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Gloria 9

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 「何や知らん間にすっかり花見の季節なんやなぁ・・」
 京都の北白川にある火村の下宿。
 その窓の所にビールを片手に腰掛けて有栖はポツリとそう漏らした。
「・・・浦島太郎にでもなった気分や」
 記憶を取り戻して1週間。
 又その1週間がうんざりする程大変だったのだと有栖は思い出すのも嫌だと言う様に顔を顰めてビールを煽る。
 そう、火村に病院に引きずられる様に連れて行かれて、訳の判らない脳波だの何だのの検査から解放されたと思ったら久々に会った両親に泣きながら抱きつかれて良かったと叩かれた。
(全く・・喜ぶか、怒るか、泣くかのどれかにしろっちゅうんじゃ・・)
 その後にも編集担当の片桐や作家仲間たちが訪ねてきて、どこから聞きつけたのか大阪府警の捜査一課からも花束等をいただいてしまったりと、とにかく気恥ずかしいやら、訳が判らないやらで未だに騒がしいマンションを飛び出して有栖は火村の下宿を緊急避難先として選んで押しかけてきたのだ。
「・・・・後2.3日もすれば満開やな」
 隣の隣の庭にある桜を眺めて有栖はそう独りごちる。
 その横顔を見つめて火村はスッと視線を広げていた本に戻した。
「何やセンセ、こんな時期に仕事か?」
「うるせぇよ。この時期が忙しいんだ、俺は。パーになってた誰かさんの面倒を1ケ月以上もみてたからな」
「・・・悪かったな」
「安心しろ。この貸しは末端まできちんと請求してやる」
 火村の言葉に「そういう奴だよな」と有栖は小さく唇を尖らせた。
「・・・・なぁ、火村。花見に行きたいなぁ」
「花ならそこから見えるだろ」
「・・・・そういうんやなくてちゃんと花見に行きたい」
「聞こえなかったのか、アリス。俺は学会やら、新年度の事やらで忙しいんだ」
 「大体お前の場合は花より団子だろう?」と言葉を繋げた火村に有栖はますますムッとして口を開く。
「あのなぁ!君は大いなる誤解をしとるで?作家という職業の人間は実に繊細で細やかな神経を持っているんやで!?」
「どこにでも例外はあるさ」
「・・俺の事かい!」
「さぁな」
 言いながら小さく肩を竦めると火村は畳の上に転がっていたキャメルの箱に手を伸ばした。そばでは有栖がまだブツブツと文句を言っている。
 有栖は記憶を失っていた間の事を何一つ覚えていなかった。
 医者はよくある一般的なケースだと言ったが火村にはそうは思えなかった。
 あの言葉通りに有栖は望んで火村が受けるべき罰を受け入れたのだ。
 だから、火村も又その罰を受け入れなければならない。
 何もなかった、聞かなかった事として有栖の側に居なければならない。火村を好きだと言ってこの腕の中で眠った有栖と罪を共有する為に。
「花見くらい付き合うてくれてもええやんか」
「ここでならな」
「ケチ!」
「ケチで結構」
 きっぱりと言い切った火村に、有栖はフイと視線を外に戻した。そして。
「・・・・・なぁ、記憶のない時の俺ってどんな奴やった?」
「何だ急に」
 突然のその問いかけにカチリと煙草に火をつけて、火村はゆっくりとその煙を吐き出した。
「何となく・・」
「・・・変わりなくアリスはアリスだったぜ?」
「・・何やそれは」
「・・ただ・・」
「ただ?」
「同じ事を言ってたな」
「えっ?」
「記憶のある時の自分はどんな奴だったか聞いてた」
「・・へぇ・・」
「一度だけな」
「・・・・・」
 訪れた沈黙。
 サァーと春の夜風が有栖の頬を撫でて通り過ぎる。
「・・・・・・何や口惜しい」
「アリス?」
「俺の知らない時間を火村が知ってるって言うんが何か口惜しい気がする」
 その言葉に火村はクスリと笑いを漏らした。
「馬鹿・・もう酔ってるのか?」
 そう言って火村はパタンと本を閉じた。今夜はこれ以上仕事をするのは無理そうだ。
 ニャーと聞こえた声に振り返ると襖の向こうで小次郎がウンと伸びをしているのが見える。
 瓜太郎と桃の2匹はどうやら気の優しい大家の所にいっているらしい。
 ありふれた、ありふれた、日常の風景。
「・・・・・・そのうち思い出せるかな?」
「・・さあな」
 ポツリと聞こえてきた言葉に火村は振り返らずに答えた。
「・・・・時々な、夢を見る。多分記憶のない時の事やと思うんやけど、朝になるとどんな夢やったんか全然判らんのや」
「・・・・・・」
「ワープロの中にあった文章が同じのが二つあって、片方だけが進んでたり、全然覚えのないプロットがノートに書き止められてたり・・・俺やない俺が・・・でも確かに俺が居ったんやなぁって思う」
「・・・・・・・そうか」
「・・・・夢な・・」
 短くなったキャメルを灰皿に押しつけて火村は途切れてしまった言葉にふと顔を上げた。
「アリス?」
「・・・覚えとらんのやけど、何やすごい幸せな気がして。けど何でか悲しくて、起きたら泣いてたんでびっくりした」
「・・・・・・・」
「・・・・・何でか判るか?」
「・・さぁ・・お前の夢の中までは判らねぇな」
 再び訪れた沈黙。
 何かを感じとったかの様に小次郎の姿は消えていた。
「・・・・桜が・・」
「え?」
「桜を見てたら、夢を見た時と同じ気持ちになったんや」
「・・・・・・・そうか」
 繰り返された短い答え。
 けれど、自分には何も言えないのだと火村は思った。
 与えられた罰を受け続ける為に何も言えない。
「・・・何でかなぁ・・今年は無性に花見に行きたいねん」
 外を見つめたまま、有栖は又独り言じみた事を言う。
「しかもおかしいねん。場所が限定しとるんや」
 言いながら振り返って有栖はツイと手を伸ばした。
 ビールのお替わりを要求しているのだ。
 それに気付いて火村は小さく溜め息をつくとテーブルの上に置いてあったアルミ缶をポンと投げて寄越す。
「すぐに開けるなよ」
「判っとる」
 そう言いながら有栖の指はすでにプルトップにかかっていた
「・・・とと・・」
「外にもっと出せ、外に!零すな!」
「大丈夫」
 白い泡の溢れるそれを口に持っていってコクリと飲むと子供の様に口元を手で拭いながら有栖は再び火村を振り返った。
「どこやと思う?」
 答える代わりに火村は小さく肩を竦めた。
「造幣局の通り抜け」
!!」
「変やろ?何でそんな所に行きたいんか判れへんけど行きたいねん」
 同じ様に肩を竦めて有栖はそっとビールを口元に運んだ。
 その途端重なった視線。
「・・・・・あ・・れ・・?」
 不自然に途切れた言葉と訝しげに寄せられた眉にドクンと火村の鼓動が鳴った。
「・・・何・・か・・・これ・・」
 漏れ落ちる有栖の言葉に火村の思考が目まぐるしく動き始める。有栖が記憶のなかった時の事を覚えていなかったのはただ単に一番多い症例に過ぎず、火村の罪はやはり火村自身が全て受けるべきであって、その記憶は今、思い出されようとしていて!
“好きや・・火村・・愛してる・・” 
 有栖でない、けれど有栖でしかない、悲しくて愛しい有栖。
“お前と出会えて良かった” 
 耳に今も残るあの声を、自分は神の救いの様に思っていたのだ。神を信じた事もないと言うのに!
「・・・・アリス・・」
 苦しげな言葉を漏らした火村の前で有栖は眉間に皴を寄せた
「・・・・お前が・・・誘った・・んか?」
「・・・・アリス・・!」
 やはり、罪は裁かれるべきものなのだ。
 神の救いなどある筈がない。
「・・・・俺・・は・・」
 断罪される瞬間がそこまで来ている事を火村は感じていた。
 瞞して・・思い出したいのだと、自分が誰だか判らないのは嫌だと泣いた有栖につけこんでその身体を手に入れた罪。
 けれどその罪の中で自分は幸せだったのだと火村はゆっくりと瞳を閉じた。
“好きや・・火村・・” 
 再び聞こえた“有栖”の声に火村は胸の中でそっとそっと声にならない言葉を囁く。
(俺も、好きだぜ・・アリス・・)
 瞬間脳裏に甦るあの日の幸せそうな微笑み。
「・・・・・・夢が・・」
「・・え?」
 そしてそれは有栖の言葉でパンと弾ける様に消えた。
「幸せで・・悲しい夢・・」
「・・・・・・・」
 眉間の皴を更に深くして有栖は何も言わない火村をじっと見つめていた。
 そしてポツリと口を開く。
「・・・・・ほんまは一つだけ思い出してん」
「・・・・・・・」
「“忘れたくない。せやけどこれは罰なんや”って。これ、どういう意味か判るか?」
 コトリと置かれたビールの缶。
 風が再び有栖の髪を揺らす。
 張り詰めた沈黙。
 じっとひむらを見つめたまま有栖はその視線を反らさない。
「・・・・・・・アリス・・俺は・・」
 耐え切れずに口を開いた火村の言葉を遮る様に有栖は静かに口を開いた。
「・・・・花見に連れて行け。約束したやろ?火村」
 それは、どこか確かめる様な響きを持った言葉だった。
 けれどその言葉の不安定さと反比例するかの様に真っ直に見つめてくる綺麗な瞳。
 ついに罪が暴かれるのだ、と火村は思った。
 その口で有栖は火村に言うに違いない。
 裏切り者と、そして二度と姿を見せるなと。
「・・・・・っ・・」
 一つ息を吐いて俯くと火村は見つめてくる有栖の瞳をもう一度しっかりと見つめ返した。
「約束した筈や。連れて行ってくれるやろ?」
 繰り返される、けれど今度こそはっきりとした確信を持った言葉。
「・・・・・・・」
「そうしたら俺も思い出したる」
「・・・・・・・」
「お前の欲しかった言葉を言ってやる」
「・・・・・・・・・連れて行くよ、約束だ。アリス」
(そうして俺の願った通り俺を断罪して全てを終わらせろ)
 全てを諦めたようなその声に有栖はクシャリと泣き出しそうな笑いを浮かべた。
 そしてその次の瞬間、有栖は火村の待ち望んでいた言葉を口にした。
「・・・・・・好きや、火村」
「−−−−−−−−−−−!!」
 弾かれたように上げられた顔。
 茫然と見開かれた火村の瞳の中に涙を浮かべて微笑う有栖が映る。
「間違うてたか?」
「・・・・・お前・・」
「ほんまに今の今まで判らなかったんや。でもよっぽど花見に行きたかったんやな。お前がフィールド以外で俺を誘うんなんて滅多にない事やからな。思い出したわ」
「・・・・・・・・アリス・・」
「何や?」
「・・・・・俺は」
「・・・瞞したんわ出世払い予定の面倒かけ代で帳消しにしたるわ。何たって俺たちは共犯者やから」
 言いながら飛び込んできた身体を火村は反射的に受け止めたあの日と同じ暖かなぬくもりがここにある。
「・・・アリス・・」
「うん?」
「・・・・アリス・・なのか?」
「お前が言ったんや。記憶があろうがなかろうが俺やって。今更あいつが好きやて言うても無駄やで。一緒になってんもん」
「・・・・・馬鹿」
「馬鹿って言うんやないって言うてるやろ?」
 腕の中から見上げてくる瞳を見つめて火村は有栖が初めて見るような泣き出しそうな小さな笑みを浮かべた。
 それにもう一度微笑って有栖はその言葉を口にする。
「・・・・・好きや・・火村」
 ギュッとシャツを掴んでくる指。
「瞞されたんやて判ってもお前の事離せへん。せやからこれが罰やで?ずっと俺の側に居らなあかん。瞞して抱いたお前と瞞されて抱かれた俺は確かに共犯者や。そうやろ?」
「・・・・ああ・・そうだな・・」
 それは、ひどく・・・ひどく甘美な罰だった。
「好きや・・」
 あの日と同じ言葉が繰り返される。
「アリス・・」
「好きや・・火村・・」
 もう二度と聞く事が出来ないと思っていた言葉が紡がれる。
「・・・・好きだ・・アリス。お前に出会えて良かった」
 火村の言葉にフワリと有栖が微笑った。
 微笑って、瞳を閉じて、引き合う様にそっと、そっと、口付けて。
「・・好きや・・」
 そしてその瞬間、確かに火村は聞いたのだ。
 神を信じない自分に、神を称える歌が・・・。
 グローリア
 幸あれ・・・と。


お付き合いくださいましてありがとうございました。
本当に思い入れのある作品なので、感想などありましたら聞かせていただけると嬉しいです。

で・・・・・実は記憶喪失の再録本を出したときにその後のGroriaというのを一緒に出しました。
それもアップしようと思います。

でも物語の続きはあまり好きではないのと言う方はここで終わりにしてくださいませ。

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