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Greendays 2


 シトシトと雨が降る。
 青灰色とでも言うような色にけぶる窓の外。
 今年もほぼ例年通りにやってきた“鬱陶しい”と言う修飾語を使われる雨の季節。
 その中でひどく生き生きとしている紫陽花の花にふと目を留めて、火村は一つ息をついた。
 京都・北白川の下宿。
 学生の頃からずっと住んでいるここは、今となっては
店子は火村一人だけになってしまった。
 けれど、ここから見える景色はほとんど変わらない。
 まるで時間が止まっているようだ。
 思わずそんな錯覚に陥りながら、次の瞬間らしくもない感情だと苦い笑みを零して、火村は途切れてしまった集中力に読んでいた本に栞を挟んでパタリと閉じた。
 そうしてその次に、机の上に放り出してあったキャメルの箱にゆっくりと手を伸ばす。
 取り出して、口に銜えて、火を点ける。
 その一連の動作をひどく面倒くさげにこなして、ふぅっと吐き出した白い煙。
 チラリと見た目覚まし時計として使っている時計は5時をいくらか過ぎたところだ。
 論文の資料となるこの本に向かったのは確か2時前だった。随分集中していたものだと思った途端痛み出した肩を動かしながら、火村は灰皿にトンと灰を落として吸いかけのそれを再び口に銜えた。その途端。
「ニャァ・・」
「なんだウリ、腹でも減ったのか?」
 頃合いを見計らったかのように近づいてきたのは瓜太郎と言う名前の飼い猫にだった。
「ニャァー」
 声をかけてもらえたのが嬉しくて、瓜太郎はもう一度鳴く。それにひどく優しい笑みを浮かべて、火村は再び口を開いた。
「どうした?雨で外に出られなくて退屈なのか?」
「ニャァ」
「明日にはあがるらしいからもう少しの我慢だな。もっとも晴れるのは一日だけらしいぞ」
 そう口にしてふと脳裏を過ぎったのはもっぱら家に籠もってばかりの友人の顔だった。
 彼は今頃何をしているのだろうか?
 雨が降っているのに気付いているだろうか?
 それともただひたすらにワープに向かってキィを叩いているのだろうか?
「梅雨に入っている事自体知らなかったりする可能性もあるんだよな、あいつの場合」
 呆れた様に、けれどどこか楽しげにそう呟いて、火村は落ちかけていた灰を慌てて灰皿の上に落とした。
「ニャァ・・」
 その途端、主人の注意が逸れたことを抗議するように瓜太郎が声を上げる。
「悪かったよ」
 クスリと漏れ落ちた笑い。
 続いて他の猫たちまでもが僅かに開けてあった扉からスルリと身体を滑り込ませてやってきたのを見て、火村は小さく溜め息をついた。
 どうやらしばらくは完璧な休憩時間になりそうだ。
「・・・コーヒーでも飲むか」
 言いながら煙草を灰皿の上で揉み消して立ち上がる火村を見つめる火村6つの目。
「煮干しでも持ってきてやるから待ってろ」
 それに幾分笑いを含んだ声で返して、火村は台所に向かって歩き出した。
 その途端…。
「ニャア」
 ピクンと耳を立てて小次郎がドアの方に顔を向けた。「どうした?」
「ニャアー」
 尋ねるとそれに返事をするかのように唯一の雌猫である桃がパタパタとしっぽを畳の上で踊らせる。
「桃?・・・ウリ?」 
 一番始めに行動を起こしたのは瓜太郎だった。
 スルリと部屋から出てゆく後ろ姿をカップを片手に眺めていると、やがて他の2匹までもがそれに習って部屋から出てゆく。
 家主に何かあったのだろうか?
 思わず寄せられた眉。けれどついで耳に飛び込んできたひどく聞き慣れた声に火村は本日二度目の苦笑を浮かべることになる。
「こんにちわー・・ってなんやウリ、出迎えかぁ。さてはこれが目当てやな。お、コォも桃ちゃんも元気やったかぁ?ほら土産を買うてきたから後で火村に食わせてもらえよ」
 階下から響いてくる声。猫たちの鳴き声に重なるようにして家主が「まぁまぁ、こんな雨の中を」等と言っている。
「ったく・・噂をすればだな」
 火村のそんな呟きが聞こえるはずもなく、噂の主は「お邪魔しまーす」等と言いながら階段を登ってくる。
 ギシギシと軋む音が聞こえる。
 近づいてくる足音。
 やがて・・。
「火村ー、居るんやろー、入るでー」
 返事も聞かないうちに物事を実行に移すのは学生時代から変わらない彼の癖だ。
「声が聞こえとったんやろ?全く顔くらい出してもバチは当たらんで」
 ドアを開けての第一声。
 それにニヤリと笑って火村は二つのカップを持った右手を掲げて見せた。
「よぉ、先生。匂いでも嗅ぎつけて来たのか?ちょうどコーヒーブレイクをしようと思っていた所だ。欲しけり ゃ淹れてやるぜ?」
「・・・・・いきなりの挨拶がそれかい」
「ばーか。御同類だろ。おまえだって似たり寄ったりだったじゃねぇか。それで、いるのかいらないのか、どっちなんだ?アリス」
「いる」
「一杯百円な」
「おい!?金を取るつもりか?」
「世の中どこも不景気でなー」
「ちょっと待て!!だからって友人からコーヒー代を奪い取る理由にはならんやろ!仮にも最高学府の教職者たる人間がそう言う了見で済まされると思っているのか?
大体、インスタントのコーヒーで金を取ろうって態度がすでに厚かましいねん!!」
 立て板に水のごとく、喋り出したら止まらない勢いでまくし立てる有栖に火村は小さく肩を竦めた。
「・・・ったく相変わらずだな」
「何やて?」
「冗談だ。極貧の推理小説作家からコーヒー代をむさぼり取るほど落ちぶれちゃいないさ」
「・・極貧は余計や!大体、相変わらずなんは君の方やろ。ほんまに君が言うと冗談が冗談に聞こえへん」
「・・・ほぉ・・なら、本気でも俺はいっこうに構わねぇけどな」
「・・・喧嘩を売っとるんか君は」
「いいや、とんでもない。熱烈な歓迎をしているんだぜ」 シレッとそう答えた火村に有栖は今度こそガックリと肩を落とした。
 

 
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 雨は夜になっても降り続けていた。
 どうやら今朝の天気予報通りに明日の昼過ぎまでは降り続けるつもりらしい。
「・・おい、ここで寝るなよ」
「・・・判っとる」
 言いながらコロリと畳の上に転がってしまう有栖に火村は胸の中で小さく溜め息を落とした。
 家主に夕食を呼ばれて、風呂に入って、その後有栖自身が持ち込んだ酒と肴で酒会が始まった。
 はじめのうちは他愛ない話ばかりだった。
 けれど途中から有栖の口が重くなり、次第にぼんやりとしてしまうこと事が多くなった。
 単に酔っただけではない。それは今までの付き合いの長さで判る。
 大体こんな風に何も知らせもせずに下宿に来ること自体が珍しいのだ。
 学生時代にも、有栖のサラリーマン時代にも、こんな事が何度かあった。
 こんな風にひどく陽気にはしゃぐような真似をして気付くと自分の世界に入ってしまう。
 そんな時の有栖は大抵何かを胸の中に抱えている事が多い。
 空になった何本目かの缶ビールをテーブルの上に置いて、火村は残り少なくなったキャメルを取り出して火を点けた。
 ユラリと立ちのぼる紫煙。
「アリス」
「何や・・?」
「何があった?」
「何って・・」
「言わなきゃ判らない。お前の頭の中身まで全ては網羅出来ないからな」
 ゆらゆらと煙草を燻らせながらの火村の言葉に寝転んだまま、有栖はクスリと小さな声を立てて笑った。
「何や、それやったら何割かは判るみたいやないか」
「まぁな。誰かさんは表情が非常に豊かなんでね」
「・・・・・ほんまに今日はいつも以上に突っかかる物言いをするな」
「お前がきちんと話さないからだろう。ほら、酒も入って滑らかな口が更に滑らかになってきたところでさっさと吐いて楽になれ」
 往年のテレビドラマの刑事のような火村の言葉に有栖はもう一度小さく笑った。
 そうして次の瞬間、ゆっくりと身体を起こす。
「・・・大したことやないねん」
「・・・・・」
「いや、起こった事自体は大した事ないなんて言うたらバチが当たるんやけど・・・」
「・・・おいおい謎かけか、先生」
「ちゃうわ・・・その・・知り合いが亡くなったんや。
知り合いって言うても、何度か顔を合わせた事のある程度のもんなんやけど。自分が知らんうちにこの世からいなくなってしまった言うのが、何や悲しくてなぁ・・」
 静かにそう言って、有栖は少し温くなってしまった様なビールに口を付けてクシャリと顔を歪めた。
「・・・彼女な・・自殺したらしいんや」
「彼女?」
 短くなったキャメルを灰皿の上に押しつけて、火村はそれを取りだした手を一瞬だけ止めた。
「ああ・・ほら、前に話したやろ?自称“庭師”のガーデンデザイナー」
「・・・ああ、お前が枯れ枝にティッシュで笑いを取ったって言う」
 再び点けられた火。
「・・・いらん事覚えとるんやないわ。まぁ・・その彼女や。あの後も偶然ばったり会う事が1.2度あって。ちょっと話をしたりして」
「・・・・・」
「今度の新作で植物関係の事が知りたくて、1ヶ月くらい前やったかな、話を出したらお役に立てる範囲でならって言うてくれたんや」
「で、時間が出来て、いざ電話をしてみたら、彼女は他界していたと」
「うん・・・」
 こくんと小さく頷いて黙り込んでしまった有栖を目の前に火村はただ煙草を燻らせていた。
 訪れた沈黙。
 それに耐えられなくなったのは、有栖の方だった。
「・・ごめん」
「なんで謝るんだ?」
「・・あんまり・・楽しい話やなかった・・」
「馬鹿。どうせ、この酒だって彼女の弔い酒のつもりなんだろう?お前らしいよ」
「・・・・」
「いいじゃねぇか。こんな風に感傷的に死を悼んでくれるお人好しが居ても」
「・・・うん」
 それにどこかホッとしたように、けれど泣き出すのをこらえた子供の様な顔をして、有栖はもう一度小さく頷いてビールを煽った。
 止まない雨。
 窓を伝って流れ落ちる幾つもの滴。
「・・・悲しいなぁ・・」
「ああ・・?」
「あんな風に嬉しそうに仕事をしていて、庭を持ったら声をかけて欲しいなんて、そんな風に未来を語っていた彼女がどうして死のうなんて思うたんやろ・・」
「さぁな・・」
「・・自分の知らんうちに逝かれるんわ、ほんまに切ないな」
 再び落ちた沈黙。
 今度のそれを破ったのは火村だった。
「・・・・・好きだったのか?」
「・・・え・・」
 何故そんな事を口にしてしまったのか。それは口にした火村自身にも判らなかった。
 けれど、でも、そんな風に思った事すら一瞬のうちにポーカーフェイスの下に隠してしまった火村の目の前で有栖はキョトンと目を丸くして、次に困ったような、どこか照れたような、不思議な微笑みを浮かべて口を開いた。
「そんなんとちゃうわ」
「・・・・」
「好きとか、そう言う恋愛感情とは違う。確かに好意はあったけど、そんなんやない。第一彼女は恋人が居るか既婚者かのどっちかや。左手のクスリ指に指輪しとった」
 「よく見てるじゃねぇか」そんな言葉を胸の中で飲み込んで火村はただ有栖の話に耳を傾けながらキャメルをふかしていた。
 雨の音が部屋の中に響く。
 三度目の沈黙。
 ひどく短いそれは、まるで順番だとでも言うように有栖が破った。
「うまく言えんけど、一生懸命さが気持ちよかったって言うか、自分の知らん知識を持っている人間と話をするのが楽しかったって言うか・・・うん。どっちかって言えば後者の方やな。こう・・話をしている中に色々な発見があるやないか」
 言いながら自分の意見をまとめているような有栖を見つめて「それならば自分もそれと同じなのか」とふと脳裏を過ぎった考え。
 その考えのあまりの情けなさと、馬鹿らしさに火村はひどくひどく自嘲的な笑みを浮かべてすでに短くなっていたキャメルを灰皿に押しつけた。
 途端に部屋の中に深まる独特のきつい香り。
「・・・電話をした時な、職場の人やと思うんやけど何か・・こう・・迷惑そうって言うか、まぁ、自殺って事もあるんやろうけど、やっかいみたいな・・すぐに切ろうと思ったら、丁度彼女の知り合いって人間が荷物とか取りに来たらしいんや。そんなやから長くは話せんかったけど、もしよければ線香でも上げてくれないかって。俺な、そちらの都合が良ければ連絡して下さいって言った。行って来ようかと思う」
「・・・・ああ」
 四度目の沈黙。
 その中で火村が新たなキャメルを取り出して火を点ける。
「・・・吸いすぎやで、先生」
「うるせぇよ」
「あのなぁ、人が心配して言うてるのにうるさいはないやろ。うるさいは」
 ムッとしたように口を尖らせた有栖は、とても30を越えているようには見えない。大体、いい大人が拗ねていること自体が珍しい。
「ニャー」
 その途端、構って貰いたくてやってきた瓜太郎を見つけ、有栖は近づいてきたその身体を抱き上げた。
に瓜太郎が隣の部屋から近づいてきた。
「いいところに来たな、ウリ。なぁ、お前もそう思うやろ?」
「ニャァー」
「ほら、ウリもそうやて言うとるで」
「馬鹿言えよ。苦しいから離せって言ってるんだよ。ウリ構わねぇから蹴り飛ばして逃げろ」
「何て事言うんや君は!ったく、ウリ、暴力はあかんで。でもあいつにだったらいくらでもええからな」
「おい、変なことを教えるな」
「君が先に言うたんやろ」
 そのやりとりを馬鹿馬鹿しいと感じたのか、それともただ単につまらなくなってしまったのか、瓜太郎はひょいと有栖の手から離れると来た時と同様スルリと音も立てずに部屋から出て行ってしまった。
「・・・・・君のせいやで」
「お前がくだらねぇ事言ってるからだろ」
 ユラユラと揺れる紫煙。
 空になったビールのアルミ缶。
「・・・よぉ、降るなぁ・・・」
「・・・ああ」
「もう一本飲んでもいいか?」
「お前が持ってきたんだろ。好きなだけ飲めよ。どうせ泊まっていくんだろう?但、暴れるのと吐くのだけは勘弁してくれ」
 火村の言葉に「ほんまに一言多いんや」と呟いて有栖は冷蔵庫から新たなビールを取り出してきた。
「・・・・この季節が終わると本格的な夏が来るって判っとるだけに早く終わって欲しいような、そうでないような不思議な気持ちになるな」
 プシュッと小さな音を立てて開けたビールに口をつけながら有栖は唐突にそう言った。
「俺は、早く終わって欲しいぜ」
「へぇ・・君、夏が好きやったんか。ああ、それともそんなに雨が嫌いやったんか?」
 意外だと言うような眼差しを向けて有栖はコクリとビールを飲む。
 それにニヤリと笑って、キャメルを消して・・・・。
「夏休みがくれば、馬鹿な学生たちの相手をしないですむ。釜の底になろうが、何だろうが待ち遠しい」
「・・・それが教育者の言葉か・・」
 呆れきったような有栖の言葉に飄々として「うるせぇよ」と先程の言葉を繰り返しながら、火村も又新たなビールに手を伸ばした。
 



1回目で出てきた彼女がアリスにどう絡んでくるのかと思っていたお嬢様。すみません。こんなことになっております。