Sweet  −−−Dear A  From H−−− 2

 すでに来慣れたマンション。エレベーターに乗り込み “7”のボタンを押すと、僅かな浮遊感を伴って四角い箱が動き出す。
 結局連絡の取れないまま夕陽丘まで来てしまった。これで呑気に寝ボケていたらただではおかない。
 怒りと不安をない混ぜにして、ポンと音をたてて止ま ったそこから降りると火村は真っ直に702号室へと向かった。そうしてためらいもなくインターフォンを押す。
 が、しかし、中は静まり返っていて扉が開かれる気配 はなかった。続けて押してみても妙に軽い音が響くだけである。
「・・・・・・何をしてやがるんだ」
 呟くようにそう言って火村は以前渡された合鍵を取り出した。
「ふざけるなよ・・」
 開いたドア。
「アリス!」
 名前を呼びながら靴を脱ぎ捨てるようにして火村はリビングに入って明かりを点けた。けれど照らし出されたそこには有栖の姿はない。漏れ落ちた舌打ち。
「アリス!居ないのか!?」
 そのまま今度はバンッと書斎のドア開け、ついで寝室のドアを開いたけれどやはり姿はない。
「・・・・・・」
 まさかまだ病院にいるのだろうか。船曳にもっと詳しく聞いておけばよかった。
 胸をよぎるらしくもない後悔にも似た思いに火村はガシャガシャを髪を掻き回すと、ドカリとソファに腰を落とした。
 とにかく捜査をしている人間の手を煩わせるわけにはいかない。もう少し待って様子を見て・・その前に下宿に連絡をとって・・
 取り出したキャメルの箱。その残りが少ない事も又腹が立つと言わんばかりに火村は何度目かの舌打ちを落とした。
 その途端−−−−−−。
「あれー!?俺、鍵開けっぱなしやったんか・・て・・誰か来とるんか?火村?」
「−−−−−−−−−!!」
「やっぱり火村や。どないしたんや?」
 入って来た変わらない顔。
 聞きたかった変わらない声。
「・・何をしてたんだ?」
「何って、今日約束してたっけ?あれ?・・」
 脳天気な答えに火村はソファから立ち上がると、近づいてきた身体を思いきり引き寄せた。
「ちょっ・火村!?何・おい!?」
 抱き寄せた身体は少しだけ痩せたかもしれない。それが気に入らないと、火村は抱き締めた腕に力を込める。
「火村!」
「うるさい」
「うるさいって・・そっちがいきなり・」
「・・ったく・・」
「・・火村?・・ちょっと・・ほんまに何なんや!?何かあったんか?おいって・・」
「・・・・蝉の気持ちが判るなら少しはこっちの気持ちも察しろよ」
「何言うて・・!・やぁ・っ・!ちょっと待っ・」
「待たない」
 スルリと引っ張り出せれたシャツの裾から滑り込んできた手に有栖は慌ててジタバタと動き出した。
「待たないって・火村!訳わからん事言う・・っん・」
「・・アリス」
 そうして次の瞬間耳もとで囁くようなその声に子供の様にクシャリと顔を歪める。
「・・や・・」
 何がなんだかさっぱり判らないが、こうなったら逃れる術がない事は今までの経験でよく判っていた。
「・ひむ・・ぁ・・アホー・・!」
 口惜し紛れの台詞が唇でかき消される。
 触れて、絡めて、離れて、又重なる唇。
「アリス・・」
「・・・・ん・っ・・あぁっ・・」
 いつの間にかソファに倒された身体。
「・・・アリス・・」
「・や・ぁ・・!」
 重なる温もりに息をついて・・。
 抱き締めてくる火村の背中に、有栖の腕が縋りつくように回されるまで、それ程長い時間はかからなかった。

********************

「それで蝉が何やて?」
 痛む身体に僅かに眉を潜めて、有栖はブランケットにくるまりながら、向かいのソファで煙草を吹かす男を睨みつけた。
 フワリと揺れる紫煙。
「ああ?」
「ごまかすんやない!君が言うたんやろ!?蝉がどうだとか・・一体何やねん!」
「今日、研究室の前で鳴いてたんだ」
「で?」
「それだけだ」
「!!あのなぁ!そんなん夏なんやからどこでだって鳴くわ!何で蝉が鳴いて、俺がこないな目に合わなあかんのかって聞いとるんや!」
 ガバリと起き上がった途端駆け抜けた痛み。それに顔を顰めて有栖はパタリとソファに逆戻りをした。
「それを見てこの前の会話を思い出した。それだけだ。で?有栖川先生は病院のお世話には?」
「何やいきなり。お陰さんで、この通り、誰かさんが無茶せんかったらすこぶる元気でした」
「・・・ほぉ」
「何や?何か言いたそうやな。大体、君今日何しに来たんや?」
 これをしにきたと言ったら殴ってやるというような有栖に、火村は短く鳴ったキャメルを灰皿に押しつけてゆっくりと白い煙を吐き出した。
「今日、フィールドの誘いがあったんだ」
「・・?・・」
「電話をしたが居なかった」
 その瞬間、あっとしたように顔になった有栖に火村は言葉を続ける。
「船曳警部からの伝言だ。お身体に気を付けて下さい。何の事だか判るか?」
「!!あ・・あの!ちゃうねん!」
「何が?」
 痛みを堪えるようにゆっくりと身体を起こす有栖を火村はただ黙って見つめていた。
「・・・・・性格悪いでほんま。それやったら聞いたんやろ?確かに病院に行った。行ったけど、俺が行ったんやないで?」
「・・・アリス、日本語を喋れよ」
 火村の言葉に有栖は僅かに眉を寄せて再び口を開く。
「ああ・・えっと・・・薬を貰いに行ったんや。俺のとちゃうで。・・・あのなぁ・・今朝ついに食うものがなくなったんや・・」
 何の脈絡もない言葉。けれど、ひどくバツが悪そうに喋り始めた有栖を見つめながら火村は最後になったキャメルを取り出した。“急がば回れ”の諺通り多少ずれた所から始まってもいつかは本題にたどりつく筈である。
「それで・・朝って言うても限りなく昼に近い時間でな外に出たらメチャクチャ暑くて・・・・」

 以下、有栖の話はこうである。 外に出たはいいがとても店まで辿り着ける自信がない。食料調達はもう少し気温の下がる、又はせめて日差しのない夜まで待って、今は出前で済ませてしまおう。
 フラフラと今しがた降りたばかりのエレベーターの前まで戻り、真面目にクーラー病もやばいのではないかと思っていたその矢先、有栖は見事に同じマンションの住人とぶつかった。前方不注意の彼女が悪いのか、それとも暑さでいつにも増して注意力が散漫でふらついていた有栖が悪いのか火村には判断がつかない。
 とにもかくにも、彼女−−−ちなみに火村の下宿の家主よりも若干若いらしい−−−にとっても、有栖にとっても運の悪かった事には変わりなく、どうやら足を痛めてしまったらしい彼女の代わりに、有栖は彼女が向かう予定だった病院に彼女の薬を取りに行ったというわけである。

「・・・せやから、ほんまに俺が病気だったわけやないんや」
 いいわけがましいその言葉に火村は最後のキャメルを灰皿に押しつけると微かに瞳を眇めた。
「それだけじゃないだろ?」
「・・・・う・・」
「どうせ行った病院で病人に間違えられて診察を受けさせられていたってオチもついているんじゃないのか?」
 沈黙が真実を語る事もある。僅かな間をおいて、部屋の中に響いた大きな溜め息。
「ロクなものを食べずに、クーラーの中で過ごしているからそういう事になるんだ。全く。それで?診断の結果は?」
「・・・・軽い暑気あたり」
「・・・夕飯は?」
「・・食った」
「どこで?」
「診察受けさせられて遅くなって・・貰った薬を届に行ったら、食べて行けって御馳走になったんや。ぼんやりしとったのはお互いさまやから、取りに行って貰った礼やて」
「・・・・・・」
 聞こえてきた派手な溜め息。
 そうして訪れた沈黙に有栖は居心地悪げに口を開いた。
「・・火村?」
「・・・・・・」
「怒ってるんか?」
「・・・別に」
「えっと・・・もしかして心配してくれたんか?」
「・・・・・」
「よぉ分からんけど、警部から俺が病院行った事聞いたんやろ?それで心配して来てくれたんか?」
 覗き込んでくる眼差しに火村は胸の中でクスリと限りなく苦笑に近い笑みを落とした。
 実際は“心配”などという、えらく簡単な言葉で括ってしまえるものなのかも知れないが、今日半日の苛立ちと不安感はちょっとやそっとじゃ語れない。
 勿論火村はそれを有栖に語るつもりもなかったが。
「火村・・?」

 
−−−−−Dear・・・大切な貴方へ

 
「さてね・・・蝉の気持ちを理解出来る作家の自己管理能力を確かめてみたい気持ちはあったかもしれないな」
「何やそれ・・しつこいで。蝉は確かに一週間鳴いて死んでまうけど、あの暑さの中鳴ける力があるんやで。それは十分尊敬出来るやないか。って・・ああ、又話が・・大体君が素直やないからこうなるんや。心配やったら心配やったって言えばええやん。そしたら」
「そしたら?」
 途切れた有栖の言葉を火村はゆっくりと繰り返した。
 重なる視線。
 そして次の瞬間、火村はニヤリと笑って口を開いた。
「ベッドでもう1ラウンド付き合ってもいいって?」
「ア・・アホ!!どうして君は・・!!」
「素直だろう?」
「やかましいわ!!」

 
−−−−−From・・・・心を込めて

 
 真っ赤になって怒鳴る有栖に、火村は手元に置いてあったキャメルの箱を引き寄せた。けれどすぐにそれが空だった事を思い出し、ポイとテーブルの上に放り投げる。
 そう、半日振り回されたのだ。これ位の仕返しは可愛いものだ。
「あのなぁ!聞いとるんか!」
「聞いてるさ。ちゃんとね」
 言いながら掠めるような口付け一つ。
「−−−−−−−!」
「暑気払いは食事と適度な運動だ。食事は済んでいるらしいから、後者の方をご協力しますよ。先生」
 そうして鮮やかな笑みを浮かべながら、火村は言葉を失った恋人をブランケットごと抱き締めたのだった。

********************
 
 
 その翌日、上機嫌の助教授のかたわらで何故か疲れ切った有栖は今更のように留守電のランプが点滅している
事に気が付いた。
 再生のボタンを押した途端流れてきた「馬鹿野郎」という言葉に、ブランチを目の前に始まった“犬も食わない”言い合いがあった事を追記しておこう。

Fin
 



おまけ話をようやくアップしました。これは火村サイドでしたが、おまけはアリス。アリスも色々考えているのよ(笑)     Go→