Sweet  −−−Dear A  From H−−−

 蝉がうるさい。
窓を閉め切っていても突き抜けて聞こえてくる声。
 御所の目の前という環境からか、キャンパスの中に緑は必要という概念からか、はたまた歴史のある場所だからなのか、構内には落葉樹を中心に沢山の木が真っ青に晴れ渡る空に向かって緑を茂らせていた。
 春は桜、秋は銀杏。別に花や葉を取り立てて愛でる趣味はないが、綺麗なものは綺麗であると感じる気持ちは一応持ち合わせている・・・つもりである。
 そうしてこの夏の季節、青々とした葉と共に、まさに“時雨”という言葉がピッタリとくる勢いで蝉たちが大合唱を披露してくれるこの光景は日常と言えばまさに日常の事で、特別変わった事ではないのだが・・。
 何もよりによって研究室の目の前の木に止まって鳴かなくてもいいだろうとひどく大人気ない事を考えて、英都大学社会学部助教授の火村英生は、読んでいた本から顔を上げて視線を窓の外に移すと、次の瞬間眉間に思いきり皴を寄せた。
 “釜の底 と有り難くもない修飾語をいただく京都の夏。研究室の窓から見る外の風景はかげろうがたっているように見える。
 ただでさえ暑い夏にこの声を聞くと不快指数が一気に20はレベルアップする等と言ったのは大阪在住の某推理小説作家だった。
 そんな事を思い出して火村は再び苦い表情を浮かべながら胸ポケットの中からキャメルを取り出して火を点けた。
 そう・・・・。それは10日ほど前の事。
 ビールを飲みながらの会話の内容はなぜか“蝉”だった−−−−−−・・。
 
 
 
 
 
“せやけどな、こいつは7年間も土の中に居って、地上に出てたった一週間しか生きられへんのやなぁて思うと少しは怒りが薄れる気がするんや 
 風呂上がりにビールを煽って、大阪在住の推理小説作家−−−−有栖川有栖はそう言った。
 何の話をしていたのかよくは思い出せないのだが、ふと聞こえてきた蝉の声に、夜だというのによく鳴くと言った火村の言葉を有栖が話題に取り上げたのだ。
 そうして会話(一方的に有栖が喋っていたのだが)は逸れに逸れて、もはや修正不可能の域に到達する。
“7年間やで?7年。人間で言うたら生まれて小学校に入るまでの時間や。それで鳴けるのは7日間。好きなだけ鳴かしたろうって気にもなるやんなぁ”
 しみじみとしたその言葉に火村は半ば呆れながらこう答えた。
“凝縮された一生だよな”
“!あのなぁ!俺はそういう事を言ってるんやない!”
“怒るなよ。でもアリス、確かに蝉として鳴くのは一週間だけど、7年と7日間の寿命があるってぇのは虫としたら長寿の部類に入るんじゃないか?”
“せやからそういう事やなくて、やっと地上に出てきた蝉の気持ちを少しは理解して・・”
 どこからそんな話になったのか、火村はすでに考えるのも嫌になっていた。大体なぜビールを飲みながら蝉の気持ちを理解しなければならないのか。
“生憎、どこかの推理小説家と違って昆虫の気持ちまでは理解出来ないんでね。もっともクーラー病一歩手前の誰かさんに蝉の気持ちを語って欲しくはない気もするけどな” 
“やかましい!熱射病よりクーラー病の方がマシ・・てそうやなくて!ほんまにどないしたらそないひねくれた考え方が出来るのかいっぺん君の頭の中を覗いてみたいわ!!” 
“俺はお前の思考回路の方がよっぽど不思議だ” 
“俺のどこかおかしい言うねん!”−−−−−・・
 
 
 
 
 
 ジジッ・・と短い音を立てて鳴き声が唐突に止んだ。どうやら気が済んで飛び立ったらしい。
 もう一度窓の外を見つめながら火村は短くなってキャメルをすでに満杯状態の灰皿に押しつけた。
 結局久しぶりに会ったというのにアリスの機嫌を損ねてしまい、その夜火村はお馴染みのソファで眠る事になった。それ以来何がどうというわけではないが、連絡をとっていない。
 もっとも火村にとってはそんな有栖とのやりとりは日常茶飯事といえば日常茶飯事で、それで行きにくいとか連絡を取り辛いとかそういう事はない。大体これ位でそんな事を思っていたら『有栖川有栖』の友人、もとい恋人などやってはいられないのだ。
「・・・・蝉ねぇ・・」
 遠くに聞こえるその声に火村はらしくもなく、一つ溜め息をついた。久しぶりに会った有栖は−−−といっても半月ぶり位だったのだが−−−夏という季節をプラスしてしまえば、本当に病気かと思うほど青白い顔をしていた。いくら外に出ないといっても程がある。
だからつい余計な一言が口をついて出てしまったのだ。
「クーラー病も熱射病も夏に起こりやすい病気には変わりがねぇんだよ。蝉の気持ちになる前にてめぇの心配をしろ、バカ」
 脳裏に浮かぶ脳天気な顔に火村は思わず毒づいた。
 確か・・有栖は次にエッセイの仕事が入っていると言っていた。だから、きっと又、クーラーをガンガン効かせた中で一日中過ごしているに違いない。
「・・・・今夜あたり訪ねてみるか」
 二度目の溜め息とともに零れ落ちた言葉。
 生活能力の乏しい恋人を持つと苦労が絶えない。そんな、有栖が聞いたら再び機嫌を損ねてしまいそうな事を考えて限りなく苦笑に近い笑みを零して、新たなキャメルを取り出して・・・。
「・・・・っ・」
 そうして次の瞬間、鳴り出した電話に僅かに眉を寄せた火村は、その数瞬後受話機を叩き付けるようにして電話を切ると、先ほどのそれよりも更に眉間の皴を深く深くして大きな溜め息をついた。
「あの・・馬鹿・・!」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「何をしているんだ、あいつは」
 何度電話を鳴らしても留守電になっていて家主が出る気配がない。
 携帯電話は電源が切られているか、電波の届かない所にというお得意の台詞を繰り返すだけだった。
 午後かかってきた電話は大阪府警の船曳警部からのものだった。久しぶりのフィールドワークへの誘い。勿論講義も急ぎの仕事もない今、それを断る理由はない。何より自分は今晩大阪に行く予定を立てていた所だったのだ。
 二つ返事でOKをした火村に船曳警部は「それではお待ちしています」という台詞の後にとんでもない情報をもたらしてくれた。
『本当なら有栖川さんもご一緒にと言いたいところなんですけどねぇ』
 それは一体どういう事かなのかと尋ねると警部はひどく意外そうな声を出した。そして。
『先生はご存じありませんでしたか。うちの班の者が現場に向かう途中で、病院に入る有栖川さんを見かけたと言っていたものですから。何やえらい顔色やったと聞いたもんで。相当具合が悪いのかと思うたんです。でもまぁ、先生のところに連絡が入っているわけでもなく、自分で動けるうちに病院に行かれたんやったらそんなに心配することもないですかな』
 船曳の言葉に「夏風邪はバカがひくと言いますからそんな所でしょう」と答えながら火村はイライラとした気持ちが胸の中から湧き上がってくるのを感じていた。
 とりあえず電話を切って、そのまま有栖のマンションにかけたが留守らしく、その後も現場に行く間の愛車の中と電車の中で何度か連絡をとったのだが結局つながらず現在に至っているのである。
「火村先生!有りました!!」
「では、その線で捜査を進めて戴けますか?」
「判りました」
 招かれたフィールドワークは自殺を偽装した殺人現場だった。が、やりすぎは返って逆効果になる事もある。
“密室”というどこかの作家が好きそうなシチュエーションの中、ポロポロと零れ落ちていた手がかりを火村は細かく、一つづつ拾っていった。そうしてそれを改めて組み立ててみると完璧な空間はひどく不自然な空間に様変わりしてしまったのだ。
 船曳警部の言葉で、再度交友関係の洗いだしが始まった。その様子を横目で見ながら火村は小さく舌打ちをする。何度かけてもつながらない電話。苛立ちはそのまま『不安』の文字へと傾いてゆく。
「先生、とりあえず今日のところはこれで、又改めて容疑者が揃いましたらお力を貸して戴けますか?」
「判りました。それでは」
 トレードマークの太鼓腹を揺らして頭を下げた警部に火村も又小さく頭を下げた。
 いつの間にか藍色に染まり始めた空。
 夏だ残暑だと騒いでいても、立秋を越えれば季節は確実に秋へと向かって動き出す。
「お送りしますよ、えーっと・・ここからやと」
「いえ、このまま駅まで歩きます」
「せやけど、この近く言うたら千林ですか・・せめて京橋あたりまで。車は大学の方ですか?」
「京都駅に止めてあります。が、千林大宮の方に出るつもりなので」
 火村の言葉に船曳は一瞬だけ考えて、次に判ったと言うようにうなづいた。千林は京阪本線の駅で、千林大宮は谷町線の駅である。
「作家の干物なんて代物は見たくありませんからね」
 キャメルを取り出しながらニヤリと笑った火村の言葉に船曳はもっともだという様にもう一度うなづいて口を開いた。
「お身体に気を付けて下さいとお伝え下さい」
「判りました」
 言いながらお互いにペコリと会釈をして、火村はクルリと踵を返した。柔らかな光で道を照らし始める街灯。
 歩きながらもう一度リダイヤルボタンを押すと電子音に続いて僅かな沈黙が流れた。そして。
<お電話ありがとうございました。有栖川です。ただいま留守にしております。発信音の後にお名前と、ご用件をお話下さい>
 聞こえてくる、今日何度聞いたか判らないとりすましたような有栖の声。それに思わず「馬鹿野郎」と唸るように呟いて、手にしたキャメルを銜えて火を点けると火村は歩調を早めた。