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Gloria 2

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「・・あのクソ馬鹿野郎・・!」
 低く唸りを上げるようにそう口にして火村は空港のロビーを大股で歩いて行く。  全身から発するオーラが見えるかの様にモーゼの十戒よろしく左右に分かれる人の波。
 それを気にする事なく恐ろしい形相のままタクシー乗り場に向かい、僅かな待ち時間でそれに乗り込むと火村は先刻聞いたばかりのその場所を忌々しげに口にした。
 走り出す車。
 流れる様に過ぎて行く風景。
 有栖もこの風景を見たのだろうか?
 脳裏に浮かんだ人懐こい笑顔に思わず舌打ちをして胸の中でもう一度「馬鹿野郎」と呟く。
 火村がその【知らせ】を受けたのは今朝。
 有栖との約束の日から5日後、最後のあの電話から14日目の事だった。
 1日2日の事ならば飛行機に乗り遅れたのか取材が思いの他ノッてズルズルと伸びているのか。それにしても連絡もなしに約束を反故するような人間ではないのだが・・と
思おうとすれば思えた。
 けれど3日が過ぎると火村の苛立ちは加速度的に募っていった。
 電話をしても勿論留守電になっている。
 携帯電話も繋がらない。
 一体どこで何をしているのか。何があったのか。
 4日が過ぎ、5日目の朝。
 鳴り響いた電話に不機嫌を隠し切れないまま、火村は受話機を取った。これがもしも約束の日から5日も音沙汰のない有栖からのものだったら怒鳴りつけてやる。
 そう考えて「火村です」と告げた途端耳に流れ込んできたのは思いもかけない人物の不安げな声だった。
『朝早くから申し訳わけありません。珀友社の片桐です』
 瞬間火村の脳裏に人の好い男の顔が浮かんだ。
『あの・・・有栖川先生から旅行に行かれるという事をお聞きになっていらっしゃるでしょうか?』
 おかしな事を言うと火村は思った。
 確か有栖は次の長編の取材旅行と言っていた筈なのだ。
 それがなぜ有栖の編集者である彼が知らないのだろう?
「ええ。2週間程前に骨休めを兼ねて湯布院の方に行くと言っていましたが?」
 それが何かという言葉を暗に繋げた火村の言葉に片桐は「湯布院!?」と驚いた様な、やっぱりというようなどこか不思議で不吉な響きを持った言葉を口にした。
 胸の中にじわりと湧き上がる得体のしれない思い。それを押し殺して火村はキャメルに手を伸ばしながら殊更ゆっくりと口を開いた。
「・・どういう事なんですか?あいつは取材と言っていましたけれどご存じではなかったんですか?」
『え・ええ。実はその取材は他社のものらしくて・・いえそんな事はどうでもいいんです。あの、新聞はご覧になっていますか?』
「ええ、目は通してますが。飛行機事故も列車事故もなかったようですよ、向こうの方では」
 ブラックめいたジョークにけれど返ってきた言葉はそれを叱りつけるものでも、肯定するものでもなかった。 『バスの事故です』
「!」
 瞬間、クラリと視界が歪んで暗くなる。
『とにかく状況がよく判らなくて、とりあえず今空港に来ているんです。私の所に連絡が入ったのが1時間程前の事で・・』
 半ば混乱状態の片桐の話をまとめるとこういう事だった。
 九重の更に奥。有名なやまなみハイウェイから少し逸れた山合いで小さな崩落があった。前方を走っていた乗用車がそれに飲み込まれたのを見て、乗り合いバスの運転手は慌ててハンドルを切った。けれどバスは横転する。
 幸い死者は出なかったものの乗用車の運転手は重傷。
 バスに乗っていた数少ない乗客は病院に収容されたが命に別状はない。
『たまたま収賄の大きな事件があった事と死者の出なかった事であまり大きくは取り扱われなかったんです』
「・・・で、その数少ない乗客の中にあいつが居たんですね」
『らしいです』
「らしい、というのは?」
『それが・・・』
 片桐の説明は一向に要領を得ない。
「バスの乗客は命に別状はない。無事に生きているあの馬鹿から連絡があったんじゃないんですか?」
 なぜ自分の所に連絡を寄越さないのだという思いを無理やり押し込めて火村は短くなった煙草をギュッと灰皿に押しつけた
『それが命に別状はないんですが、意識が戻らないらしくて』
「・・・・・・」
『事故は1週間も前の事なんです。それなのにこんなに連絡が遅れたのはそのせいで。たまたま一緒に乗っていた方が前日有栖川さんと同じ宿に泊まっていらして、そこから宿屋の名簿で確かめてご自宅に連絡をしたそうなんですけど有栖川さんは独り暮らしですし。それで、これも偶然なんですが収容された病院の看護婦さんが有栖川さんの読者の方で今朝一番で出版社を通して私に連絡が入ったんです。急いで空港に来たんですがとりあえず火村先生にご連絡をと思い立ちまして・・』
 長い長い片桐の説明に火村は空になったキャメルの箱をグシャリと握り締めた。
「・・作家もやっていると思わぬ所で利点がありますね。もっとももっと売れていればもっと早く判ったと思いますが」
『・・火村先生?・あの・・搭乗手続きが始まりましたので』
「ああ、すみません。で、どこですか?」
『・・え・?』
「あの馬鹿がグーグー眠り転けてる病院を教えて下さい。私もすぐに向かいます。行って叩き起こして連れて帰りましょう」
『あ、はい!』
 どこかホッとしたような片桐がやや早口に告げた連絡先をサラサラとメモ書きして火村はまさに“風のように”行動を起こした。大学に休講届を出し、大分までの飛行機を手配し、パッパと荷物をまとめると大家に猫たちの世話を頼んで家を出る。
 伊丹まで車を走らせ、飛行機で約1時間。だがそこからがまた長い。湯布院の更に先の山合いでの事故だったが命の別状がなく、けれど大きな病院での検査が必要ありと判断されて別府市内の病院まで搬送されていたのが不幸中の幸いというところだろうか。
“なら俺が下見しといてやるわ・・” 
 あの電話での有栖の言葉が思い出される。
 表示場に表れた『別府』の文字。
「・・別府までは行かない予定じゃなかったのかよ・・!」
 思わず低く唸る様に声を漏らした火村に、タクシーの運転手はチラリとミラー越しに視線を投げてそのまま見て見ぬ振りを決め込んだ。眼下に広がり始めた街のそこここから無数に立ち上る白い煙。日本屈指の温泉街。
 〈地獄巡り〉でも有名なこの地を観光とはかけ離れたこんな事で訪れるとは思わなかった。
“侘しく凍える京都で働く先生にも土産を買うてきてやるから感謝しろよ” 
(とんだ土産だぜ、アリス・・)
 胸の中でそう呟いて火村は黙り込んだままの運転手に煙草を吸ってもいいかと尋ねると返ってきた答えに内ポケットの中からキャメルの箱を取り出した。
 やがてゆらゆらと紫煙が上り始める。
“何や君、今日はおかしいで。疲れとるんか?” 
 再び甦る有栖の言葉。
 あの日・・・・。
 あれがもしも予感だったとすれば何をどう言われようと止めておけばよかった。
 過ぎて行く景色を見ながら火村はらしくもなく後悔にも似た苦い思いを噛み締めていた。
『バスの事故です』
 そう聞いた時のあの足元から崩れ落ちて行くような感覚が忘れられない。
 バスの前を走っていたという乗用車の運転手は重体という事だったがそれがもしも例の“青い鳥”で出かけていた有栖だったらと思うとそれだけで背筋が寒くなる。
「・・・・・馬鹿野郎・・」
 もう何度繰り返したか分からない言葉を口にして火村は小さな灰皿の中に吸い殻をギュッと押し込めるとそのまま新たなキャメルを取り出して火をつけた。
 そうしていなければ叫び出してしまいそうな自分がおかしくてそんな風にさせている有栖に腹が立つ。
 やがて車は緩やかな短いスロープを上って大きな硝子ドアの前で止まった。
 いずこも変わらぬといった様な白っぽい外観の建物。
 その前に降り立って一つ息を吐くと火村はドアに吸い込まれる様にそこに足を踏み入れた。
 受付で病室を確認し、確かに有栖がここにいるのだという現実に軽い失望感を覚えながら降りてきたエレベーターに乗って告げられた階の数字を押す。
 ウィンという小さな音と共に微かな浮遊感を伴って上って行く小さな箱。
 そのわずかな時間がやけに長く感じて、ポンという軽やかな音に続いて開いたドアに思わず溜め息が漏れ落ちる。
「・・・・517・・と・・」
 白っぽい壁に表示された、病室のナンバーによって左右に分かれた矢印を見て病室を確認して・・・。
「火村先生!?」
「 !」
 その瞬間飛び込んできた聞き覚えのある声になぜか湧き上がるやりきれないような気持ちを押し隠して、火村はゆっくりと声の方に顔を向けた。
「こちらです」
 窓に沿った明るい廊下を歩いて2つ目の角を曲がると片桐は一つだけネームの入った病室のドアを開けた。
 「私もつい先ほど着いたばかりなんです」と若い編集者は微かに笑いながら火村を促す。
 安心した様な、けれどどこか疲れたその顔に一瞬部屋に入るのをためらって火村は小さく口を開く。
「・・アリスは・・」
「変わり・・ないそうです。何だかまるで昼寝でもしていらっしゃるようで。でもさすがに少し痩せた感じはしましたが」
 そう言って片桐は再び火村を促す様に病室に足を踏み入れた白っぽい壁とクリームがかった仕切りのカーテン。
 2人部屋らしいそこは、けれど片側は使われていなくベッドもカバーがかけられていない。
 唯一、窓が大きく日の光が差し込み、景色自体もよく見える事が病院の陰欝なイメージを薄れさせていた。
「有栖川さん、火村先生がいらっしゃいましたよ」
 語りかけるようなその言葉にズキリと胸が痛む。
 返ってこない声。動かない身体。
 無意識に近づくことを拒む身体を押し出して火村はベッドに横たわっている有栖を見下ろした。
「・・・アリス」
 心無しか白っぽい顔は片桐の言った様に確かに少し痩せて見えた。傍らには脳波を測定する機械だろうか、そこから出された色とりどりの導線が有栖の頭部に伸びていて、まるで機械の力で彼を生かしているような錯覚を起こしてしまう。
 額に巻かれた白い包帯。
 一定のリズムを刻んで落ちる点滴。
 そこここに残る擦り傷の跡。
「・・・・っ・」
 命に別状はないと言っても確かに有栖は怪我をしている。
 その事実が火村にショックを与えていた。
「先ほど・・担当医の方にお話を伺ったんですが・・」
 黙り込んだままじっと有栖を見つめていた火村に片桐は一瞬だけ痛たまれないという様な表情を浮かべ、やがてゆっくりと口を開いた。
「原因は判らないそうです。脳波の異常もなく、その他の検査でも異常は見つからないそうでして。あるのは数ケ所の打撲と硝子で切ったのだろう額の傷と右手の傷。これはどちらも縫う程のものではない軽いものだという事です。後頭部の辺りに大きなたんこぶがあるそうなんですけど脳内出血をしているという心配も全くないそうで、医者も首を捻っているんだそうです」
「・・・寝だめでもする気ですかね?」
 有栖から視線を離さないままの火村の言葉に片桐はクシャリと顔を歪ませて小さな笑いを浮かべた。
「ははは・・それは有栖川さんらしいですね。でも・・」
「もうそろそろ起きてもいい頃ですよね。1週間は寝過ぎだ」
「はい・・」
 そう口にした火村の表情は片桐からは見えなかったが、その言葉が単なるからかいからくるものではない事を片桐は十分判っていた。
「・・・あの・・すみませんが社の方に連絡を入れてきますので・・」
「ああ、どうぞ。そうだ、すみませんがあったら煙草を買って来て下さい。車の中で吸い過ぎて切れ掛けているんです」
 そう言って火村は残り1本になったキャメルの箱を片桐に向けた。
「判りました“キャメル”ですね。それでは」
 小さく笑って片桐はゆっくりと病室を出る。
 途端にシンと静まり返った部屋。
 その中で一つ溜め息を零すと火村は再びピクリとも動かない有栖を振り返った。
“火村・・” 
 気付けば隣に居た、人懐こい笑顔に自分は何度救われてきたか判らない。
 勿論そんな事を有栖が気付く筈がないし、火村自身も言わなかったが確かに自分は有栖の存在に救われていたのだ。
 『犯罪』の中にまるで自分を試すように身を置きながらそれでもこちら側に留まってこられたのは友人と呼ぶにはあまりにも愛おしいこの存在があったからだ。
 もっともそんな火村の思いも有栖が気付く事はなかったが。
「アリス・・起きろよ」
 閉じられたままの瞳が辛くて火村はポツリと口を開いた。
「約束を破りやがったお前を、こんな所まで迎えに来てやったんだぜ?感謝してさっさと起きろ、アリス」
 動かない瞼。動かない唇。
「アリス・・!」
 じれた様に名前を口にして、ハッとして我に返って、再び溜め息を落とすと、火村は傍らにあった椅子を引き寄せて有栖の枕元にドカリと腰を下ろした。
 少し頭を冷やさなければいけない。
 思いながらガシャガシャと髪を掻き回す。
 どうやら事態は長引きそうである。
(ここと京都の往復は到底不可能に近いしな・・)
 無意識に煙草を取り出して、ここが病室だった事を思い出すと火村は忌々しげに舌打ちをした。
(・・・大阪の病院に移してもらう事にして)
 おそらく火村同様突然の連絡で驚いているだろう有栖の両親がやってきたら話してみよう。
 とにかくこれ以上、例え意識が戻っていないとしても有栖を見も知らぬ土地に一人でおいておくのは嫌だった。
 意識があるにしろないにしろ自分の目の届く範囲に入れておきたい。
「・・・帰るぞ、アリス」
 言いながら火村は眠り続ける有栖を見つめて、やるせなく視線を外すとおもむろに椅子から立ち上がった。
 その途端コンコンと小さなノックの音が響く。
「はい・・」
 片桐だろうと思っていた火村の予想は、けれど開いたドアから見えた白衣でものの見事に敗れる。
 まだ40前だろう“宮地”と名乗ったその医師は先ほど片桐から聞いた事とほぼ同じことを火村に告げ、そしてとんでもない『おまけ』をつけた。
「・・ですから、外科とのカンファレンスでこの状態が続くようなら開けて直接アクセスを」
「ちょっと待って下さい。開けるというのは手術という事ですか?」
「CTにも限界はあります。写らない部分に何かがあり、それが有栖川さんの意識を戻さずにいるのならば」
「どこに、という予測もなく脳をいじると言うんですか?冗談じゃない!それで異常がなければやっぱり何もなかったとでも言うわけですか?」
「何もないとは言い切れません。現に有栖川さんは1週間も眠り続けている」
「何かあると断言も出来ない。危険過ぎる賭けですね。大阪の方の病院に移して下さい」
「失礼ですが・・火村さんでしたか。貴方は有栖川さんのご家族ではない。その権限はないと思いますが?」
「おっしゃる通りですが、貴方にそう言われる筋合いもありません。明確な理由もなく脳の手術をしたいと言われる病院に不信を抱いただけです。そちら側から許可が出せないと言われるならば残念ですが知り合いの方から手を回させて貰います」
 断固とした火村の言葉に医師は大仰な溜め息をついた。
「ご理解戴けなくて残念です。とにかくこの件は有栖川さんのご家族の方がいらしてからもう一度ご相談させて戴きます」
 話は無駄と言わんばかりにそう言って頭を下げた医師に火村は内心の怒りを押し殺して、ドアが閉じた途端眠り続けたままの有栖を振り返った。
「アリス!・・起きろ!!てめぇがグースカグースカ寝てやがるからわけの判らない手術をさせられそうになるんだぞ!!」
「・・・・・・・・」
「脳をいじられてこれ以上馬鹿になったら取り返しがつかねぇ
じゃないか!!」
「・・・・・・・・」
「アリス!!頼むから気付いてくれ!!」
 答えない唇も、開かない瞳ももう沢山だった。
“あっと驚く真相が待ち構えてるんや” 
 十年以上も前にそう言った有栖。
 “アブソルートリー ”等と答えた自分に呆れたような、けれどどこか嬉しそうな表情を浮かべていた。
「アリス・・・!!」
 抱え上げた途端幾つかの導線が有栖の頭から落ちる。
 いつからか、などと言う事は火村自身にも判らなかったが紛れもなく有栖は火村にとってかけがえのない存在なのだ。
 有栖が火村の謎を追い続けて来た様に、火村も又苦おしい程の渇望にも似た思いを押し殺して有栖を追い求めて来た。
「・・・アリス・・」
 抱き締めた身体は暖かくて、トクントクンと確かに鼓動を刻んでいた。けれど・・・・。
 なぜ名前を呼ばないのか?
 なぜその瞳に何も映さないのか?
「起きろよ・・アリス・・目を覚ませ・・」
「・・・・・・・」
「目を覚ませ・・アリス・・!」
「!!火村先生!?何をなさってるんですか!?」
 ドアを開けて入ってきた片桐は有栖を抱き起こして腕に抱き締めている火村を見て思わず大声を上げてしまった。
 見れば導線の何本かがベッドの上に落ちている。
「火村先生!」
「・・連れて帰る」
「む・・無茶ですよ!!」
「こんな所においておけない。手術なんかさせてたまるか」
「手術・・?ちょっと・・火村先生!!」
 言うが早いか残りの導線と点滴の針を無造作に取り外して火村は有栖の身体を抱え上げた。
「待って下さい!!手術って何なんですか!それにこんな無茶をして有栖川さんに何かあったらどうするんですか!?」
「・・・何かって・・?」
「!」
 返ってきた言葉の冷たさに片桐はゾクリと身体を震わせた。
 わずかな沈黙。
「何かって何ですか?こいつが死ぬとでも?」
「・・・・火村先生・・」
 暗い、昏い笑みを浮かべたその言葉に片桐は再び言葉を失ってしまった。
 2度目の沈黙。
 やがて火村は有無を言わせずにゆっくりと有栖の身体を
抱え直した。その途端。
「・・・・・っ・」
 微かに動いた瞼に思わず息を飲む。
「・・・・ん・・な・・」
 まるでスローモーションの様に開いた瞳。
「有栖川さん!!」
 泣き出しそうな片桐の声に抱え上げていた身体をベッドの上に戻して覗き込む。
「・・・・ここ・・どこ・や・?」
 2週間ぶりに聞いた言葉はあまりにも寝ボケた、有栖らしい言葉だった。
 それが嬉しくて、切なくて、火村は今までの昏い表情とは一変した、いつもの皮肉げな笑みを浮かべて口を開いた。
「よく眠りこけてたじゃねぇか。骨休みと一緒に長い長い昼寝とは流石の俺もおそれいったぜ」
「・・・・・・昼寝・・?」
 ポヤンとした視線にわけの判らないといった言葉。
 それもこれも全ては1週間も意識がなかったせいだと火村も片桐も思っていた。
 とにかく、これで一応一件落着である。
 しばらくはこれをネタにからかってやるのもいい。
「病院ですよ、有栖川さん!バスの事故に巻き込まれて1週間も意識がなかったんです!でも良かった・・本当に本当に良かった!」
 言いながら涙ぐむ片桐をけれど有栖は怪訝そうな顔で見つめていた。それに気付いて火村が小さく眉を寄せる。
「おい・・アリス。聞いてたのか?1週間も眠りこけて迷惑をかけたんだぞ」
「迷惑だなんてそんな・・・あの・有栖川さん・・?」
 けれどそれにも何も言わない有栖に、さすがに様子がおかしいと気付いて片桐も微かに眉を寄せた。
「あの・・・」
「はい!」
 おずおずとした声に思わず勢いよく返事をしてしまった片桐を有栖が又怪訝そうな表情で見つめる。
(・・・何だ?)
 何かが火村の中で警鐘を鳴らし始めた。
 意識を取り戻したという喜びが得体の知れないものに覆い隠されてゆく。
「アリス・・」
 呼んだ途端向けられた視線。
 しかしそれは火村の良く知ったものではなくて・・・。
「・・・・・・あの・・アリスって・・俺の事・・?」
「!!!」
「失礼やけど・・どなたですか?」
「あ・・・・有栖川さん!?」
 病室の中に片桐の悲痛な声が響いた。
「有栖川って・・俺の名前なん?」
「・・・・・い・・医者を呼んできます!!」
 転げる様にそう言って出て行く片桐を無表情に近い視線で送って有栖は傍らに立ちつくしたままの火村を振り返った。
「・俺・・・・バスの事故で1週間も眠りこけてたってほんまですか?」
「・・・そうらしいな」
「・・・・・・・・俺の事知っとるんですよね?」
「ああ・・・よくな」
 ガンガンと頭が痛む。
 見知らぬ視線で問いかけてくる有栖が信じられなくて、信じたくなくて、けれど視線を逸らすことも出来ずに火村はどこか感情の抜け落ちた様な表情のまま口を開いた。
「・・・・・全部忘れちまったのか?」
 瞬間、有栖の顔がクシャリと幼く歪む。
「・・・名前も・・何も思い出せへん・・。ここがどこなんか・・何でこないな所に居るんか・・・・何も判れへんねん」
 “俺の事もか?”そう口にしかけて火村はグッと唇を噛み締めた。自分の名前すら思い出せないと彼は言っているのだ。それ以上何を確認しろと言うのだろう。
「・・・・・・・ごめん」
 ポツリと聞こえてきた小さな声に火村はハッとした様に俯きかけていた顔を上げた。
「・・・アリス・・?」
「知ってる奴からいきなり誰やて言われたらびっくりするし嫌やろ・・?せやから・・」
「・・・・・・・」
 こんな所は確かに紛れもなく有栖だと火村は思った。
 それがやりきれない程切なくて今度こそ見つめてくる瞳からたまらずに視線を逸らす。
 ドヤドヤと廊下を駆けてくる足音。
 それをこれから始まる不安な未来の序章の様に思いながら聞いて、火村は妙に白っぽい午後の光に照らされた外の景色をただぼんやりと見つめていた。