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「・・・・ゃ・・」
「・・・・構うな」
「そん・・あ・・いゃ・・」
 こんな風に…
「・・・っ・う・・ぁ・・」
「アリス」
 この身体に触れる筈ではなかったのだ…
「・・こん・・なん・・・・せんといて・・」
 言いながらポロポロと零れ落ちる涙。
 首を横に振る度にシーツに当たった髪がパサパサと音を立てる。
「いや・ゃ・・」
「・・声を抑えなくていい」
「・・ふ・・っ・」
「・・アリス」
 呼んだ名前に再び横に振られた首。けれど、それとは裏腹に、指先が白くなるほどシャツにしがみついてくる指に苦い思いが込み上げる。
 滲む汗。
 苦悶だけではない表情。
「・・ひ・む・・らぁ・・」
「アリス・・いいから・・」
「・・っ・・う・・」
「・・・・・俺だけだ。俺だけしかいない。だから声を殺すな。よけい苦しくなる」
「・・あ・・ぅ・・あ・・ああ・」
 肩口に埋められた顔。
 震えるその身体を緩く、けれどしっかりと抱きしめて再び湧き上がる苦い思いを押し殺す様に火村は低く囁いた。
「・・・大丈夫だ・・アリス」
「・・っ・ひむ・・」
「いいから・・」
「・・・っ・・」
「アリス」
「あ・・あ・・いゃ・・ああ・・」
 熱い吐息。初めて聞く甘やかな、けれどどこか痛々しい声。
 頬を伝って落ちる涙をそっと唇で辿って・・・。
「ん・・は・・ひ・火村・火村・・ひむ・」
「・・・大丈夫だ・・俺だけだ・・」
 その言葉に腕の中の身体が微かに頷いたように見えたのは身勝手な願望が見せた幻だろうか。
 繰り返される名前にせり上がってくる何かを抑えつけながら、火村はやりきれない思いで縋り付いてくる熱い
身体を抱きしめた・・・・
 
 
 
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Greendays

 

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 大阪在住の推理小説作家・有栖川有栖はぼんやりと空を見上げた。
 薄い雲のかかった早春の青空。
 いつもなら滅多に外出しない時間に、しかもまだ冬の名残を引きずっているような街に出たのは止むに止まれぬ事情があったからである。
「・・・・いくら何でも食料が全部底をつくって言うんわ情けなさ過ぎるな・・・」
 重なった幾つもの締め切り。
 一つ一つはエッセイだの、解説だの、短編と呼ぶのも憚られる程のページ数である短い話だのの小さなものだったのだが、それが却って災いした。
 長編で煮詰まる事この上ないと予測がつけばそれなりに前もって買い出しに出たのだが、何だかんだと次々と手をつけてゆくうちに買い置きの食料は冷凍食品からインスタントラーメンに至るまで使い果たし、果てはインスタントのコーヒーまでを切らして有栖は天の岩戸のごとく閉じきっていたドアを開き外に出てきたのだ。
「・・・これでほんまに季節でも変わってたら冬眠や」
 言いながら、思わず脳裏に浮かんできた十数年来の友人の顔に有栖は小さく溜め息をつく。
 こんな事が知られたら口の悪いあの男は何を言い出すか判らない。
 もっとも、こんな事態になったのは多少なりともあの男が原因である・・・・かもしれない。
 あの男・・・・十数年来の口の悪い友人。母校の社会学部で犯罪学の教鞭をとる助教授、火村英生。
 彼は長年の親友の生活能力に不安を覚えてか、修羅場の前後を見計らって連絡を入れ(彼曰く、生死を確かめているのだそうだ。失礼な男だ)食事に誘ったり、時にはぶつぶつ言いながらも有栖のマンションを訪れて食料を買い足したり、或いは手料理を振る舞ってくれたりと世話を焼いていたのだ。
 だがしかし、過保護は時として仇となる。
 自分で動かなくても食料が調達出来ていたという過去があれば、その作業は頭の中から排除されてしまうのは当然の結果であり、だからやっぱり少しは火村助教授がその原因だと思ってしまっても仕方がないではないか。
 そんな、彼が聞いたらそれこそ「けっ」とでも言いそうな事を考えながら有栖はスーパーの袋をゆっくりと右手から左手に持ち替えた。
 途端にガサリと鳴るビニール袋製の中で何かがバランスを崩した。
 割れて困るものは卵くらいだったなと荷物の中身を思い浮かべながら有栖は少し買いすぎたかと胸の中で小さく溜め息を落とした。 
「・・・冬眠再びになりそうやな・・」
 ポツリと零れ落ちた声。
 これだけ有れば10日は外に出なくてすむ。
 その途端『まだ籠もる気か』と呆れたような助教授の声が聞こえた気がして、有栖は小さく笑みを漏らした。
 そう・・・大体時期も悪かったのだ。
 卒業シーズンが近くなると、学校関係はまさに修羅場に入る。
 フィールドの誘いもなければ、所謂“生死の確認”もなく、便りのないのは元気な証拠とばかりに約1ヶ月の音信不通。
 唯一火村に威張れる事と言えばちゃんと死なずに生きていたと言うことくらいだろうか。
 もっとも、それを言ったら少なくても百倍くらいは嫌味が返ってくるのは分かり切っているが・・・。
「何しとるんかなぁ・・」
 今頃の時間は研究室で溢れるような資料に囲まれているのだろうか。
 それとも学年末の学生たちのレポートの採点で不機嫌を極めているのだろうか
「訪ねてみるかな・・」
 幸い後一つの原稿をこなせばしばらくは締め切りのない日々がやってくる。火村のように『陣中見舞いだ』等と言って食事を作るという言う事は間違っても出来ないが(火村自身もしてほしいとは思わないだろうが)寿司折りの一つや二つくらいの差し入れならば出来る。
「たまには逆転するのもええやろ」
 考えているとひどく楽しくなってきて有栖は口元に笑みを浮かべながら思わずもう一度空を振り仰いだ。
 そうして明らかに冬のそれとは違うどこか柔らかな日差しに僅かに目を細めて、次の瞬間。
「・・・あれ?」 
 有栖はいつもだったら気にも止めないようなものに気付いて立ち止まった。
「・・・へぇ・・変わった花やなぁ・・」
 白っぽい青空にスッと伸びた枝。
 それは石塀の向こう側、葉のないその枝の先にポカリポカリと浮かぶように咲いている白い花だった。
「・・・・チューリップ・・・なわけないわなぁ・・」
 形は似ていなくもないが、生まれてこの方、木にチューリップが咲くという話は聞いた事がない。
 何よりチューリップには立派な葉があった筈だ。
「・・・この時期に咲くのは梅の花位や思うてたけどこんな花も咲くんやなぁ」
 不思議な発見をしたかのように有栖はフラフラと吸い寄せられるようにその木のある家を覗き込んだ。
 そして・・・。
「うわぁ・・すごいわ・・」
 思わず漏れ落ちた声。
 その庭は、早春と言うことを忘れさせるような、緑に溢れていた。
 淡く柔らかな芽吹き特有の緑と灰色がかった様な青っぽい緑、そして冬を耐えたのだと主張する深い緑に、そ
れとは対照的な少し黄色がかった様な緑。
 勿論それらは初夏の日差しに輝く緑でも、真夏のようなけぶる緑でもなかったけれど有栖を驚かせるには十分すぎるものだった。
 大体『緑』という色にこんなにも種類があったのか。
 それがまず驚きで、更に有栖にとってのもう一つの驚きは季節を確認してしまいたくなるような花の多さだ。
 色とりどりの緑の中にこの表現もちょっとお
かしい気もするのだがひどく優しい雰囲気を作
るように植えられている、これも又微妙に異なる紫色を織り交ぜた花と、その間にアクセントにポンポンと植えられた白い小さな花と薄紅色の可愛らしい花々。
「・・ここだけ時間の流れが違うとか・・ってそれじゃSFの世界や・・」
 己の言葉を自ら打ち消して、それならばこの家の庭は地下熱でも出しているのだろうかと、これも又やや現実離れをした事を考えてしまいながら、有栖はもう一度、今度は閉められた青銅色の門扉にしがみつく様にしてその庭を眺めた。
「いい庭やなぁ・・・」
 思わず零れ落ちた声。
「・・こんな庭があったらええなぁ・・」
 春まだ浅い季節にそこかしこに可愛らしい花々が咲き
優しい緑に囲まれた庭。
 大邸宅というわけでもなく、いつか見た英国庭園のように広大な庭でもないけれど、その空間は心のどこかをドキドキとさせる何かを持っていた。
 別に庭や草花に特別な思いの様なものを持っているわけではないけれど、ひどく魅きつけられる。
「・・・いつかこんな庭を持ちたいなぁ・・」
 小さくても落ち着けて、それでいてあの茂みの後ろには何が隠れているのだろうか等とどこか遊び心をくすぐられるこんな庭を持ちたい。
 そんな有栖の声にならない声が聞こえたかのように突然有栖の耳に柔らかな声が飛び込んできた。
「ありがとうございます」
「えっ!?」
 慌てて振り向いた途端瞳に映ったのは優しげな微笑みを浮かべた若い女性だった。
 20代半ばくらいだろうか、緩くウェーブのかかった髪が肩口で僅かに揺れている。
「・・あ・・あの・・すみません!別に怪しい者やないんです!!その・えっと・・」
「庭をご覧になっていたんでしょう?」
「・・はい」
 女性の言葉に有栖はホッと胸の中で息をついた。
 どうやら家の中をうかがっている不審人物とは思われなかったらしい。もっともこれだけ大胆に覗き込むような人間が何かをうかがっているとは思えなかっただけかもしないが・・。
「あの・・この家の方ですか?」
「いいえ」
 小さく首を横に振って女は再びにっこりと笑った。
「え・・あの・・それやったら・・」
 それに今度は有栖が訝しげな表情を浮かべる事になる。
 確か先程自分は「ありがとうございました」と言われた筈なのだ。
 話の流れというか、このシチュエーションから普通に考えれば、阿呆面をして自慢の庭に見とれていたらしい通行人に声をかけた家人というのが一番あり得る事だと思っていたのだがそれは違うらしい。
 ならば何故自分は「ありがとう」などと言われたのだろうか?
 そんな有栖の疑問に答えるべく、女はペコリと小さく頭を下げてから静かに口を開いた。
「失礼しました。私はこの庭をデザインした者なんです」
「・・・庭を、デザインするんですか?」
 思ってもみなかった答えに、有栖は呆然としたように言葉を繰り返す。
 再び小さく浮かんだ微笑み。
「ええ、ガーデンデザイナーとか、ガーディナーとかようするに造園業者や庭師のようなものです」
「・・庭師・・ですか・・」
 何だか不思議な単語ばかりが飛び出す気がする。
 横文字の職業名から打って変わったような“庭師”等という言葉に、次の瞬間、頭の中に思わず大きな剪定鋏が浮かんできて、有栖は目の前の華奢な自称“庭師”をマジマジと見つめてしまった。
「・・あの?」
「あ、すみません!庭師なんて聞いたもんやからつい昔ながらのあれを想像してしまって。色々な職業があるんですねぇ」
「ええ。一応昔から有るには有った職業なんです。でもこんな風に身近なものとなったのはガーデニングが流行り始めてからですね。」
「ああ・・!」
 その言葉なら耳にしたことがある。
 かくいう有栖のマンションにもベランダに溢れるほどの花々を飾っている家がある。
 もっともその部屋の住人とは顔を合わせたことはないのだけれど。
「そうなんですか。それにしても、綺麗な庭ですね。
思わず自分が部屋に籠もっている間に季節が変わってしまったのかと思ってしまいました」
「まぁ・・」
 冗談半分、本気半分の有栖の言葉に彼女はおかしそうに笑う。
「私はこういう、花とか、草とかそう言うものには全くと言っていいほど知識がない人間ですが、この庭は凄く好きです」
「ありがとうございます。夏に向けての花のご相談でこちらに寄せていただいて、出てきたら熱心に庭を見ていらっしゃる方がいらしたので、ついつい側に寄ったらこんな庭が持ちたいと言うような声が聞こえて、嬉しくなって声をかけて驚かせてしまいました。でもそんな言葉を頂けて本当に嬉しいです」
 小さな悪戯をしてしまった子供の様な表情から、プロの仕事人としての満足げな笑みに表情を変えて、彼女は自分の造った庭に視線を移す。
 それを見つめながら、有栖も又ゆっくりと庭に視線を戻した。
「緑の多さにもびっくりしたんですけど、こんな季節でも色々な花が咲くんですね」
「ええ。紫色の花がパンジー。白い小さな菊のような花がノースボール。薄紅色の丸い花がデイジー。直まきしたものもあるので、これからまだまだ鮮やかな色が添えられていきます」
 彼女の言葉に有栖は一つ一つの花を目で追った。
 そうして、ふと、一番始めに興味を持ったそれを尋ねてみたい衝動に駆られて、空に向かって伸びる葉のない枝に白い花を咲かせる木の方に顔を向けた。 
「あの・・」
「はい」
「あの木はなんて言う木なんですか?」
「え?どれですか?」
「あの、右の・・えーっと・・枯れ枝にティッシュをくっつけたような」
「ティッシュ・・!?」
「あっ・・!」
「いやだ」
 途端に吹き出すようにして笑い出した彼女に有栖は赤い顔でワタワタと口を開いた。
「す・すみません・・!!あの白い・・」
「判りました。確かに枯れ枝にティッシュの表現はピッタリだと思います」
 言いながらも止まらない笑いに、けれどそれ以上何も言えなくなってしまって、有栖は彼女の笑いが納まるのを少しだけ居心地の悪いような気持ちで待っていた。
 そして・・。
「ごめんなさい。あれは白木蓮です」
「ハクモクレン?」
「ええ。木蓮と言う木をご存じですか?その仲間です」「・・・・木蓮・・・」
 聞いたことのある名前だった。
 草木に関してはひどく貧困な知識の中をガサガサと家捜しをするようにして、有栖はやがて一つの記憶に辿り着いた。
「木蓮って確か、渋い紫色やなかったですか?」
 そう。確か北白川の友人の下宿先で教えて貰った覚えがある。
(そう言えばあの時も紫色のチューリップみたいな花とか言って思い切り馬鹿にされたんや・・)
 余分な記憶までを思い起こして、有栖は小さく顔を顰めた。 
 もっとも、その後で火村自身も「そないからかうもんやありません」等と言われていたのだからそれはそれでざまぁみろだったのだが。
 ともあれ、その時に篠宮邸の庭先に咲いていて、下宿屋の主人である婆ちゃん自ら教えてくれたのが“木蓮”と言う花だった筈だ。
 木の蓮と書いて“モクレン”と読むのだと言ったその言葉になるほどとうなずいた覚えもある。
「ええ。普通の木蓮は確かに紫色です。その仲間で白い花を咲かせるのが白木蓮。こちらのお宅はこの白木蓮をシンボルツリーとしてデザインをして欲しいと言うことでしたので、目を引かれたのならばそれも大成功ってことですね」
 肩口でフワリと揺れた柔らかそうな髪。そうして次の瞬間、彼女はハッとしたように細い手首にはめられた腕時計を見て、慌てた様に声を上げた。
「あら、いけない。もうこんな時間だわ。ごめんなさい。道端ですっかり話し込んでしまって」 
「ああ、いえ、こちらこそ。すっかり長話をしてしまいました。その・・これからも頑張ってください」
「ありがとうございます。あ、そうだわ」
 言いながら彼女は手帳を取り出すと名刺を一枚取り出して、有栖に差し出した。
「遅ればせながらですが、名刺です。よろしかったら貰っていただけませんか?」
「え?あ・すみません。私は今、名刺の持ち合わせがなくて。えっと有栖川と言います」
「皆川です。もしもお庭をお持ちになりましたら是非声をかけてください。こんな庭を持ちたいと言っていただいた事、そして、この庭が好きだと言って下さった事。本当に嬉しかったです」
 傾き始めた眩しい太陽を背に彼女はそう言ってひどくひどく幸せそうな笑みを浮かべた。
 
 
 
 
 
 これが、有栖と皆川有希恵との出会いだった。


長い話の始まりです。とにかく草花系の毒は色々調べました。シリアス&メロドラマ(笑)
お付き合いください。