誰ヨリモ君ヲ愛ス16

 −−−−−−−−−何かが聞こえている。
 ひどく遠いような、けれどひどく近いような不思議な感覚。
(・・・何や・・?)
 考えようとするけれど、それはすぐに頭の中で拡散して形にならずに消えてしまった。
(・・・・・・・・?・・・)
 散ってしまったそれは、有栖にとって大事な事のような気がしたけれど、今、それを追いかける事は何故だかひどく億劫な事に思えてならない。それどころか・・
(すごい・・眠い・・・)
 このところまともに眠れていないのだ。このままにしておいてほしい。
 でも・・・・何かが引っ掛かる。
(・・・・・・・何で・・眠れんかったんや・・?)
 そう。こんなになる程、何故眠れなかったんだろう?
 再び頭の中に浮かぶ疑問。
(・・・・締め切り・・か・・)
 そう。そうかもしれない。締め切り明けだからこんなに疲れて眠いのだ。だから眠りたい。
 だけど・・・・
 自分にはしなければならない事があった筈なのだ。
(・・・・何やったっけ?)
 又、戻ってきた思考。
 音がする。
 何の音だろう?
 でも・・眠りたい・・。
 だけどうるさくて眠れない。誰が騒いでいるのだろう?
(・・・・文句を言ってやる・・・)
 誰に・・・文句を・・・・?・・・・違う・・言うのは文句ではなかった筈だ。
(・・・大事な事やったのに・・)
 言わなければならない事。
(何を、言うんや?)
 浮いては沈む意識の隅で有栖は自分に問いかける。
 何を、言うのか。
 誰に、言うのか。
 何の為に・・・言うのか。
 音がする。
 違う、あれは声だ。
 誰かが何かを言っている。違う・・呼んでいる。
 呼んでいるんだ。誰を?
「−−−−−−−−−−」
 近づいてくる声。呼んでいる。傷付いて追い詰められた声が呼んでいる。それがなぜか悲しくて、切ない気がして・・。
(・・・俺は・・・)
 ギギィと軋むような音がした。
 この音は覚えている。そう・・・扉の開く音だ。
(俺は・・・・・・)
「アリス!!!」
「−−−−−−−−!!」
 耳に突き刺さるような自分の名前。
 そして有栖は忘れていた事を思い出した。
 そう、自分は伝えることがあったのだ。
 大事な事を伝えなければならなかったのだ。
「・・・・っ・・」
 瞳を開けようとして開かない事実に茫然とする。
 それでも有栖には見えた。
 瞳が開かなくても、暗くても、はっきりと走り寄ってくる火村の顔が見えた。だから−−−−−。
「・・あかん!!」
 突然の声にピタリと止まった身体−−気配−−に有栖はホォと息をつく。
「・・アリス・?」
 聞こえてきた声に有栖は“ああ、火村だ”と思った。
 ずっと、声が聞きたくて、会いたかった火村だ。
「・・・きた・・・・あか・・ロー・・・とく・・・ナ・・しか・・」
 けれどちゃんと伝えたかった筈なのに、耳に入ってくる自分の声は半分の言葉にもなっていなかった。
「・・・っ・・!・き・・ら・・・かん・・」
 先ほどの声で全てだったのだと言うように声はかすれて音にならない。
 それが口惜しくて、切なくて、有栖の瞳から涙が零れ出した。
 火村の為に、有栖自身の為に、そして・・・狂ったあの男の為に、何としても、どうしても、この計画は成功させてはいけないのだ。そう思いながら一瞬でもそれを忘れてしまっていた自分に腹が立って、うまく伝えられない事が悲しい。
「・・・っ・・しか・・」
「・・喋るな・アリス」
「・・・・!」
 靴音が聞こえ始める。
「・・・・・らぁ・・」
「・・頼むから・・喋るな・・!」
 近づいてくる。
 今、きっと、前に立つ。
「・・・・アリス・・」
 涙が止まらない。首を振ったけれど、うまく動かなかった。
「アリス・・」
「・・・ナ・・」
 どうして自分の声なのに、たった一言「ナイフが仕掛けられている」と言えば判る事なのに、その一言が何故自由にならないのかと有栖は思った。
「今、助けてやる。・・帰るぞ」
 ロープにかけられた手に込み上げる絶望感。
 捕らわれた自分に出来る唯一の事が、火村に何も背負わせたくないと、悲しみも、苦しみも、後悔も・・何も、何も感じさせたくないという願いが叶わずに消えてしまう。
 そうして、自分は“もう一つの事”を伝える事も出来なくなってしまうのだ。
 そう・・。火村が有栖を思う様に、有栖自身も又、火村を思っているのだと・・永遠に伝えられなくなってしまう。
 それは・・・・どうしても、どうしても嫌だった!
「−−−−−−−−っ!!」
 ほとんど開いていない瞳をこじ開けて、有栖は目の前に膝をついてロープを外そうとしている男を睨みつけた。
 そしてそのまま自由にならない手を微かに動かす。
 駆け抜ける痛み。新たに流れ出す血。
「何をしているんだ!アリス!!」
「−−−−−−−−っ!!」
「傷が広がる!」
「・・っ・・」
「やめろ!!」
「−−−−−−うぁ・・っ・」
「アリス!!!」
 引き吊った声と引き吊った顔。
 言葉の代わりに自らを傷付けようしている有栖を火村は思わず椅子ごと抱き込んだ。その瞬間何かが指に触れる。
(・・何だ・・?)
 それは、細い・・暗闇の中ではほとんど見えない糸だった。
 指でそっとこする様にして次の瞬間火村は有栖を覗き込んだ。
「・・これか・・?」
「・・・っ・・・」
 声にならない答え。
 けれど、それで充分だった。
「・・・・・・・・」
 ゆっくりと後ろに回ると、火村はライターの灯りでそれを照らしながら、有栖の座っている椅子を固定した棚に伸びて行くそれを辿り始めた。真っ直に、闇に溶けて伸びる細い靭かな糸。
 やがて火村は闇の中で炎に反射してキラリと光る銀色のナイフを見つけた。
(・・・・これか・・)
 他に何か隠されている物がないかを確かめながら、火村はもう一度ゆっくりとその糸を辿る。
 どうやら、火村がロープを解いた途端、有栖の背にナイフが突き刺さる仕掛けだったらしい。
 それを確認して火村は再び棚に戻ると、その柄の部分を握り締めて有栖を“本当に”縛っていた細い糸を断ち切った。
 そして。
「・・・・・時間がねぇから丁度いい。ロープを切るにはなかなか役に立ちそうだぜ、アリス」



本を出した当時、痛い痛いと言われました。いえ、確かに痛いよね。これは。で、一部の方からは「イタイ系」とも・・
私、イタイ系って、死にネタと信じて疑わなかったのでちょっとビックリしました。