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Gloria 7

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 桜前線は順調に北上し薄紅の花がチラチラと咲き始める。
 学生は春休みでも働く側の人間にはそんなものはあまり関係ない。学会の資料やら、論文やら、フィールドワークの調書やら新聞や雑誌のスクラップ等々相変わらず机の上はごった返している状態だった。
 人通りの少ないキャンパスに面した窓から見える一分咲きがやや進んだという様子の桜の木。
 机上の僅かなスペースに広げていた本から顔を上げて目にしたその風景に火村はふと先日有栖が桜の開花予想のニュースを話していたのを思い出した。
(・・・・・花見か・・)
 そういえば記憶を失くす前の有栖もそういったイベントめいた事が好きだった。もっともそれは花を愛でるという風情溢れるものよりも食い気が先に立つようなものだったが・・・・。
(・・・満開になる頃を見計らって花見にでも連れ出すか)
 このところ有栖はほとんど家から出ていなかった。
 もっともそれは火村自身が意図的にそう仕向けている部分もある。町中で道に迷ったり、知り合いに会ってパニックを起こす有栖を見たくないというのも大きな理由の一つだったが、有栖を独占していたいという子供じみた気持ちも火村の中に大きな部分を占めていた。
 “そういう関係だった”と瞞して有栖を抱いてからもう2週間以上がたっている。
 いつ有栖の記憶が戻るのか。
 いつ自分は有栖に罰を下されるのか。
 犯した罪の大きさを自覚していながらもそれに怯えている自分を火村は知っていた。
 知っていて尚、一度手にしてしまったその身体を忘れる事が出来なくて、何かに縋る様に抱き締める。
“・・・ひむらぁ・・!・・あぁ・” 
 そしてその行為に有栖の身体は確かに慣れ始めていた。
 うっすらと赤く染まる目もと。
 零れ落ちる甘い喘ぎ声。
 背中に回される指も、頬を伝って流れる涙も・・・・全て有栖であって有栖でない、けれど変わることなく愛しい有栖。
 それは、いつまで続くのか判らない不安定な関係だった。
 思わず自嘲的な嗤いを零して火村は再び本に目を落とす。その途端鳴り出した電話。
「はい、火村です」
『お久しぶりです。御無沙汰しています、火村先生』
 聞こえてきた声は兵庫県警の樺田警部のものだった。
「こちらこそご無沙汰しています。事件ですか?」
『ええ。そうなんですが、大学というのはもう休みではないのですか?』
 意外そうなその言葉に火村はクスリと苦い笑みを零して机の上のキャメルに手を伸ばす。
「学生たちほど休んでいたら日干しになってしまいますよ」
 煙草を銜えながらの台詞に相手はクスリと笑いを漏らして納得をしたようだった。
「それで、今回は?」
『ああ、殺人事件です。ご自宅の方にご連絡致しましたら有栖川さんのお宅に行かれているという事でしたので』
 思わず眉間に寄った皴。
「・・・・・・・かけたんですか?有栖川の所に」
『え・?・・ええ。そこで先生が大学に出て居られるとお聞き
したんですが・・』
 何かまずかったのかという口調に火村は銜えたままのキャメルにそっと火をつけた。
「何か・・言っていましたか?」
『は?・・ああ、有栖川さんですか?特に変わった様子はありませんでしたが。有栖川さん向きの事件でもありましたのでよろしければ先生とご一緒にお越し下さいと伝えさせて戴きました。詳しい事は後ほどお話致しますので、場所は×××です。とりあえずお越し戴けますか?』
「・・判りました」
 ピッと小さな音を立てて切った電話。受話機を置きながら火村は再び苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
 フィールドワークの事は有栖には伝えていなかった。
 兵庫県警の刑事からかかってきた電話を有栖はどう思って受けたのか。
(・・・・・又パニックを起こさなきゃいいけどな)
 前回の“思い出せないうんぬん”のパニックの引き金は大阪府警の森下刑事だった。
 その後は大きな変化はなかったが、記憶がないという事は火村が思っている以上に有栖の精神の負担になっているらしい。
 今まではあまりそんな風に感じた事はなかったのだが、今の有栖は何かを考え始めると自分の内面に内面にそれを隠し自分を追い詰めていってしまう傾向があった。
 現在有栖は何かに憑かれた様に本を読みあさっている。
 それはそれでいいのだが、火村の中では何かが引っ掛かっていた。
(とりあえず今日は帰るか)
 吸いかけのキャメルを灰皿押しつけて火村はガタリと椅子から立ち上がった。
 フィールードに行かなくてはならないが、それ以上に有栖の事が心配だった。
(・・どう切り出すかな・・・)
 手元の本をバンと閉じて必要な資料をまとめるとズシリと重いそれらを持ってドアに向かって歩き出す。
 有栖は自分が知っていただろう事を火村が説明して聞かせるとひどく辛い顔をした。その傾向は日を追う毎に強くなり、近頃ではほとんど以前の事を口にしなくなっていた。
 火村自身も以前の事を言うと思い出す事を強要している様な気がして、特に有栖がパニックを起こしてからそれは二人の間で不文律の様になっていたのだ。が、今回の事はまさにそれである。
 開いたドア。静まり返った廊下。気怠い午後。
 重くなる気持ちと、重い荷物を抱えて火村はバタンと研究室のドアを閉じた。
 インターフォンを押すと僅かな間を置いて聞こえてきた声。
 それにホッとして有栖が開けるより先に火村は持っていた鍵ドアを開けて部屋に入る。
「何や、鍵を忘れたのか思うたらちゃんと持ってるやないか。ったく・・」
 ブツブツと言いながらクルリと踵を帰してリビングに戻る有栖の後ろを歩きながら、火村は先刻の電話の事を切り出そうとして・・・。
「それにしてもえらく早い帰宅やな。そうや、兵庫県警の樺田さん言う人から電話があったで。大学の方に居るって言うたけど連絡あったか?」
「・・・・・ああ」
 ものの見事に先制パンチを食らってしまった。
「自分の研究を兼ねて“フィールドワーク”言うて警察の捜査に協力してるんやてな」
 どこから聞いたのか背中を向けたまま有栖はリビングを通り抜けキッチンに向かって歩いて行く。
「しまいにな“また有栖川さんもどうぞ”て言うてた。俺一緒に行ってたんやな」
 カタンと小さな音を立ててテーブルの上に置かれたコーヒーカップ。そこで初めて振り返って有栖は無言のまま“飲むか?”と火村に問いかけてきた。
「・・誰に聞いた?」
「片桐さん。たまたまその後電話がかかってきて聞いたら教えてくれた。いきなり兵庫県警とか言い出すからお前が何かしたんかと驚いた」
 クスリと笑った顔に火村はチッと小さく舌打ちをした。
「行くんやろ?支度は?」
 コーヒーを淹れながら有栖が問いかけてくる。
 変わらぬ表情と変わらぬ口調。
 まるで肩透かしを食った様な気持ちになって火村は一つ溜め息をつくと小さく口を開いた。
「行くか?」
「行かん」
 その途端妙にきっぱりとした口調で返ってきた答えに火村は思わず眉を寄せてしまった。そしてその瞬間、ふとテーブルの上に放り出した様に無造作に置かれた見慣れぬ包みに目を止める。
「これは・・?」
「ああ・・・俺の両親が送って来たんや。手紙とアルバムやないか?」
「・・・・見てないのか?」
「封は開けたけど見てへん」
「アリス?」
 らしからぬ答えに眉間の皴を更に深いものにして火村は有栖を見つめた。
 僅かな沈黙の中、先に瞳を逸らしたのは有栖だった。
「・・・・あのなぁ・・別に無理に思い出さんでもええんやないかて思うんや。この間から色々本読んどるやろ?自分の作品も読み直してん。この前なワープロの中覗いたら書きかけの話が入ってた。少し練り直して、出来上がったら片桐さんに見て貰おう思うとるんや。そしたら今度は始めから自分で考えて書き始める。そりゃ、すぐには無理やと思うけど、読むのも、書くのも苦やないし、よう判らんけどしっくりくる。そこから始める。それでええんやないか?」
 聞こえてきた言葉が信じられなくて火村は小さく瞳を見開いてしまった。
「・・・・・本気で言ってるのか?」
「本気や。君にも出世払いの借りがあるしな。いつまでも一緒に居て貰うわけにもいかんやろ?」
「・・・・アリス」
「何も前の自分を取り戻す事を待ってなくても、俺は俺や。そう思わんか?」
 再び向けられた瞳はどこか痛々しい気がした。
「・・・・・・・」
「だから行かへん。無理やり前の自分取り戻す様な真似する事はせぇへんし、これも見いひん」
 けれどその瞳とは裏腹にきっぱりとした言葉。
 そして次の瞬間火村は思わず口を開いていた。
「・・・・それでいいのか?本当にそれでいいのか?アリス?それはただ単に逃げてる事じゃないのか!?」
 途端に有栖はグッと唇を噛み締めた。
 それを見て火村はそんな事は有栖自身が一番よく判っている事なのだと今更ながらに思った。
「・・・・・余計な世話や」
 少し蒼い、引き吊った顔。
 又しても有栖は自分の中に何かを溜め込んでいて、自分はそれに気付けなかったのだ。自分の無力さと鈍感さを呪いながら火村は無言のまま、瞳で、全身で思い出したくないのだと語っている有栖を見つめていた。
 やがて、有栖がクシャリと泣き出しそうに顔を歪める。
「・・やっぱり・・そうなんや・・。君も記憶のある俺の方が大事なんや!」
 それは火村が予想もしていなかった言葉だった。
「アリス・・?」
「そらそうやろな。何も判らん、たかだか1ケ月ちょっとの付き合いの“俺”よりも10年以上も一緒に過ごしてきた“俺”の方が大事なんわ当り前やわ!せやけどな、今ここに居るんわ“俺”や!俺が『有栖川有栖』なんや!!」
「・・ア・・リス・・・何を・・」
 肩で息を一つして泣き出す寸前の子供の様に顔を歪めたまま有栖は再び口を開く。
「こんな風に考える事自体おかしい思うやろ?俺かて始めはそう思うた。けど思うそばから違うって・・・俺は俺やて・・」
「・・・・・・・・」
「記憶を失した時・・・恐かったんや。右も左も判らんような状態で、俺が知らない、俺を知っている奴等が心配顔でやってきて・・・その度に恐くて、心細くて。早よ思い出さなあかん思うた。せやけどどうすればええのか判らなくて焦ったりもした。けどな今はもっと恐い。明日起きたら“俺”はいなくなっているかもしれへん。何もなかった様に今までの“俺”が目を覚ますかもしれへん。おかしいやろ?どっちも俺やのに恐いんや。記憶喪失の間の記憶言うのは大抵記憶を取り戻すと無くなってしまうんやて。・・・みんなが“もう一人の俺”を待っている。“俺”が居た事なんか忘れてしまう。それで良かったって言うんや。じゃあ・・ここでこうしてお前と話をしている俺は誰や?なぁ・・」
 ついにポロポロと溢れ出した涙を茫然と見つめて火村は小さく口を開いた。
「アリス・・」
「呼ぶな!そんな風に呼ぶな・・・・思い出してほしくて抱いたくせに・・!」
「!」
「・・・・抱かれるのは嫌やない・・」
「・・・・・・・」
「けど・・抱かれる度に辛い」
「・・・・・アリス・・」
「・・・・・・お前の事だけでも覚えておかれたら良かったのになぁ・・」
 小さな、小さな声だった。
 その言葉を聞きながら火村はただポロポロと涙を零す有栖を見つめていた。
「そうすればこんな気持ちにならんかったんや・・」
「・・・・・・・」
 頬を伝って流れ落ちる綺麗な綺麗な透明の滴。
 そして・・・・。
「・・・お前が・・好きや」
 その瞬間聞こえてきた言葉に火村は思わず瞳を見開いてしまった。それを見て有栖が微かに微笑う。
「記憶を失くして、思い出す手段の為にこうしていたんやもんな?ほんまはその手もその声もみんなみんな“俺”のもんやあれへんねん。それが辛いんや。アホや・・俺・・」
 両手で顔を隠したその指の間から見えるとめどなく涙が流れ落ちて行く。
 そんな有栖を見つめながら火村はうまくついてこない思考を必死で動かした。
(有栖は今・・何と言った?)
 コクンと喉が鳴った。
(・・好き?・・俺を・・?)
 頭が混乱する。
(好きだって・・?)
 言葉の意味が理解出来ない。
「・・せやから俺なぁ、君に意地悪すんねん」
「!?」
 突然耳に飛び込んできた楽しげな、けれどどこか悲しい声に火村は慌てて有栖に視線を戻した。
 その火村に向かって有栖はいっそ場違いな程鮮やかな笑みを
浮かべて口を開く。
「君に二度と“俺”を返したらん」
「・・・・・何言って・・」
「・・・・もう帰ってええで?いくら抱いても俺は思い出す気はないんやから」
「・・・・・・・お前は・・」
「・・・・・・・・」
 見つめあった瞳が交差する。
 僅かな沈黙。
 “お前はお前だろう?”と言いかけた言葉を飲み込んで火村は胸の中で自嘲した。
(それを俺が言える権利があるのか?)
 そう・・瞞してその身体を手に入れた自分に、それを口にする権利は何ひとつないのだ。
「・・・・・・判った」
「!!」
 その言葉に弾かれた様に上げられた瞳から火村は無情に視線を外した。そうしてそのままバサリとソファに掛けてあった上着を取り上げて、鞄を手にするとスタスタと玄関に向かって歩き出す。
「ひ・・火村・・」
 追いかけてくる小さな声。
 別に今の有栖と以前の有栖を分けてどうこう考えた事は火村にはなかった。ただ有栖は有栖で、強いて言えば記憶を失った今の有栖を瞞して手に入れた事で自分は『有栖川有栖』という人間に対して大罪を犯している。
 その事実があるだけだった。
 カチリと鍵を開けてドアを開ける。
 押し寄せてくるヒヤリとした空気。
 暮れ始めると昼間の穏やかさとはうって変わってガクンと気温が下がり始める。
 その冷たい空気の中を上着も羽織らずに歩きながら火村はただ前を見つめて歩いて行く。
 結局何をどうしても自分は有栖を失うのだ。
 記憶が戻れば有栖は火村の犯した罪を断罪するだろう。
 そして、記憶が戻らなくとも有栖は自分を手に入れた火村英生をこうして切り捨てる。
“お前が・・好きや” 
 耳に残る甘い、けれど切ない言葉。
 自分は一体有栖をどこまで傷付ければ気が済むのだろう?
(・・・終わりにしてやるよ・・アリス・・)
 胸の中で呟いて火村は後ろを振り返る事なくエレベーターまで歩き、3階で止まったまま降下マークの浮かぶそれに舌打ちをして再び階段に向かって歩き出した。
 7階分を下るのは頭を冷やすには丁度いいかもしれない。
 カツンカツンと響く足音。
 大罪を犯しながら何かに縋る様に甘い夢を見ていたのだ。あの身体を抱き締めながら、確かに自分はこのままこうしていられればと願っていた。
「・・馬鹿か・・」
 カツンカツンと冷たい音が一定のリズムを刻んでゆく。
 6階から5階へ・・・。5階から4階へ・・・。
 一つ一つ確実に全てが火村から遠ざかってゆく。
 けれど・・・。
「・・!?」
 ふいに重なった不規則なリズムに反射的に顔を上げた火村の瞳に居る筈のない姿が映った。
 泣いている大きな瞳。
 つっかけただけの靴。
「ひ・・む・!」
 そしてその瞬間ズルリと足を滑らせた身体に火村は夢中で手を差し延べた。
 数瞬遅れてドサリと落ちてきた重みを全身で受け止める。
「・・・・っ・・」
「・・・な・・何をしているんだ!!怪我をしたらどうするんだ、馬鹿野郎!!」
 ほぉっと息をついてそのまま怒鳴り出した火村の腕の中で有栖はビクリと身体を震わせた。
「・・・・馬鹿って言うな・・」
「・・アリス・・?」
「馬鹿なんわ・・言われんでもよぉ判っとるから・・」
「・・・・アリス・・」
「・・くな・・」
「・・えっ?」
「行かんといてくれ・・」
「・・・・・・・」
「好きやから・・せやから・・」
 ギュッと握り締められたシャツ。
 震える身体。
 止まらない涙。
「・・・・・・アリス!」
 そうして次の瞬間、火村は腕の中のぬくもりをギュッと抱き締めていた。


別人格の意識。これが書きたかった。でも当時は結構こんな風に考えることが意外だと言われました。
でも気になるよね・・・多分。『自分』だから余計に意識するような気がするんだけれど・・・・。