誰ヨリモ君ヲ愛ス4

 ワープロを打つ手を止めて有栖は一瞬だけ宙を睨みつける様に見つめると、次の瞬間「はぁ・・」と大きく息を吐き出した。
「・・・・あかんわ」
 形に成りかけたものが成り切る前にザラザラと崩れ落ちてゆく感覚。こうなるといくらその断片を拾い集めても後の祭りである。それは過去の経験でよく判っていた。
 こんな時はいっそ気分転換をした方がいい。
 ふと時計を見るとかれこれ3時間以上はワープロに向かっている。自分にしてはまずまずの集中力だ。そう思いながら打っていた所までをフロッピーに入力して、有栖はゆっくりと椅子から立ち上がった。首や腕や肩がキシキシと痛む。
「うー・・・コーヒーでも飲もう」
 グルグルと腕を回して、ついでに首も動かして、そのまま書斎からリビングを抜けてキッチンに向かう。
 その途端鳴り出した電話。
「・・・・・・」
 瞬時に胸の中に“せめて留守電にしておけばよかった”という後悔という名の苦い思いが広がった。実はこのところ電話にはあまりいい記憶がないのだ。
「・・はい・・有栖川です」
 しつこく鳴り続ける電話に殊更ゆっくりと上げた受話機。
『あー!有栖川さん、良かった!片桐です!』
 けれど聞こえてきた声に思わず受話機を持ち直して有栖は慌てて口を開いた。
「片桐さん?どないしたん!?」
 確か今受けている短編の締め切りはまだまだ余裕がある筈である。一体どうしたというのだろう?
『どないしたん?じゃないですよー。留守電になってないのにいくら鳴らしても出られないから、何かあったのかと思いましたよ』
「何かって何ですか。何かって。仕事をしてたんですよ。短編やら、解説やら、エッセイやら、細かいのがお陰様でポロポロ続いてるんで。ところで今日は?」
『ああ・・うっかり本題を忘れる所でした。えーっと先日戴いた文庫化用の原稿ですが、校正に回したところいくつか確認して戴きたいところがありまして。お時間がとれない様でしたらFaxで送らせて戴きますが』
「・・・・結構ありますか?」
『そうですねぇ。もともとノベルズからのものですからそれ程多くは・・』
「ならFaxで送って貰おうかな」
『判りました。すぐに送らせて戴きます。ご覧になって判らない点がありましたら連絡して下さい』
「うん。よろしくお願いします」
『こちらこそ。・・・ところで有栖川さん』
「うん?」
 背後に聞こえるザワザワとした喧騒。
 一端言葉を切って、少しだけ何かを考える様な沈黙の後で片桐は再び話し始めた。
『あの・・この所そちらの方は何だか物騒なようですけど』
「え?」
 遠くで切り無く電話のベルの音が聞こえている。
『ご存じないんですか?』
「うん。テレビ見てへんねん。ペナントレースも終わったし」
 有栖らしいと言えば有栖らしい台詞に、片桐は思わずクスリと笑いを漏らした。
「片桐さん?」
『ああ、失礼しました。テレビ・・もそうですが新聞でも結構扱ってます。地域もバラバラですし、死因もマチマチなんですけど大阪で1ケ月足らずの間に4件の他殺体が上がってるんだそうです。つい昨日じゃなかったかな?4件目が』
「大阪で4件の他殺体?」
 場所も、殺され方もバラバラというのであればいくら同じ府内とはいえそれぞれ別の事件という事だろうか?
 確かに物騒な事である。
 有栖の考えを読み取ったかの様に片桐は更に言葉を続けた。
『勿論4つの事件に関連性があるとかないとかそういう報道はされていませんよ。ただ次々に他殺の死体が出るんでこちらに住む者としては同じ府内に住んでいるというだけで心配なんです。現にさっきだって有栖川さん電話に出られないし。まさかと思って意地で鳴らし続けちゃいましたよ。で、出たら出たで何だか変な感じでしたし』
 なるほどそれで“何かあったのかと思いました”という台詞だったのか。受話機を握りながら妙な所で納得してしまった有栖の耳に再び片桐のおずおずとした声が聞こえてきた。
『・・あの、有栖川さん?本当に大丈夫ですか?』
「え?・・ああ・・うん」
 電話の向こうでは、きっと本当に心配そうな顔をしているのだろう。それが何だか嬉しくて思わず小さな笑いが零れ落ちる。
『有栖川さん?』
 途端に聞こえてきた名前。
「ああ、すみません。片桐さんは心配症やなぁ」
『笑い事じゃないですよ。そうだ。火村先生から連絡とかはないんですか?』
「火村?なんで?」
『いえ、ほら、フィールドワークでしたっけ?』
「ああ・・そういえばこの所かかってきいへんな」
 片桐の言う通り1ケ月足らずの間に大阪で4件もの殺人事件があったのならばきっと今頃は船曳たちはテンテコ舞いだろう。火村から何も言ってこないのは彼が声をかけられていないという事なのか。それとも・・・。
『有栖川さん?有栖川さん!?』
「え?ああ・・」
『全く・・話の最中に自分の世界に入らないで下さい。本当に・・やっぱり何か変ですよ』
「・・変ですか?」
『変です』
 きっぱりと言い切られて有栖はついに困った様に笑い出してしまった。自分ではそんなに気にしていないつもりだったけれど他人にそんな風に感じられてしまう程度には気になっていたのかもしれない。
『あの・・有栖川さん?』
「大丈夫。別に気が触れたわけやないですよ。ただ片桐さんが鋭いんでちょっとびっくりしただけです」
『え!?じゃあやっぱり・!』
「そんな大した事やないですってば。実は・・この所ちょっと悪戯電話がひどくて閉口してたとこやったんです」
『悪戯電話ですか・・?』
「うん。別に変なヤツやなくて無言電話なんやけど。始めは間違いかと思うてたん。せやけどあんまり重なるし、次第に昼夜関係なくなって・・・留守電にしておいてもテープが終わるまでやりよるし」
『・・警察へは?』
「言うてへんよ。別に何かあったわけやないし。大体その位で警察が相手にしてくれる筈もないし」
『でも・・・・』
「ああ・・ほんまに・・そない心配せんといて。言うてからこんなん言うのもおかしいけど、黙っていればそのうち切れるし実害はないし、そろそろ慣れてきたし」
『十分、害ですよ。うーん・・・狂信的なファンですかねぇ』
「なんやのそれ?」
『ですから、有栖川さんの声を聞けるだけでいいとか』
「・・片桐さん、その方がよっぽど気色悪いって」
『ああ!すみません!・・その・・いい加減な事を言って』
 恐縮しきっている片桐に有栖はもう一度クスリと小さな笑いを漏らした。
「ええよ。片桐さんが心配してくれとるんは、よぉ判ってるから。まぁ、というわけでしばらくは電話がこんな感じだろうけどそういう訳やから」
『・・・判りました。でもあんまり続く様でしたらやっぱり警察に行かれた方がいいと思います。もしも、気分転換をしたいとか、落ち着いて原稿が出来ないという状況でしたらどこか用意をしますし』
「んー・・カンヅメは苦手やなぁ」
『そう・・ですか。それでは、何かありましたらいつでも連絡をして下さい。すぐに行きます』
「ありがとう」
『それと・・』
「うん?」
『・・これは余計なお世話かもしれませんが、火村先生に相談されてみてはいかがですか?』
「火村に?」
『ええ。場所的にも近いですし、それにもしかしたらいい撃退法とか知っていらっしゃるかもしれませんし』
「・・・・そうやな・・あいつなら一発で2度とかかってこなくなる方法とか知っていそうやもんな」
 笑いの混じった有栖の言葉に片桐も又「そうですね」と笑いを含んだ声で答える。
「ほんなら、ほんまにおおきに。何や片桐さんに話をしたら少しスッとしたわ」
『そうおっしゃっていただければしつこく尋ねた甲斐があります。それでは長くなりましたが、確認の件と来月の短編の方もよろしくお願いします』
「頑張ります」
 もう一度クスリとお互いに零れた笑い。
 次いでピッという、かすかな音をたてて電話が切られる。
「・・・・っ・・」
 それに小さく溜め息をついて有栖はゆっくりと受話機を元に戻した。確かに話をして少しは気持ちが晴れた気がした。けれど・・・。
“狂信的なファンですかねぇ”
 ふと甦る言葉。
 本当にそんなものなのだろうか?
“有栖川さんの声が聞けるだけでいいとか”
 そんな風に思う人間がいるのだろうか?
「・・・・大体いつからやったっけ?」
 始めは・・・そう・・確か・・火村が来て・・2.3日経った後だ。
 だからかれこれ1ケ月近くこんな状態が続いているのだ。
(1ケ月近く・・?)
“1ケ月足らずの間に4件の・・”
「・・・・・・っ・・」
 瞬間、何故か背中がゾクリとした。
 関係などある筈もないのに、ただ時期的に同じだというだけでヒクヒクと胃が引き吊る。
(・・・・十分ナーバースやないか・・・)
“火村先生に相談されては ”
 再び脳裏に甦る片桐の言葉。
 あれ以来・・・つまり、これも又1ケ月近く、火村には会っていない。電話では1.2度話をしたが、事件の話もなかった。もっとも、その最後の電話からももう2週間近く経っているのだけれど。
“1ケ月ぶりだぜ?”
「−−−−−−−−・・」
 ふいに耳の奥で火村の声が聞こえた。
“で又1ケ月まとめると ”
「・・・・・よけいな事まで思い出したやないか・・!」
 思わず赤くなる顔に小さく舌打ちをして、有栖はまるでそれが悪いのだと言う様に切ったばかりの電話を睨みつけた。
 別に1週間、2週間・・もとい、それ以上、お互いに電話すらしない事など過去にはいくらでもあった。1ケ月くらい会わない事も−−−火村はあんな風に言ったが−−−ザラで、更に付け加えるならば、会う度にそういう事をしているわけでは勿論ない。だから・・・。
「・・あかんわ・・思い出したら無性に会いたくなったやないか」
 どこか照れて、ふてくされた子供の様に有栖はポツリとそう口にした。
(今なら研究室に居るやろか?)
 今更ながら、電話はかかってくるだけのものではなくてかけるものでもある事を実感しつつ有栖は電話を見つめる。
(・・もしも・・無言電話の事を言うたら何て言うだろう?)
 胸をよぎる微かな躇い。
「−−−−−−−−−−!!」
 その瞬間いきなり鳴り出した電話に有栖は大きく身体を震わせた。けれどその次の瞬間、片桐からFaxが届く筈だった事を
 思い出してほぉ・・と一つ息を吐く。
 2コール・・3コール・・・
 が、しかし、それは有栖の予想を裏切っていっこうにFaxに切り替わる気配を見せずに鳴り続ける。
 6コール・・7コール・・8コール・・
 呼び出し音が重なる度に胸の中に広がる、不安にも苛立ちにも似た思い。そして・・。
「・・・有栖川です」
『・・・・・・・・・・』
「!!もしもし!?有栖川ですが?」
 シンと静まり返った受話機からは、けれど確かに何者かが様子をうかがうような気配が感じられた。
「もしもし!?」
『・・・・・・・・・・』
『誰なんや!嫌がらせも大概にしとけや!!」
『・・・・・・・・・・』
 怒鳴れば怒鳴るほどその声は吸い込まれてゆく。
 まるで・・受話機の向こうに深淵が広がっているようだと有栖は思った。
 そうして受話機を持っているこの手から、あてているこの耳から、声を発しているこの口から・・その暗い淵に引きずり込まれてしまう・・・・?
「−−−−−−−−!!」
 耐え難い恐怖と嫌悪感に、声にならない悲鳴をあげながら放り投げるようにしてそれを切ると、有栖はツカツカとキッチンに向かい、いきなりザバザバと顔を洗い出した。
 突然の冷たさに肌が驚いた様に引き吊る。
 RRRRRR・・・
「−−−−−−−−−っ!!」
 再び鳴り出した電話。
「・・いい加減にしてくれ!!」
 ガンッとシンクを叩いた手が痛む。
 けれどその次の瞬間、有栖の耳にカタカタとFaxの動き出す音が聞こえてきた。どうやら今度こそ片桐からのものだったらしい。
「・・・は・・・」
 身体の力が抜ける。
 そのままズルズルと床に座り込むと、なぜか笑いが込み上げてくる。
「・・ハハ・・ハハハハハ・・ッ・・気にしてへんどころか十分過ぎる程気にしとるやん・・!」
 自嘲的な言葉にクシャリと顔を歪めて有栖はガシャガシャと髪の毛を掻き回した。
 その途端小さく鳴ったFaxの受け取り終了を告げる電子音。
「・・・・・こんなん見せられへんわ」
 相談をした方がいいという片桐の言葉に有栖は今頃になってポツリと答えを口にした。
 気にしていないと言いながら、一日に数回の電話にこんなに過敏になっている姿を知られたくない。それはプライドとも意地とも違う、強いて言葉にするならば、煩わせたくないとか、心配をかけたくないというものが一番近いだろうか。
「・・・ようは・・電話がかからん様にしておけばええんや」
 なぜこんな事が1ケ月近くもの間考えつかなかったのだろう。思い立った瞬間、有栖は再びリビングに戻り電話のコードを勢いよく引き抜いた。
 これで他からの連絡も途絶えるが、あの無言の淵に引きずり込まれる感覚から一時的にでも逃れる事が出来る。
「・・・携帯は繋がっとるしな・・」
 縋る様にそう口にして、有栖はようやく書斎を出てきた理由を思い出した。
「・・せや・・コーヒーを淹れるんやった」
 もうそんな事はどうでもいい気持ちになっていたが、それでもこのまま仕事を始める気持ちにもなれない。ゆっくりとそこから立ち上がって、先ほどから何度も行ったり来たりしているキッチンに向かって足を踏み出して・・・。
「・・・・・・・」
 そうして歩き出しながら、有栖は鳴らなくなった電話を一瞬だけ振り返った。



この当時はまだストーカー法なんかありませんでした。
もっともあってもあんまり役に立っている感じじゃないけどね、あの法律。その当時だけ盛り上がって騒いでいた感じがします。ストーリーには何の関係もない話だわ・・・