誰ヨリモ君ヲ愛ス9

 奇妙な香りがする。
 頭の芯にねっとりと絡み付いてくるような、けれどどこか古びた不思議な香り。
“何や・・・?”
 どこかで嗅いだ事がある。
“・・どこやったっけ・・”
 気になり出すと、我慢が出来ない。
 答えを見つけるまでそれしか頭に入らなくなってしまうのはあまり役にも立たない有栖の特技の一つだ。もっとも、それがあったから今の職業についたとも言えるのだが・・・。
 カシャンと音がした。
「・・・・ん・・」
 意識が覚醒し始める。
 又、カシャンと硬い音がする。
 どこだっただろうか?
 この香りは何だったのだろうか?
 ・・・カシャン・・・
「・・ああ・・・信州や・・」
 ポツリと漏れ落ちた言葉に唐突に浮上した意識。
 パッと目を開けるとそこは闇の中だった。
(・・・どこや・・ここ・・?)
 新たに浮かんだ疑問。
(・・・・・・えっと・・・確か・・家に居ったんだよな)
 それなのに、この見覚えのない暗闇は何なのだろう?
「・・・・?・・・どこや・・」
 今度は口に出してそう言った途端有栖はようやくそれに気付いた。腕に嵌められた金属質の輪。
「・・・なんや・・これ・・・」
 先程からカシャカシャと音を立てていたのはこれだったのか。
 一生のうちでよもやこんな物を嵌める日がくるとは思わなかった。
 それにしてもなぜこんな物−−−手錠−−−を嵌められて見も知らぬ所で寝ていたのだろう?
 有栖の胸の中にジワジワと嫌な気持ちが押し寄せてきた。
 覚えがない。
 全く、覚えがないのだ。
 夕べ・・・・そう、夕べ、火村が突然訪ねてきた。
 そうして口論をして、火村は部屋から出て行ってしまった。
 その後自分は・・・・・。
「・・・・・新聞を広げ直したんや・・」
 火村が出て行ってしまった後、有栖は気になってもう一度、ラックに戻したばかりのそれ等を引っ張り出したのだ。先刻斜め読みした以外の新しいものは出ていなかった。
 けれどそれをもう一度読んで、有栖は感覚で火村に言った言葉を確信に変えた。
 火村は、何かを隠している。
 恐らく、有栖を近づけたくない何かを。
 それは事件に関係している。
 多分、火村はこの京都の事件に関わっているのだ。
 これは確信だ。そして。
(・・・・よぉ判らんけどあっちのも関係しとるんやろか)
 大阪で起こったバラバラで統一性のない殺人事件。
 もしかしたら火村はこちらにも関わっているのかもしれない。
 そうして・・・・それらに何かの−−−有栖の知らない−−−共通項があるのかもしれない。
(・・こっちはあくまでも推測やけどな)
 けれどなぜかそう考える方がすっきりとする気がした。
「・・・と・・こんな事考えとる場合やないわ。えーっと・・それから・・」
 考えているうちにドンドンとその内容が逸れて、何を考えていたのか忘れてしまう、というのも有栖の特技の一つだった。が、今回はギリギリで忘れてしまう事は避けられたらしい。もっともこの状況で忘れられる方がおかしいのだが。
「・・・・・んー・・」
 目が慣れてくると少しだけ回りの様子が見えてくる。
 さほど大きくもない部屋の壁に沿って作られている木枠の棚。クモの巣らしきものもある様でほとんど活用されていない空のそれは、それでもところどころに丸みを帯びた何かが乗せられているのが判る。生活をするスペースではない。棚が多すぎるのだ。
 物置・・納戸・・・
「・・せや・・火事や」
 唐突に思い出して有栖は声を上げた。
 そう、夕べ口惜しくて、悲しくて、けれど絶対にこのまま言いなりに等なってやるものかと新聞の記事を切り抜いてスクラップ等を作り始めてどれ位たった頃か、いきなり警報器が鳴り響いたのだ。
 はじめは悪戯かとも思った。けれど廊下に出ると階下の様子が尋常ではない。
 顔見知りの隣人が同じ様に部屋から出てきて「火事ですか?」と青い顔をして聞いてきたのを有栖は覚えていた。
「それで・・とりあえずサイフとコートを掴んで逃げたんや」
 自分にしてはよく気が回った行動だと思う。
 目の前で先に慌てられたり、青くなられるとどうやら人間は妙に落ち着くものらしい。が、その後がうまく思い出せない。非常階段を使った方がいいかもしれないと降りて行って・・・
“・・・?”
“有栖川さん? ”
“・・何やちょっと人の声が聞こえた気がして。真野さん先に行かれて下さい。様子を見て何もなければすぐに行きます”
“お一人では・・ ”
“この位の煙なら大丈夫です。真野さんも気を付けて ”
 遠くに聞こえ始めたサイレンの音。煙の中で誰かがうずくまっていて・・・そして−−−−・・・「・・・・どこやここは」
 振り出しに戻った疑問。
 どうやら自分は人助けに行って、そうして−−考えたくもないが−−誘拐をされてしまった、らしい。
「・・・最悪や・・」
 言いながら冷たい床から有栖はゆっくりと立ち上がった。
 何の進展もないのだが、何となく現在置かれている状況が判ってきて有栖は理不尽な怒りさえ感じて始めていた。誰が、何のためか、又は誰かと人違いをしたのか、マンションからここに、どういう手段を使ったのかは判らないが連れ去られたという事実は曲げようもない。
 おそらく、ボヤの騒ぎに紛れたのだろう。という事はボヤを起こしたのも同じ犯人なのだろうか。
 カシャリと腕で手錠が鳴った。
「うちに金目のもんはないで・・・」
 憮然とそう呟いて有栖は部屋の中を歩き始めた。幸い足には何の械もない。何歩か歩くとすぐに棚の前に着いた。そのまま今度はそれに沿う様に歩いて、先程正体の判らなかった変形の丸
い物の前で立ち止まる。
「・・・・樽か・・」
 小型の樽が木で組まれただけの棚にポツポツと置かれていた。
「・・・それで信州やと思うたんか・・」
 以前取材を兼ねて信州のワイナリーを訪ねた事があった。
 もう鼻が慣れてしまったのか先ほどのような匂いはほとんど感じられないがそういえば、その時の匂いに似ていた気がする。
(マンションからいきなりワインの貯蔵庫か・・)
 そう考えた瞬間ギィと古めかしい音を立てて光が入ってきた。
「お目覚めですか?有栖川有栖さん」
「−−−−−−−−!」
 どうやら、人違いという線は消えたらしい。
「誰や、あんた!何でこないな所にご招待下さったんや!?」
「とりあえず食事をしませんか?」
「ふざけるな!!」
 この状況で、手錠を嵌められたまま食事が出来る程には、有栖の神経は太くはなかった。
 それに小さく笑って、男は食事(どこかのコンビニの紙袋)を床の上に置くと、懐中電灯を持ったままどこからか古びた椅子を持ってきた。
「どうぞ」
「・・・・・・」
 僅かな沈黙。
 やがて有栖はドカリとそれに腰を下ろした。
 その手の上にバサリと袋が置かれる。
「何す・」
「今のところ私はあんたを殺すつもりはないんです。餓死したい言うならそれも又ええけど、あんたにはもう少し他にしていただきたい事がある」
「・・・・・人にものを頼む時は、もう少し場所と方法を考えた方がええと思うけど・・」
 睨みつけるような有栖の言葉に男は再びクスリと笑いを漏らし「中々楽しい人や」と言った。
 再び訪れた沈黙。
 その中で有栖は目の前の男を観察していた。
 年は壮年・・・40代後半から50代前半といったところだろうか。着ているものは厚地のブルゾン。ブランド等は有栖には判らなかったが、それ程高価な物にも、かと言ってひどい安物にも見えなかった。見た目で判断する事は出来ない、というのは良く判っているつもりだったが、それでも人を誘拐する様な人間には見えないと有栖は思った。
 ただ少し、疲れている。そんな風に見えた。
「・・・・さて、私が居ると食事が出来んようなので失礼します。又、明日来ます」
「!!冗談やない!理由は!?何でこんな目に合わなならんのか理由位説明したかてバチは当らんで!俺がどこかであんたの気に触るような事でもして、その腹いせや言うなら」
「あんたやありませんよ」
「え・・」
「聞こえませんでしたか?間接的には関わりがあるかもしれんけど、あんたに恨みはない」
「・・・・じゃあ、誰にある言うんや?」
 有栖の中に再び嫌な思いが湧き上がってきた。
「ああ、でもあんたにも少しは含むもんがあるかもしれんな」
「・・・どういう事や?」
「もう少し早めに精神的にダウンしてくれたらもっとあの男を苦しめる事が出来たかもしれんのに」
 言葉の最後はどこか独白めいていた。
「・・・・・・・・何を・・」
 ドクンドクンと鼓動が早まる。
「声は、よく存じ上げておりましたよ。有栖川さん」
「!!!あんた・・無言電話の・・!!じゃあ、あれは・・」
「親友やとお聞きしとりましたのでね。よく事件にもついて行かれるとか」
「火村に・・・火村が何をしたって言うんや!」
 そう。先程この男は“貴方に恨みはない”と言った。それならば恨んでいるその対象は一人しかいない。それ位は判る。
「それはあの男が気付くべき事だ。今頃きっと慌てている。いや後悔をしているか・・」
「ふざけるな!なんで俺が攫われて火村が後悔するんや!」
「大事なものが奪われたら、人間は奪った相手を憎み、そして自分を責めて、憎むんや。どういう状況であれ、守ってやれなかったとね」
「・・・・・・・・」
 瞬間、有栖の脳裏に、夕べ(多分、夕べの事だと思う)自分が思いついた感情のままに怒鳴った言葉が甦った。
『俺は、守られなきゃならんような弱い人間なんか!』
「人間は悲しいもんでね、失ってから気付く事が多い。そうしてそんな事が出来る筈もないのに、何度も何度も頭の中で反復するんや。もしも・・・もしも自分が居ったら。そこに自分が居ったら何かが変わっていたかもしれん。けど、実際には起きてしまった事など変わるわけがないし、そこに居ったとしても何も出来んかもしれへん。いや、きっと出来ん事の方が多い。でもそれでも思う・・・もしも・・とね・・」
 どこか遠い瞳になって譫言の様に“もしも・・”と仮定を繰り返す男を有栖は黙って見つめていた。
 それはまるで何かの呪文のようだと思った。
 繰り返される言葉はそのままゆっくりと有栖の胸の中に広がってゆく。
 “もしも・・”と火村も思っているのだろうか?
 そうしてこの男の言う様に自身を責めているのだろうか?
「・・・・・俺は・・」
 守るとか、守られるとか、有栖にはよく判らなかった。
 けれど今、“もしも 自分のせいで火村が苦しんでいるのだとしたら・・・・それはひどく悲しくて、切ない気がした。
「とにかく、あんたがどう考えているにしろ、あの男にとってあんたは特別な人間らしい。自分のせいで親友が生命の危機に立たされる。中々ええ話やと思いませんか?」
「三流の脚本や・・!」
 吐き捨てるような有栖の言葉に男は嗤う。
「何と言われようと今更後戻りは出来んのです。さて、余計な事まで話してしもうたな。そうや、せっかくやからあの男にちょっと趣向の変わった贈り物を用意させて貰いましょう」
「・・・・・・・・」
「今までのプレゼントはあまりお気に召して戴けなかったようやから。でもこれなら気に入って戴けるんやないかな」
 言いながら男は有栖の髪をひとすくい手に取った。
「何を!!」
「慌てなくてもええですよ。言うたでしょう?今のところ殺すつもりはないって。髪を・・少し。・・ああ、服のこの辺りを引き裂いて贈るいうのもえかもしれへんね」
「−−−−−−!」
 襟もとの辺に触れた指を有栖は不自由な手で反射的に払った。
 ガシャリと硬い音がする。
 それに一瞬遅れてニヤリと嗤う顔。
 上げられたそれは口の端に血がにじんでいた。
 どうやら手錠に当ってしまったらしい。
「・・・・血液でもついていた方が効果的や」
「・・な・・!」
 言うが早いか、有栖は座っていた椅子の足を思いきり蹴り飛ばされていた。
 ガタンッ!!と派手に転がる椅子と身体。
「人間いうんはいつ気が変わってもおかしくない生き物なんやで、有栖川さん。今すぐ死にたない思うんやったらもう少し大人しゅうしとった方がええ。まぁ、こんな目に合うてるのもあの男のせいや。あの男と友人だった事を後悔して、恨むならあの男を恨むんやな」
「・・ふざけるな!!自分のしとる事を他人のせいにするんやないわ!!俺がこんな目に合うてるんわ、お前のせいや!!」
「−−−−−−−っ!」
 床に転がったまま、今度は脇腹を蹴られて有栖は「うっ」と小さく呻き声を上げた。それに満足した様に男はゆっくりと膝を折ると、どこからかナイフを取り出して有栖の髪を一房切り落とす。
「・・・・どんな顔をするやろな・・」
「!!・・火村が・・あいつが何をしたって言うんや」
「・・・それはあいつ自身が気付く事や」
「逆恨み・・ってヤツか!?・・あいつは・・あいつは正しい事をしとるだけや!恨むのは筋違いってもんやで!」
 ジンジンと痛む身体。それでも何かを言い返したくて有栖は必死に顔を上げた。
「・・正しい・・ね・・法律っていうのは・・実に強い奴に便利に出来ている」
「・・・・・何・・」
「・・ああ・・ついでにこれも貰って行こう」
 そう言うと男はどこかの路上で配っていたようなポケットティッシュを取り出していつの間にか切れていた唇の血を拭った。
「今の警察の捜査は素晴らしい。これとこれで貴方だと簡単に判ってしまう」
 手に髪と血の付いたティッシュを持って男は再びニヤリと嗤った。そうしてそのままゆっくりと立ち上がる。
「又、明日来ますよ。その時もまだ抵抗するようならこちらも少し考えさせて貰う。とにかく生きていさえすればいいんやからな。指を1本切り落として・・そやなぁ・・しばらくしたら今度は足を一本。そうして順々に贈っていってもええ。なぁに、止血さえすれば死にはしませんよ。そうして最後に頭を贈る“バラバラ殺人”いうのも楽しいかもしれんしな。もっとも解体の手間はかかるけど。そういえば、あんたは推理小説家なんやろ?猟奇殺人みたいなものを書いた事があるんなら、それに似せてやってもええですよ」
「・・・・・・・・・」
「・・・ほんなら。今日はこれで。もう一度言うておきますが無駄な事はせん方がええです」
 現れた時と同じようにギィと重たげな音が響いた。ついで鍵をかける音が微かに聞こえる。
 戻ってきた静寂。
「・・・っつう・・思いきり蹴りやがって・・」
 つながれた両手を使って、有栖は冷たい床の上に身体を起こした。そこここに軋むような痛みが走る。ピリリと引き吊る唇。手で拭うと止まり切らなかった血が付く。
「・・・・っ・・」
 切り取られた髪と、ごく僅かだが、血を見て火村は何と思うだろうか。
 ズキリと胸が痛む。
「・・・・・こんなん大した事ない」
“指を1本。足を一本・・”
「・・冗談やないわ、アホんだら。トカゲやないんやから切ったら生えてきいへんのやで!?」
 とにかく考えなければいけないことが沢山ある、と有栖は思った。幸か不幸かその為の時間はあり余る程ある。
 そう・・・・・例えば・・
 彼は、誰なのか。
 今までのプレゼントとは何なのか。
 なぜ有栖を生かしているのか。
 何の復讐なのか。
 誰を守りたかったのか・・・。
「・・・・・いくら役に立たん助手でもここで死ぬ訳にはいかんよな」
 ポツリと落ちた声は、自分でも驚く程小さなものだった。
 それにブンブンと首を振って。
 床に落ちたコンビニの袋に近づいて。
「・・・いつでも逃げられる様にしとかなあかん」
 生きたまま解剖なんてまっぴら御免である。
「ほんまに悪趣味にも程があるわ」
 言いながら手にした袋。
 そうして有栖はその中からガサガサとパンの袋を取り出した。



拉致監禁・・・。うーん・・どんなもんでしょ?