誰ヨリモ君ヲ愛ス8

「・・・・・ぃ・・した・」
どこかで声がする。
「・・それで・・何も・・・」
 低い、けれどひどく耳に馴染む声。
「ああ・・・判りました。とにかく被害はそれだけですね?」
(・・被害・・?)
 ふわりと上昇した意識が単語を認識する。
「はい・・ええ・・すぐに戻ります」
(・・・火村の声や・・)
「それまで誰か付いていて・・はい・・・お願いします」
 聞こえてくる、ピッという小さな電子音。
 半瞬遅れてそれが携帯電話を切った音だった事に気が付いて有栖は目を開けた瞬間口を開いた。
「・・何かあったんか?」
「−−−−−−−−!?」
 振り返った顔は驚いたような表情から、すぐにいつものどこか冷めた笑顔に変わった。
 それがなぜかひどく悲しくて、有栖は気を失っている間に運ばれたらしいベッドの上でそっと身体を起こした。途端に背中を走り抜ける引き吊るような痛み。
「・・・・・っ・・事件か?」
「何でもねぇよ」
「・・・婆ちゃんになんかあったんか?」
「−−−−−−−−!?」
 なぜそんな事を口にしたのかは有栖自身にも判らなかった。
 けれどその瞬間、大きく見開かれた火村の瞳に、自分の言葉が“答え”からそれほど外れていない事を感じて、有栖は今度こそしっかりと身体を起こして火村に向き直った。
「何があったんや!?」
「・・大した事じゃない。ちょっとした悪戯だ」
「火村!」
「・・・近所のガキが猫の死体を放り込んで、それをウリたちと勘違いして慌てたらしい」
 苦い顔と苦い声がそれを本当の事だと語っていた。
 でも、だけど・・・。
「何でそれを警察がわざわざ携帯に知らせてくるんや?」
「・・・・・・・」
 僅かな沈黙−−−−−−。
「何が・・起こっとる?君こそ何を隠してるんや?」
 傷付けられた子供の様にクシャリと顔を歪めながら、それでも真っ直な視線を向けて問いかけてくる有栖から火村はフイと瞳を逸らす。
「火村!」
「関係ない」
「・・・・・もしかして・・さっきの事件に関係あるんか?」
「−−−−−−−−−−!」
 有栖の脳裏に、テーブルの上に置かれていた新聞を見た時の火村の表情が甦った。
 あの時、確かに火村は『・・どういう事だ?』と言ったのだ。
 それは・・・。
「何が起こってるんや!?婆ちゃんにまで何かがあるような事なんか!?それは京都の事件だけなんか!?一体何に関わっとるんや、火村!!」
「・・・・・・っ・・!!」
 立て続けの問いかけに火村は胸の中で派手な舌打ちをした。
 そう・・・有栖は確かに、妙な所でひどく勘がいい。
「関係ねぇよ・・!」
「火村!!」
「とにかく、お前には関係ない。他人の事を心配しているヒマがあったら自分の心配でもしろ。無言電話の一つや二つ、撃退出来ねぇような奴に話をする気はねぇよ」
「・・・・・!」
 吐き捨てる様な火村の言葉に有栖の瞳が傷付いた色を浮かべてくやしげに伏せられる。
「しばらく片桐さんの所で厄介になってこい。いつでも場所を用意するって言ってたぞ。そこで書きだめでもして、たまには余裕の締め切りってヤツをプレゼントしてやったらどうだ?」
 正直、今の火村には有栖の方まで手を回す余裕がなかった。かと言ってこのままにしておける筈もない。それならば、不本意だが他人の力を借りるしかない。
 無言電話でも、何でも、理由はこの際何でもいいのだ。
 もし、万が一でも有栖にその手が伸ばされたら・・・。
「・・・・・っ・・!」
 瞬間、火村の中を、何かが掠めてチリリと焦がした。
(・・何・・だ・・?)
 胸の中に湧き上がる嫌悪感にも似た思い。
 が、しかし、そんな火村の動揺に気付かないまま、有栖はゆっくりと伏せていた瞳を上げて火村を睨みつけた。
「・・そんなに俺を遠ざけたいヤマなんか?」
「そんな事誰が言った?」
「言ってるのと同じや!ついて行くからな」
「・・・・およびじゃねぇよ」
「絶対に行く」
「迷惑だ」
「火村!」
「無言電話でおどかされている様な奴が来ても役に立たねぇ。邪魔したな。鍵を締め忘れるなよ」
 言いながら火村はクルリと背を向けた。
 それに一瞬遅れて聞こえてきた声。
「俺は!!・・俺はそんなに弱い人間なんか!?」
「・・・アリス?」
 思ってもみなかった言葉に振り返ると、傷付いて、それでも尚挑むような光をたたえた視線にぶつかった。
「・・・・俺は・・守られなきゃならんような、そんな頼りない人間なんか」
 その言葉はひどく的が外れているようで、けれどある意味で確かに火村の心を映した言葉だった。が、しかしそれを認めてしまう訳にはいかないのだ。
 今は・・・どうしても認められない。
「誰が守るなんて言った?都合良く取り違えるなよ。足でまといだ。来るな」
「火村!!」
 冷たく言い切った途端、クシャリと今にも泣き出しそうに歪んだ顔がたまらずに、火村は今度こそ踵を返して寝室を出るとコートを手に玄関に向かい、そのままバタンとドアを閉めた。
 シンと静まり返った廊下を照らす白っぽい明かり。
 冷えた空気が痛い。
「・・・・・・珀友社・・だったな・・」
 とにかく何と言われ様と、早々に有栖を引き渡してしまおう。
 エレベーターに向かって歩きながら火村はキャメルを取り出した。
 本当は、誰にも渡したくない。
 自分以外の誰かに任せられるような、そんな存在ではない。
 でも、今は−−−−−・・・
『申し訳ありません。夕食の買い物に出られた隙に投げ込まれたようで。張っていた奴は篠宮さんの方についておったものですから』
 子供瞞しの小細工をしてくれる、と火村は煙草のせいだけではない、口の中に広がる苦みに顔を顰めた。
 幸いにも投げ込まれた猫は飼い猫たちではなかった。
 そして、家主も今は落ち着きを取り戻していると鮫山は言っていた。
『外に何人か張らして、付近も見回りをしております。一応篠宮さんには森下をつけてありますので』
「・・・・・っ・・」
 小さく噛んだ唇。
 そう−−−−・・今は、手一杯だった。だから・・。
 すっかり暮れた街並み。
 車に入ったと同時に、銜えていたキャメルに火をつけて、火村はゆっくりと白い煙を吐き出した。
“俺は・・・守られなきゃならんような、そんな頼りない人間なんか”
 傷付いたような声が耳に残る。
 そんな風に思った事はない。
 そんな風に思う筈もない。
 ただ・・・。
 ただ、どうしても失う事の出来ない存在なのだ。
 この腕に抱いていても尚、確かにそこに存在しているのかを確かめなければいられない程に。
「・・・・変な所にだけ気が回るくせに、肝心な所は気が付かねぇんだよな・・」
 苦笑をにじませた言葉の向こうでユラユラと紫煙が立ち昇る。
 ようやくかけたエンジンに、伝わる振動。
「−−−−−−−!」
 そして、その次の瞬間、火村はなぜかふとそれを思い出した。
“いつからだ ”
“・・・・1ケ月位前”
 短い言葉のやりとり。
(・・・まさかな・・)
 ジワリと胸の中に嫌な予感が広がった。
 <1ケ月>という奇妙な符号。
 偶然と言ってしまえばそれまでの事に、先ほど感じた、わけの判らない、チリリと焼けるような痛みが甦る。
「・・・・・・っ・・・」
 もしも、そうならば−−−勿論、そうだと言うには何の根拠もないが−−−万が一にでもそうであったとすれば、犯人は確実に火村のウィークポイントをついてきている。
「・・・・させてたまるかよ・・」
 灰皿の中に短くなった煙草を押し込めて火村は低く唸る様に口にした。
 そう・・。あちら側に渡ってしまった人間にこれ以上好き勝手にさせるわけにはいかない。
「・・・・・っ・・」
 アクセルを踏んで火村はゆっくりと車を発進させた。
 何がどうであれ、とりあえず今は一度家に戻らなければならなかった。どういう形にしろ巻き込まれてしまった家主の顔を見て、安心させてやらなければならない。
 きっと彼女はこんな風に騒がせてしまった事を恐縮しているだろう。だから、とにかく無事で良かったと言ってやりたい。
 そして−−−−−・・・
「・・・・・・」
 窓の外、闇に包まれた景色が流れて行く。
 ハンドルを片手に新しいキャメルを取り出すと、火村はそれを器用に口に銜えた。
 そうして信号で止まるのを待っていたかの様に、そっと火をつける。
 再びユラリと上がった紫煙。
 その煙を見つめながら火村は先ほど止めた思考を復活させた。
 そして−−−−−・・・関係あろうが、なかろうが、有栖が時期を同じく無言電話をかけられている事を警察の耳に入れておこう。否、そうしなければならない。そんな気がした。
 パッと変わった信号に一斉に走り出す車たち。
 同じように車を走らせながら、火村の脳裏に有栖の今にも泣き出しそうな顔が甦った。
“火村!”
 胸の中で何かがくすぶって離れない。
 不安とも、予感とも、罪悪感とも呼べない何かが火村を捕らえて放さない。
「・・・・・・っ・・!」
 そんな顔をさせたいわけではなかったのだ。
 小さく舌打ちをしながら、誰にも聞こえない、らしくもない言い訳を胸の中で呟いて。
 火村は夜の街を、ひたすら愛車を走らせる。

 そうしてその夜−−−−−−−・・・
 火村は例の夢を見た。
 赤い、紅い・・・幾度繰り返したか判らない夢。
 人を殺す、夢。
 願望と絶望をない混ぜにしたその中でぬらぬらと赤く手を染めて、流れ出す真紅とむせかえる様な血の香りに酔う。けれどその次の瞬間、火村は血に濡れた己の指の間から見える真紅の海に横たわる白い顔を見つめて茫然とする。
 チガウ・・・!
 自分が手にかけたのは・・・。
 二度と瞳を開かないだろうその顔は−−−−−−−!!
「−−−−−−−−!!!」
 ビクリと震えて飛び起きた身体。
 ドクンドクンと早鐘のような鼓動に半瞬おくれて込み上げてくる苦い思い。
 暗い室内がまだ夜明け前だと告げていた。
 その中でガシャガシャと髪をかき回して、火村は深く深く息を吐く。
 最悪の目覚め。
 よりによって・・・という思いと、夢でもそんな事は許せないという気持ちが2度目の溜め息となって火村の口から零れた。
 その瞬間。
「−−−−−−−−−−!」
 鳴り響いた電話のベルに火村の眉が寄せられる。
 ジワリと胸の中に湧き上がる嫌な予感。
 取らない方がいい。
 そんな気すらして、けれど勿論そんな訳にもいかず、火村は受話機を取るとそっと耳に押し当てた。
「・・・はい、火村です」
『早朝から申し訳ありません』
 押し殺したような声は大阪府警の鮫山警部補のものだった。
 嫌な予感が広がり始める。
『・・・・・実は、昨夜有栖川さんのマンションでボヤ騒ぎがありました』
「−−−−−−−−−−!」
 予感が、確信に変わり始める。
『明らかに不審火でして、そちらは今、改めて調査をしております。エントランスに置かれとるゴミ箱からの出火です。ボヤ自体はゴミ箱と郵便受けの一部を焦がした程度で怪我人はありませんでした』
 声は事実を淡々と伝えていた。が、それだけの筈はない、と火村にはもう判っていた。
 鮫山はボヤ自体はと言った、他に、あるのだ。
 そう。それだけならば電話などかかってこない。
「・・・・・っ・・」
 何かがドロドロと火村の胸の中に溢れ出した。
 音もなく、どす黒い何かが胸の中を満たしてゆく。
「・・鮫山警部補」
 小さく名前を口にしただけの火村に鮫山は微かな溜め息を落とした。そして。
『・・3階と5階の廊下から発煙筒が見つかりました』
「・・・・・・・・」
『・・・・・有栖川さんの姿が、消えとるんです』
「−−−−−−−−−−−!!!」
 瞬間、浮かんできたのはいつもの穏やかな笑顔ではなかった。
 冷たい言葉に傷付けられて、泣き出しそうに歪められた顔が火村の脳裏に、いっそ鮮やかに甦る。
“火村!”
(−−−−−−−アリス!)
『夕べのうちに無言電話の件を聞いておきながら、みすみすこのような事になって申し訳ありません。今までの一連の事件と繋がる手がかりは今のところありませんが・・』
 声が、ひどく遠く聞こえた。
 頭の中にチカチカとフラッシュバックする、つい先ほどみたばかりの赤い、悪夢。
 血に濡れた手。
 むせかえる香り。
 真紅の海に横たわる・・・白い顔の・・・・有栖−−−−−−。
「・・・・・・・・・っ・!!」
『火村先生?』
「・・・すぐにそちらに向かいます」
 感情を押し殺した声でそう告げると、火村はガチャリと電話を切った。
 うっすらと夜が明け始める。
 冷たい部屋に白い息が落ちる。
“俺はそんなに弱い人間なんか!?”
 −−−−そんな風に。
“守られなきゃならんような、そんな頼りない人間なんか”
 −−−−そんな顔を。
「・・・・アリス・・」
 させるつもりはなかったのだ。
 長い、長い一日が始まろうとしていた。
“火村!”
 笑顔が思い出せない。どうしても、思い出せなくて。
「・・・・アリス・・!」
 引き吊る、どこか悲鳴のような火村のその声は、勿論、有栖に届く筈もなかった。


いよいよ・・・って感じです。拉致されるアリス。この離ればなれの救出劇って言うのが萌えるんですよね(;^^)ヘ..