誰ヨリモ君ヲ愛ス6

 外に出るとひどく気温が下がっているのが判った。
 もう、秋も終わりに近づいているのだ。
「・・・・冷えてきやがったな・・」
 車で来なかったのは呼び出されたのが出先だったからだ。
 とりあえずJRで京都に出て、そこから大学に戻ろう。
 それでもそれ程遅くはならない。
 ビルの間に見え隠れする白い月。
 早足で歩きながら火村は随分日が暮れるのが早くなったと思った。夏の盛りならばまだこの時間は夕暮れ時を僅かに過ぎた頃だろう。
 切符を買って、ホーム入ってきた電車に乗り込む。
 暗い窓に映る自分の顔。その向こうで流れて行く、闇に溶けて沈む景色。
 思考がどんどん深くなってゆく。自分の中に埋没してゆく。
 古川・末広町・鶴町・吹田市・京都の八幡。
(場所、あるいはルートに何か手がかりがあるだろうか?)
 京都に入ったと聞いた時、火村は即座に思ったのだ。
 先程船曳たちに告げた様に、犯人はやはり“ゴール”を決めている、と。『捧ぐ』という紙切れを添えて<それ>を贈るだけではないのだ。犯人は自分に・・間違いなく“火村英生”に近づいてきている。だから被害者たちは単なるメッセンジャーだけではなくある意味“道標 であって・・・。
(本当に被害者たちには何の繋がりもないのだろうか?)
 事件発生からすでに約1ケ月が経過している。
 捜査が始まってからでも半月以上が経っている。
「・・・・・・・・」
 ふいに再び浮かんだ笑顔。
 会う、会わないは別として今夜は電話をかけてみようか。
 そう思いながら火村は、人の流れに押し出される様にして京都駅のホームに降りた。
 丁度ラッシュの時間に当ってしまったらしい。
 小さく舌打ちが漏れる。
 人の多さにうんざりとしながら火村は階段を上り、改札口に向かって歩調を早めた。
 いつまでも居たい所ではない。
 その瞬間−−−−−−。
「火村先生!?」
「!?」
 呼ばれた名前に俯きかけていた顔を上げると、通路の向こうから小さく手を上げて、次にペコリと頭を下げながら近づいてくる男が見えた。
 人の好さげな穏やかな笑み。
「ご無沙汰しております。急にお声をかけてしまって申し訳ありませんでした」
 恐縮しながら、けれど笑みを絶やさずにもう一度ペコリと頭を下げたのは有栖の担当編集者である片桐光雄だった。
「ああ、こちらこそ気が付きませんで。こちらへは仕事で?」
「はい、原稿を戴きに」
 脳裏に火村が唯一知っている京都在住の作家が浮かんだ。勿論彼女であるとは限らない。京都には他にも作家がいるだろう。けれど、でも。
「大変ですね。我壗な作家が多くて」
「いえ・・」
 肩を竦める様にそう言ってニヤリと笑った火村に片桐はクスリと小さな笑いを漏らした。
「それはそうと先生はどちらへ・・・ああ、有栖川さんの所ですか?」
 通行の邪魔になると壁際に身体を寄せながら、片桐は言いかけた言葉をそのまま確認の様な問いに変えた。その瞬間僅かに寄せられた眉が火村の神経を掠めて触れる。
「・・・いえ、仕事で。有栖川が何か?」
「・・・え・・あ・・いえ・・」
 途端に“しまった”という表情を浮かべた男に火村は小さく笑みを浮かべて一つ溜め息をつく。
「又、締め切りでも破ってご迷惑をかけているんですか?仕方のない奴だな」
「いえ、締め切りはまだ先なんです!」
「そうですか・・。じゃあ書けないとかごねてるわけだ」
「そんな事はないですよ。先日の電話でも・・」
 そこでようやく誘導尋問をされていた事に気付き、片桐は再び口を閉じてしまった。けれどもう遅い。
「電話で何か言ってたんですね?」
「あ・・あの・・」
「何があったんですか?」
「・・・大した事では・・・私の口から言うようなものではありませんし・・」
「ええ、どうせあいつの言う事は大した事などありません。だから誰が話をしても同じですよ、片桐さん」
 にっこりと笑った顔のその瞳は、けれど少しも笑みを浮かべてはいなかった。
「・・・・・・・・」
 “蛇に睨まれた蛙”の心境を人でごった返す京都駅の通路で味わう事になるとは思わなかった。
 喧騒の中の沈黙の恐ろしさを身に染みて感じながら片桐はついに「実は・・」と重い口を開いた。


(あのクソ馬鹿野郎!!)
 胸の中で幾度繰り返したか判らない罵声。
『実は、有栖川さん悪戯電話に悩まされているようでして』
 話し始めると片桐は腹を決めた様にそのやりとりを忠実に語り出した。
『という状況で、少し神経的に参っている様でしたので・・・あの、これは僕、いえ、私の勝手な思い込みなのかもしれませんが。ですからあまりひどい様なら警察に通報するか、原稿を書いて戴くという名目でどこか場所を用意すると申し上げたんです。けれど大丈夫だとおっしゃって』
 言いながら漏れ落ちた溜め息。
『余計なお世話だとも思ったんですが、警察が駄目なら火村先生に相談されてはどうかと・・・』
 それが一昨日の事だと片桐は言った。
 だから今「どこかへ・・」と口にして、火村が大阪方面からのホームから上がってきたらしい事に気付いてそう思った−−−連絡がきて火村が行った−−−のだと言葉を付け足した。
 けれど、その日も、夕べも、そして今日も有栖からは何の連絡もなかった。
 その事実が火村の中に暗い怒りにも似た影を落とす。
『急にこちらに来る事が決まったので、時間が取れたら少し足を伸ばして有栖川さんの所に行こうかと思っていたんです。けれど切羽詰まってきてしまいまして』
 言いながら持っていた鞄に落とされた視線。
『・・あの・・有栖川さんは・・その・・火村先生にご心配をかけたくなかったんだと思います・・・ですから・・』
 去り際にしどろもどろになりながらも片桐はそう言ってなぜか「すみません」と頭を下げた。
 それに「いえ、それとなく連絡をとってみます。ありがとうございました」と微笑みさえ浮かべる事の出来た自分を誉めてやりたいと火村は忌々しげに舌打ちをした。
 ようやく辿り着いた大学内の駐車場。
 朝から置き去りにされていた愛車にキィを差し込んで乱暴にドアを開ける。
「・・・あの馬鹿!!」
 先ほど電話をしてみた。
 けれどそれは火村の思いを裏切って−−−あるいは予想通りに−−−絡らなかった。
 耳に残るザラザラとした音。
 携帯も電波の届かないところに居るか電源を切っていると繰り返すだけだった。
 恐らく、有栖は電話を切ってしまったのだ。
 直接何かがあった訳ではないないだろう。
 だが、しかし、そこまで気持ちが追い詰められているのだ。
 それなのに・・・!
「他のくだらねぇ事は頼りにするくせに何で連絡を寄越さないんだ!馬鹿野郎!」
 バンと叩いた拍子にクラクションがパァンと小さく悲鳴を上げた。
「・・ったく・・こんな時に馬鹿な事に巻き込まれやがって」
 吐き出す様にそう口にして、火村はイライラとした気持ちのままエンジンをかけた。
 本当は、このまま大阪にとって返して嫌味の一つや二つやそれ以上言ってやりたかった。
 今の自分の状態がどうであれ、有栖がそれを気付ける精神状態ではない事は判っている。
 けれど、別の意味で今日はもう動けなかった。
 犯人は京都に入っているのだ。
 しばらくは−−−例え警察が張っていようとも−−−家主を一人にはしておけない。
 とにかく明日、講義が終わり次第様子を見に行こう。
 そしてよほどひどい状態ならばそのまま京都に連れて来てしまうか、片桐に頼んで強制的にどこかにカンヅメにして貰おう。
「・・明日、覚悟しておけよ、アリス」
 聞こえる筈のない言葉を口にすると、少しだけ気持ちが軽くなる。その途端頭の中に浮かんだ笑顔。
「・・・・笑ってごまかすんじゃねぇよ」
 そう・・思い出すのはいつも笑っている顔だ。
 それはもしかすると自分の願望なのだろうか?
「・・・・くだらねぇな・・」
 呟く様にそう言って火村はポケットの中からキャメルを取り出して銜えた。次いで取り出したライターで火をつけて、そのままゆっくりとアクセルを踏む。
 走り出す車。
 それは夜の闇の中に溶けてテールランプの小さな光になり・・やがて、見えなくなった。



なんかこうじわじわと浸食が始まりつつあるって感じでしょうか?