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Gloria 6

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「それで遅くなるんやな?」
「ああ」
 プレーンオムレツとサラダとトーストとコーヒーという典型的な朝食をほぼ食べ終えながらの有栖の問いかけに火村は新聞を広げながら気のない返事を返す。
「・・あのなぁ・・食事の時位ものを読むのは止めろって何度も言うとるやろ?失礼や」
「・・・失礼ね。そりゃどうも済みません。じゃあ目と目を合わせて話を聞こう」
 ガサガサとたたまれる新聞と上げられた顔。
 その瞳は明らかにからかっている光が浮かんでいて有栖はムッとした様に唇を尖らせる。
「何でそないに極端なんや。俺は別に見つめ合って話をしたいなんて言うた覚えはないで!?」
「俺も聞いた覚えはないな」
「火村!」
 怒ったような声に重なった楽しげな笑い声。
 あの日から・・・正確に言えば身体を重ねた次の日から火村はこんな風に有栖をからかう様になった。
 その朝、目覚めた有栖を少し離れた場所でダイニングから運んだらしい椅子に腰掛けたまま、火村はどこか疲れたような顔で見つめていた。
 一瞬自分が何をされたのか思い出せなくて“何でこないな所で座って人の顔見とるんや?”と間抜けな事を考えた有栖は次の瞬間起き上がろうとして身体の中を走り抜けた痛みに呻く様にしてベッドに逆戻りをした。
 ややしばらくしてためらいがちに聞こえてきた「大丈夫か?」という火村の声。
 その言葉に涙を泌ませながら有栖は「大丈夫に見えるんか!このボケ!」と実に大阪人らしい一言を返した。そして、ゆっくりと抱き起こされた腕の中。
「こんなに痛い思いして思い出せへんのはサギや!」
 ぼやいた有栖に火村は少しだけ瞳を見開いて
「そりゃ・・残念だったな・・」
 と返してきたのだ。
 それから一週間。
 記憶は戻ってくる気配すら見せず、有栖はマンションの部屋の中で桜の開花予想などに耳を傾けつつ相も変わらぬ生活を送り火村も又、京都と夕陽丘の間をベンツで行ったり来たりを繰り返していた。
「ほんなら俺、図書館にでも行ってくるわ」
 有栖の言葉に火村は軽く眉を上げる。
「又迷子になっても知らねぇぞ」
「・・・いつまでも前の事を言うんわ年寄りの証拠やで?」
「俺がじじぃならお前もじじぃだ」
「・・・・・・・・」
 ニヤリと笑う、もう見慣れた顔。
 返す言葉を見つけられないまま有栖はふとこういったやりとりは以前の自分たちと変わりがないのだろうと思った。きっと、多分、自分たちはこんな風に軽口を言い合っていたに違いない。なぜか感覚的にそう思った。
「・・・・もうええわ。お前、早よ行け」
「つれねぇな、アリス。早く帰って来いよ位言ってもいいと思わねぇか?」
 「うん?」と尋ねる様に首をかしげて覗き込んできた端正な顔に有栖は思わず顔に朱を上らせた。
「誰が言うか、アホ!!」
「ちぇっ・・じゃあ仕方がない」
 言いながら小さく肩を竦めて食器をまとめると火村はスタスタとキッチンに向かって歩き出す。
「洗っておいてくれよ」
「・・ああ」
 残りのトーストを口の中に放り込んで返した返事。
 そして何故かその次の瞬間、有栖の脳裏に先程の火村の言葉が甦った。
“早く帰って来いよ位言ってもいいと思わねぇか?” 
(記憶を失くす前の俺はそういう事を言ったんやろか?)
 浮かんだ考えに思わずブンブンと首を振る。
(何アホな事考えとるんや、俺は・・!)
 けれど、否定する程その思いは大きくなってゆく。自分の知らない自分と火村との時間を気にしている自分がいる!?
(・・・何でや・・?)
「おい・・アリス何やってんだよ?食わねぇなら片付けろ」
「あ・・ああ」
 考えていると恐ろしい答えを引き当ててしまいそうな気がして有栖は慌てて自分の思考をストップさせた。
 これ以上考えてはいけない。
 それも又、理由の判らない感覚のようなものだった。
「・・・アリス?」
 聞こえてきた訝しげな火村の声。
「・・・・何や?」
「具合でも悪いのか?」
「いや・・・そうやない。君こそ早よいかんとマジで遅刻するで?」
「・・・・・・・」
「何・・?・・ひむ・」
 返ってこない言葉に顔を上げた途端、掠める様に落ちた口付けに有栖は思わず言葉を失ってしまった。
 それにニヤリと笑って降りてきた2度目の口付け。
「!!!火村!何すんねん!」
「何ってキスだろ?足りないか?」
 三度近づいてきた顔に慌ててガタリと椅子ごと後退さって有栖は赤い顔でキッと火村を睨みつけた。
「アホ言うてんやない!!」
「誰かさんがうすぼんやりと人の顔見てるからだろ?てっきり誘われてるのかと思ったぜ」
「!!誰がうすぼんやりと見つめてるだ、ボ
ケ!誘うも何もあるか、とっとと行け!!」
 赤い顔を更に赤く染めて怒鳴る有栖に火村はクスクスと笑いを漏らす。
「ほんとにつれないな・・昨日は素直だったのに」
「あ・・あのなぁ!!・・ちょっ・・火村・!!や・」
 怒鳴り声は3度目のキスでかき消せれた。
「・・・な・・何考えてんのや!朝っぱらから!」
「朝じゃなきゃいいのか?」
「ち・・そういう事やなくて・・!その・・夕べやってしたやないか!」
「夕べは夕べ。今は今。という事で大人しくしてろよアリス」
 囁く様にそう言って椅子の上に身体を縫い止めながらそこここにキスの雨を降らせ始めた火村に有栖は小さく身をよじった
「いやゃ・・火村・!・・遅れるって・・!!」
「アリスが協力してくれれば大丈夫だ」
 外されたシャツのボタン。スルリと滑り込んでくる少しだけ冷たい手。
「信じられん・・スケベ助教授や・・!」
「何とでも。先に誘ったのはそっちだからな」
「誘って・・へん・・っ・ぁ・・」
「アリス・・」
「・・・ん・・」
 呼び声が優しくて、甘くて、何故か切ないと有栖は思った。
 自分を抱いているこの腕は確かに火村のもので、抱かれているのは確かに自分で・・・・。
 僅か1週間たらずで慣れてしまった温もり。
 火村は抱かれて思い出せと言った。
 自分たちはこういった関係だったのだと言った。
 抱かれる自分。
 抱く火村。
 けれど・・でも・・火村は本当は誰を抱いているのだろう?
「あ・・あぁ・・や・ぁ・・!」
「アリス・・」
 呼んでいるその名は確かに自分のものの筈なのに。
「・・も・・や・・」
 熱くなってゆく吐息に思考がぼやけてゆく。
 そしてそのぼやけてゆく思考の中で再び警告のランプが点滅をするのを有栖は感じていた。
これ以上考えてはいけない。
 はだけた胸元を滑る唇と熱くなり始めたそこを包み込んで動く手に涙が頬を伝って流れる。
「・・・いいか?」
「嫌や・・!」
「・・・協力してくれるんだろ?」
 クスクスと耳もとをくすぐる声がする。
 意地の悪い、けれど端正なその顔を睨みつけて有栖はギュッと肩にしがみつくと早口で『せめてソファに運べ、ボケ!』と口にした。それに火村がクスリと笑う。
「我壗だな」
「お前程やないわ・・!」
 半分涙を浮かべた赤い顔。ポスンとソファに降ろされた身体。
 何か言いかけた有栖の口をすかさず唇で塞いで。
 そして、朝の光にはあまり似合わない甘い声が部屋の中に響き始めるのにそれ程時間はかからなかった。

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「読みたい本があるなら大学の図書館で借りてきてやるぜ?」
 すっかり身支度を整えてあとは出かけるばかりという火村の言葉にソファの上で毛布をかけて横になったまま有栖はムッとして「策士!」と毒づいた。
 夕べの今朝ではとても図書館に行って本を借りてくるのは不可能に近い。
「何が読みたい?アリス」
「・・・・・・・・」
 意地になって口を開かない有栖に火村はクスリと笑った。
「夕飯は何が食いたい?」
「・・・・飯で釣れると思うたら大間違いやで」
「いらないのか?」
「・・・・・・・魚・・・カレイの煮付け!」
 返ってきた答えに又火村が笑う。
「あのなぁ!」
「判った。カレイの煮付けな。で、本は?」
 キャメルを取り出す長い指。
「アリス」
「笠井潔!!もう大遅刻や、早よ行け!あほんだら!!」
 ガバリと起き上がって怒鳴るとそのままソファに沈み込んだ有栖を見て火村は小さく肩を竦めた。
「お大事に」
「!!」
 ヒラヒラと振られた右手。
 パタンと閉じたリビングのドアに半瞬遅れて枕替わりにしていたクッションが当って落ちた。


泥沼化・・・