誰ヨリモ君ヲ愛ス1

それは きれいな 薔薇色で、
けしつぶよりか 小さくて、
こぼれて 土に 落ちた 時、
ぱっと 花火が はじけるように、
大きな 花が 開くのよ。

もしも 涙が こぼれるように、
こんな わらいが こぼれたら、
どんなに、どんなに、綺麗でしょう。
−−−金子みすゞ『わらい』−−−

−−−−−−「笑ってろ。お前の泣き顔は、苦手だ」


「あいつらが悪いんだ!!あいつらが!!」
 小説やドラマの中ではありきたりな−−−否、現実もそうなのかもしれない−−−ワンシーン。
 引き吊った顔と引き吊った声。蒼い顔でそう言う男にもう一方の男はニコリともせずに口を開いた。
「誰のせいでもない。自分で、した事だ。そうでしょう?」
「−−−−−−−−!」
 僅かな沈黙。
 そうして次の瞬間、全てが終わったとでも言う様にザリリと音を立てて踵を返したその背中に向かって半ば犯罪者のレッテル
を押された男は苦しげに声を出した。
「お前なんか・・お前なんか何も判らないくせに!!」
 それは血を吐くような叫びだった。
 けれど・・・。
「判らなくていい。判りたいとも思わない。ただはっきりとしているのはそこに犯罪があったいう事実だけだよ」
 返されたのは冷たい言葉と冷たい眼差し。
 再び背を向けて歩き出した足を、その男−−−火村英生は二度と止めようとはしなかった。
「帰るぞ、アリス」

 −−−−事件は終わった。
 終わった筈だった−−−−−−−−−−。

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 午後の一番眠気を誘う講義時間。
 壇上では何か面白くない事があったのかとでも問いかけたいような様子の若い助教授がカツカツと派手な音をたてて短い単語の板書きを終えドカリと椅子に腰掛けた。
 しかも教卓に片肘をついて顎を乗せるというおまけつきだ。
 にも関わらず決して狭くはない階段教室が7割方以上その席を埋められているという事実が社会学部の気鋭の犯罪学者である彼の人気を物語っていた。
「犯罪行動についての多くの理論は、個人が犯罪をする様に動機づける<生物的、心理的、あるいは社会的力>のいずれかによる<特殊な力>があると論じられているわけだが、この統制理論というのはこれらとは違った立場をとっている。即ち、犯
罪行動に対する動機づけは人間の本性の一部で、もし好きな様にさせておけば全ての個人は自然に犯罪を行うようになるだろうという大胆な仮説から出発しているわけだ」
 相変わらずだらしなく結ばれたネクタイ。椅子に浅く腰掛けながら頬杖をついて資料をめくるその姿は百歩譲っても行儀がい
いとは言えない。けれどそれと裏腹にいつにもましてクールな声が彼、英都大学の若き助教授である火村英生が別にやる気がないわけでも不機嫌なわけでもない事を告げていた。
「さて、それではここでもう一度この犯罪行動、いわゆる犯罪行為と呼ばれているものを類別してみよう」
 言いながら火村は再び黒板に向かうと、手に取ったチョークを走らせ始めた。
「かつてマンハイムによって刑法の社会学の必要性が説かれたわけだが、刑事統計上の基本的区分としては窃盗・殺人等、刑法に規定されている刑法犯と売春防止法や道路交通法等を含む各種の行政法令の罰則に違反する特別法犯を区分する分類がある。この他、準刑法犯と呼ばれるものも分類されているがここでは敢えて割愛する。次に犯罪によって侵害される法益を基準とした分類がある。以前講義で取り上げたが財産犯・人身犯・風俗犯等が上げられるわけだ。因みに常習犯・非常習犯・累犯・非累犯・集団犯・非集団犯も刑法学を基礎とした分類とされている。がこれに対して実質的な見地から分類もある。ようするに犯罪の動機を基準にした分類だ。こちらは利欲犯・困窮犯・激情犯・政治犯等に区分されている。がしかし、犯罪行為というものは必ずしも単一的なものでなく、複雑で多様な内容を持つものだという事は君たちももう判っていると思う。刑法上では一つの犯罪行為類型にあてはまるものが、社会学の立場をとると数種の分類に細分化される事が少なくない。例えば殺人罪をとってみる」
 淀みなく続く言葉に重なる、そこここで聞こえているサラサラとペンを走らせる音。
 そんな中、板書きを書き写す事もせずに、この大学の卒業生であり、推理作家であり、現在講義中である火村英生の長年の友人でもある有栖川有栖はグルリと周囲に視線を巡らせて、再びドカリと椅子に腰掛けた助教授から視線を戻した。
「殺人罪というそれを動機の観点からとらえると、利欲的動機の殺人・経済的困窮による殺人・激情的動機による殺人・政治
的動機による殺人・・とまぁ、なるわけだ。これを犯罪原因として更に考慮検討してゆくには、その上に犯罪人の遺伝的素質
・環境的要因なども分類の中に含めて考えていかなければならないわけである。ここで話を統制理論に戻そう・・」
 こんな風に友人である火村の講義を聴くのは有栖にとっては勿論初めての事ではない。折りに触れ、又暇に任せ、何だかんだと彼の講義を聴いた回数はもうすでに両手の指では足りないだろう。勝手知ったる母校である。部外者が混じっていても構う事のないここの気質が有栖はとても気に入っていた。
 もっとも他学部であった火村との出会いもその自由さがあればこそのものだったのだからそんな事を改めて感じるのは今更というヤツである。
「・・・という実例が報告されている。ハーシーの非行少年における自己申告調査からもそれはうかがう事が出来る筈だ。こ
れらの点からこの理論が結局重大な犯罪性を生まれつきの攻撃性や粗暴性等の動物的遺伝に帰せしめていると考えている事が判る。が・・まぁ人間が生まれつき穏和か、攻撃的かという問題は哲学者から始まって神学者、心理学者、社会学者、人類学者、そして犯罪学者と実に様々な学者達によって2000年以上に渡って議論の対称にされているが未だに解決されていないのは周知の事実なのでその意味でこれを評価するのは難しいという事だ」
 助教授のどこかに何かを含んだ様なその言葉に学生たちの中からクスリと失笑が漏れ落ちる。
 それに小さく肩を竦めてチラリと腕時計に目を走らせると火村は再び気怠げに顔を上げた。
「終わるには少し時間があるので話を逸らそう。今までの講義でも判る様に、例え性善説・性悪説をとったとしても犯罪には
様々な環境が関係するわけだ。が、何もそれは生活条件と言った様な社会的要因だけではない。賛否両論はあるがケトレーやゲリー等と言った研究者達からは身体犯罪は暖かい所、財産犯は寒い所でより多く発生していると報告されている。この他にも様々な研究者から季節や時間等における面白い報告もある。例えば暴力犯は夏に多く冬に少ない。が、日本においては年末に第2のピークを迎える。・・・なぜか?」
 問いかけながら一度言葉を切って火村は教室内をグルリと見回すとニヤリと笑った。
「次に性犯罪。これは夏、特に6月が多くなる。先ほど出た財産犯は冬に多いとされているが日本では3月・9月・12月にそれぞれピークを迎える。又、曜日によっての関連性の報告では傷害犯が多発するのは土曜・日曜・月曜の3日間。時間としては・・とそろそろ時間だな。では続きは来週のお楽しみだ。この仮説がどういう根拠で出てきたか考えておくように。次回は環境と犯罪の関係について論じてみよう」
 パタリと閉じられた資料と、間を置かずにガタリと立ち上がった身体。
 幾人かの学生たちと同様に“いいところで切りやがって”と言うような溜め息を漏らしつつ有栖はすでに出て行こうとしてい
るその背中を慌てて追いかけた。そして。
「火村!」
 パタパタと小走りで横に並んだ途端、チラリと向けられた視線と次いで聞こえてきた呆れたような声。
「熱心なご聴講だったな。相変わらずヒマなのか?それとも現実逃避か?」
 どうしてこの男はこういう物言いしか出来ないのか。
 思わず胸の中で毒づいて、有栖はゆっくりと口を開く。
「アホ。締め切りが明けたから飯でもどうかと思うて誘いにきたんや」
「ほぅ、今回は締めきりを守れたわけだ」
 歩く足を止めずに火村はそう言ってニヤリと笑うと胸ポケットからキャメルを取り出した。
「今回も、や。それよりあの続きが聞きたい」
「ああ?統制理論か?」
 言いながら口に銜え、今度はライターを捜して火をつける。
「ちゃう。その後。判ってるんやろ?意地の悪い奴やな、ケトレーとかの辺りや。さすがに来週の講義までご拝聴する暇はな
いねん」
「締め切りが明けたら又仕事か?結構な事だ」
 吐き出された煙と小さく竦められた肩。どこまでもカチンとくる物言いに有栖が思わず口を開きかけた途端、火村はいきなり
手に持っていた資料を押しつけた。
「おい!」
「鍵を開けるんだ。預かってろ」
「・・・・・」
 いつの間に辿り着いたのか見慣れたドアの前。
 カチャリと鍵を開け、開かれたその扉に次の瞬間、中に充満していたらしい煙草の匂いが廊下に漏れ出して有栖は思わず顔を顰める。
「・・吸い過ぎや、それとも燻煙してるんか」
「落ち着くんだよ。早く入れ」
 促す低い声。それにそのまま中に入ると、持っていた資料を机の上に放り出す様に置いて有栖はツカツカと窓に近づき手をかけた。
「おい・・!」
「換気や、換気!」
「不容易に開けるな!資料が飛ぶ!」
 慌てた声を上げて火村がその手を掴む。
「そう思うなら整理しろ」
「している途中だ。大体その台詞をお前に言われたくない」
「・・・っ・・」
 瞬間、ぐぅっと言葉の詰まった有栖に火村は手を掴んだままニヤリと笑った。
「言えねぇよな?」
「・・・・・俺が人間の住む環境を破壊するのは締め切り前だけや」
「ほぉ・・」
 実にも何にもならない言い訳は自分を追い詰める材料にしかならない。ニヤニヤとした笑みを顔に張りつけたまま火村はことさらゆっくりと口を開いた。
「じゃあ、締め切りが明けた先生のお部屋を拝見させていただきましょうか?」
「え・・・?」
「人間の住み家として快適な環境になっている筈なんだよな。今は」
「・・・・・・・」
「どこかで食事をしてお前のマンションに行こうぜ?」
 掴まれた腕に少しだけ込められた力。
「特別に講義の続きもしてやるよ」
「・・・・・!」
 耳もと掠めるような囁きに有栖はビクリと身体を震わせた。
 それに火村がクスリと笑う。
 スルリと外された手。
 ほとんど吸わないまま短くなりつつあったキャメルを口にするその顔を見つめて有栖は胸の中で息を一つ吐いた。
 ・・・・つまりはそういう事だ。
 その言葉の持つ意味が判らない訳ではない。
 そう・・自分たちは−−−−−−−−・・。
「・・・・途中でビール買うていかんと、切らしてるんや」
 多分、恐らく・・今、自分の顔は赤くなっているに違いない。
 思いながら有栖は「了解だ」と言ってすでに満杯になっている灰皿に煙草を押しつけた火村からそっと視線を外した。


はい、作家編の長編スタートです。
とにかく終わらなくて終わらなくて苦しかった一作です。
ボチボチアップしていきますので、お楽しみに。