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Gloria 3

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「あの・・お茶くらい自分で淹れるから」
「いつもの事だ。気にするな」
「・・せやって・・ここ俺のうちなんやろ?」
「確かにお前のうちだが頭がパーになっているお前より俺の方がよく判っている。因みにな、パーになってない時でもこんなもんだったぜ?」
 言いながら手際良く淹れられたコーヒーを受け取りながら有栖は「パーパーって言うんやない」と力ない反論を試みた。
 ここ数日は有栖にとって目まぐるしいまさに二度と味わいたくないという時間となった。
 検査につぐ検査でヨレヨレになった所に両親だという初老の夫婦がえらく失礼だが仕方がないのだ。記憶がないのだからやってきて驚くわ、怒るわ、終いには泣き出して実家に連れて帰ると騒ぎ出すとり乱しようで。
 それでもこうして馴染みのない我が家へ帰ってこられたのは偏に目の前で淹れたコーヒーに口もつけずにいる男、十数年来の友人・火村英生のお陰だった。
 退院の決まった日、疲れ切ったような表情を浮かべた有栖と困惑を隠せない彼の両親に火村はなるべく同じ環境にいた方が早く思い出せるのではないかと言った。
『幸い職場も通って通い切れない場所ではありませんし、しばらく落ち着くまで私が一緒に居て、様子をお知らせします。ご存じの通りお互い気楽な独り暮らしをしていたので行き来もありましたし。肉親が判らないという状況よりも彼も辛くないと思いまして。お任せ戴けないでしょうか?』
 長年の、しかも自分たちとも面識のある友人であり、その上母校の助教授でもあるという火村の肩書きは有栖の両親に幾らかの安心を与えた。
 そうして大阪に戻ってきて、マンションに着いて、ほっと一息をついた途端の会話がこれであった。
 ここ何日かで有栖はこの男の口の悪さが彼なりの優しさである事を感じていた。
 火村は決して有栖に記憶を取り戻す事を強要しなかった。
 それはただ単に医者の指示なのかもしれないけれど、それを守れる者が少ない事も有栖はやはりここ数日で身をもって知らされたのだ。
「何で飲まないんや?」
 淹れたままテーブルの上に置かれたカップを見つめて有栖は不思議そうにそう尋ねた。それにクスリと笑って肩を竦めると火村は「猫舌なんでね」と返してくる。
 多分今までの自分だったら判っていた事を火村はこんな風に当り前の様に返してきた。
「・・・・さてと、それを飲んだら少し休めよ」
「え?せやって・・俺、別に病気やないで?」
「ばーか、病気じゃなくてもあれだけ検査したり知らない奴の中に居たら疲れて当然だ。それに今日は飛行機にまで乗ったんだぜ?判ったら大人しく寝ろ」
 そう言って火村は程好いぬるさになったそれをゴクリと飲んで傍らに放り出してあった鞄の中から手帳のようなものを取り出した。
「携帯の電池が切れちまったから電話を借りるぜ?」
「あ・ああ。どうぞ」
 答えを聞くとおもむろに立ち上がって立て続けに何件かに連絡を取る。
 それを聞くともなしに聞きながら有栖はぼんやりとその後ろ姿を見つめていた。
 多分、恐らく、きっと・・・目の前の男はこんな所でこんな風にしていられるような人間ではないのだろう。
 “友人”というだけで自分は彼の時間を検査だ退院だ何だと4日間も奪っている。
(・・こんな風にしてもらえる人間やったんか?俺は・・)
 この疑問は有栖の中に日々大きくなっていた。
(俺たちはどんな“友人”やったんやろ・・)
 彼が京都の大学の助教授で、自分たちがその大学に在学をしている時に知り合った事。そして自分が有栖川有栖という名前で、その本名のまま推理小説を書いている事を有栖は火村から聞いていた。
 霧に包まれて何も見えなくなってしまった過去。だがせめて彼との時間だけでも取り戻せたらと思えてしまう。
「何をうすぼんやりしてるんだ?とっとと寝ろ」
 電話を終えて戻ってきた火村をソファに座ったまま見上げて有栖はポツリと口を開いた。
「・・・・・眠たくない」
「・・・アリス」
 ガクリと肩を落とした溜め息混じりの声が名前を呼ぶ。
「出かけるんか?」
「え?・・ああ。京都の方に着替えやら必要な物をとりにな」
「・・・・・すまん」
「アリス?」
「・・・・俺やったらもう平気やから。別に日常の一般的な事が判らんわけやないし。記憶がなくったってそれ位の事はなんとかなるやろうし。せやから・・」
「馬鹿」
「!!」
 返ってきた短すぎる言葉に有栖は俯きかけていた顔を弾かれたように上げた。その視線の先で火村は表情変えぬままドカリとソファに腰かけてキャメルを取り出す。
「あ・・あのなぁ・・馬鹿・って・・」
「馬鹿を馬鹿と言って何が悪い。気色悪い事グダグダ言ってんじゃねぇよ。大体な日頃のお前だってこんなもんだったぜ?特に締め切り前あたりはひどくてなぁ。出来ないだの落ちるだのグチるかと思えば、原稿が上がれば今度は人並みの飯が食いたいと言い出したり。そういうお前のどこに一般的な事がこなせる能力があると言えるんだ?」
「・・・・・・・・」
「まぁ、今回の事はそのうちしっかりと借りを返して貰うさ。安心しろ。俺は心が広い上物覚えはいい方だから出世払いで許してやるよ」
 ユラユラと上ってゆく煙草の煙。
「・・・それのどこが心が広いねん・・・」
 ポツリと零れ落ちてしまった呟きに有栖は次の瞬間思わずクスクスと笑い出してしまった。
「判った。そうやな、じゃあ出世払い言う事で遠慮なく甘えさせて貰うわ」
「少しは遠慮してもいいんだぜ?」
「いーや。物事半端はいかん。やるなら徹底的にや」
 笑いながらそう言う有栖に火村も又クスリと小さく笑いを漏らす。
「火村?」
「その方がいい・・」
「え?」
「その方がお前らしい」
「・・・・・俺ってこんな奴やったんか?」
 次いで聞こえてきた台詞に思わず一瞬言葉を失って、今度こそ火村は大声で笑いだしてしまった。


短い回ですが、区切りようが他にないので・・・・。