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Gloria 5

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「お帰り。早かったなぁ。もう少し遅うなる思うてたで」
 リビングのソファの脇。ヒョイと上げられた顔に火村は思わず眉間に皴を寄せてしまった。
「・・・何をしているんだ?」
「見て判らへんか?読書や」
「読書ねぇ・・・」
 部屋の中に散乱といった状態で置かれた本の山。
 せめてソファに座って読めばいいものの、その山と山の間に窮屈そうに座り込んでにこやかに答える有栖を見て火村はそれ以上の追求を放棄してコートを脱いだ。
 2日間の学会から帰ってきた後、どこがとははっきりと判らなかったが有栖は確かに変化をしていた。
 例えば「俺ってどんな奴やった?」とやぶからぼうに尋ねてきたかと思えば「やっぱりええわ」と視線を逸らす。
 何かの言葉の端に以前の事をにじませてしまうとじっと火村の顔を見て「そうか」とどこか焦れた様な、けれど諦めたような色を含ませた声でそうポツリと口にする。
 そんな一つ一つの小さな出来事が自分の中に降り積もって行くのを火村はやりきれない気持ちで受け止めていた。
 有栖であって有栖でない、目の前の有栖。
 「思い出せ!」と大声で口にしたい気持ちも火村の中に確かにあるのだ。
 けれどそうした所で何にもならない事も判っている。
「いつまでもグダグダしてたかて性もないやろ?せやからまずここにある本を片っ端から読むことにしたんや。ここにあるっちゅう事は最低一度は読んだって事やろ?でもな、記憶があれへんからまるっきり初めての状態で読めるんや。これって結構お得な事やと思わんか?」
「・・・お得ね」
 有栖らしい言い分に思わずクスリと漏れた笑い。
 それを気にする事なく有栖は更に言葉を続ける。
「推理小説作家なんて商売してたんやからこんなん絶対何度も読んどる筈やんか?それが今更初めての状態で読める言うのもオツやわなぁ」
 言いながら有栖はエラリー・クイーンやアガサ・クリスティ等一般的にも知名度の高い作家の本を火村に向けて見せた。
「結構ハマる言うか、やっぱ楽しいねん。これって染み付いた性ってヤツやろな・・」
「・・アリス?」
 けれど楽しげな言葉が一変してやるせないような自嘲を含んだ声に変わり、火村は微かに眉を潜めて有栖の名前を呼んだ。
 それを振り切る様に有栖はいきなり話題を変える。
「今日なカレー作ってん」
「カレー?」
「いつもいつも疲れた君に作らせるのは忍びない思うて、これ位なら出来るやろて作ったんや」
「・・へぇ・・そりゃ、雪が降るな」
 火村のその言葉に少しだけ笑って有栖は「もう煮える筈やで」とゆっくりとキッチンに向かった。
 その背中を見つめて火村はそっと瞳を眇める。
 何かがおかしい。どこかが違う。
 火村の中で又一つ積もる違和感。
 記憶がない、というだけではない何かがここ数日有栖の中に存在しているのだ。
(・・・何だ・・?)
「・・・・・・アリス?」
 名前を呼んだ途端振り向いた顔はなぜか少し淋しそうな気が
した。けれどそれは一瞬の事で有栖は小さく肩を竦める。
「カレー・・な・・作ろう思うたらジャガイモがないねん」
「・・・・・・・」
 再び飛んだ話題。
「ジャガイモがなかったらカレーは出来ひんやろ?買物に行ったんや」
「アリス・・」
 その言葉に思わずムッとした火村を見て有栖はクスクスと小さな声を立てて笑い出した。
「そない怒るんやないって。ちゃんと帰ってこれたやろ?でなジャガイモ買うて、ついでにビールも買うて帰ろう思うたら後ろから“有栖川さん”って呼ばれたんや」
「・・・・・・・」
「にこにこ笑うていい大人が手ぇ振ってるんやで?頭下げたら近づいて来て“お元気ですか?御無沙汰してます”間違いなく俺の事知っとるんやなぁ。でも俺は判れへんねん」
「・・アリス・・」
 火村の呟きに有栖はもう一度ヒョイと肩を竦めて、カチリとカレーの鍋をかけていた火を止めた。
「『森下さん』・・・なかなかええ男前やったわ。何も言われへん俺にびっくりして頭掻きながら“有栖川さん・・ですよね?森下です。・・・・忘れちゃいましたか?”相手は冗談のつもりやったんやろうけどそれがまさしくその通りで、笑えへんかった」
「アリス、もういい」
 不機嫌な表情を浮かべてそう遮った火村に有栖はらしからぬ暗い笑みを浮かべた。
“すみませんでした!あのまさか・・そんな事になってると思わなかったもので・・” 
 驚いて、恐縮して、そしてどこかに同情をにじませた若い男の言葉が有栖の脳裏に甦った。
「・・・みんな言うねんな・・・気を落とさんと頑張って下さい。色々大変な事もあると思いますが。無理したらあかんよ。大丈夫や、そのうちきっと・・・・」
「・・・・・・・・」
「そう言いながら早よ思い出せって言うとるんや。口では何やかんや言うても俺が俺やないって!早く元に戻って欲しいって言うとる!!」
「アリス!」
 視線を外して声を荒げる有栖に火村は思わず大きな声を上げていた。
 学会から帰ってきてここ2.3日の違和感の正体はこれだったのかと火村は自分の胸の中で思わず舌打ちをしてしまう。
「・・・俺のいない間に誰かと会ったのか?」
「・・・・約束通りに部屋には誰も上げんかったしどこにも出掛けへんかった」
「・・電話か?」
 2つ目の問い。それを肯定するかの様にフイと顔を背けた有栖に火村はもう一度胸の中で舌打ちをした。
「・・みんな・・お前を心配してるだけだ。悪気はない」
「せやから!?心配してるから何だちゅうねん!俺にどうしろって!?心配してくれたら記憶が戻ってくるんか?それとも願掛けでもしたらええんか?それでどうにかなるにやったら神頼みだってなんだってしたるわ!」
「アリス・・いい加減しろ・・」
「いい加減にしろ!?いい加減にしたいんわ俺の方や!記憶を失くしたんわ俺のせいか?なぁ・・俺が悪いんか?」
 縋りつく様にシャツを掴んでくる手。
 それを茫然と見つめながら火村は己の鈍感さを悔やんでいた記憶を失ってから半月以上。
 そう、半月以上もの間有栖は自分が誰なのか判らない状態で過ごして来たのだ。火村が目の前の有栖に焦れたそれ以上に有栖は不安で焦っていた筈だった。一緒に居て有栖がここまで自分自身を追い詰め始めていた事を気付かずにいた。それはどう考えても自分の落ち度だと火村は小さく唇を噛み締めた。有栖にこれ以上こんな悲しい言葉を言わせてはいけない。
「・・・落ち着け、アリス。誰もそんな事は言ってない」
 感情を押し殺した様なその言葉に、けれど有栖は力なく首を横に振った。
「嘘や・・」
「アリス」
「口で言わんでも判るわ。“かわいそうに”“気の毒に”自分かて思うとるんやろ?時々疲れたような目しとるもんな。いつまでも思い出せん俺の世話焼いて・・」
「!!・・いつ・・俺がそんな事を言った?」
「言わんでも判る言うたやろ!?迷惑かけとるなんて俺が一番よぉ判っとる!!」
 悲痛な色をにじませた、叫び声にも似た言葉だった。
 それに一瞬何かを言い掛けて口を閉じると火村はフゥッと一つ大きく息を吐いてやがて再びゆっくりと口を開いた。
「・・・・・お前・・・言ってる事が滅茶苦茶だ。もう寝ろ」
 瞬間、有栖は小さく顔を歪める。
「・・旅行に行かへんかったら良かったんか?締め切り前に原稿上げた言うのが悪かったんか?そもそも小説なんて書いてなければこないな事にはならんかったんか!?」
「いい加減にしろ!自分をそこまで否定してどうするんだ!」
「・・・火村に・・火村には判れへんねん!!俺がどんなにもどかしくて、辛くて、苦しいかなんて・・判りっこない!!」
「!」
 瞬間、時間が凍りついた気がした。
 有栖自身確かに追い詰められていた。
 けれど火村自身も又、有栖でない有栖を見つめる中で疲れ始めていたのだ。
「・・・・俺・・・」
 静まり返った静寂の中で凍り付いた火村の表情に気付いて有栖はハッと我に返った。
「・・・ご・・ごめ・・俺・・こんな事言うつもりやなかったんや・・・ごめん・・」
 そう、それは確かに言ってはならない言葉だった。
 子供の様に泣き出しそうに歪んだ顔から火村はフイと視線を逸らす。
「・・火村・・ごめん・・俺・・」
 小さな、震える様な、頼りない声。
「・・・思い出したいか?」
「・・えっ?」
 その瞬間、火村の中で何かが音を立てて崩れ始めた。
「そんなに思い出したいか、アリス」
「・・そ・・そんなん当り前やろ!?有栖川有栖っていう名前がほんまに自分の名前なんか、俺はここに居てええのか、そんな風に思って生きていくなんてもう嫌や・・」
 言いながら俯いてしまった有栖の顔を一瞬だけ昏く顔を引き吊らせて見つめて火村は再び口を開く。
「肝心な事を隠してたんじゃやっぱり思いだせねぇよな」
「・・火村?」
 上げられた何も知らない顔が愛おしくて、憎いと火村は思った。
「思い出したいんだよな・・?」
 トクンと一つ鼓動が鳴る。
 真っ直に見つめてくる綺麗な瞳。
 それはずっと隠して行く筈の思いだった。
 ただそばに居てくれれば、そばで笑っていてくれれば、それだけでこの世界に留まる事が出来る。
 そう縋る様に信じていた。神を、他の誰をも信じられなくとも、有栖さえ居てくれれば信じられた。けれど・・・。
「・・・・・え・・」
 ゆっくりと重ねた唇は触れただけですぐに離れた。
「・・ひ・・む・ら・・?」
 驚きに見開かれた瞳に湧き上がる切なさを押し殺して火村は再び顔を寄せる。
「判らねぇのか、アリス。こういう事だ・・」
「!」
 2度目の口付けは先ほどのそれよりも深くなり、有栖の身体に僅かな抵抗が走る。
「・・・っ・・な・何・・!?」
「何って、お前が思っている通りだよ。つまり俺たちはそういう関係だったって事さ」
「・・・・・う・そや・・」
 信じられないと有栖の瞳が、全身が、語っていた。そしてその中に潜む怯えを感じながら火村は尚も言葉を続ける。
「嘘なもんか。お前に余計なショックを与えちゃまずいと思って黙っていたんだが、やっぱり無理そうだし、俺もそろそろ限界なんでね」
 一歩近づくと有栖の身体が一歩引く。
「・・嘘やろ?タチの悪いジョークやろ?火村・・なぁ・」
 縋りつく様な視線はすでに煽っているのと同じ事だ。
「嘘だって言うならそれでもいいさ。でも有栖、思い出したいんだろう?少しでもその可能性があるなら試してみたい。そう思っているんだろう?」
 甘い、毒のような言葉を口にしながら一歩、又一歩と火村は静かに足を進める。それにまるで反発をする磁石の様に有栖が一歩、又一歩後退さる。
「アリス・・」
 名前を呼ぶ声と同時にトンと背中が壁についた時、有栖は再び泣き出しそうにクシャリと顔を歪めた。
「・・・火村・・」
 微かな、微かな声。
 それにいっそ鮮やかな、切なくなる程鮮やかな笑みを浮かべて火村はゆっくりと口を開いた。
「愛してるよ、アリス」
「・・・・・・・」
「来いよ・・」
 真っ直に差しのべた手を見つめる瞳。
「・・・・・・ほんまに・・そうやったんか・・?」
「俺が信じられないのか?」
「・・・・・・・」
 すぐさま返ってきた答えにどう答えていいのか判らずに有栖はギュッと唇を噛み締めた。
 遠くで車の行き交う音がする。
 リビングの方から聞こえる微かなエアコンの音さえ響く静寂に胸が軋む。
「・・・・火村・・」
 小さな呼びかけに火村は止まっていた足をゆっくりと有栖に向かって進めた。
 一歩、又一歩縮まる間。
 そうして目の前でピタリと止まると伸ばしていた右手をそのままに火村はゆっくりと左手を上げた。
「・・・抱かれろよ」
 広げた両手の向こうで哀れな獲物は怯えた瞳を向けている。
 トクン、トクンと鼓動が早まる。
 それはこれから彼を手にいれる事への歓喜なのか、それとも大罪を犯す事への僅かな良心の呵責なのか火村自身にも判らなかった。ただ判っているのは、これがあまりにも甘美で、あまりにも破滅的な大罪である事だけだ。
「アリス・・・」
 名前を呼んだ途端、見慣れた筈の瞳が、見慣れぬ色を浮かべてゆっくりと閉じた。
「・・・ええよ」
「いい子だ。俺の腕の中で全てを思い出せよ、アリス?」
 囁きと同時に腕の中に倒れ込んできた身体を抱き止めて、火村はその腕にそっと力を込めた。
 
 
 
 
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 ぼんやりとサイドランプの淡い明かりに照らされた室内。
 傍らで疲れ切って眠りに落ちてしまった涙の跡の残る白い顔を見つめながら火村はそっと溜め息を漏らした。
“いや・・っ・・や・め・・!” 
 引き吊った声と引き吊った顔が鮮やかに脳裏に甦る。
 けれど、それすらも愛おしくて泣きじゃくる彼を抱き締めた自分。
“力を抜け・・” 
“そんなん・・出来ひん・っ・・あぁぁっ!” 
 カクンと綺麗に反った喉が痛々しくて、かわいそうな位痛々しいと思っても尚、止める事は出来なかった。
“アリス・・” 
“痛い・・いた・・も・・ひむ・・らぁ・・” 
 ポロポロと零れ落ちた涙が綺麗で、縋りつく様に背中に回された手が爪を立てたのかピリリと走った引き吊る痛みさえ切ない喜びに変わる事を火村は初めて知った。
“ひ・むら・・ひむ・ら・・火村ぁ・・!” 
 何度繰り返されたのか判らない自分の名前が耳に残る。
 聞いた事のない甘い呼び声。
「・・・・・・・っ・・」
 銜えたキャメルにカチリと火をつけてゆっくりと吐き出すと暗い部屋の中でユラユラと紫煙が踊る。
 これは罪だと判っていた。
 有栖が記憶を取り戻した途端、自分は永久に彼を失うのだ。
 それでも・・・初めて手にしたその身体は蜜の様に甘く、切なくなる程熱かった。
「・・・思い出せよ、アリス」
 額に手を当てて火村は小さく呟いた。
「思い出して俺を断罪しろ・・・!」
 ほの暗い闇の中に落ちたやるせない言葉は、けれど火村以外の誰にも聞こえる事はなかった。


何も語るまい・・・・