Gloria 【グローリア】
     キリスト教の神の栄光。 又それを賛える歌。
     賛歌.頌栄歌.アリア。  後光。光輪。

 
 
 
 
 
 
 
 
-----------------------彼は、神を信じない男だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「?」
 焦燥と、絶望と、不安と、疲労・・・・
 そしてほんの少しだけの期待と罪悪感。
 その言葉を告げた時、彼は一瞬だけ驚いた様に瞳を見開いた。
 ドクンドクンとガラにもなく鼓動が早まる。
 もう疲れてしまったのだ・・。
 自分の中で繰り返す言い訳。
 やがて、見慣れた筈の瞳が見慣れぬ色を浮かべてゆっくりと閉じた。
「ええよ・・・」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 確かにその瞬間、自分は歓喜したのだ。
 もう戻る事は出来ない、あまりにも甘美で、あまりにも
破滅的な罪を犯すのだと知りながら・・。
 
 
 
 
 
 
 


Gloria 1


 
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 昼下がりのキャンパス。
 といっても、窓の外はポカポカ陽気とはかけはなれた冬特有の白っぽい空が広がっている。
 すっかり葉の落ちた木々との見るからに寒々しいコントラスト。
 1週間後に控えた学会の資料を机の上に広げたまま、英都大学社会学部助教授の火村英生はコーヒーをいれるべくゆっくりと立ち上がった。
「・・・・・・・・」
 その瞬間ふと思い出した人懐こい友人の笑顔。
「・・・そういえばこの頃連絡してねぇな・・」
 電話で話をしたのが1週間以上前。
 会ったのはさらにその前の事だ。
 学生時代から十数年の付き合いになる友人有栖川
有栖はその珍奇な名前と同様に不思議な魅力を持った男だった。
 一緒に居るとなぜかひどく安心できる。
 推理小説作家という職業も彼のそういった性格に更に拍車をかけているのだろう。
 一緒に居て飽きない、疲れない、そしていつの間にか彼をからかいながら楽しんでいる子供のような自分・・・。
 そこまで考えて火村はクスリと苦笑に似た笑いを零した。
「・・・・・学会が終わったら顔を出すか」
 先日の電話では確か小さなエッセイの仕事を抱えていると言っていた。だがあの分では取りかかりをズルズルと延ばしていて多分、恐らく、今頃泡を食ってやっているに違いない。
 それでもいくら何でもあと1週間あれば流石にそれも片付いているだろう。
 そう考えながら火村は程好いぬるさになったそれをコクリと一口口に入れた。その途端鳴り出した電話。
 打ち切られた思いに反射的にチッと小さく舌打ちをして、火村は受話機に手を伸ばす。机の上からバサリと何かの資料が滑り落ちた。同時に2度目の舌打ち。
「・・はい、火村です」
『あ、俺や。元気か?先生』
「・・・・・・・」
 あまりにもタイミング良く聞こえてきたその声に火村は一瞬声を失ってしまった。もしかしたらこれは都合の良すぎる白昼夢というヤツなのではないだろうか?
 けれどそんな火村の考えを知る筈もなく電話の向こうで友人は訝しげな声を出している。
『火村?どないしたんや?おーい!』
「・・・聞こえてる。あいにくまだ耳は遠くないんでね」
『なんや。いきなり黙るから急性の失語症かと思うたで』
 言いながらケラケラと笑い出した有栖に火村は小さく眉間に皴を寄せながら片手で器用にキャメルを取り出し口に銜えた。
「・・アリス。用事じゃねぇのか?」
『ああ、そうやった。いや、用事って程のもんやないんやけどな。ちょっと旅行に出かけるから一応知らせておこう思うて』
「旅行?」
 銜えたそれにカチリと火をつけてゆっくりと煙を吐き出す。
『今度の長編の取材と骨休め』
「てめぇはいつだって骨休めしてるじゃねぇか」
『何やと!?俺は日々真面目に文筆活動という立派な仕事をしとるで!』
「あーはいはい、そうですか」
『あのなぁ・・・。まぁええわ。今度はな湯布院の方に行くんや。もっとも用があるのはそのもっと山奥の方なんやけどな。でも近くまで行くんやし湯布院にも一泊しよう思うてんねん。来るか?』
「ばーか。それ程暇じゃねぇよ」
 苦笑を浮かべつつ火村は「一泊くらいでそんな所に行ってられるか」と言葉を繋ぐ。
『そうだよなぁ。あ、なら俺が下見しといてやるわ。もう少し先には別府もあるし。今回はそこまで行かんけど、今度ゆっくり行こう。な?』
「ああ、期待してるよ。ところでお前、この前のエッセイとやらは終わったのか?」
 短くなった煙草を灰皿に押しつけて火村はふと思い出した様にそう口にした。
『言うたやろ?俺は日々真面目に文筆活動をしとるって。締め切り前に終わらして送ったわ』
「・・へぇ・・そりゃ・・槍でも降るんじゃねぇか?」
 言いながら何かが火村の胸の中を通り過ぎた。
(・・・何だ・?)
『ほんまに口の悪い男やな』
 けれどそれは一瞬の事で耳には少しだけムッとしている様な有栖の言葉が流れ込んでくる。
「・・・・そうか?まぁ、頑張って取材して骨休めしてこいよ先生」
『・・・素直に受け取れん言葉や』
「俺は心の底からそう思って口にしているぜ」
『・・もうええわ。侘しく凍える京都で働く先生にも土産を買うてきてやるから感謝しろよ。せや、帰ってきたら会えるか?』
「いつ帰って来る気だよ」
 銜えた2本目のキャメル。
『明日から1週間行くから8日後か?』
「いいぜ。丁度学会も終わるしな。お前のマンションに行ってやるよ」
 けれど火をつけた途端何故かムカムカとするような味が口の中に広がって火村はほとんど吸っていないそれを一杯になりつつある灰皿にギュッと押しつけた。
『ああ・・・でも、婆ちゃんにも土産買うてくるから翌日俺がそっちに行くわ』
「判った。じゃあ、9日後に」
『うん。それじゃ、先生仕事中すまなかったな』
 切れかかった電話。
 いつもと変わりない言葉のやりとり。
 けれど・・・。
「アリス」
『・・?何や?』
「旅行は・・」
 止めに出来ないのか?なぜかそんな事を口にしそうになった自分に気付いて火村は慌てて口を閉じた。
『火村?何や?』
「いや・・旅行はお前の“青い鳥”で行くのか?」
『?・・いや、確かに不便なとこなんやけど鉄道物も考えとるし電車とバスと、不本意やけど飛行機を使う予定や。それがどうかしたんか?』
 不思議そうな有栖の声に眉間の皴を深くして。
「・・何となく・・・・そんな遠出をさせたらかわいそうだと思ってよ」
『いらん世話や!アホ!』
「・・・・・怒るなよ。気を付けて行ってこいよ」
『・・何や君、今日はおかしいで。疲れとるんか?』
「いや、誰かさんが優雅に骨休め出来るんで羨ましくなっただけです」
『そりゃどうもすみませんでした。じゃあもう切ります』
「冗談だ」
『そんなん今更言われんでも判ってるわ。ほんまに疲れとるんやないか?マジで今度は一緒に行こうな』
「ああ・・そうだな」
 「じゃあ」という短い言葉を残して切られた電話。
 受話機を戻して放り投げてあったキャメルに手を伸ばしながら火村は胸の中にジワジワと広がってゆく何かに思わず小さく舌打ちをした。
「一体なんだってぇんだ・・?」
 苛立ちにも似た気持ちそのままに低く漏れ落ちた声。
 丁度連絡をとろうと思っていたところにかかってきた電話だった。予想とは外れた部分もあったがそれでもほぼ予定通りに会う約束もした。
 それだと言うのにこの胸クソの悪さは何なのか!?
「・・・チッ・・!」
 わけの判らなさに火村はガシャガシャと若白髪混じりの髪をかき回す。
 大体・・・そう、大体何だってあんな事を聞いたのか。
 それも自分の中にひっかかっているのだと火村は思う。
“お前の青い鳥で行くのか?” 
 それが何だと言うのだ。いくら出かかった言葉を止めたとはいえ、なぜ代わりにそんな事を尋ねたのか。
「・・・あいつの乗る飛行機でも落ちるって言うのか?」
 苦笑混じりのその言葉は、口にした途端ひどく不吉で、けれどあまりにも馬鹿馬鹿しいものに思えた。
 一体何を根拠に自分はそんな事を思うのか。
「あいつが珍しく予定より早く仕事をしやがるから・・!」
 落ち着く先は一つしかないという様に無理やりそう結論づけて火村は再びキャメルの箱に手を伸ばした。
 とにかく、有栖には有栖の、自分には自分の予定がある。
 9日後に相変わらずの顔を見ながらお前が例にないような事をするから調子が狂ったと毒づいてやればいい。
「・・・・・まぁ、飛行機が落ちない事を祈っててやるよ」
 カチリとライターの火が点る。ジワリとにじむ赤い光。
 吐き出した白い煙がゆらゆらと昇ってゆくのを目で追いながら火村は面白くもないという様に先刻机の上から落ちたノートをゆっくりと拾い上げた。
 そうして8日間・・・・。
 確かに飛行機は落ちなかった。
 けれど約束の9日目。
 有栖はついに火村の元に現れなかった。


初めて書いた作家編の長編。この頃はまだ50ページ程度でも私にとっては長編だった。
そして、アリスの記憶喪失ネタです。この話は本当に多くの方に気に入っていただいて、沢山の出会いを私にくれました。
そういった思い入れのある話です。