をとってしまったが、こうしていれば何も変わらない。都合が良過ぎると思われるかもしれないが、もしかすると本当にあれは間違いだったのかもしれないとさえ思える。自分の知らないところで『アリス』という名前の、またはあだ名の男が居て、とんでもない勘違いをしてしまったのかもしれない。
 インスタントラーメンを取り出すべく立ち上がって台所へと向かいながら火村はそう思っていた。
 大体有栖が、男と寝るような趣味があるとは思えない。しかもそれをこれほどまで完璧に今まで隠していた等とは信じられないのだ。
 ましてや不特定多数の人間と付き合うようなそんな器用さは有栖にはない。それが火村の有栖に対するイメージなのかもしれないが、そうとしか思えないのだ。
 けれど・・・。
 万が一にもあれが有栖だったとしたら、多分・・あの男は有栖の恋人なんだろう。
 そんな事は思えない、間違いだったと、たった今思ったそばから火村はそう思った。
 昼間は他の男とも・・などとも思ったが、それはないに違いないとも思う。
 恋人・・・。一番近くに居るだろう存在。
「火村?」
 行ったり来たり、考えた事を次の瞬間には否定しているような思考を止めたのは有栖の声だった。
「・・・・ああ、うどんもあったけどどっちがいいんだ?」
 二つのカップを手にして戻ると有栖は嬉しそうに「ラーメン」と言った。
 薄いフィルムの包装を破って、蓋を外していく指を見つめていると不思議そうな声がかかった。
「何見とんねん。こっちが良かったんか?」
「・・・いや。俺はいい。随分手馴れているなと感心してただけだ」
「そんなもんで感心すんな。お湯、もうええかな」
「もう少し待てよ。ぬるいのを入れるとふやけるぞ」
「・・そうやな」
 そう言って有栖は真剣な眼差しでヤカンを見つめた。
 その眼差しにトクンと鳴った鼓動。
「・・・・」
 本当に、自分はどうしたいのだろう。
 ただ単に今までと同じように付き合っていく事が出来ればいいのか。それとも自分自身の事を棚に上げ、有栖に隠し事がある事が気に入らないのか。男の恋人が居ると言われたら自分は果たして「そうか」とその恋を認める事が出来るのか。
「・・・何で俺に認められなきゃならないんだよな・・」
「何?」
 ボソリと落ちてしまった言葉はどうやら湯が沸き始めたヤカンの音に消されて有栖には届かなかったらしい。
「・・いや、沸いたみたいだぜ?」
「よし!なぁ、ほんまに食べないのか?」
「ああ。とらないから安心して食っていいぜ」
「俺は別にそんな事は言うてへん!その言い方やと俺が物凄く卑しいみたいやないか」
「そりゃ悪かったな。正直者で」
「火村!」
 しばらくぶりのやりとり。
 出来上がったラーメンを食べ始めた有栖とその傍でキャメルをふかし始めた火村。
「なぁ・・」
「ああ?」
「明日一限からなんやけど、泊まっていってもええ?」
ズルズルとラーメンをすすりながら有栖が言った。
「・・・・布団、早く借りてこないと畳の上にそのままだからな」
 ほんの少しの間を開けて火村が答える。
「!先に行って来る!」
 朝の早い家主は休むのも早い。
 慌てて階段を降りていく音を聞きながら、火村は本人が居るというのに湧き上がって来る苛立ちに眉を寄せて白い煙を吐き出した。